暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061822061

感想・レビュー・書評

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  • 『煙か土か食い物』の続編、奈津川家の三郎の物語。古書を入手し『煙』(3回目)を読み直して臨みました。
    2023年現在、受け入れがたい表現や設定(13歳と28歳はないだろ)が散見するのだが、読んでいる間ずっと、目を背けたくなるほど残虐な描写をこれでもかと読まされつつも、生きることの哀しみがひたひたと胸に押し寄せ、物語は嘘で、だから真実で祈りで愛なのだ、と力業で示す圧巻の最終章にはとことん打ちのめされてしまった。これ文庫化されてないけど舞城の最重要作品のひとつなんでは???
    ユリオは映像化するなら平手友梨奈かな、なんて思って読んでいたが、サイコな展開が加速すると、IWGPの加藤あいにも重なって、IWGPが2000年、これは2001年、時代の空気感みたいなものもしのばれたり。

  •  舞城王太郎で一番好きな作品かも知れない。
    とにかくめちゃくちゃでグロいので、最初読み終わったときは困惑したけど、読了からしばらくしてからじわじわ好きになっていった。
     舞城王太郎がグロいしめちゃくちゃなのはいつものことなんだけど、最後に急展開で三郎が四肢を失ったのは、読み終わってすぐは流石にちょっとショックだった。
     三郎が四肢を失う理由を考えると今作の結末は前作「煙か土か食い物」のラストと対応しているということが関わってくると思う。
     前作は元から不和を抱えていた家族が、事件に見舞われめちゃくちゃになった後、医者である四郎が繋ぎ直すという「破壊と再生」の話になっている。一方で今作は三郎が四肢を失ったままで「再生」がない。初めは悲惨な状況と不自然に明るい三郎の態度から、三郎が現実逃避するバッドエンドかと自分は思った。
     しかし、作者の意図は三郎が明るく語ったままに三郎ドゥビドゥバなハッピーエンドなのだと思う。三郎は四肢を失った後、「失うことで得られるものがある」「想像の手足で踊る」と言うことを語る。失うことによって、却って無限に描ける可能性を得るということが、この結末で描かれたうちの最も重要なことのひとつだ。
     自分が使っていた教科書が一般的にどのくらい使われているものなのかわからないけど、私の高校生のときの教科書には「サモトラケのニケ」の評論が載っていた。曰く、サモトラケのニケは頭部及び両腕が欠損していることによって、感情を表現する部位を失っているが、それによって却って無限の可能性を想像出来る。その可能性の想像によってしか描けない美があるという(曖昧な記憶の要約)。今回の三郎が迎えた結末はまさしくサモトラケのニケの美と同じなのだと思う。
     舞城王太郎はたびたび、実現する・したかもしれない「可能性」について描いている。『好き好き大好き超愛してる』の有名な冒頭でも、「愛は祈りだ…」の後には「僕は世界中の全ての人たちが好きだ。(中略)なぜならうまくすれば僕とそういう人たちはとても仲良くなれるし、そういう可能性があるということで、僕にとっては皆を愛するに十分なのだ。」と続く。『暗闇の中で子供』は可能性と愛についてはじめに辿り着いた作品で、『好き好き大好き超愛してる』に繋がるアイデアが生まれた作品であるのだ。
     また、『煙か土か食い物』の結末では解決できなかった「現実に一縷の希望も残されていなかったときに、どうやって家族や世界を愛するのか」という課題に答えを出した作品なのだと言える。冒頭で三郎が同級生の指を切り落として語ったように、「これからどんどん悪くなる」果てのない喪失が存在するとしても、失った後には可能性を描くことができるという、潰えない愛と希望を舞城王太郎は描いたのだと自分は解釈した。ラストの様々な人が危機を救いに来てくれることを描く嘘のシーンの連続も、実際にそうならなくても、そうやって自分を助けてくれた可能性があるというだけで、「世界中の全ての人が好きだ」と言い切ったのだ。
     パラレルな可能性の想像によって世界に対する深い愛を持つことができる。そして、パラレルな可能性を描くために、そこには、嘘でしか描けない本当のことがあって、それは小説の役割である。
     以上が自分が『暗闇の中で子供』を読んで感じ取れたことだ。
     ただ、ラストシーンについては分からなかった部分もいくつかあり、特に奈津川家の無数の幽霊はどう解釈できるのか、いまいちわからなかった。今後何度か読み返していずれ分かるようになりたい。

