- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062585095
作品紹介・あらすじ
「ゆとり」か「つめこみ」か「叱る」のか「ほめる」のか-教育の様々な理念の対立はなぜ起きるのか。教育問題を哲学問題として捉えなおし現代教育の行き詰まりを根本から解消する画期的著作。
感想・レビュー・書評
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教育という問題に関する独断論と懐疑論に対して、
それらとは違った方法で何らかの答えをだしうるはずではないか、という感度をもつ、
若手哲学者の1冊目。
これは竹田哲学の方法でもあるが、
現象学の「なぜそう感じたのか」という問い方と、
ヘーゲルの「自由ということを互いに認め合う」という条件の下で、
教育という信念対立に陥りやすい領域においても、
一定の「よい」とい原理が導き出せるのではないか、と。
ただし、
まだまだ青い、という印章を受ける。
わかりやすい記述をしようとする意志と、
検証可能であることを目指そうとする態度から、
読みやすくはあるが。
それは、「机上の空論だよ、やはり」というような、
原理論に対して向けられる、「現実」という場所からの視線からもくるだろうし、
もう1つは、本質を掴んでいるがゆえに、
本質から語ってしまうところが、むしろネックになっているというところ。
それは、竹田さんも同じ。
それが何かやはり、演繹的に見えてしまうところがあるのかな、と。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
どんな問いには正解がなく(正解をめぐって議論しても意味がなく)、どんな問いなら答えうるかという視点で話がすすんでいくので、すっきりした。自分の体験を一般化してしまうことなく、また相対主義で止まってしまうのでもなく、教育についての話を前にどう進めるか、というのはとても興味深かった。結論として、よい教育とは、社会における「自由の相互承認」を、より実質化できる教育であるとのこと。
個々人の自由、そしてそのための「自由の相互承認」を最終目標にするという視点は確かに反論のしようがない気がする。(個人的な感覚としてはとても賛成)
専門家たちの間ではこのあとどう議論が進んだんだろうということも気になった。 -
とある教育イベントで著者の苫野一徳さんがご登壇されたのをきっかけに読んでみようと決意しました。
数ある書籍や論文などで「これが、これこそがよい教育だ!」と訴え続けられているなか、哲学的観点から「絶対によい教育などない」とし、多くの人たちが承認できる“よい”教育は何なのかを、一冊のなかで模索していく書です。
教育哲学に関する先人の言葉を引用しながら、現代日本の社会や教育にとって何がよいのかを順序よく丁寧に述べられています。
また重要なことがらについては、何度も繰り返し述べられているので、大変読みやすく理解しやすいです。
ただ、私自身、哲学に関しては理解に乏しいため、読んでいくなかで理解に苦しむところが多々ありました。
ともあれ、一冊を読み終えて、今ある教育論のなかではこれが一番有力な理論なのではないかと思います。
ただ、教育論や教育哲学について知識を深めていないので、それらを補った上で再読してみたいと思います。
教育に関心のある方には、読んでほしい一冊です。 -
何度も読み返したい本。哲学的背景も交えながら、教育の理論と実践の両輪について考えることができて、とても学びの多い本だった。
何を”よい”教育とするかは、すごくチャレンジングな問いだと思う。それに対して、さまざまな考え方を提示しながら、現象学的アプローチから向き合おうとする筆者の姿勢もまた参考にできる点が多かった。
苫野先生が説く「自由の相互承認」のあり方がどのように社会のなかで実現されるのか。言い換えれば人間としての愛のようなものなのだろうけど、まずは人と自分、人と人を比べないこと、先入観でジャッジしないことが大事なのかなと感じた。 -
「教育の力」を読み、著者の苫野先生に興味を持って読んだ本。
教育とは何か
私たちはどのような生を欲するか
「よい」社会とは
「よい」教育とは
丁寧に、歴史から、人間の欲望から解き明かしていきます。
読むには時間と体力が必要ですが、濃密な時間を過ごすことができると思います。 -
【図書館本】自由の相互承認、それを支える教養。やっぱ、平等より自由だよなということ。平等に焦点あてると、貧困問題になって、意見対立生まれるから。
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現象学的視点でよい教育について論じる。相対主義のpitfallに落ちないために,相互に自由に生きていくことを了解する社会の一般意志と一般福祉の実現を規範として捉える。前半は主張の学術的根拠について,後半はよい教育,よい教師についての具体的な考え。より実践的なことについては続編の「教育の力」に続く。
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二項対立に明け暮れる現代の教育改革議論に対し、<よい>教育とは何かを根本から世に問い直す著者の、一般向けとしては2014年初現時点での代表作。
議論を進めるにあたり共通の了解を得るための土台に現象学を据え、規範主義や相対化といった教育議論が陥りがちな落とし穴を飛び越え、近年再評価されているというヘーゲル理論から<自由>の概念を教育へ適用。
その教育の本質と正当性の原理を確かなものとしたうえで、現実の教育がどのような原則を持って行われるべきか、まで示唆している。
その議論の緻密さと明快さは、広くこの書のアプローチの有用性と、共通了解を得られるのかどうかを世に問いたい意思となって溢れ出る。
一般読者が様々に想いを巡らせるにはまさに格好のバイブルであろう。
教育者、特に単に教育業界に従事している「ワーカー」には成り下がりたくない意識の高い人々にとっては、最近出版された氏の「教育の力」と共に必読の書である。
その緻密な論の進め方のため、にわか教育論者の私がどうこういうところもない。
直近の私の環境を交えていくつかの論点について感想を述べるとすると、まずこの議論はグローバルで共通して進めてこそ価値をなすものであると強く思う。
本書では多くを語られていないが、本書の<自由>の相互承認という発想を実効化するためには、すべからく世界の人々にこの意思を育てることが必要なのではないか?
中村清が『国家を超える公教育』で語っている「グローバル時代の公教育」としてのエッセンスも、相互に取り入れる必要があると感じる。
またその実践において語られる「学び(探求)の方法」では、できる・わかるの育みと共に本書で多くを語られていない「自己」「自我」の育みが必要と思われる。
自らの教養を身につけるためには、おそらくだが高度に発達した自我が必要条件になると想像する。
十分に自分の軸を意識できなければ、他人の軸に結果的に引き込まれることが多かったり、欲望の調整が適切にできないであろうからだ。
この軸の発達は教育の目的としては否定されているが、集団としてはまだまだ利用の価値がある。
(コールバーグ理論の『学校における対話とコミュニティの形成』
荒木寿友
『学習する学校』ピーター・センゲ)
私はこれらの議論から得た示唆をもって、労働者としての教育を受けさせられたが既にその役割を果たすべき社会が無くなってしまった「取り残された社会人」に対して学び直しの機会をもってもらいたいと思う。
守島基博が言う(http://www.recruit-ms.co.jp/research/2030/opinion/detail10.html)ように、取り残された社会人に対しては、asapでなおかつ極力低コストで個の確立を得るための教育を施す必要がある。
ミンツバーグの言うIMPMに近いのかもしれないが、このような先進の研究の示唆をもって社会人教育にあたりたいと思うのである。 -
人は自由のために生きる。
でもその自由とは何でも好き勝手にすることではない。
そういった行いはむしろ自分を苦しめる。
自由とは制約がある中で自分がやりたいことを
やりたいようにいきていると感じることである。
自由のためには教養と知識が必要。
生きるための教養とは学習とルール感覚である。
子どもはそういうことで自由な存在ではない。
自由を得られるための教育が良い教育である。
なるひど。
いちいち哲学者っぽい固い言い回しがきになるがそれを除けば的を得たすっきり感がある。
著者プロフィール
苫野一徳の作品





