- Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061497887
作品紹介・あらすじ
分断される自己イメージ、データベース化する人間関係…ネット世代の論客が解き明かす「僕たちの日常」。「ニート論議」「監視社会論議」の本質も明らかに。
感想・レビュー・書評
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現代社会が、歴史性や本質的理由を欠いた突発的な「祝祭」によって動いているのではないかと指摘する本。
「祝祭」の例は2002年のワールドカップの熱狂的盛り上がりや、2ちゃんねるでしばしば発生する、ある出来事が槍玉に挙げられ、そのスレッドに書き込みが急増する現象=「祭り」といったものである。
その背景には、若者が雇用の流動化や教育カリキュラムの度重なる変更により十分なスキルや経験を積めず、フリーターや派遣社員にならざるを得ない雇用情勢や、「監視社会」が構築されつつあるいう要因がある
また、著者は因果関係が曖昧なのにもかかわらず「携帯電話を持っている若者の方が非行に走りやすい」という「ケータイ・バッシング」が蔓延していることが指摘する。それには、人々が子どもの「非行」や「逸脱」の情報のインパクトの強さに引かれ、結果が無批判に受け入れられていることと関係があると思った。
その例が、本書に挙げられている「ケータイ・バッシング」、「ゲーム脳」の他「少年犯罪が増加、凶悪化している」とか「フリーターやニートは甘えているだけだ」といった言説なのだと私は思った。
以上のような現象が起こっている背景にあるのが、最終的に目指すべき目標や理念=大きな物語が失われつつあることだ。章同士の繋がりが弱く、抽象性が高めだったのもあるが、全体的に読みにくいという印象を受けた。 -
一言。大変つまらない。読んだ人の多くが「よくわからなかった」と言うのもうなづける、基本的に論理がトビまくった本だ。
若者の就労問題、監視社会の問題、ケータイでのコミュニケーションの問題・・・と全然異なる話をピョンピョン飛んでいき、その都度、ジークムント・バウマンだったり、アンソニー・ギデンズだったり、デイヴィッド・ライアンだったりの「話」を紹介、特に接着剤も使わずに「繋げる」=「くっついてる」(気持ちにさせる)という荒技を展開している。
タイトルになっている「カーニバル化」について説明すると、ほとんどジークムント・バウマンそのまんま。バウマンによれば、近代は、共同体から個人を解放する時代だった。これが極限までいっちゃうと、個人が共同体に所属している必然は特になくなるから、「共同体へ所属するかしないか」自体が、個々人の選択になってしまう。個人は流動的になった伝統、共同体にその都度「あえて」所属するしかなくなるのであり、「一貫性を維持する」ことが難しくなる。その結果、共同体から共同性への転換が起こる。要するに、とにかく皆で繋がって一瞬だけでも盛り上がる=カーニバルというわけだ。
で、2ちゃんねるのオフや祭り、ワールドカップや阪神優勝の盛り上がりはこのカーニバルなんじゃないかってのが著者の主張。一言でいうと「別に内容が正しいとか、自分の道徳心に適うからとかじゃなく、ネタとして盛り上がっている」ということになる。・・・って、本当にそれだけなんだよな。
この話と、監視社会やケータイコミュニケーションの話が一体どうつながるわけ?と思うのもさもありなん。一応、「理屈」はコネてるけど、その理屈が飛びすぎでサッパリわかんない。他者とではなく、データベースと自分との間を往復する自己像になるのだあ!とか書いてあるけど、本を読んだ後も「なんで?」としか思わないし。なんでデータベースを必ず参照するんだよ。意味がわからない。
監視社会についての議論の紹介も同様。監視社会は良いか/悪いかという議論であれば、「良い監視社会は良い」ということになってしまう。そこで、もう1次元深めた「善い社会に監視社会は貢献しない/邪魔になる」という議論があるが、これも著者によれば「何が善い社会か同意を得にくい」という問題があるため、監視社会を一概に悪いという理屈をつけるわけにはいかない(よいともいってないけど)という理屈らしい。って、善い/悪い、良い/悪いに踏み込んで議論してないんだし、物事は監視社会に限らず、その良い/悪い、善い/悪いのジャッジが難しいからこそ、判定が難しいのは当たり前だ。1章使って、一体何を言いたかったんだろう?と首をかしげた。
