神聖ローマ帝国 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061496736

感想・レビュー・書評

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  • ・「大空位時代」はフリードリッヒ二世が死去した1250年に始まり、73年、ハプスブルク家のルドルフ一世のドイツ王即位に終わるというのが一つの定説
    ・1555年カール五世、アウスブルクの宗教和議により諸侯に宗教の選択権を認める
    ・神聖ローマ帝国にとってウエストファリア条約の意味するところはあまりにも大きい。「領主の宗教が領民の宗教」という原則が再確認され、カルヴァン派が公認される
    ・スペイン継承戦争(1701年〜14年):カルロス二世の「スペイン王位はフランス ブルボン家に譲る」という遺言による強大なラテン帝国の出現を恐れ、勢力均衡を是とするオランダ、イギリスがオーストリア ハプスブルク家と対フランス大同盟(ハーグ同盟)を結成し、フランスに宣戦布告したもの
    ・オーストリア継承戦争(1740年〜48年):プロイセンのフリードリッヒ大王が男子帝位継承者のいないカール六世のオーストリアハプスブルク家断絶を主張し、それに呼応したフランス、スペイン、バイエルン選帝侯国、ザクセン選帝侯国の5ヵ国がオーストリアに戦争をしかけたもの

  • この人の著作はその昔に「傭兵の二千年史」を読み、以降は「犬死——歴史から消えた8人の生贄」とか「超説ハプスブルク家 貴賤百態大公戯」とかの趣味性の高いもののみをもっぱら楽しんできた。
    てっきりそういうニッチな芸風なんだと思いきや、「ドイツ三〇〇諸侯 一千年の興亡」でそのガチっぷりというか、一見さんお断りというか、一瀉千里というか、三〇〇家の一千年を滔々と語りつくす迫力に顫えたのだが、前著の本書も同一線上にあるものだった。
    考えてみれば当たり前なのだが、本書を読み味わう上では、ドイツ史だけ知っていればよいというものではない。古代ローマ史、フランス史、イタリア史、東欧(ボヘミア、ハンガリー)史、カトリック教会史…ヨーロッパ総まくりの勢いである。
    なかなかに骨太ではあるが、しかし(興味のある向きには)掛け値なしに面白く、ためになる好著である。

    2017/9/2~9/4読了

  • ・・・・・・・っということで、ヨーロッパの歴史に頭を突っ込んだ人が必ず直面する空白の部分。


    それが、神聖ローマ帝国です。


    中世以降、あらゆる場面でちょくちょく顔を出してきます。


    顔を出すけれども、その実態がなかなかつかめない。


    気になって気になって仕方がなくなります。


    イギリス、イタリア、フランス、はたまたオスマントルコに関してはいくらでも本を見つけることが出来ます。


    そう、ドイツが抜けているのです。


    神聖ローマ帝国について本を探してみて御覧なさい。


    本書以外に殆どヒットしないでしょ?


    なぜこんなに少ないのか?


    不思議でしょ?


