出てきた瞬間FBIだってわかるw

2009年8月8日

関西の娘が母親にみっちり仕込まれる「買い物作法」が行動経済学的に相当正しいことが証明された。
一番の見所は、作者の実験デザイン。
実験っつーのは、とにかくそれをデザインするのと、結果を解釈するのが面白いのです!!
そして実行はしんどい。忍の一字。

2009年3月9日

『どこまでも暴走する己のロマンチック・エンジンをとどめようがなく、やがて私はあまりの恥ずかしさに鼻から血を噴いた。恥を知れ、しかるのち死ね。しかし私は、もはや内なる礼節の声に耳を傾けはしない。』
森見登美彦はこんなに特徴的な文章を書くのに、全然真似できない。ボキャブラリーの差が圧倒的過ぎて。

一連の「もてない大学生の足掻き」作品群のなかで最も核心に迫る本作。
「先輩」の赤裸々な脳内会議の様子を目の当たりにすると、ラストシーンは実に感動的。

2009年3月9日

地震の描写はさすが関西人。

2009年1月17日

やっぱり准教授になってた火村。

2009年1月17日

『一見して、これはあべこべのように見えるかもしれない。一般的に、人民の権利を守るために、横暴な君主と政府の権力を制限する思想は「自由主義(つまりリベラリズム)」と呼ばれ、「保守主義」とは、封建制度や君主制を擁護する思想のことであったはずだ。ところが、アメリカにはそもそも守るべき君主制は最初からなくて、自由主義が建国以来の理念である。だから、その自由主義の伝統を守ることが、アメリカでは「保守主義」と言われているのだ。』
『教派が支持傾向に影響を与えるのは、信徒が教派の教義に従って投票するから、というわけではない。植民地以来の歴史で、宗教や教派は、人種や出身告別に作られたコミュニティーと一体になっていたので、教派ごとに独自の文化と伝統が生まれ、所得階層も同じようなレベルの人が集まり、政治に求めるものも共有されていったからである。人種や出身国の区別は時間が経つにつれてあいまいになってきたけれども、信徒の教派への帰属意識は根強く残っていて、それぞれに独自の社会意識、政治意識が生まれてきたのだ。』
『宗教保守層が膨張した理由は単純で、リベラルの行き過ぎに反発していた国民の数が多かっただけということだ。』
大変面白かったが、話の途中で時系列がかなり前後するので混乱する部分もあった。
年表が欲しいところ。

2008年11月1日

『諸君。先日、元田中でじつに不幸な出来事があった。平和なコンビニに白昼堂々クリスマスケーキが押し入り、共にクリスマスケーキを分け合う相手とていない、清く正しく生きる学生たちが心に深い傷を負ったのである。このような暴虐を看過することが出来ようか。否、断じて否である。』

2008年11月1日

『再び結論を先に述べれば、日本でいうジャーナリズム精神とか、海外でのワイヤーサービスメンタリティに相当する。ワイヤーサービスとは、日本でいうとこ共同通信や時事通信のような通信社のことを指し、速報性をその最優先業務とするメディアのことだ。いわゆる海外でのジャーナリズムとそれとは一線を画す。単に、時事的な事象を報じるだけではなく、さらにもう一歩進んで解説や批評を加える活動を一般的にジャーナリズムと呼んでいる』
TVニュースで地方の祭りなどを報じていると見ているほうは「今日はニュースがないんだね」と言い合ったりするが、報じることは沢山あるはずだよな…と思う。
新聞にしても、旬じゃない記事(発覚から少し時間が経ったニュース、新しい大事件に取って代わられた話題など)を思い出して取り上げるということがあまりに少ないのも不満。見ているほうも「それもう古いよ」という感性はマジでなんとかしたほうがいい。