  • 圧倒的救済はどこからもたらされるのか。偽物の言葉にそれは宿らないのか。「大丈夫大丈夫」とささやき続けた三郎はこれじゃいかん、と自分の身を動かすことで圧倒的救済を求める。というか、そういう風に四郎に言われる。偽物の言葉じゃ駄目なのに、でも「ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ」嘘をつき続けるしか、ユリオは救えなかったのか。もっと大きく考えると、これらは全て虚構だったのか。行き場をなくしたユリオへの二次創作的救済なのか。ならばそれは“圧倒的”なのか。全てに疑問がつきまとう。なぜ、最初からフィクションとわかっている小説作品に、(主人公にとっての)現実と虚構が持ち込まれるのか。それらの区別に対してなぜ僕が興味を持ってしまうのか。当たっているかわからないが、この二つに関しては答えを持っている。三郎の抱える問題は可哀想に一生つきまとう問題なのだ。この世ならざる問題を生み出すときに、きっと一生ついて回るのだ。可哀想と思うと同時に、早くそのステージにたどり着きたいものです。

  • おそらく賛否はわかれるし『煙か〜』よりずっと破綻しているしサリンジャーかといえばサリンジャーでもあるし(いやシーモア家)でもつまりそれが三郎なのよねと理解している。四郎があんまり格好よくて惚れるし、悩んで生きるわたしはつまり三郎なのだな、と。四郎よりずっとウェットでセンチメンタルでやさしすぎて自分に甘すぎる小説家と云う生き物であるところの三郎に同情と憐憫と憎しみを堪えきれない。幼い恋の結末が非常に胸をえぐりました。読めてよかったとおもっている。

  • 奈津川家物語第二弾。

    これ、内容について語る意味があるのか?

    JUNEなのは確かなので、気になった人は読んでみたらいいと思う。私はこーゆー現代のJUNEが読みたかった。
    舞城の描く女の子は、皆血肉が通っているというか、ふつうにそこらにいそうでかつとても可愛くて、作品を気に入ってる理由のひとつでもある。

    そしてこの作品における舞城の文章の読みやすさは異常。
    どこまでもスイスイガンガンいけるおかげで、止め時が判らない。
    でもこの文体、あるいは過剰な暴力表現故に人を選ぶのも事実なので、万人にオススメはできないのだった。

  • 人生ベスト小説のうちの1冊。

    洗練された思弁的な文章も読んでいて心地よいけれど、内容も凄まじい。アンチ・ミステリーに止まらず、アンチ・フィクションの領域にまで到達している。至る所で自己矛盾を起こし、これこそが本当の愛なのだと涙を流した事実が、そのすぐ後には覆される。現実味と虚構の間をゆらゆら漂いながら、そこから何を受け取るのかと、そこまで自己言及してしまっていて、一体何がなんやら。

  • この作品が100%フィクションでありますように、作者の経験が1ミリも入り込んでいませんように、と祈りながら読んだ。

    悩んだ末に☆5つにしたけど、『煙か土か食い物』のそれとは全く意味が異なる。
    物語として見たら明らかに破綻してるから。ちょっとメタ要素もあるし。
    でも作中でもたびたび「嘘のなかでしか真実は語れない」と言われているように、この作品が真実を語るために用意された嘘であれば、破綻していることは欠点にはならないだろう。
    事実、この作品にはたくさんの大切なモノゴトが詰まっている。
    とことん凄絶で暴力的だけど、なんだか癖になってずっと読んでいたいと思う、そんな作品だった。

    話としては『煙か土か食い物』の後日談に当たる。『煙か…』では四郎の人生の伏線が感動的に回収されて、凄く充足感があったんだけど、確かに事件は本当の意味で解決してないのだった。河治夏朗(=四郎の推理では二郎)が放置されてる限りまた別の実行犯が仕立てられる可能性は充分なのだ。

    語り手は四郎から三郎に替わる。一人称が全く四郎みたいで兄弟とはいえ似すぎてる…と思ったけど、少しずつ四郎と三郎の性格の違いが浮かび上がる。
    この一連の作品の価値のひとつは、虐待家庭で育った虐待されてない兄弟にスポットが当てられていることだろう。虐待されてる子はもちろんツライから、相対的に見てその兄弟の傷は見逃されがちだが、絶対視すれば兄弟の心の傷だって相当だ。この立場を描写してくれたことで救われた人は多いんじゃなかろうか。
    三郎目線から見る四郎はめちゃカッコイイ。前向きで行動派で、被害者の会を主宰したり父親の代理として選挙に挑もうとしたり、あの暴力性を忘れさせるほど正しい人間として描かれる。

    物語中では事件が起こりまくる。
    二郎(推測)が描いたスパイラルを二人の人間が勝手に引き継いでそれぞれ全く違う絵を描き出す。ナスカの猿を描いた男は殺人容疑で無事(じゃなくなって)捕まり、宇宙人へのメッセージを描いた少女ユリオは三郎に保護される。
    壊れかけてるユリオとなんとか救おうとする三郎との流血沙汰の日々。
    これで終わりかと思うと今度は連続バラバラ死体状況意味不明事件が発生、これもオゾンで巨大化したコドモの玩具にされたことが判明。
    すると今度は母親消失事件(事件?)、四郎轢き逃げ事件が発生。最後はいよいよ河治夏朗と対決し、三郎は手足を切断される(!)。

