「認められたい」の正体 承認不安の時代 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062880947

作品紹介・あらすじ

「『空虚な承認ゲーム』をどう抜け出すか。その『答え』ならぬ『考え方』を教える本書は、規範喪失の時代における希望の書である」(斎藤環氏)。現代社会に蔓延する承認の問題を真正面から捉えた注目書! 私たちを覆う「生きにくさ」の本質に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 山竹さんの分析は納得感がある。

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99319047

  • 承認欲望(承認欲求)は、「親和的承認」、「集団的承認」、「一般的承認」の三種類あるとされている。 現代社会は、「大きな物語」が崩壊したことにより、「共通の価値観」というものがなくなった。 また、親和的承認を手に入れることが難しくなってきた。 それ故、身近な集団的承認を求めるようになった。 だが、それは精神的もあまりよろしくない。 だから、一般的承認(道徳的に良しとされていること)を求めるような生き方を奨励する。

  • 日本人は宗教的観念も他国と比べて低いため、周囲の人たちの承認により、自分の必要性を感じようとする。あまり好きではない人との飲み会も、嫌われたくない、嫌な噂を立てられたくない、そう思っていたら断れず、だからといってそこで自分の承認価値が高まるわけでもなく、不服な気持ちを抱く悪循環。しかも交際費が重なるだけ。無意識に思ってしまう「しなければならない」という感情を(自己ルール)=過剰な自意識に気づいて自分を理解する。言い換えて、自己了解していくことで空虚な承認ゲームから脱出できるひとつの方法である。snsなどの発達によって親しい人からの本物の承認を得られにくくなっていく現代において、刺さる一冊!!ゆあてゃに憧れる人たち。まさに空虚な承認ゲーム

    共依存の本質は「人に必要とされることの必要です。自分にとって大切な人から「あなたがいないとわたしは生きられない」と言われることで、自分の存在がはじめて「承認」されたように感じることから、共依存者的な生き方が始まります。(p.120)


    なぜ知的な人々ほど神経症に苦しんでいたのか。

    しかし、知識人層のように、自由の意識が芽生えた人間、伝統的価値観に違和感を抱いた人間においては、たとえ承認を得るために伝統的価値観に準じて行動しても、そこに納得感は乏しく、どこか無理をしている感触が付きまとう。 p.144



    本当の自分が抑圧される原因は、周囲の人間の評価に対する過剰な自意識なのである。p.163

    空虚な承認ゲーム=同調行動が、功を奏して、承認が維持されているうちは、承認の不安を一時的に遠ざけることはできる。だがそこには、価値ある行為や知識、技能を承認される場合に生じるような充足感はない。p.165

    日本人の承認基準は、周囲の人々。
    欧米人の自我は神に支えられているから、対人恐怖にはならない。

  • 正解のない多様性だから 承認に飢えてSNSにすがる まずは身近な人へのリスペクトと承認から始めようぜ

  • 数年前に読んだ本だけど、メモを見返しての感想。

    就活に苦しんでいる自分に響く内容だった。まさに“承認と自由の葛藤”に悩んでいた。
    つまり、
    「大企業や名の知れた企業、ホワイト企業に入り、親や恋人、指導教員、同期から承認を得たい」という気持ちと、
    「一般的な企業で働くことが絶望的に向いていない(インターンが全て苦痛だった)ので、無名で給料も低いが自分の適正に合った仕事をしたい」という気持ち
    の2つで葛藤していた。
    自分の中にいる“一般的他者”の視野を広げることで、承認と自由の両立が可能であるという言葉に励まされた。

  • 人の承認欲求には3段階があるという。⒈親和的承認、⒉集団的承認、⒊一般的承認 ということらしい。
    ⒈は肉親や親しい間柄で成立する無条件の承認、⒉は自分が所属する集団内で役に立つことを認められるもの、⒊は社会一般にとって(普遍的に)認められることなんだそうだ。価値の普遍性を失った現代社会では一般的他者の視点から自らを測ることは難しい。だから誰かの承認を求めたくなるらしい。確かに、自分の中に価値基準を持っている人間は、他人の評価なんて気にしない。けど普遍的な価値基準をどうやって持てばいいのだろう。

