人が人を裁くということ (岩波新書)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004312925

作品紹介・あらすじ

我々は裁判の意味を誤解していないか。市民の司法参加が義務として捉えられる日本と、権利として理解される欧米。この違いは何によるのか。また、冤罪事件が繰り返されるのはなぜか。本書はそこから分析を進め、裁判という営みの本質に迫る。犯罪や責任、処罰についての我々の常識に挑み、人間という存在を見つめなおす根源的考察。

感想・レビュー・書評

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  •  人が人を裁くということの意味は何か?

     これは裁判について書かれた本だけれど、例えば我が国の裁判制度の特徴や問題点を指摘し、そのあるべき姿や改善策を提示するといった類の本ではありません。著者はフランスの大学で教鞭をとる社会心理学者です。「裁判」は単に材料に過ぎず、著者の関心はあくまで「人間社会の本質」です。とても考えさせられる本です。

     第Ⅰ部で、「裁判員裁判では法律の専門家でもない市民が正しい判断を出来るのだろうか」などといった我々の心配に対して、著者は全く違った角度から異議を唱えます。そもそも神ならぬ人が人を裁くという行為の中で、真実に基づく正しい判断などありえるのかというのです。そして、誰に最も正しい判断ができるかは問題ではなく、真実など誰にも判らないのだから誰の判断を正しいと決めるかが問題なのだ、と指摘します。そもそも欧米で始まった陪審員制度は、公正で透明性のある裁判を行うためのものではなく、主権者たる市民に人を裁く権利を取り戻すためのものだったようです。
     また、英米では真相解明の場というよりもむしろ、問題解決の場として裁判を捉えているようです。だから司法取引があり得るのだそうです。さらに、英米仏の裁判では判決理由が示されない、裁判長が判決理由を述べる日本のルールは検察の主張に沿った有罪判決へのバイアスの原因になっている、と著者はいいます。

     第Ⅱ部では誤審の生じる仕組みや、自白や目撃証言の信頼性について触れます。誤審の生じる仕組みを知れば、冤罪は防ぎようのないものだということが分かります。そして冤罪を防ごうとすればするほど、真犯人が野放しになる可能性が高まるのです。このトレードオフの関係の中で、どこに妥協点を見いだすかというのが司法制度の実態のようです。
     自白や目撃証言は全くあてになりません。痴漢に遭った女性は犯人の顔を見ていない場合が多いにもかかわらず、近くにいた自分が嫌いなタイプの男性とたまたま眼があうだけで、その人を犯人と思い込むのだそうです。そして、裁判官は法律の解釈については専門家であるけれども、事実認定に関しては素人だというのです。こうして、あてにならない自白や目撃証言を中心に「事実」が形成され、被疑者は確実に犯人にされていく......

     第Ⅲ部で著者は、人が人を罰する前提となっている「人間は自由意志に基づく主体的な存在であるが故に自らの行為に対して責任を有する」という考えに疑問を差し挟みます。人間は常に他者や社会環境から影響を受け続けています。ですから、「自由意志に基づく主体的存在たる人間」とは懲罰制度を可能にするために捏造された社会的虚構に過ぎないというのです。そして、そうであれば犯罪者を処罰することは、生まれついての身体障害者に対して自業自得だと突き放すのと同じくらい残酷なものだと著者はいいます。
     フランスの社会学者ポール・フォーコネが述べた「犯罪とは共同体への侮辱であり反逆だ。社会的秩序が破られると、社会の感情的反応が現れる。したがって、人々の怒りや悲しみを鎮め、社会秩序を回復するために、犯罪を消し去らねばならない。しかし犯罪はすでに起きてしまったので、その犯罪自体を無に帰すことはできない。そこで、犯罪を象徴する対象が選ばれ、このシンボルが破壊される儀式を通して、共同体の秩序が回復される。このシンボルが犯人=責任者の正体だ」という解釈を、著者は支持しているようです。

     さて、ことは裁判だけに限りません。正解のない世の中に我々は生きています。世論であれ、イデオロギーであれ、人々の心は自由意志からほど遠いようです。政治であれ、戦争であれ、人のあらゆる営みに、唯一の真理や正義など求めようがないでしょう。著者が裁判について示したのと同じ原理に基づき人間社会が動いているということを理解できれば、最後に表明される全体主義に対する著者の警告は腑に落ちます。

     著者はかなり直感的に論を進めていますが、その直感は的を射ていると思います。物事を見通す眼の鋭さに脱帽です。全篇を通じて、人間存在の根源に触れるような箴言に溢れています。

  • 「人が罰せられるのは、自由な意思決定に責任があるからではなく、社会秩序維持のためのスケープゴートとして必要だからである。」

    著者は、裁判というものの「常識」を根底から問い直す。
    単に司法制度論や刑罰論にとどまらず、社会心理学、哲学など、より根源的なところにまで及ぶ問いかけがなされる。

