猫町倶楽部 東京文学サロン月曜会

人ならぬものとの恋の物語、すなわち人造人間と恋をする話なのだ。

著名な発明王、トマス・エディソン(をモチーフにした著者の独自設定エディソン)のもとに、知り合いの青年貴族が訪ねてくる。

青年は、複雑な恋愛に悩み憔悴しているという。

恋人がいるのだが、その外貌は非の打ち所がない超絶美人でいながら、魂が俗物すぎて一緒にいるのがツライ。
あまりにもロマンチストすぎる青年は、その悩みのために自殺しようと考えているところだった。

エディソンは、かつて貧乏だったころにその青年に救ってもらった恩があることから、自らの発明を以ってその悩みから解放して進ぜましょう、と申し出る。
自分の発明した人造人間を、青年の理想の女性に昇華させたうえで提供しようと言う。

ふたりは女の性質・本質がどのようなものであるかを議論し、エディソンは提供する人造人間の特性や仕組みを延々と詳細に説明していく。
果たして「科学」は、青年の恋の病を癒せるのだろうか。
そして人造人間の正体とは……。

というような話です。


作者のヴィリエ・ド・リラダンが詩人だったためだろう、使われている言葉がものすごく多彩です。
抽象的な言葉づかいも多くて、文章を読むのは少し疲れるかもしれない。

ギリシア神話や聖書、シェヘラザードの千夜一夜物語みたいな有名な逸話をたくさん引用している。
かと思えば、人造人間の製造・動作の仕組みを説明する科学用語もバンバン出てきて、科学と幻想の入り混じったような特徴的な文体になっている。
人造人間を表す意味する「アンドロイド」という用語が初めて使われた作品でもあるという。


登場するエディソンの秘密の研究所やわけのわからない発明品にトキメきます。
科学者でありながらロマンティックなことも言う。
最初のところで、エディソンが登場して独り言をしゃべる場面があるんですが、これがまず面白い。

「俺は人類の世界に生まれてくるのが遅すぎたよ……」みたいなことを嘆くのです。
曰く、俺は人類最初のひとりに生まれていたら、神代の時代、聖書の時代の音声をそのままに録音できたのに!というようなことを独りごちる。

発想が素晴らしいですね。
「光あれ」という言葉や黙示録の天使のラッパの音を蓄音機に録音したり、ソドムとゴモラの滅んでいく様を活動写真に収められたら、どんな素晴らしいだろうか!というようなことを発明王に言わせるのだ。


人造人間の描写が長々と続くところが読みにくいかもしれませんが、のんびりと我慢して読み進めれば、幻想的な雰囲気に浸れる逸品です。

登場するのは、とある悩める夫婦。

このふたり、趣味も性格も合わないわけでなくて、結婚当初は上手くいっていて子供もいるけれど、年を経るにつれてお互いに愛し合えなくなった。
いわゆるセックスレスで、夫婦としてはもうやっていけないよネ、っていうところまで来ている。

妻には新しい恋人がいて、夫はそれを知っても責めわけでなく、むしろ、初めて恋をした妻が幸せになれるような別れ方ができないかと考える。
世間的には妻は不義不徳と責めるかもしれぬけれど、妻を愛してやれなかったのは自分の責任なのだからオアイコだろう、と思う。

どうすれば円満に別れることができて、お互いが新しいパートナーを見つけて、別れた後も友人関係を築くことが出来るだろうか。
ふたりでいろいろ悩むのだ。

お互い夫婦としてやっていけねーとは思っていても、別れは寂しいものだとも思ってしまう。
別れた後のお互い経済的・精神的な不安からも決心がつかず、別れられない。
ふたりとも良く言えば優しくて、悪く言えば優柔不断で傷つきたくないのだ。

そんな微妙な心情を谷崎先生がみごとな筆力で描写するものですから、なんとも引き込まれます。

ときに理屈で自分を納得させようとしたり、ときに感情が溢れてしまったりする。
モテないルーザーはフラれてばっかりですから、感情の昂ぶる箇所では共感できるところがありました。


「要(※夫の名前)にとって女というものは神であるか玩具であるかのいずれかであって、妻との折り合いがうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれらのいずれにも属していないからであった。」

夫は妻に対して、「お前を愛すことはできなかったけれど、尊敬はしていたし、慰み物にはしなかった積もりだ」というような意味のことを言う。
それに対して妻は「それはありがたく思っているけれど、私は、慰み物にされてでももっと愛されたかった」と言う。