    巨大化したコドモの父親がユリオに刺されて命を落とすあたりから物語の均衡は保たれなくなり(ユリオ殺人罪なのに進行上は全く不問、いやその前に巨大化したコドモって!)、三郎が手足を切断されてなお生きてるあたりは完全にシュールだ。
    でも物語はそもそも嘘で塗り固められてるものなのだから、おおよそリアリティに欠けることが起こったって、リアリティはリアルじゃない物語に求めるべきじゃないのだ。
    「三郎手足ないのにどうやって陽二の死体やら自分の手足やらを隠したんだ?」とかいつまでも整合性に拘るミステリ脳は作中でずっと否定されているのだ。

    だから、それぞれのエピソードを通して語られていることは、どうしようもない「愛」についてなんだと思う。

    作中の物語は「解決」とは縁遠く終わってしまうけど、作者が言いたかったことは大方言い尽くせたんだろう。
    読む前は文庫化されなかったことにヤバさを予測してたけど、むしろノベルズ判でも書籍化されたことに意義のある作品だと思う。


    (追記)
    ネット上のレビューを読み回ってきました。
    3章から三郎の作中作だって説が定説のようですね。
    いやぁ、2章で橋本敬が死んでたのに、3章でバラバラにされて校庭に捨てられてたの、ずっと気になってて、「死体はどこで拉致されたんだ?」って何度も探しちゃったんだよ。
    察しろ私。
    確かに3章から明らかにファンタジー化するよね、巨大化したコドモとか腕に妊娠とか。
    …うん、でも2章までだって事実じゃない点は一緒なんだよ。だから全部引っくるめて何某かの真実を語るための虚構ってことは変わらないってことでイイんじゃないかな。

  • これは凄い。
    前作とは微妙に作風が違い、嫌いな人は嫌いだと思う。自分も何度か気分が悪くなってしまった。

    「愛しているからこそのエゴはどこまでゆるされるのか」

    ストーリーや結末にしこりも残るが三郎特有の観点・論点がなんとも絶妙。
    奈津川の圧倒的天才が蹂躙する恐るべき世界。
    いやはや、素晴らしい。

  • 生き埋め事件を解決したはずの奈津川ファミリーが新たなる事件の渦中に立たされ、前作では地味な存在だった三郎が自身の愛と存在意義に直面するバイオレンスラブロマンス猟奇ミステリー、とまぁぐちゃぐちゃなストーリー。
    少々グロテスクな描写が多いけど、読み通してみると恐ろしいくらいに透明で愛に満ちた話なんだなぁ、これが。中身も生き埋め事件の続編と思いきや、変な事件が続いたり、やっぱり二郎をひきずったり、ユリオを愛したり、グチャグチャだけど、人間と自分と愛と向き合うひたむきで卑しくも美しいなんかそんな感じがする。
    珍しく読み終えた後、何度も読み返した。

    冒頭で三郎が荒木に言った「ある特定の物事は、際限なくどんどん悪くなるものだ」と最後のページで三郎が語った「そして俺は生の側にいて、生をはっきりつかまえてどんどん良くなるのだ」という対比がとてもはかない。色々なことが混沌としたケイオスのままで終わったのだけど続編は必要ない。よく分からないものは分かる必要も無く飲み込むのである。
    パタン。
    (けど二郎視点の物語も読みたいのだ)

  • 衝撃的なデビュー作『煙か土か食い物か』に続く、奈津川シリーズ第二作。
    シリーズといわれているものの、実際に本になっているのは『煙か土か食い物か』と本作『暗闇の中で子供』のみ。

    とはいえ、その二作でミステリ界に名を残したのだから凄いとしかいいようがない。

著者プロフィール

1973年福井県生まれ。2001年『煙か土か食い物』でメフィスト賞を受賞しデビュー。2003年『阿修羅ガール』で第16回三島由紀夫賞を受賞。『熊の場所』『九十九十九』『好き好き大好き超愛してる。』『ディスコ探偵水曜日』『短篇五芒星』『キミトピア』『淵の王』など著書多数。2012年『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦著)の25周年に際して『JORGE JOESTAR』を刊行。近年は小説に留まらず、『バイオーグ・トリニティ』(漫画・大暮維人)の原作、トム・ジョーンズ『コールド・スナップ』の翻訳、短編映画『BREAK』や短編アニメ『龍の歯医者』『ハンマーヘッド』の原案、脚本、監督などを手掛けている。

「2015年 『深夜百太郎 入口』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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