今を生きるための現代詩 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062882095

感想・レビュー・書評

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  • 学校教育の場で詩を教える際は客観的に理解しやすい詩が選ばれますが、筆者は理解できないこと自体を楽しむ詩が好みでそのギャップについて何度も書かれています。前者は自身の経験の再体験や再確認を行うに過ぎず、後者には未知の体験があるためでしょう。前者の詩にも面白いものはありますが、本書は後者に偏重しています。筆者の学生時代の詩との出会いを絡めて紹介される詩は、理解が難しく、面白く、興奮します。

  • 谷川俊太郎、黒田喜夫、入沢康夫、安東次男、川田絢音、井坂洋子らの詩を取り上げながら、現代詩の愉しみ方を語った本です。難解とされる現代詩を、性急に「解釈」しようとするのではなく、著者自身がその「わからなさ」に寄り添い続けることを実践してみせることで、読者を詩の世界へと巧みに巻き込んでいきます。

    著者は、安東次男の詩を「音読することができない」ことについて論じるに際して、中国文学者の高島俊男の議論を参照しながら、現代の日本語が文字の裏付けがどうしても必要なものとなってしまったと主張していることに触れています。この高島の議論は私も読んでおり、また石川九楊にも同様の主張があったことも承知していたのですが、そのことが日本語で書かれた現代詩の重層的な喚起力の説明に有効だという著者の洞察には、目を瞠らされました。

    何よりも、著者が本書で取り上げられている詩を手のひらの上で転がしながらためすがめす眺めているような雰囲気が文章から伝わってきて、詩を読むとはこのようなことなのかと、深い了解が訪れるのを感じました。

  • 以下引用(途中)

     「解釈」ということを、いったん忘れてみてはどうだろう。
     詩を読んでそのよさを味わえるということは、解釈や価値判断ができるということではない。もちろん、高度な「読み」の技術を身につけたらそれはすてきなことだが、みんながみんなそんな専門的な読者である必要はないはずだ。もっと素朴に一字一句のありさまをじっとながめて、気に入ったところをくりかえし読めばいいと思う。わたしはふだん自分のたのしみのために詩を読むときは、そのように読んでいる。(p.12)

     一般に人は、実力が足りないときには、対象を否定することしかできない。肯定や受容は、否定の数十倍のエネルギーを必要とするものだと思う。だから、小さいこどもは、新しく接する未知のものを否定ばかりしている。いま自分が、好きではない詩を否定するやりかたではなく、好きになった詩を肯定することばを書けるのは、つまり、おとなになったということである。(p.39)

     教科書は、詩というものを、作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだった。だから教室では、その詩に出てくるむずかしいことばを辞書でしらべ、修辞的な技巧を説明し、「この詩で作者が言いたかったこと」を言い当てることを目標とする。国語の授業においては、詩を読む人はいつも、作者のこころのなかを言い当て、それにじょうずに共感することを求められている。
     そんなことが大事だとはどうしても思えなかった。あらかじめ作者のこころのなかに用意されていた考えを、決められた約束事にしたがって手際よく買い得することなどに魅力はない。わたしはもっとスリルのある、もっとなまなましい、もっと人間的な詩をもとめていた。(p.40)

     わたしの思う「なまなましくて人間的」な表現は、たとえば書である。
     書の作品を前にしたとき、筆を持って紙のうえにその文字を書いた人の肉体の躍動や呼吸が、作品を見ている自分の肉体に実感をもって再現される。「こう書こうというプランの機械的な達成」ではなく、「結果としてこんなかたちを書きつけることになってしまった(失敗かもしれないし意味がないかもしれない)肉体と精神の運動の記録」であるからこそ、書は魅力的なのだ。(pp.40-41)

     人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。(p.41)

     しかし、なにかを伝えるためではなくてただ書いた、ただことばの美を実現したくて書いたので「ねらい」などはない、と思われる詩は無数にある。(p.58)

     ふたつの詩(谷川俊太郎「沈黙の部屋」・入沢康夫「『木の船』のための素描」:引用者注)に共通していえることは、「あらすじ」を言うことができないということである。つまり、どのことばもひとしい重みをもって書かれているために、詩のなかのことばを取捨選択することができない。あるいは、全体としてなにかを伝達する文章ではないので、ようやくという行為が意味をなさないもである。(p.67)