ずっと気持ちがすれ違っていたのだ。

サブキャラクターとして、妻の父親とその若い妾が出てきます。
老人の古臭い趣味に甲斐甲斐しく仕える若い女。
悩める夫婦と対比して描かれる。

登場人物の誰に焦点を当てるかによって物語の見え方も変わってくると思います。


修羅場だとか慰謝料だとかのバトルになる殺伐系の別れ話や、お涙頂戴の別れを描くセツナイ系のお話とは違った、穏やかなな別れの物語。
なんとも古臭い作品だけれど、現代の感覚で読むと新鮮に感じられてオススメです。

少女の恋・愛・生・死・性をテーマにした短編小説集です。

わかりやすいラヴストーリーあり、小説として面白い仕掛けの施されたあり、抽象度の高い詩的な作品あり。
ひとあじふたあじ違う恋愛小説だったり、病める現代の若者も描かれる。
一貫して少女が登場する作品でありながら、趣はいちいちガラッと切り替わる。

やたらとレトリックな文章に戸惑うかもしれない。
ボーイ・ミーツ・ガールな青春モノを期待して読むと、ほとんど裏切られる。
作品のイメージカラーは、どれも表紙と同じ赤・白・黒の三原色ですね。

全部で12話収録されているうち、Web版で2話だけ読めます。
http://bunko.shueisha.co.jp/serial/matsunaga/

著者の松永天馬は、僕が好きなバンド・アーバンギャルドのボーカリスト兼アジテーターである詩人です。
「詩のボクシング」という、詩の朗読の大会で2014年に優勝したという手練れです。
小説から話は外れますが、この詩のボクシングの動画を見て、詩の朗読というのはなんとも面白いものだと知りました。

実在の職人の話ではありませんが、兄の急逝によって女蒔絵師として、原羊遊斎に師事することになった理野の生き様を描いた時代小説です。
鈴木其一、酒井抱一、尾形光琳、原羊遊斎など、実在の人物も多数登場し、粉蒔のもやのかかったような情景美が、端正な文体で綴られます。

私は、蒔絵も好きで、大場松魚の《平文輪彩箱》などは、ため息のでる美しさだと思っていますが、蒔絵の製造過程や歴史については詳しくないので、本書はとても勉強になりました。

羊遊斎と抱一の弟子たちによって、量産された蒔絵に羊遊斎と抱一の銘をいれて、数物として販売する様が描かれており、この時代からブランド品のメーカーのようなものがあったんだなと、感心させられます。
しかし、作中では、数物ではなく、羊遊斎と抱一が全く係わっていない作品をも、弟子の其一や理野などに代作させており、それによって、其一や理野が、己の作品の意味を問う苦悩に陥ります。
自分が手掛けた作品に他人の銘を入れる虚しさ。
この本を読んで、抱一が少し嫌いになりました(笑)

当時、女の蒔絵師は珍しく、理野も職人として生きていくために、様々な困難や葛藤に見舞われます。
男の夢の糧として取り込まれそうになりながらも、理野は、終には蒔絵に人生を預け、一人で生きていく決意を固めます。
そこには、一種の清々しさを感じました。
理野の葛藤は、現代女性の生き方への葛藤に近く、女の私は身につまされました。
女の生き様をも考えさせられる一冊です 。

タイトルでおわかりの通り、伊藤若冲をモデルにした小説で、第153回直木賞候補にもなった作品です。
が、本書は、あくまでもフィクションです。
フィクションとわかっていながらも、破綻なく、納得させられるストーリー展開には唸らされました。
美術史に詳しい方から見れば、多々気になる部分もあるかと思いますが、私は、これはこれで物語としてありだと思います。

池大雅、円山応挙、与謝蕪村、谷文晁、市川君圭ら、若冲と同時代に活躍した画師たちも次々に登場します。
現若冲研究上では、接点が無かったとされる与謝蕪村との絡みがあるのも、フィクションならではで面白かったです。

ひきこもりの天才と呼ばれた若冲ですが、本書では、若冲には、姑との不仲から自殺した妻がいて、その罪悪感から絵の世界に没頭したという設定に。
さらに、その妻の弟が、若冲の贋作を描いた絵師・市川君圭だったという設定に。
その君圭との確執から、君圭が真似できない絵を描かねばならぬと、若沖の作品が進化を遂げていくという展開には感服しました。

また、若冲研究上で大きな謎となっている《鳥獣草花図屏風》 と 《樹花鳥獣図屏風》 に関しての解釈も大変興味深かったです。

国芳は、常に見る者の為を考えて絵を描き、人々の心を掴みました。
一方、若冲は、自身の心の底に沈む鬱屈を美しい絵として紡ぎ、人々の心を震わせました。

若冲は、他の画人があえて筆に起こさなかった生命の醜さ、不気味さを、人の心の欠損、暗澹を、あるがままに晒し続け、その絵を観る者に内省を迫ります。
若冲の墨画の寂寞感、色彩画の溢れ出る鮮やかさは、美しさを超えて、狂気すら感じえます。
若冲にとって、生きることは描くこと、描くことは生きること。
若冲の絵に本当に向き合うためには、覚悟が必要だと気づかされた一冊です。