    それは複雑過ぎるのです。


    ぼくが読んだ中では、神聖ローマ帝国の皇帝であったのはフリードリッヒ二世だけ。


    しかし、彼はどちらかというとイタリアに軸足を置いていました。


    これは、いちど神聖ローマ帝国について読まなきゃならんと常に思っていました。


    たぶん他の歴史好きな人も同じ思いを持つはずです。


    そしてたどり着くのが、本書しかないのです。


    ・・・・・・・


    著者の専門はオーストリア文学。


    バリバリの歴史家でないところが面白いところ。


    本の内容にはベランメー調なところがあって、歴史家ならこんな表現はしないだろうなぁとヒヤヒヤさせられます。


    でも、専門家でないことが却ってよかったのではないでしょうか。


    神聖ローマ帝国を語るには、先ずフランク王国からはじめなければなりません。


    どこかで聞いたことのあるピピンが国王になったのが、8世紀中旬。


    神聖ローマ帝国が消滅するのが19世紀初頭。


    なんと、1000年ちょっとにわたって記述しなければならないのです。


    複雑にさせているのは期間だけではありません。


    カロリング王朝、ザクセン王朝から始まってハプスブルグ家まで様々な家系が次から次へ出現してきます。


    さらに地方の諸侯がくんずほぐれつの争いを繰り広げます。


    もちろん隣国との抗争も数知れず。


    これだけの要素を新書のたった250ページに押し込むのです。


    歴史家だったら、さじを投げたくなるのもうなづけます。


    でも、この著者はやり遂げた。


    しかも人物描写が面白い。


    飛びぬけたリーダーがいないのに、読者の興味をこれだけ引っ張ってこられるのは、著者自身が書いているように人への愛着が強いからじ

    ゃないでしょうか。



    何が神聖なのか、ドイツなのになぜローマ帝国なのか、さらにどうして法王が力を持つようになったのか、30年戦争ってナンだったのか、

    ウェストファリア条約の意味は?フランス王国の始まり、スウェーデン、スペイン、オランダデンマークの成り立ち・・・・などなど、ヨ

    ーロッパ史の様々な疑問を解く鍵を提供してくれます。


    図書館で借りてきたけれど、絶対手元に置いておきたい本の一つです。

  • 「神聖ローマ帝国」という大仰な国号に込められた意味を歴史を概観しつつ解き明かしていくといった趣旨の新書。なかでも、ザリエリ朝、シュタウフェン朝、ハプスブルク朝にスポットライトが当てられている。大枠としては、カール大帝による西ローマ帝国の復活から、徐々にローマ帝国の理念と現実が乖離していき、結局ヴェストファーレン条約以降「帝国」としての実体も失っていく過程が描かれていく。