頭でモデルを作って、そのモデルに合うように、個々の社会学者の言葉をちりばめて(それも非常に大きな話ばっか。再帰性の高まりだとか、個人化だとか、ギデンズやベックで聞く、例のあんな話です)、中間抜いて「結論として後期近代人はこんな自己を生きているのだあ」と言われて、それで納得するわけない。
社会学者が、これだけ安易な若者論、時代論を平気でぶちまけてるあたり、ちょっと驚いた。他の著作では違うのかもしれないけど、本書は特に読む意味はないと思う。言葉の難易度もいい加減で、読者にどこまでの知識を求めてるのかもわからないし、説明もハショりにハショってるから、逆に参照している社会学者が何言ってるのかすら、よくわからなくなるくらいだ。とっとと、ギデンズ、ベック、ライアン、バウマンを読んだ方が、よっぽど理解が深まると思う。
・・・というような読後感だったので、著者にまったくうらみはないけれど、個人的な評価は★1個。ごめんなさい。他の本も読んでみる。 -
反省的自己と再帰的自己の差異。
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booklogのオススメででてきたので読んでみた。
2005年の本であるため、今となってはよく目にする内容が書かれていた。 -
特筆すべき感想はない。
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再読。
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38693
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社会
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インターネットや世代間を題材にして書かれた作品。技術が進んだ現代社会の一面を捉えており考えさせられる内容。
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<閲覧スタッフより>
社会構造を皮肉的な視点で描き出した本。書かれたのは今から12年前ですが、当時と現在がどのような点で変化しているか、変化していないかを考えると、社会が内包している本質的な問題点を考えることが出来ると思います。
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所在記号:新書||304||スス
資料番号:10212722
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記念すべきチャーリーの第一冊目。170ページほどの厚さしかないのに、内容は結構ねじ暮れて小難しく、読みごたえがあった。カーニヴァルという言葉を使うので、昨今の空虚な盛り上がりに情熱を傾けている人々の世代を言っているのかと平たく考えてしまいましたが、現れる結果としてはそういう部分もあるけど、もっと人間の時代真理の深い部分をしっかりとつかんでいる奴でした。「反省的自己」と「再帰的自己」というあたり、そこからのアイデンティティの説明までがかなりしっくりいきました。ただカーニヴァルという表現の意図するとことはわかるけど、ニュアンスとしてもう少しうまい表現があるとありがたいと勝手に考えたりします。
よかったです。商業的に考えれば、この一冊の内容を引き延ばして、新書だったら3~4冊ぐらい書けそうなんだけどそうしないところはチャーリーの誠実さなんだろうなと思います。
17.4.18 -
祭りのネタになれば、右でも左でもいい
学校に甘える→会社に甘える(これが今は出来ない)
「やりたいこと」をめぐる躁(自己啓発)鬱(現実)ー分裂状態
監視社会ーアマゾンの予想 -
著者の社会論を一般向けに解説したもの。
【メモ】
・鈴木謙介のブログ
SOUL for SALE
<http://blog.szk.cc/>
《目次》
はしがき [003-012]
目次 [013-016]
第1章 「やりたいこと」しかしたくない-液状化する労働 017
1.フリーターやニートだけが問題なのか 018
2.「やりたいこと」という貧困 032
3.ハイ・テンションな自己啓発 045
第2章 ずっと自分を見張っていたい-情報化社会における監視 057