江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した歌川国芳。
大の猫好きとしても知られた国芳が、個性豊かな弟子達とともに、身の回りに起きた「猫」にまつわる事件を解決する全7話からなる連作短編集です。

作者は、時代小説を多数手掛けているため、大変読みやすく、浮世絵に詳しくない方でも、時代小説として軽く読めるものとなっていると思います。

タイトルが猫づくしとなっていることもあり、国芳の猫に対する愛情が随所に描かれています。
「猫がいなくなった時の寂しさは、愛猫家でなければわかりはしない。猫といっしょに自分の膝までなくなってしまったような心持ちがするのだ。猫がいなくなると、猫に置いていかれた気持ちになるのだ。」
との言葉に溢れる猫愛を感じました。

また、葛飾北斎とその娘のお栄(応為)、月岡芳年、歌川広重、初代三遊亭円朝などなど、登場人物がとにかく豪華!!
私は、応為がものすごく好きなのですが、本作ではめちゃくちゃトリッキーなキャラクターで登場し、また、それも一つの考察として楽しいものとなっています。

同じ絵師でも、北斎は、見る者の気持ちより、自分の描きたいものを優先させ、国芳は、見る者に喜ばれる絵を描きたい、見る者を笑わせたい、驚かせたいと、常に見る者を意識して絵を描いたという、北斎と国芳の違いについての考察も興味深いです。

江戸っ子気質でお上を恐れぬ威勢の良さで知られた国芳ですが、老境に入り、老いへの戸惑いから死神を描きたいという思いに、しだいに囚われるようになります。
国芳は、歌舞伎役者の団十郎の幽霊に、絵師の仕事はいつまでも残るものだが、役者の仕事は、客が帰ったら消えてしまう寂しいものだと言われます。
しかし、国芳は、絵師も役者と同じく寂しいものだと感じます。
絵も文も時代の上に立っていて、時代が動けば、絵や文も置き去りにされ、やがては忘れられる。
自分のやっている仕事に虚しさを感じた国芳ですが、だからと言って、仕事の手をぬくつもりなどはさらさらなく、いま、ともにこの時代を生きる人たちに面白がってもらえる絵をこれからも描き続けたいと、より決意を固めます。
そして、“自分のため”に描くつもりだった死神の絵への執着を、「そんなもの描く必要はねえ」と切り捨てるのでした。
「わっちは町絵師なんだ。面白がらせて、満足させて、おあしをいただくのが稼業なんだ。」
という言葉には、国芳の“見る人を喜ばせたい!”という確固たる信念が表れ、その信念は、色褪せることなく、時代を越え、現在でもたくさんの人々を魅了し続けています。
根強い国芳人気の理由がわかる一冊です。

2016年5月の課題本です。
5月22日(日)に開催いたします。

http://www.nekomachi-club.com/schedule/32913

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東京から北越の温泉に出かけた「私」は、ふとしたことから、「繁華な美しい町」に足を踏みいれる。すると、そこに突如人間の姿をした猫の大集団が…。詩集『青猫』の感覚と詩情をもって書かれたこの「猫町」(1935)をはじめ、幼想風の短篇、散文詩、随筆18篇を収録。前衛詩人としての朔太郎(1886‐1942)の面目が遺憾なく発揮された小品集。
(「BOOK」データベースより)

カテゴリ 課題本

 漫画です!とにかく大好きなんです!

 地球にやってきた「ドグラ星」の第一王子と、彼が引き起こすトラブルに巻き込まれ振り回される人々をオムニバス形式で描いたもの。
 幽遊白書もHUNTER×HUNTERもよいのですが、私はレベルEが最高傑作だと思っています!ただ、アニメ化されてるのですが、そちらは見てません(^_^;)
 キャラクターの魅力が素晴らしく、当然、ギャグも面白い。そして作者自身の時代や世間に対する考え、批評が織り込まれており、それが絶妙なバランスなのです。
 また、アシスタントさんなしで描くという作者の実験作品だったという逸話も残っていますね。幽遊白書の仙水編からの細い線描と、背景の白と黒のコントラストも大変、魅力的だと思います。

 これは、説明不要、とにかく面白いので読め!って感じの本です。
 
 軽井沢に別荘を持つ裕福な家庭に生まれた少女・よう子と浮浪児同然の少年・太郎の恋が軽井沢で芽生えますが、階級の格差と時の流れによって、いつしか二人は離れ離れになる。その後、成長した太郎がアメリカで経済的な大成功をおさめて、よう子の前に姿を現します。