2008年10月29日

ウツほど身近ではないと思われがちな「躁」、実際ど真ん中「躁病」の患者は少ないらしい。
しかし、一見ただの騒がしい人、怒りっぽくせわしない人、勘違いしてるナルシストなどを「軽い躁」「躁的な傾向を示す人格障害」「躁に近い性格の人」と考えれば、不可解なその行動が理解できるようになる(こともある)というのが著者の主張。
本文は著者の考え(思いつき)を、例を挙げて述べてゆくスタイルなのだが、その例がやけに多い。
「躁」というベクトルを読者によりよく理解させるため、また「躁」の人が持つ週刊誌的・夕刊フジ的な面をフックにして読者をひきつけようという試みだと思うけど、あまりに矢継ぎ早に出てくるそれらが、実例なのか著者の創作なのか判然としない部分もあって、いっそ著者が「躁」を実演してみせてるのかとすら思った。

2008年10月21日

『いまの社会の格差状況を、所得ではない形で表現するもっとも適切なものは、システムに対しての距離であり、システムを使う側か享受する側かの立場の違いだ』
『大半の人々が、「自分らしさ」や「個性」を主張するためには、何か格差がなければならないと考えている。マズロー的に言えば、「自己実現」できていない状態の人間は、他人との比較・格差でしかアイデンティファイできないのだから、その人たちに「平等にしましょう」と言うのは恐らく欺瞞なのだ』
『世界のどの国でもグローバリズムが流れ込んでいくとき、その国固有の文化や価値観がさまざまな形で織り込まれ、新しい社会に継承されて価値の一元化を回避しようとする。それが健全な形なのだ。さもないと、どの国も米国の劣化コピーでしかなく、固有の文化や精神は瓦解してしまう。そうなったとき、ローカリズムに根付いていた精神は「誇り」ではなく、完全なコピー化を妨げる「厄介な邪魔者」とみなされる。今、まさに日本はその危機に直面しているのではないだろうか』

社会やシステムに無自覚な多くの人へのメッセージ。
だから内容は浅く広く。
分析の対象は35歳以下の若者層だが、今一番社会に無自覚なのはそれ以上の世代なので、年長者こそこの手の本を読むべき。
しかし悲しいかな彼らは疑問を持つ理由もきっかけもないまま、無反省に人生を終えるのでしょう。

2006年に出版されたので状況認識が古い点、「宮台社会システム系」というものの存在を知らないと違和感を覚える点、が散見される。

2008年10月13日

途中で思わず奥付を確認してしまった…それくらい現在の雇用状況を完全無死して書かれた理想論。
これ読んで役に立つ…といわず、怒り狂わずにいられるのは「正規の仕事を選べる」ごくごく限られたエリートのみ。
非正規雇用の人とか、「この世に職業選択の自由なんかないじゃん」と思ってる就活中の学生さんは読まないほうがいいです。そういう多くの人たちの存在、そうならざるをえない社会構造そのものが無視されてるから。
『職業は、基本的には社会と個人のマッチングとして存在します。したがって職業におけるミスマッチは、社会的な要因と個人的な要因の絡み合いで発生しますが、職業意識をしっかり身につけた人は、これを社会的要因には帰結させないものです。?個人が自分の好みを優先させすぎる、あるいは?社会的要請に応えられる職業的能力を身につける努力を個人が怠ったからだという捉え方をするでしょう』
それはまさに今問題になってる「自己責任論」というやつでしょう。うつ病を増やしたいのかこの人は?
これを2008年8月に出版するというその行為が既に暴力。

2008年10月9日

もっぱら上方専門で東京の落語は聞いたことないのですが、面白かったです。
ちょっと興味が沸いてきた…
『お前に嫉妬とは何かを教えてやる』
『己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです』
もちろん言ったのは立川談志。