  • おもしろかったー。最近、勉強することで自由になるけど不自由だなと思ったのは、色んなことを知って自由になればなるほど、その自由な自分を承認してくれる場所がなくなっていく感覚があったからなのかもなー。
    成長過程のところは、親や先生、職場のリーダーなど、誰かを教育する立場の人にぜひ読んで欲しいと思ったかな

  • 承認欲求は基本的な欲求⇒どう満たされるか,満たされてきたか,その経験で行動様式を作る
    手近な他者からしか承認を受けられない(と思う)状況が絶え間ない承認欲求行為と承認されないことへの不安を引き起こす。その範疇を超えた承認に気づけるか。
    自由であろうとすれば承認が得られないわけではない。自由をどのように捉えるか。

    読みかけで放置していたけど,これは良書。
    承認欲求を皆が持つことを前提に世の中を眺めてみよう。

  •  さまざまな承認の場面を想像してみて即座にわかるのは、「認められたい」という欲望の充足に不可欠なのは、何といっても他者の存在である、ということだ。あたりまえではあるが、承認欲望は他者がいなければ決して満たされない。
     だが他者といってもいろいろある。家族や友人のようなごく身近な存在もいれば、学校の同級生や会社の同僚など、一定の目的を共有する仲間もいる。近所の顔見知り、会ったこともないネット上の知り合い、そしてほとんど知らない人々まで、実に多様な他者が承認欲望の対象となる。そこで私は、これらの他者を関係性の違いから三つに分け、それぞれ「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」と名づけようと思う。また、各々の他者による承認を、「親和的承認」「集団的承認」「一般的承認」と呼ぶことにしよう。
     「親和的他者」とは、家族、恋人、親しい友人など、愛情と信頼の関係にある他者である。彼らが親身に話を聞いてくれるとき、優しく受け入れてくれるとき、私たちは自分が相手にとって価値ある存在であることを実感し、「この人と一緒だと、〈ありのままの自分〉でいられる」と感じることができる。こうした愛と信頼の関係にある相手(親和的他者)を対象として、「ありのままの私」が無条件に受け入れられている、という実感をともなう承認が「親和的承認」である。

     だが現在、一般性のある価値、普遍的な価値そのものへの疑義が増幅し、価値相対主義が蔓延している。こうなると、表面的には保たれているように見える社会規範や社会共通価値観も信頼できず、自己価値にもゆらぎが生じざるを得ない。社会が共有する大きな価値を信憑し、それに準じた行動を取れば自己価値も保証される、という状況はもはや崩れつつあるのだ。
     こうした社会では、自己価値を確認するための価値基準が見えないため、身近な人々の承認だけが頼りになる。そのため、親の影響下に形成された自己ルールや価値観は、一般性のあるものに修正することが難しくなり、親の承認に執着し続けることになりやすい。あるいは、自分の価値観・自己ルールに自信が持てず、仲間の承認を維持するために同調し続ける人もいるだろう。他者の承認を無視して自己中心的に自己承認する場合もあるが、大抵は一時的なものにすぎない。
     いま、多くの若者が強い承認の不安を感じ、「空虚な承認ゲーム」に陥っている背景には、こうした現代特有の心理が潜んでいる。価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、自己価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。

     現代は承認への欲望が増幅した時代、というより承認されないことへの不安に満ちた時代である。人々は他者から批判されることを極度に怖れるあまり、自然な感情や欲望を必要以上に抑制し、周囲への同調と過剰な配慮で疲弊している。

     しかし、社会共通の価値観が存在しなければ、人間は他者の承認を意識せざるを得なくなる。誰でも自分の信じていた価値観や信念、信仰がゆらげば、自分の行為は正しいのか、近くにいる人に聞いてみたくなるものだ。自己価値を測る規準が見えなくなり、他者の承認によって価値の有無を確認しようとする。こうして、もともと根底にあった承認欲望が前面に露呈し、他者から直接承認を得たいという欲望が強くなる。
     現代社会はまさにこのような時代である。宗教的信仰は大きくゆらぎ、政治的イデオロギーへの信頼も失墜し、文化的慣習も流動的になっている。社会に共通する価値規準は崩壊し、価値観は多様化しているため、自己価値を測る価値規準が見出せない。一方で、自分らしく生きるべきだ、という考え方も広まっているが、なかなか「自分はこれでいい」と思えない。そのため、身近にいる他者の直接的な承認にすがるよりほかにすべがないのだ。
     現在、身近な他者の承認が強く求められるようになり、承認不安による「空虚な承認ゲーム」が蔓延している背景には、こうした社会状況の変化がある。