 戦後の日本を舞台に描かれた『嵐が丘』とも言われていますね。
 メロドラマにどっぷり、というような読書は普段しないのですが、これは例外。とにかくグイグイ引き込まれますので、未読の方は是非)^o^(

 村上春樹にどっぷりと浸かるきっかけとなった作品です。とにかく衝撃でした。
 若いころは結構悩みがちな人間で、そして「死」に対する恐怖に捉われることも多く・・・そんなときに手にする本を、読書会に参加している人なら少なからず持っているのではないかと思います。この作品は、私にとって、そういうときの精神安定剤になっていました。
 お読みになったことがある方は、これが精神安定剤?と意外に思われるかもしれません(笑)なんでなのかなあと自分でも思うのです・・・が、このブックバトンをきっかけに考えてみたところ、おそらく、世界を“受け入れ”ることと世界に“なじまない”ということ、この2つを1人の人間の中に存在させて、あきらめながら生きることが可能であり、そしてそれこそが穏やかに暮らすコツであると思わせてくれたからではないか?と。
 
 ただ、何かあるたびに開いてきた本ですが、最近はあまりそれをすることもなくなりました。ひょっとすると、この作品のメッセージを卒業する時期なのかもしれません。

2016年4月の課題本でした。

開催レポート
http://www.nekomachi-club.com/report/33139

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自他共に認める優秀な介護人キャシー・Hは、提供者と呼ばれる人々を世話している。キャシーが生まれ育った施設ヘールシャムの仲間も提供者だ。共に青春の日々を送り、かたい絆で結ばれた親友のルースとトミーも彼女が介護した。キャシーは病室のベッドに座り、あるいは病院へ車を走らせながら、施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に極端に力をいれた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちの不思議な態度、そして、キャシーと愛する人々がたどった数奇で皮肉な運命に…。彼女の回想はヘールシャムの驚くべき真実を明かしていく―英米で絶賛の嵐を巻き起こし、代表作『日の名残り』に比肩すると評されたイシグロ文学の最高到達点。アレックス賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

カテゴリ 課題本

第75回定例会課題本。

開催レポート
http://www.nekomachi-club.com/report/31886

カテゴリ 課題本

短編集です。
23編収録されています。全部でも250ページぐらいなので、1つずつはかなり短いです。
1981年4月から1983年3月まで、一般書店では販売されない雑誌に書かれたものだそうです。

おとぎ話めいたものもあれば、日常の中の非日常を描いたようなもの、その後の長編の下地になったものもあります。

色々なタイプの短編が収められているのですが、一般販売されない雑誌の掲載が始まりだったためか、全体的に、だいぶ気楽な、というか、ふっと見上げた空が青かった、みたいな、ライトな感じのする本だと思います。
また、作者の初期に書かれた他の著作にも共通するような気もしますが、社会の中での自分の所在なさみたいなものを感じているような人が、多分、本当はそんな日はなかったんだろう、いつかの日を、思い出している(または失ったように思う何かを追っている)ような、感じもします。

表題作の「カンガルー日和」も、そのうちの一つかもしれません。
ある天気の良い日に、その日がカンガルー日和だと一瞬にして確認できる二人の交わす会話、過ごす時間を、時々読み返したくなったりします。

北宋社から出た初版が1981年ですので、今から35年も前の本です。
作者は当時33歳だったようです。
33歳が書いた「子供の為の人生の実用書」です。

「子供」から見れば「大人」でしょうが、「大人」からみたらまだ「子供」と言われてしまうような年齢の人が書いた「子供の為の人生の実用書」ですから、首をかしげてしまうようなところや、気恥ずかしいところも多いです(タイトルが既に気恥ずかしい、という話もあります。)。
また、当時の社会と現在との違いもあるので、その点で、今読むと読みづらかったりもします。
文章は、読者に話しかけるような形をとっていますが、書きながら考えているように感じられるところも多く、独白のような印象を受ける箇所も多いです(180ページ位ですが、4日で書いたそうです。)。
そのせいもあって、分かりづらいところもあります。

ですが、いつか、ここに書いてあることが分かる、作者の言いたいことが分かるようになるだろうというよりも、いつか、この本を読んでいるときに、私の経験を私が思い出して、あ、そうか、みたいなことを思うような気のする本です。