     船室や鳥や木箱がじつはなにかほかのものごとをほのめかしていると考えてその「正解」をさぐったり、作者の感動の中心はどこにあるかと考えることに意味はない。われわれにできるのはただこのとばを読むことだけであり、読んでなにかの教訓をえようなどというさもしいことは考えなくてよい。
     絵画を見ていっぺんで気に入るようなとき、われわれはその絵をなにかの寓意として見ているわけではない。構図だとか描かれているもののかたち、色彩、そういったものの全体的調和を見て、それを好きになるのだ。(p.69)

     ある詩が、そのときその人にとって「わかりやすい」ということはつまり、あたまやこころのなかの既知の番地に整理しやすいということである。(中略)
     もちろん、一定の番地に整理しおえたらただちにその詩に興味がなくなるとかぎったわけではなく、古今の有名な詩句をくちずさむたのしさはわたしにもおぼえのあるものだ。しかしそれは、いってみれば「自分が上手に演奏できる曲をおさらいするときのたのしさ」であり、自分の姿勢としては、未来や未知のほうではなくて過去を向いている。
     いっぽう「わかりにくい」詩とは、どの番地にしまってよいかがわからないものだ。その詩をしまうために、あらたな詩ペースを開拓し、番地をつくらなければならないかもしれない。それはとても時間のかかる、やっかいな作業だ。(pp.70-71)

     詩を読むことは、効率の追求の対極にある行為だろう。
     なるべく道を一直線にして、寄り道や袋小路を排除し、誰でもおなじ道をまちがいなくたどれるようにマニュアル化する。そういう行為を、われわれは詩の外であまりにもたくさんこなしてきた。(中略)しかし、いまやわれわれは効率のあじけなさを知り、効率を最優先にした行動がいかに人間的なこころをだめにするかも知っている。
     かんたんにはわからない詩をいつまでも読みつづけることは、効率主義にうちひしがれ、すっかり消耗した精神の特効薬になるかもしれない。(pp.71-72)

     ある詩を何年経っても読みあきないということは、番地をさがしつづけていることでもあるし、謎をときつづけているということでもある。短期的に答えが出てしまうのは「謎」ではなく、謎というのは角度や深さをかえながらさまざまなアプローチをつづけていくことによってしか接近できない。この「接近しようとするこころみの途上」にあるとき、人はじつにいろいろなことを知り、感じ、考える。あらたなアイディアをもってその詩の謎に向かうとき、あらたな自分がうまれる。(p.72)

    (前略)詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。(p.72)

  •  詩と言われても、イマイチわからなかったのだけれども、確かにこれを読むと、分からなくてよいのだと安心する。
     文学より絵に近いものなのかなぁ……と感じた次第。
     しかし、この後、どの詩を手に取ればいいのか……というか、本屋に行ってどこに詩集があるのか、そしてどうするか、というのは悩ましい。

  • 学校で習う詩の読み方、学習の仕方とは異なる方法を教えてくれる。詩ってなんだかわからない、わかりづらそう、理解できない、難しい、と思っている人に、新しい視点を与えてくれると思う。
    書く側の人も一読しておいて欲しい一冊。

  • "詩は、雨上がりの路面にできた水たまりや、ベランダから見える鉄塔や、すがたは見えないけれどもとおくから重い音だけひびかせてくる飛行機や、あした切ろうと思って台所に置いてあるフランパンや、そういうものと似ている。"

    "「わからない」と「わかった」とのあいだを往復しながら、われわれの内部で詩は育っていくのだ。"

  • 現代詩は、世の中にすでに実在していてみんながよく知っているものやことをわざわざ言葉数を増やし、凝った言い方で表現しようとするものではない。まして人生訓を含んだ寓話のようなものではない。
    人間社会の秩序から見たら意味や価値のないことを考えたり、人とは違うことをしたりすることは、実はみんなが思っているよりもずっと大事なことだ。

  • 名著である。
    現代詩の置かれている状況が、いかにもよく理解できる。
    それもすばらしいことであるが、何よりこの本は、日本語が持つ言語的特性を正確にとらえつつ、「人が生きるということ」はどういうことなのかということを、現代詩を手掛かりにして考えていこうとしている。
    その姿勢がいかにも真摯だ。
    紹介されている詩だけでなく、著者の詩も読んでみたくなった。