  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書,2003年

     ルターがケンカをうったのは、「神聖ローマ帝国」七選帝侯の筆頭マインツ主教だし、中国にきたアダム・シャル・フォン・ベルは選帝侯の住むケルンの生まれなのだが、どうも、この「神聖ローマ帝国」というのがよく分からないので、積ん読だった、講談社現代新書『神聖ローマ帝国』を読み出した。
     ローマ帝国滅亡後(476年)、カール大帝(=シャルル・マーニュ)によって、800年、「ローマ帝国」(西ローマ帝国)が復活するが、843年には「ウェルダン条約」で帝国が三分割、911年には東フランク断絶、フランケン公コンラート1世をへて、919年、ザクセン公ハインリッヒ1世(狩猟王)がドイツ王となり、「ザクセン朝」が始まる。 962年にはオットー1世が教皇より戴冠し、「帝国」と称する。
     1024年、ザクセン朝断絶。 フランケン公コンラート2世がドイツ王になり、「ザリエリ朝」がはじまり、「ローマ帝国」と称する。1076年に教皇と皇帝の叙任権闘争があり、「カノッサの恥辱」やら恥をかかされたハインリッヒ4世がドイツ司教をたきつけて、対立教皇を擁立するやらの事件がおきて、1125年、「ザリエリ朝」断絶する。
     ズップリンゲンベルク家のロタール三世をへて、1137年、コンラート三世によって「シュタウフェン朝」が始まる。1152年、フリードリヒ1世(赤髭王・バルバロッサ)が即位、ミラノを攻撃し、ハインリッヒ獅子公などドイツ諸侯も潰した。バルバロッサは教皇が嫌いだったらしく、俗界の皇帝権力だって神授であるといい、「神聖帝国」と名のった。1190年、第三回十字軍の遠征中にバルバロッサは溺死する。ハインリッヒ6世をへて、1215年、「玉座に座った最初の近代人」といわれるフリードリッヒ2世が即位、教皇から十字軍に行けとせっつかれてもノロノロかわして、出発はしたけど、アホらしかったのか病気で帰還したら、グレゴリウスから破門されてしまった。破門のまま、アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと交渉して、1229年、一兵も使わず、エルサレムを統治することになる。このフリードリッヒ2世は、シチリアに生まれ、英才教育をうけ、六カ国語を話し、アラビア語も堪能だったそうだ。ドイツ王の在位期間は35年だが、ドイツに住んだのは8年とのこと、ほとんどイタリアで過ごした。晩年は息子に裏切られる。破門なんてアホくさいと本人は思っていたらしいが、まわりはもっと純朴だったらしい。
     1250年、フリードリッヒ2世が没し、「ザクセン朝」「ザリエリ朝」「シュタウフェン朝」とつづいた「三王朝時代」が終わり、「大空位時代」になる。1254年、ホラント伯ウィレムが名前だけはかっこよくしようと「神聖ローマ帝国」の呼称を用いるようになった。フリードリッヒ2世はドイツをローマ帝国における「属州」扱いにし、分割して相互牽制させようとし、教会領を味方にするべく「聖界諸侯との協約」(1220年)なども発していたから、ドイツ・イタリアは始末に悪いほど分裂していた。教会領も野盗どもに襲撃される有様だったから、ローマ教皇が「自分たちで王を決めないなら、おれが決める」といいだした。七選帝侯がいつできたのかはよく分からないらしいが、マインツ大司教・トリーア大司教・ケルン大司教・ライン宮仲伯・ザクセン公・ブランデンブルク辺境伯・ボヘミヤ王らが王を決めることになる。しかし、それぞれが相手の強大化を嫌ったので、傀儡を建てようということで、1273年、スイスの片隅の伯爵ルドルフ・フォン・ハプスブルクを立てることになる。ハプスブルグは秀吉のような人で、義理人情と心遣いで出世したらしい。もっとも、ボヘミヤ王だけは、こんな小物の下につけるかと反発し、1278年、マルヒフェルトの戦いで、ルドルフ1世(ハプスブルク)とボヘミヤ王オタカルが激突する。圧倒的な兵力差だったらしいが、当時は「伏兵」という概念がなく、50人程度の伏兵によって、ボヘミヤ側は総崩れとなり、ボヘミヤ王までも戦死する羽目になった。ここに、ハプスブルク家の躍進がはじまる。
     ルドルフの死後、選帝侯はハプスブルク家の強大化をきらい、ドイツ王の地位をナッサウ家に与える。しかし、ナッサウ家の新王アドルフが愚鈍だったので廃位され、ルドルフの長男アルプレヒト一世が王位につく。アルプレヒトは英邁だったが、地元スイスの統治が苛烈でけっきょく弟に暗殺される。ちなみに「ウイリアム・テル」(シラー)が描いているのはアルプレヒトの苛政だそうだ。アルプレヒトの後、選帝侯らが選んだのは、ルクセンブルク家のハインリッヒ七世である。ルクセンブルク家はボヘミヤ王にもなっていた。1310年にローマで戴冠をするが、1309年にはフランスによる「アヴィニョン捕囚」があり、教皇庁もフランスにあった。フランスは皇帝位をドイツから奪取しようとしていたのである。ハインリッヒ七世はシチリア軍が駐屯するローマで枢機卿により戴冠された。しかし、ハインリッヒ七世が謎の死をとげる。そして、バイエルン公ルードヴィッヒと、ハプスブルグのフリードリッヒ美王が争い、ルードヴィッヒ(ヴィステルバッハ家)が勝つ。ルードヴィッヒ四世は皇帝の権力は神の代理人である教皇からではなく、神から直接授けられているとし、1328年ローマで市民からの推挙という形で戴冠する。そして、フランスにいる教皇ヨハネス二十二世を廃位しニコラウス五世を対立教皇にたてる。しかし、ニコラウス五世はローマから逃げ、アヴィニョンに保護をもとめた。その後、教皇クレメンス六世により、ルードヴィッヒ四世は破門される。このころ、ハインリッヒ七世の孫、カール四世は祖父の暗殺を画策したかもしれないフランス宮廷で育てられていた。父のヨハンがヴィステルバッハ憎しでフランスに接近したのである。1346年、選帝侯への工作がきいて、カールがドイツ王となる。