未完成、未熟だけれど、だから、手放せない魅力のある本です。

弱小高校野球部のメンバーが、「逆境」を乗り越えて、成長していくお話です。

笑って読めます。
(笑えないと読めないとも言えるかもしれません。)
作者自身は、「ギャグ漫画」と言っているそうです。

主人公の「不屈闘志」(ふくつとうし)君は、廃部寸前の野球部を存続させるため、甲子園での優勝を目指し、様々な逆境(ちなみに、この漫画の中での逆境とは、「思うようにならない境遇や不運な境遇のこと。自分の甘い予想とはうらはらにとてつもなく厳しい状況においつめられた時のこと。男の成長に必要不可欠なもの。」だそうです。)を、部員たちとともに、ものすごく真剣に、ものすごく理屈っぽく、乗り越えていこうとします。

突っ込みどころが満載の、おかしな逆境を乗り越えようとするたびに、自分たちの理屈を絶叫するのですが、なるほど、と思えるものもあれば、屁理屈?と思ってしまうような強引なものもあります。時には前言撤回も辞しません。

それが却って、言葉とか理屈は後付けのものであり、自分の感覚とか直観とかが、まずは先にあるもので、大事にすべきではないか?とも思え、何か励まされるような気持にもなります。

おかしな設定と、高い熱量、妙な説得力が、この漫画の魅力でしょうか。

デフォルメされている点は多いものの、自分でよく考えて本気で生きなよ、というシンプルなメッセージを、笑いとともに受け取れる漫画だと思います。
(「男とは!」みたいな描写も多いですが、特に男女関係なく読める漫画だと私は思います。)

残念なことに、今は絶版になっているようですが、Kindleや、中古だと手に入るようです。

著者は、暮しの手帖元編集長。若い頃にアメリカで渡ってアートブックなどを買い付け、移動型書店で販売していたことや、本屋を開いたこと、また中目黒や台湾などのまちについて。
中卒の著者は、いろいろなコンプレックスを抱えながらも手探りで仕事を見つけ、本を通して人とのつながりが出来ていきます。
松浦さんの本はどれも、編集の仕事や暮らし、人との関わり方など、丁寧で実直、そして語りかけられているような文章で、心地がよいです。彼が開いた中目黒の「cowbooks」という本屋も、おすすめです。

猫町古書店に出してしまったのですが、『鬼平犯科帳』などのヒット作を出した筆者の食べあるき日記。
神田や銀座などの、老舗での食事やその店構えなど描写がたまらなくよいですが(そばや、鰻!)、戦争前の下町の描写も、印象に残ったところです。当時も同じように楽しく食べ、暮らしていた。そして、戦争に向かう時代に、その日々の暮らしが少しずつ、確実に失われていくことの恐ろしさも感じました。

イギリス人のハーディ(1840-1928)は、ヴィクトリア朝時代を生きた小説家です。ヴィクトリア朝といえば、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」が出版され人気を博した時代でもありますし、なんといってもチャールズ・ディケンズが生きていて、数多の作品群を通じてその都市風俗を描いていた時代ですね。

ハーディは、ディケンズほどは意外と知られていないような気はしますけれど、それはひょっとすると、彼自身が書きたかったし、また実際に書いてしまった小説内容と大きく関係していそうです。というのも、ハーディは、かのヴィクトリア朝においては、時代におもねること無く、あまりにラディカルすぎる小説を書いてしまった破格の作家だったからです。

そもそもヴィクトリア朝という時代は、一体どのような価値観が尊ばれた時代だったのか。そして、ハーディの書いた小説の、一体何がそんなにラディカルだったのか。

そんなことを考えながら『ダーヴァヴィル家のテス』を読んで観ると、どのような問題が立ち上がって来るのか。それがポイントです。

舞台はイギリスの田舎、貧しい農民の家に生まれた美しい少女テスは、ひょんなことから地元の資産家の男にもてあそばれるのですが、それがきっかけとなって過酷な運命に翻弄され続けます。もはや乙女ではなくなり、妊娠もして、そして生まれるはずの娘は死産、いつ終わるともしれない過酷なスケジュールの農作業、そしてついに、彼女の運命を良い方向へと変えてくれるはずだった男には出会えたものの、その先にはなんとも物悲しい結末がまっているのでした。

ハーディは好き嫌いのかなり別れる作家です。

その大きな理由は、「女性が残酷な運命に翻弄されるよう、不自然なほどに話を組み立てすぎている」というものだと言われています。確かにそれはそうで、少し注意を傾けて読むだけでも、テスの不幸のほとんどは偶然が偶然を読んだ末に起ったことばかりだということがわかります。

それはまるで、ジュリエットのはかりごとを伝える神父の手紙が、いくつかの条件が重なったために「たまたま」ロミオの手に届かなかったという「偶然」にかなり近いものだといっても良いでしょう。