1.「監視国家」か「監視社会」か 058
2.データーが管理されるということ 067
3.データーベースとの往復運動 086
第3章 「圏外」を逃れて-自分中毒としての携帯電話 101
1.携帯電話と再帰的近代 102
2.「自己への嗜癖」とデーターベース 120
終章 カーニヴァル化するモダニティ 135
1.カーニヴァル化と再帰性 136
2.革命か宿命か-カーニヴァル時代を生きる 158
あとがき(二〇〇五年四月 鈴木謙介) [170-174] -
フリーターやニートなどの若年層の労働問題、監視社会論、ネット上のコミュニケーションの問題を取り上げ、バウマンの言う「カーニヴァル型の近代」に向かう動向を読み取ろうとしています。
労働問題、監視社会論、ネット上のコミュニケーションの問題と、いずれも大きなテーマについての著者自身の見方が示されているのですが、やや密度の濃い議論を詰め込みすぎのように感じました。
いちおう本書の結論は、ギデンズの言う「再帰的近代」が進み、あらゆるものごとが自己にとっての選択の対象となることで、さまざまな社会関係の中で自己に割り振られた「役割」を統合する「反省的な自我」が失われ、そのつどデータベースに問い合わせをおこなうことでアド・ホックな「自己」を作り上げるような振舞いが広く見られるようになったというもので、バウマンの「カーニヴァル」の概念を借りることで、そうした再帰的な自己のあり方を可能にしているメカニズムを解明しようとしていると、言うことができるように思います。 -
古書店で見かけて購入。
10年後まで続いているテーマがたくさん。発売時に「カーニヴァル化」ってタイトルがなんか狙ってる感じがして、手を伸ばすのをやめてしまったことを後悔。 -
2ちゃんねるを中心とした「祭り」という現象から、現代社会をとらえている。
ちょっと話題があちこち発散するが、かねがねおかしいと感じる世の中の色んなことの解説の多くが納得出来る。
少し感覚がずれていると感じる部分は著者との年齢差が原因か?(同業者だが、著者はまだ20代後半) -
「『再魔術化』とは、ひとくちにいえば、非合理なもの、神秘的なものと、私達の生活の結びつきを強化するべきだ、あるいは今現在、そのような結びつきが強化されつつあると考える議論だ」 ー 152ページ
本書で用いられている「再魔術化」とは若干対象が違うのだけど、このことについて最近よく考えている。
何かに没頭しようとする(没頭しなければならない)際、そこに至るためになにかの物語を用意しなければいけない。
たとえば昇進。たとえば社会福祉。たとえば金。たとえば何か。
このあたりのことはとてもわかりやすくて、非常に近代的な理由付けだ。物語は外に開かれていて誰にでも理解できるし、世間的にも認められている。
しかしそこに失われているものがあると感じている人は確かにいる。近代的すぎるものは質感がつるつるしすぎていて、ともすれば滑り落ちてしまいそうになる。
その時、より非合理で「魔術的」な理由を好む人というのが存在する。何かよりファンタジーなものになりきって、自分とそれを重ねあわせて、そして現実を執行する。たとえば僕の身近でいえば巫女だとか魔女だとかシャーマンだとか自覚して、それを現実世界に適用させる人のことをここでは想定しているわけだけど。
この心性の変遷というのはとても興味深い。「魔術」的な思考パターンはより個人的だし、外には開かれておらず、社会的には認められていない。人前で言うのだとしたら、時には白い目で見られることもあるだろう。
しかしより個人的かつ絡みつく類のものになりうるのではないか、と思う。それは特に開かれていない分、社会的なレールに乗っている/乗っていないということを気にする必要がない。つまり同調圧力に乗る必要もないし、なにより自分が形作っているという実感を持つことができる。
これからそういう人が多くなるのか、そのへんはよくわからないけれども、特に女性を中心にそういう人って増えるのかなと思う。進化した中二病、みたいな。あるいはそのままただの中二病というだけなのかもしれないが、そこにはある種の価値があるのだ。 -
2005-6年頃に話題になった本だと思いますが、2012年現在の今のほうが、本書の指摘する下記の傾向は、より強まっているように感じます。
-----抜粋-----
いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことではなく、共同性――<繋がりうること>の証左を見いだすこと――をフックにした、瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。
このような瞬発的な盛り上がりこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。
(略)
そのもっとも大規模だった例は、おそらく2002年のサッカー・ワールドカップになるだろう。
(略)
コミュニケーションのための「ネタ」に堕している
(略)
始まる前から「感動をありがとう」がコピーになっていた2004年のオリンピックにせよ、問題は、日本という国への帰属感ではなく、感動のネタとしての「オリンピック」であり「日本」だったわけだ。
-----抜粋----- -
カーニヴァル化する社会というのは、ジークムント・バウマンの「カーニヴァル型近代」から援用した考えのようです。
ハイ・テンションな自己啓発や、監視社会化の議論をおさえつつ、
カーニヴァル化する社会とは何かに迫ります。
カーニヴァル化する社会という考え方、視点はおもしろいと思います。
祭りというより、カーニヴァル。
内容を伴うというより、一瞬の熱狂に人が集い、夢中になり、そしてそれは消費されていく。
ただただ熱狂によるつながりや生の実感を求めていくというものでしょう。
現実を直視するのではなく、ハイ・テンションな自己啓発によって、ハイになった思考で動き、
現実に直面してはテンションが下がって。
リキッドな社会ゆえのつながり方、楽しみ方ともいえるし、
あらゆる人間の部分が道具化、外在化されていってしまうがゆえの、感情や内面重視の傾向ともいえるかもしれません。
感動の消費、など、現在もカーニヴァル化の中にあるのかもしれない、と思いました。
“しかしながら、バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体への感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以外ではあり得なくなる。そうした点を踏まえて彼が考えるのは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことではなく、共同性-<繋がり得ること>の証左を見いだすこと-をフックにした、瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。” -
読みやすく書いてくれているとはいえ、さすがに難しかったー。
専門家がわかりやすく一般市民向けに書いてくれている書籍の内容くらいは、しっかり理解できる頭になりたい。
社会学系の本をもっと読んでいけば、社会学者独特の言い回しがスッと入ってくるのだろうか。
この本は2005年に書かれているが、社会のカーニヴァル化はますます進んできているなぁという印象。
本に乗ってる著者の写真が、ヤンキーっぽくて、今のチャーリーの印象と違って笑った。 -
事例は面白いが、全体的に読みづらい。
データベース化によって社会の輪郭が変化していっていうのは面白い。あと5年でより変わって行きそう。 -
今(2013年)読むことで、良書だったと評価できる。
著者の存在はおよそ3年前にPodcastの『文化系トークラジオLife』で知った。氏はパーソナリティを務めており、深夜1時から朝まで1つの議題について論客を集めて語り合うといった内容だ。氏は散漫しがちな議論の流れを、約30分ごとに巧くまとめて楽曲を回していく。
現在の流れ、持って行くべき着地点を正確に把握しながら、論客の放つ専門用語を見事に咀嚼してまとめる能力は見事だ。
本書でもその能力が遺憾なく発揮されている。連載記事を新書レベルにまとめたのだから、ある程度つながりが見えなくなったり、説明不足な点も否めないが、それでも読者の想像力を持って補えるレベルのものである。無論、難解な用語は極めて少ない。このレベルまで簡易にまとめた本ですら分からない用語があるのなら、そもそもなぜこの本を手に取ったのかが疑問だ。
さて、8年前に出版された本書(連載時は更に遡るだろう)が現代社会を見事に予見している点は評価せざるを得ないだろう。
物理的な機器を用いない「監視社会」は、まさにTwitterやFacebookでの未成年者の非行や、不祥事の晒し上げだ。当時こうしたツールが存在しなかっただけに、この仮定は見事だった。