     ルクセンブルク家(ボヘミア王)のカール四世は、はじめ「坊主王」とよばれた。教皇に従い、ルードヴィッヒ四世の行った政策の無効とし、皇帝即位は教皇の裁可が必要とし、帝国とフランスの係争には教皇を仲裁にたてること、シチリアに教皇の宗主権を認めることなどを宣言した。1347年、カール四世はローマで戴冠するが、「代金をうけとる商人」のようだといわれる。カール四世は屈辱に耐え、皇帝となると「坊主王」の仮面をぬぎすて、1356年「金印勅書」を発布する。この勅書は帝国議会で承認される。神聖ローマ皇帝の選挙規定であり、帝国議会の法整備である。ここで正式に七選帝侯が定められ、選帝侯位の長子単独相続、国王選挙の結果に従わない選帝侯の廃位、私闘の禁止などがうたわれている。選帝侯には特権が与えられた。マインツは帝国大宰相、トリーアはブルゴーニュ王国大宰相、ケルンはイタリア王国大宰相、ボヘミアは献酌侍従長(酒宴のときに最初の杯を皇帝にわたす世俗選帝侯の筆頭)である。また、選帝侯には自領で貨幣を鋳造することもできた。要するに、カール四世は戦乱にあけくれていたドイツを選帝侯を柱に整理したのである。
     1359年、ハプスブルク家のルドルフ四世(建設公)が8つの称号を書いた偽書をもって、帝国にあらわれる。最後のひとつは「プファルツ大公」というもので、「大公」というのはそれまでなかった官名であった。司教の上の大司教から発想したらしいが、ルドルフ四世はこの大公家は自領で爵位を授ける特権があると主張した。ペトラルカがこの文書の鑑定にあたったが、七通の特許状のうち、二通はカエサルと皇帝ネロのもので、オーストリアが形もないころのもので噴飯ものだったが、この「おおうつけ」に脅威を感じたカールは大公家詐称をうやうむに付した。これがやがて帝国議会の規程になり、オーストリア・ハブスブルク家は大公家になっていく。カール四世相手に大芝居をうったルドルフ四世は26歳で死去。
     その後、1376年、金印勅書に反し、シュヴァーベン都市同盟が成立、諸侯と都市同盟の対立がはじまる。1378年カール四世死去、長子ヴェンツェルが即位、1400年ヴェンツェルが廃され、ルプレヒト・フォン・プファルツ即位、1410年カール四世の次男ジギスムントが即位、1417年、ジギスムントがローマ教会の分裂を解消。1419年、ルクセンブルク家の本領ボヘミアでフス戦争勃発。1438年ジギスムント死す。ハプスブルク家アルプレヒト二世が皇帝即位し、ハプスブルク王朝が始まる。
     フリードリッヒ三世をへて、1493年マクシミリアンがドイツ王となり、1495年「永久平和令」をだし、裁判権が各諸侯の手に移される。1499年シュヴァーベン戦争によりスイスが事実上独立、1508年マクシミリアン、教皇の戴冠をうけずに神聖ローマ皇帝となる。以後、教皇による皇帝戴冠は消滅。1512年から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号を正式に採用する。1516年まマクシミリアンの孫カール(五世)がスペイン王(カルロス一世)に即位、翌年(1517年)ルターによる宗教改革のはじまり、1519年、選挙でフランス王フランソワ一世をやぶり、カルロス一世が皇帝カール五世となる。1555年、アウクスブルクの宗教和議、領主の宗教が領民の宗教になる。翌年、カール五世退位。皇帝位は弟フェルディナントに、スペイン王は息子フェリペに譲位する。オーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクに分裂した。
     1618年、フェルディナント二世がカトリック普遍主義からボヘミア反乱を弾圧し、以後、国際戦争に発展する(30年戦争)。1648年、ウェストファリア条約、帝国の諸侯が主権を確立、ネーデルラントとスイスが神聖ローマ帝国を離脱した。1683年、オスマン・トルコによるウィーン包囲、1700年、皇帝レオポルド一世がブランデンベブルク選帝侯フリードリッヒ三世がプロイセン王(フリードリッヒ一世)になることを承認し、プロイセン王国が誕生。1701年、スペイン・ハプスブルク家が断絶し、スペイン継承戦争がおこる(〜14年)、1740年、皇帝カール六世没し、ハブスブルク家に継承者がいなくなり、オーストリア継承戦争がおこる。1745年、マリア・テレジア(カール六世の長女)の夫フランツが皇帝即位、七年戦争(1756年〜)をへて、1804年フランツ二世、オーストリア初代皇帝を名乗る。1805年、フランツ二世軍、アウステルリッツでナポレオン軍にやぶれる。1806年、フランツ二世、神聖ローマ帝国の解散を宣言する。(ハプスブルク家オーストリア帝国は1918年まで存続)