けれども、ハーディの本当の狙いは、そのようなテスの不幸を通じて、そのもっと先の「あること」を描きたかったからなのです(と僕は思います)。

チェックマーク処女を強引に奪われたテスは周りから疎んじられる以前に自分で自分に絶望を抱き、私生児を死産したということで、教会からは供養を拒否される

チェックマーク自分を本当に好きだと言ってくれた運命の男クレアは、新婚初夜に、テスが処女ではないと知って激しいショックと拒否感を抱き、1人で異国に旅立ってしまう

チェックマーク失意の中、生活に困ったテスは、かつて自分を手込めにした男アレクと偶然に出会い、彼の愛人となって生きる選択を余儀なくされてしまう

チェックマーク改心したクレアが戻ってきたことには、既にテスはアレクとの自堕落な生活に浴してしまっていて、混乱したテスは口論の末アレクを刺し殺してクレアとともに逃亡 ・・と、ここまで読まれて、こんなにドロドロな話なのかとうんざりしてしまった人もいるかもしれませんね。まさにその通りで、ハーディは、運命の悪戯によって引き起こされる人間の悲惨さを、この時代からすれば目一杯のフルコースにして僕らの前に差し出してくるのです。

そのフルコースのメニューとして炙り出されるものこそは、
処女性を巡るセクシャルなトピック、
血液の赤いイメージを巧みに利用した暴力描写、
いやおうなしにテス本人の性質から匂い立つ被虐性、
その一方で、男が女に向ける浅薄で無慈悲な態度に激しく怒りの声を上げ...

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カテゴリ 外国・文芸

(閲覧注意、ネタバレはともかく、バイオレンスな記述があります!)

・・・・・・・・・・
聞け、悪党ども、俺は貴様らの骨を挽いて粉にし、
貴様らの血でこねあげて生地を作る、
その生地でパイの皮をこしらえ、
貴様らの恥知らずな生首を中身にしてこの二つのパイを焼き上げ、
あの淫乱女に、貴様らのうすぎたないおふくろに食わせてやる、
大地のように自分の生んだものを自分で飲み込むというわけだ。
これがあの女を招待した響宴だ、
これがあの女にたっぷり召し上がっていただくご馳走だ。
(第五幕・第三場)
・・・・・・・・・・

ええー、シェイクスピア?!って声が聞こえてきそうですが、どうか御安心を。

四大悲劇(『ハムレット』『オセロー』『マクベス』『リア王』)でもなく、かといって喜劇(『お気に召すまま』『十二夜』『夏の世の夢』etc.)でもなく、ここでオススメしたいのは、まさかの『タイタス・アンドロ二カス』。

シェイクスピアってそんなの書いてんの?という声が聞こえてきそうですが、もうしばしのご辛抱を。

そう、シェイクスピアといえば、ロミオとジュリエットの悲恋が涙を絞る青春劇?

それか、真夏に森を飛び交う妖精達が見せる喜劇?

あるいは、己の実存に悩むデンマーク王子の悲劇?

はたまた、妻と結託して王座を奪う悪逆非道のスコットランド王の転落人生譚? 

それらもいいでしょう、けれども、そういったシェイクスピア劇を堪能した観客・読者も、『タイタス』が提供するエロ・グロ・バイオレンスの響宴には即座に圧倒されることになるでしょう。

この戯曲の舞台はローマ時代、名将タイタス・アンドロニカスとその一族が、ゴート族との戦争を見事に勝ち抜き、ゴート族女王タモーラとその息子達を捉えてローマに凱旋するところから始まります。生け贄として3人の息子のうちの1人を惨殺されたタモーラは、タイタス一族への復讐心をたぎらせるのですが・・・

終盤で主要人物が死にまくって死体の山が築かれる、というのはシェイクスピア悲劇ではよくあることで、『タイタス』も例にはもれず。ただし、その死に方はとにかく残酷悪趣味バイレンスのつるべ撃ち!しかも、冒頭・中盤・終盤と、ちゃんとリズミカルに死体が出来上がる大変バランスの良い仕上がりでございます。うむ、ウィルよ、お前は良くわかっているな。

チェックマークまずは敵軍王女の息子を、神に捧げる生け贄と称してその四肢五体を切り刻み、はらわたを火にかけ、その匂いが空に広がっていくのを眺めるローマ兵達

チェックマーク反抗した息子を激高して刺し殺す父親

チェックマークレイプされ、舌と両手を切り取られ、手を失った腕に枯れ枝を接続されておちょくられるヒロイン

チェックマーク捕われた息子を救う交換条件ならということで自分の片腕を自分で切り落とす父親

チェックマーク腕を切断した苦痛に喘ぐも息子の生還を祈る父親の目の前でいきなり晒される、当の息子達二人の生首

チェックマークそしておまけに、母親の息子二人を解体・調理してパイを作って、何もしらない母親に食べさせる

早い話が、例えば北野武の映画『アウトレイジ』(特にそのブラッディーなバイオレンス描写)が大好きだ、という人には自信をもってオススメできるのがこの戯曲なのです。

シェイクスピアなんて読むのに気後れしちゃう、『ハムレット』とか『リア王』は読んだけどよくわからんかった、シェイクスピアは好きだけど代表作の他に何を読んだらいーの?って、そんなあなたにこそ、ぜひとも『タイタス』を。

めくるめるバイオレンスが、シェイクスピアによる巧妙な修辞と言葉のスピード感...