そしてカーニヴァル=祭りがデータベースと共犯関係になる、という仮定はこれも先に挙げたSNSによるデモ活動やフラッシュモブが具体例として考えられる。こうした"祭り"には政治的主張が無いという指摘もまさにその通りで、いわゆるネトウヨだとか花王デモ、新大久保でも、就活バカヤローデモといったネット発信の祭りが何の結果も出さなかった(出そうともしていなかった)ことからも明らかだ。
筆者が予見できなかった部分を挙げるとすれば、「見られているかもしれない」という意識が自己監視を強いる、という主張だ。結局いまのSNSユーザーには「見られているかもしれない」という意識が欠如しており、自ら犯罪を告白しては晒し上げられる人間が少なくない。こればかりはバカとハサミは使いよう、というか、どこかインターネットの広がりは動物的な思考と、短絡的に結果を求める人間を増やしてしまったように感じる。
そしてこういった人間こそが著者の言う躁鬱状態と自己実現に揺れる若者を増やしているのではないかと思う。
まさに監視社会を実現させたTwitterとFacebookがある現代を踏まえた上で、改版を書き上げて欲しい。 -
8年前にかかれた内容がまさに現在進行形で起こっているのを考えると、非常に鋭い視点を持っていると思う。文章として散らかっている感じがして読みにくい感じはする。
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面白いけれど、私の知識不足なのでしょうか途中わかりにくかったです。とりあえず読み終えましたが、読みかけてた別の本で知識を補ってからまた再チャレンジしたい。
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「なぜ自分探しや自己実現を目指すのか?」という問いを、社会学者が90年代以降の社会および技術から読み解く本。
たまたま同じ時期に読んだ速水健朗さんの『自分探しが止まらない』とは、同じ文化系トークラジオLifeメンバーということもあってか、ちょうど裏表の関係のような感じ。
おおざっぱにまとめると
バブル崩壊で就職しづらくなったし自己分析を通じて意欲や個性やノリをめっちゃ問われるようになったよ
↓
情報技術の進歩で自分の意欲や個性がデータベース化され場に応じてキャラを変えやすくなったよ
↓
本当の自分がわからなくなってきた、誰も本当の自分を受け入れてくれない
↓
よくわからないからカーニヴァル的に非合理的なものと乱舞するしかない、もしくは本当の自分をハイテンションなノリで探し続けるか、さもなきゃ自分探しを諦めるしかない
、ってとこか。
どちらかというと問題を分析することに終始していて、「んじゃ具体的にどうすりゃいいの?」というのにあまり言及されていないのが残念というかそれは別の場で語られるべきことか。
けど、「個性化の進んだ時代となった」「それには経済情勢および技術革新が影響した」「それらに適応して社会が変わらなければならない」というのは、問題提起として重要だと思う。
例えば就職のマッチング、SNSによる「ありのままの自分でいられる人間関係作り」、自分探しをビジネスにつなげる仕組み…などなど、この知見を活かしてすごしやすい社会にできるんじゃないかな、とも。
鈴木謙介さんの本や言及には「カーニヴァル化」という言葉が頻出するので、チャーリーファンなら早めに読んでおきたい。
(俺は読む時期が結構遅かった。実は。) -
祭りだ〜
地域共同体への帰属意識も薄れ、伝統に従うこともなく、一貫性の維持が困難な現代。個人の選択は場当たり的になりつつある。従来の共同体に代わって「繋がり」による瞬発的、暴発的な一時的な盛り上がり(祭り、カーニヴァル)が集団への帰属感となりつつある。カーニヴァル化が政治・経済に与える悪影響として、おもしろくなくなると祭りは放棄されてしまうことがある。
本書が執筆された2005年に比べTwitterやFacebookが一般化してきた2013年の現在、この傾向はより顕著になっている気がする。 -
独特の漢文調で読みづらい部分も多々あったが、何とか読み切った。
いわゆる「社会学の文章」という印象は、『希望難民御一行様』と似ている。
大量の引用文、精神性の分析、データの活用など。
内容についても、独自性は高いと思う。興味深い記述もいくつかあったので、整理しておきたい。 -
7年前の本、炎上文化についてが予見されている。