  • 詩の楽しみ方、面白さを教えてくれる本だった。
    そして、詩は難しそうだと思っている人も多いかもしれないが、書いている本人さえ、詩が自分を超えてしまい、完全に理解しているわけではないんだと、だから、「知らない」「わからない」ことを楽しもうと、投げかけてくれた。
    私が大切にしている、「ネガティヴ•ケイパビリティ」に通ずる考え方だ。
    わかってしまうとつまらない、何度でもくりかえし読むことができ、読むたびに新たな発見がある。それこそが、本当に価値のある作品なのだ。

  • 荒木博之さんのブックカフェだったか、超相対性理論だったか、まあどちらかを聴いて興味を持った。

    文章を読むのが人より少しだけ好きなことは自覚しているが、正直に言うと詩について興味関心を持ったことがこのかた一度もなかった。
    短歌や俳句には、ちょっの面白そうだな、と思うぐらいの興味が湧いたこともあったが、散文…ましてや現代詩はどうも読む気にすらなったことがない。

    Podcastでこの本が紹介された時に、その本自体への評判よりも、それが何故なのかなー…ということ、つまり自分自身に対しての長年の問いが先行して、読んでみようと思った。

    そしてその問いの答えは、早々と第1章で明かされる。
    谷川俊太郎さんの生きる、という詩。
    読んだことはあったかもしれないが、まったく覚えていない。
    今回、本書に収録されていて改めて読んだが、とても読みやすかった。
    なかなかいいな、とすら思った。
    子どもにこれを読ませたいという気持ちもわかる。
    ところが、子どもサイドに立ってみれば、少々事情が違うらしい。
    この詩は、人間を生きていくうちに徐々に味わう人生の機微、文脈を知らずしてはなかなか噛み砕くのがむずかしいタイプの詩である、というのだ。
    この詩におけるテクニックやら、教養、知識をただ教え込まれ、正解とされる読み方を単に上から与えられるというのは、読まされて読者になった子どもにとっても作者の谷川俊太郎にとっても悲劇でしかない。

    なるほどなぁ…。

    思い返してみれば、確かにそういうところ躓いた気もする。
    今読むといいんだけどな。

    長年の問いがあっさり明かされた後に読んだ第2章以降は恥ずかしながらどの詩人のお名前も知らなくて、収録されている、詩はまさにいままで興味すらなく読んでみたこともないようなthe現代詩。

    …え、全然わからない…。

    いや、第1章で現代詩に興味がなかった原因がわかって克服したはずでは?!

    結論を言うと、2章以降の詩はどれもわたしにとっては不可解で、
    読んでこなかった本当の理由は「わからない」を不快なものとして刷り込んできたからだ、ということがよくわかった。
    (特に音読ができない詩、というのはわたしにとってとても大きいハードルだと気がついた)

    そもそも味わい方を知らない。
    どうしても作者の意図を読もうとする。
    わからないものをわからないまま棚上げにできなくて、わからないものは自分にとって意味のないもの、意味のないものは良くないもの、という刷り込みが働いている。

    著者である渡邉さんの解説を読みながら、そうやって読むのか!
    と、再びチャレンジした、私にとって不可解で意味のない言葉たち。
    それが、わからないなりの違った見え方でにじり寄ってくるような感覚になった。

    この感覚は、去年からハマった絵画鑑賞に近い。

    意味はわからないけど、わからないことは悪いことではない。
    もやもやとわからない不快感を胸に置きながら、それが未来に伏線となってスパークする日も、もしかしたら来るのかもしれない。
    少なくとも、こんなにも不可解で、物事のぼんやりとした輪郭や、世界にはびこる言葉にしようがない気配、みたいなものを言語化するなんて、意味はわからないけどなんだか凄い技術だ、ということはわかった。

    それにしても著者である渡邉さんの、詩を嗜む、味わうための方法について論じる文章が本当にわかりやすく際立っていて、目から鱗が落ちまくる。
    わからなさを愉しむ作法をわかりやすく言語化している本書。
    これまた凄い技術だ。

    いやぁ…2024年、一発目の本としては、かなり相応しい良書。

    今年は詩集を読んでみよう。



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著者プロフィール

渡邊十絲子(わたなべ としこ)
1964年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科在学中、鈴木志郎康ゼミで詩を書きはじめる。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞受賞。詩集『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)、『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。書評集『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)。エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)。ことばによる自己表現の入門書『ことばを深呼吸』(川口晴美との共著、東京書籍)。本を読み書評を書くこと、スポーツ観戦、公営ギャンブルに人生の時間と情熱をささげる。月刊専門誌「競艇マクール」のコラムは連載14年め。

「2013年 『今を生きるための現代詩』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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