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「この男のばかげた罪は彼を憤慨させる。しかし、この男を引き渡すのは信義にもとる振る舞いだ。それを考えただけでも恥ずかしさに気が狂いそうだった。そして、同時に、このアラビア人を自分のところに送りつけた仲間たちと、あえて殺人を犯しながら逃げることもできなかった男との両方を呪っていた」(新潮社文庫、pp.262-262)

いきなりですが、映画が三度の飯よりも好きな自分が2015年に選んだ「最も良かった映画」は、ヴィゴ・モーテンセン主演『涙するまで、生きる』でした。

この映画の原作が、カミュによる『客』なんですね。

実際に読んでみると、分量も短いですが、お話自体もシンプルです。

冬のアルジェリア、辺境の地で小学校教師をやっているダリュは、やってきた友人の憲兵から、1人のアラビア人を預かるよう頼まれる。しかも、一晩預かるだけではなく、彼がとある街まで連れて行かなければならないという。アラビア人は、殺害容疑で捕まっていたのだ。目的地の街で、彼は裁判にかけられることになっている。

どこかしら超然とした小学校教師ダリュが、ひょんなことからアラビア人を預かり、彼を遠くの街に送り届けるだけの話です。

でもこの短いお話に見られる寓話性の深度は、かなり深いところまで続いているような気がします。

ダリュはアルジェリア系フランス人かと思いますが、それは同じくアルジェリア生まれのカミュ自身と重なります。

1954年から1962年にかけては、アルジェリア戦争の時代でした。フランス本土と、フランス植民地であったアルジェリアが繰り広げた内戦です。フランス植民者の父を持つアルジェリア生まれのカミュは対立する二つの世界の中にあり、まさに引き裂かれる思いだったと言われています。

二つの世界の狭間でカミュが取った行動は、停戦への可能性を見出すことでした。1956年、カミュはフランス側のリベラル派とイスラム穏健派と協力して市民休戦委員会を組織し、停戦を呼びかけてアルジェリアを訪れます。

ところが、これを自分たちに対する挑戦だと捉えた極右植民地主義勢力は強い抗議を示し、独立主張側でも、テロを辞さない強硬派が主導権を握ってカミュに非難を浴びせたのです。

つまり、「両方とも殺し合うのはやめて話し合うんだ」と訴えたカミュは両方の側から憎まれることになってしまったのです。以後、カミュはアルジェリア問題について語ることをやめてしまいます。

『客』におけるカミュ的精神の真髄は、アルジェリア問題に巻き込まれる自身の運命を預言しながらも、それに引き裂かれてある様態を、そのまま受けいれる覚悟を示している点に見出せそうです。

争いとは関わりたくない小学校教師は、アラビア人を死刑台へと導く仕事を唐突に任ぜられてしまう。アラビア人を逃がせばフランス側は許さない、反対に、アラビア人を街に引き渡せばアラビア側から報復されてしまう。

この究極の選択を迫られる男が小学校の教師ということは、その職業が、なによりも現代人の精神を広く長く次世代へと継承させていく象徴的な存在であるという意味で、事態の深刻さはいや増します。彼が身を以て示す選択が、彼の次の世代へと受け継がれていってしまう恐れがそこには込められている。彼の選択が汚点であったとしても、それは次世代に引き継がれてしまう。

そこでカミュが大事にするのは、信義や人情といった人間らしい判断であって、政治的イデオロギーとはまた違う次元の価値観なのです。冒頭の引用にあるように、「この男を引き渡すのは信義にもとる振る舞いだ」とダリュは人知れず述懐します。

もちろん、「フランスの仲間たち」にも「アラビア人」にも、彼は呪いの念を思わず抱いてします。なんでこんな...

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2016年2月の課題本でした。

開催レポート
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今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。
(「BOOK」データベースより)

カテゴリ 課題本

吸血鬼ものって、小説映画漫画と人気多作のジャンルなのに、大元の小説を読んだことない人は意外と多い、と思う。

かくいう私も「吸血鬼と結婚したい」とか言ってるわりには、長い間未読でした。
(ちなみに、一番結婚したい吸血鬼は『ヘルシング』のアーカードです)

この『吸血鬼ドラキュラ』を読んでまず思ったことは、
弱ッ!ドラキュラ伯爵弱ッ!!!