     しかし、納得のいく自己決定をするためには、まず自分自身をよく知る必要がある。自分の欲望や不安を知らなければ、納得のいく判断などできるわけがないからだ。
     仕事で疲れているにもかかわらず、毎晩のように仲間に誘われて飲み会に顔を出し、夜明けまで付き合わされることも多い人がいたとしよう。決して強制されているわけでもないのに、仲間の前ではいい顔をしてしまうので、よろこんで付き合っていると思われている。しかも付き合っている間は仲間に過度に気を遣うため、自分の自由をまったく感じることができず、心身ともに疲労の極みに近づきつつあるが、それでもなぜか、毎晩の付き合いを断ることができない。
     このような人間は、仲間の承認に不安を感じ、仲間はずれにされることを極度に怖れている可能性がある。そのため仲間の要求を断れず、期待に沿うことばかりをニコニコしながらやってしまう。その上、自分の承認不安に気づかないため、「たまには家で休みたい」という自分の欲望が強く意識されず、自分の本音を見失っているのである。
     彼が毎晩の付き合いを断り、家で休むためには、まずこうした自分の不安と欲望に気づく必要があるだろう。それによって、自分のしている行為が本当の気持ちに見合ったものかどうか、過度に感情や欲望を抑制していないかどうか、自ら省みることができるようになる。
     先に述べた「自己了解」とは、こうした自己への気づきのことだ。
     自己了解によって自分自身の欲望に気づくことができれば、その欲望からかけ離れた行動をやめるにせよ、欲望を抑えて行動するにせよ、自分なりに十分吟味した上で、納得のできる判断をすることができる。そこに、「自分の意志でやっていることだ」という自由の意識が生じるのだ。

     このように、感情から欲望と当為を自己了解し、当為の分析へ歩を進めることは、「欲望と当為の葛藤」を克服する可能性を持っている。当為の分析は、その根底にある身体化された価値観・自己ルールに焦点を当て、その形成過程(特に過去の親子関係)に眼を向ける作業であるため、強い承認不安がともないやすい。だからこそ、先入観を排してこの分析を進めるためには、「ありのままの自分」を承認してくれるYさんのような、親和的他者の存在が必要だったのである。
     Aさんの「欲望と当為の葛藤」(「休みたい」と「働かなければならない」の葛藤)は、「自由と承認の葛藤」を本質としている。彼は承認のために自由を犠牲にしていたのだが、それは歪んだ自己ルールのもたらした無駄な犠牲であった。しかし自己分析の結果、理由のわからない苦しみから解放され、彼は必要以上に働いたり、過剰に気を遣ったりするのをやめ、承認を維持できる範囲で自由を取り戻すことができた。また、歴史サークルの活動をはじめたことで、「自分のやりたいことをやっている」という自由の感覚、そして価値の共有に基づく集団的承認を得ることができたのだ。

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著者プロフィール

山竹伸二(やまたけ・しんじ)
1965年、広島県生まれ。学術系出版社の編集者を経て、心理学、哲学の分野で批評活動を展開。評論家。同志社大学赤ちゃん学研究センター嘱託研究員、桜美林大学非常勤講師。現代社会における心の病と、心理療法の原理、および看護や保育、介護などのケアの原理について、現象学的な視点から捉え直す作業を続けている。おもな著書に『「認められたい」の正体』(講談社現代新書)、『「本当の自分」の現象学』(NHKブックス)、『不安時代を生きる哲学』(朝日新聞出版)、『本当にわかる哲学』(日本実業出版社)、『子育ての哲学』(ちくま新書)、『心理療法という謎』(河出ブックス)、『こころの病に挑んだ知の巨人』(ちくま新書)、『ひとはなぜ「認められたい」のか』(ちくま新書)、『共感の正体』(河出書房新社)など。

「2023年 『心理療法の精神史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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