  • なぜ"神聖ローマ帝国"であるのか。長い歴史の渦の中でその意味は大きく揺さぶられ、教科書ではその名称の意味に触れられることは少ないが、これを中心に歴史を振り返ると、混迷の中世ヨーロッパを新たな一面から辿ることができる。

    キリスト教会勢力と決別し、独立勢力であることを示威するために神聖を謳い、過去の栄光にあやかり、ドイツ・イタリアだけでなくフランスにまで及ぼそうとローマを名乗り、ビザンツ帝国と並び立つ版図を主張するために帝国を称した。
    そこには何の科学もなく、『<a href="http://mediamarker.net/u/akasen/?asin=4061492829" target="_blank">30年戦争の歴史</a>』で見たのと同じく、時と共にうつろう各陣営の勢力争いの噴出でしかないのだが、それこそがまさしくこの時代の全てであったのだろう。
    "コンクラーベ"は教皇の選出から皇帝の干渉を排するために確立し、"カノッサの屈辱"は皇帝と教会の対立の始まりでも結果でもないただの一場面。神聖と名づけたからこそ、聖地エルサレムを救うために"十字軍遠征"に行かなければならないし、"大公"の名はハプスブルク家が選定諸侯に対抗するために創りだした称号だった。
    この時代の全ての言葉はただ争いのために争いから生じたものだとさえ思えてくる。
    こんな同じような名前の連中が同じような地域で同じような敵を相手に延々と戦うだけの歴史から、人は一体何を学べるというのか。

    近寄りすぎると個人の物語しか見えず、離れすぎると何の意味も見いだせなくなる。なるほど「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉の通り、歴史から学ぶ距離というのは賢人にしか測れないのかもしれない。

  • 神聖ローマ帝国の概説書

  • 神聖ローマ帝国という死んだ国があると聞いて。

    それは中世ドイツに存在して、数多くの国を抱えながら消滅していった忘れ去られた帝国だと言う話しだった。
    実際に世界史には興味があったわけだけど、やはりカタカナは難しくて手に負えない。カール何人出てくるんだ、という勢いである。

    読み進めることに苦労しながら、この本を読んで見えてきたのは、国同士や国対教会の対立の中で数々の王たちが利益や利権を得るために奔走していた中で、曖昧なままに生まれ曖昧なままに死んだ「神聖ローマ帝国」という国の生涯だ。
    神聖ローマ帝国というのはドイツが望んだ幻想にしか過ぎない願望の現れでしかなかった。実際に西ヨーロッパには強国がおり教会の力は大きく、内政における諸侯たちも大人しく従うわけでもない。だが神聖ローマ帝国という幻想がつくりあげた海原は諸国を巻き込むには充分だし、時には恵みを一身に受けたりしながら、結局は重荷になった。
    帝国は実体のない、空想上のままでありながらその威光を放っていた異常な国とも言える。だからこそ理解しにくく、まただからこそ魅力がある。まさしく幻想が作り出した国だからだ。
    これを読んですべてが理解できた、とは言い切れない。だが、神聖ローマ帝国の魅力は充分に感じ取ることはできた。

  • こと神聖ローマ帝国に関して、これ以上の入門書はないだろう。
    帝国の名称の変遷について特に詳しい。

  • 2014.2.6
    皇帝の名前がたくさんで、ややこしい。物語としてはおもしろいはず。落ち着いた読み解きが必要。イタリア戦争、三十年戦争などの内情を補足するのに役立つ。それぞれの出来事をつなげることができるので、授業で使える。

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著者プロフィール

1948年生まれ。早稲田大学大学院博士課程に学ぶ。明治大学名誉教授。専攻はドイツ・オーストリア文化史。著書に『ハプスブルク家の人々』(新人物往来社)、『ハプスブルク家の光芒』(作品社)、『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書)、『ハプスブルク帝国の情報メディア革命─近代郵便制度の誕生』(集英社新書)、『超説ハプスブルク家 貴賤百態大公戯』(H&I)、『ウィーン包囲 オスマン・トルコと神聖ローマ帝国の激闘』(河出書房新社)、訳書に『ドイツ傭兵の文化史』(新評論)などがある。

「2022年 『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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