弱点とか行動制限が多くて、後年の他作品で出てきた吸血鬼より、明らかに戦えない……。
(ちょっとネタバレ?最終的な犠牲者の少なさにびっくりしますよ)

まあ、勝負を挑んだ相手が悪かった。
ドラキュラ伯爵に立ち向かうヘルシング教授以下の人間が皆、人並み外れた知力体力精神力財力(ついでに美貌)いずれか、または全部持ったスーパー超人。
こんな人間にいきなりぶち当たるなんて、すごい確率。
運悪過ぎ。
ただでさえ弱点多いのに、運まで悪い。

そんな不憫なドラキュラ伯爵がキュートに思えて、ちょっと萌えちゃいます。

もちろん小説の全体に漂うゴシック感とか、
ぐいぐい進ませる物語の推進力とかも素晴らしい小説です。
種村季弘『吸血鬼幻想』と合わせて読むと、より楽しい。

やっぱり、結婚するなら吸血鬼!
私の血を差し上げますので、素敵な吸血鬼男性は、ぜひ私の家にいらしてください。
(吸血鬼は、初めて訪れる家には、家人から招かれないと入れないのです)

カテゴリ 外国・文芸

犀星先生って、きっとロリコンだよね?
しかもロリコンの鑑だよね?
正しいロリコンは、YES、ロリータ、No、タッチ。
ハンバート・ハンバートとは違うのです。
少女との距離感が絶妙、そんな『或る少女の死まで』。
(『蜜のあはれ』も大好きなのですが!)

この小説で描かれる、静謐と喧騒、清浄と汚濁、無垢な美しさと卑俗な醜さ……
後者がより前者を際だたせ、同時に前者は後者を浮き彫りにします。
主人公の「私」と酒場にいる少女間の二律対比は、物語が進むにつれ、やや複雑さを帯びます。
白痴的でか弱い少女と、利発で溌剌とした少女、「私」と画家のS、
(誰かモデルはいるのかな。作家のHは萩原朔太郎な気がする)
それぞれが彩で儚い模様を、都会の中で織り上げていくのです。
その筆の感じが、寂しげで淡くて、室生犀星好きだなあってなんとなく私は感じてしまいます。

『或る少女の死まで』というタイトルの意味を理解する読後には、人生の侘びしさと悲しさが胸にしみてきました。


歳をとると荒み、生活に疲れ、しがらみが増えていく。
美しく無垢なロリータたちがそのままでいるには死ぬしかない!
死ぬロリータだけが良いロリータ。
ロリータも歳を取れば、「私」が警察署で会った娼婦のように、野卑にうらぶれてしまうのです。

カテゴリ 和書・文芸

「漫画アクション」で連載された異色の教師漫画。

『3年B組金八先生』、『GTO』、『ごくせん』……、いわゆる“教師もの”には数多く有名作がありますが、
これらの作品に、時として違和感や反発を抱いたことはないでしょうか?
私はあります。

なぜなら、これらは一貫して、あるメッセージを発してるように感じるからです。

「問題児(主にヤンキーや不良)こそ、真に純粋で繊細な心を持っており、それ以外の生徒より、彼らの声こそ教師は最も耳を傾けるべきである」
というメッセージを!
私の穿ちすぎですかね!!!

『鈴木先生』が教師ものとして異色なのは、このようなメッセージに対して明確にアンチテーゼを示しているからなのです。

「今の学校教育は、我々が普段思っている以上に、手の掛からない生徒の心の磨耗に支えられている」……、
この言葉に学校で影を消して…、いや、手の掛からない生徒だった私は、心打たれてしまったのです。

『鈴木先生』は、表現の手法も巧妙です。
劇画をパスティーシュした昭和調の絵柄。
登場人物の感情の爆発と共に、表情が大きく歪みます。
ともすると、シリアスな場面にも関わらず、笑いすら誘ってしまいます。
その表現の過剰さに、いつしか引き込まれること受け合い。
カリカチュアライズされたキャラクターたちが、逆説的にリアリティや切実さを浮かび上がらせます。

この漫画、デスノート並にセリフ文字数が多いです。
応酬に次ぐ応酬の会話劇はスピーディーで、読者は圧倒されながらも、何かを考えずにはいられません。
一人の登場人物に対して、手放しで賛成はできない、真っ向から否定もできない。
ざらざらした感覚を味わいながら、それを元に読み手も自分自身の輪郭を手探りしていくのです。
安易な共感や紋切り型の結論にはない、確かな手応えを感じました。

カテゴリ 漫画
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