    「どんな秩序であっても、反対する人間が常に社会に存在しなければならない。正しい世界とは全体主義に他ならないからだ。」

    非常に多くの示唆に富む、何度も読み返す価値のある本。

    第2部で引かれている刑事司法関係の資料が若干古いのが惜しい。

  • 裁判とは何か、突き詰めて考えた本。
    理性的に分析されていて、面白い。
    人を裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味していて、実はそれ自体が犯罪行為だという指摘にはドキッとさせられるけれど、それぐらいの重みを実感しないといけないと思った。

  • 思考実験に最適でした。

  • 法とは何か。裁判とは何か。
    それを考えさせられる良書である。

    職業裁判官にしても、裁判員にしても、
    人が人を裁くという構造は変わらない。

    では、職業裁判官が裁くことと、市民が裁くことの意味はどのように違うのだろうか。

    人が人を“正しく裁く”ということはできるのだろうか。

    裁くという行為の裏側にあることを、
    丁寧に掘り下げていく。

    法体系も裁判の様式も国によって異なり、
    裁判の意味さえも国によって異なるという。

    真実を究明する場か、断罪する場か。
    更生を求める場か、被疑者の恨みをはらす場か。



    誰がさばこうが、冤罪のリスクは少なからず残る。
    また冤罪を極力避けようとすれば、犯罪者をそのまま野に放つリスクが高くなる。

    このトレードオフの構造の中で、
    裁判は行われる。

    人が判断することなので、完璧なものなどあり得はしないし、
    簡単に、どの制度がよいとか論じられるものではない。

    しかし、人が人を裁くというその行為がどんな意味をもっているのかは、
    各自が自覚しておくことが必要なのではないかと思わされる。

    裁判員に選ばれて、裁判に参加することは、
    国民が勝ち取った権利なのか、それとも義務なのか。

    いくつもの問いが浮かんでくる。

    “なぜ市民が裁くのか。職業裁判官の日常感覚は一般人とずれているから素人に任せる方が良いというような実務上の話ではない。犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。誰に最も正しい判決ができるかと問うのではない。論理が逆だ。誰の判断を正しいと決めるかと問うのだ。人民の下す判断を真実の定義とする、これがフランス革命の打ち立てた理念であり、神の権威を否定した近代が必然的に行き着いた原理である。”

  • 前半の各国の陪審員制度の解説は、各国民の考え方が判って面白かった死刑制度の部分は、過去の歴史部分が興味深かった。アメリカとフランスの法概念の違いって、大きいんだと実感。

  • 一見すると、裁判のみに焦点を当てた本かと思うかもしれないが、心理学、社会学、哲学の分野に話が広がっているので、少し圧倒されるかもしれない。
    けれども、様々な視点から問題を捉えようとする筆者の姿勢であると私は感じたので、評価に値すると思いました。

  • 難しい本だったけど読んでためになりました。
    冤罪のできる過程とか。
    以前島田荘司さんの「奇想、天を動かす」って本で社会秩序を守るためにスケープゴートとして逮捕された人の話がでてきたけど、小説の中だけの話ではないと実感しました。しかし勿論それを肯定するわけでもなく否定もできないのかなと思いました。
    何を基準に善、悪を決めるのか等答えのない疑問について書かれています。
    1章、2章がそんなかんじだったけど、3章はなんか哲学っぽい話で読んでてよくわからんかった。

    また時間ができたときにでも読み返してみようかな。

  • 内容が濃くて読むのに時間がかかるが、多くの人に読んでもらいたい本だ。犯罪を処罰することに対して、私たちの常識がいかに間違っているかがよくわかる。

  • 裁判員裁判の話かと思ったら、最終章はかなり哲学的なテーマに切り込んでいるのでよくみたらこの筆者は法律家ではないのでしたのね。パラドックスに満ち溢れた司法というものを垣間見た。いかに自白がつくられるかという部分は恐ろしくも感じた。犯罪はなくならない。犯罪のない社会はすっかり煮詰まって進歩もなく同じ考えで同じ価値観の同じ顔をした人間がうろつくだけの社会と同じ、というところにもなるほどなーと思うところがあった。

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著者プロフィール

小坂井敏晶(こざかい・としあき):1956年愛知県生まれ。1994年フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第八大学心理学部准教授。著者に『増補 民族という虚構』『増補 責任という虚構』(ちくま学芸文庫)、『人が人を裁くということ』(岩波新書)、『社会心理学講義』(筑摩選書)、『答えのない世界を生きる』(祥伝社)、『神の亡霊』(東京大学出版会)など。

「2021年 『格差という虚構』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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