2008年10月9日

少しくどいが、よくわかる。

2008年10月2日

『現代の若者たちは、自己肯定感が脆弱なために、身近な人間からつねに承認を得ることなくして、不安定な自己を支えきれないと感じている。しかし、「優しい関係」の下では、周囲の反応をわずかでも読みまちがってしまうと、その関係自体が容易に破綻の危機にさらされる。その結果、他者からの承認を失って、自己肯定感の基盤も揺らいでしまう。だから彼らは、この「優しい関係」の維持に躍起とならざるをえない。きわめて高度で繊細な気くばりが求められるこのような場の圧力が、彼らの感じる人間関係のキツさの源泉となっている。』
『現在の若者たちにとっての純粋さとは、社会の不純さと向き合うことで対抗的に研ぎ澄まされていくような相対的なものではなく、むしろ身体のように生まれながらに与えられた絶対的なものである。』『可能性をいまから切り開いていくのではなく、すでに開かれていると感じられることによって、現実世界のリアリティは大幅に奪われてきた。たとえどんな選択肢を選んだとしても、それに代わる選択肢の存在がつねに意識され、「いま選んだものは本物ではないかもしれない」という意識がそこに付きまとう。豊かな社会は、人びとが享受しうる価値の総量の増大を必ずしも意味しない。選択肢の増加は、価値の細分化と相対化をもたらし、欲望を実現させることの魅力を削いできたのである。』
金言が多すぎて引用しきれない。

2008年10月2日

自称ケータイ小説評論家・速水氏の傑作。
私が中学生の時、別マが大嫌いだった理由がやっとわかった。スッキリ!
主張はどれも納得できるものだったけど、1つだけ非常に疑問思ったことがある。
「ヤンキー少女」達はなぜ物語が「ノンフィクション」じゃなきゃいやなのか?感覚的にも理論的にも理解できない。「ノンフィクションの事実度」と「フィクションの創作度」なら後者のほうがふつう高い、つまり「正直で本当」だと思うのですが…。
(追記)→土井隆義/「友だち地獄」で少しわかったかも

2008年9月27日

唐長のからかみ集。
日本のテキスタイル。

2008年9月27日

『”子どもを必要としているのは、個人ではなく社会である”という認識が、現代日本の子育てを考える際のポイントではないだろうか。このように考えると、社会として子育てを支援することは当然だと納得ができる。しかし現状は、”自分たちが勝手に生んだのだから、ちゃんとしつけなさい。親なんだから!”という親バッシングの風潮が強い。』

2008年8月30日

カラー図版で、北斎の代表作を紹介。
その奇抜な構成は現実を超えた彼の「奇想」によるものであるという切り口。
特に、写実ではありえない滝の表現は面白い。天井絵なんか描いてるのも知らなかった。
欲を言えば、もう少しページ数が欲しい。

2008年8月21日

『「ゲーム脳」にしても「テレビは子供に危険」という提言にしても、信じる人はその科学的根拠や正当性など、実はどうでもいいのかもしれない。自分がなんとなく「あやしいな」と思っていたことが、専門家によって裏づけされた。「やっぱり私は正しかったのだ」という快感はあまりに大きく、たとえその後で「科学的に正しくないことが明らかになった」と発表されても、もはやそれを受け入れることはできないのだろう。』
ただ序盤にある『「私は、その病気になったことがないので、患者さんの気持はわかりません」』と回答する学生の言葉を『自分とは少しでも異なる立場や状況にある人の心情を想像する気が、はじめからないのである。』と解釈するのは、精神科医としてどうなのか。
他人の苦しみに対して、それを味わったこともない人間が想像だけで同情することを偽善として激しく嫌うのは若者の基本的な特徴だと思うのですが・・・。

2008年8月21日

『年収1000万円だった人がリストラされて300万円の仕事に就いた場合と、最初から年収300万円の人を比べると前者のほうを不幸だとして、どこの職場でも前者を守ってきたのではないだろうか。(中略)正社員の既得権を守ったために就職氷河期が発生したのも、公的年金改革が進まないのも同じ理由ではないだろうか。奇妙な再分配を避けるには成長や格差といった過去や他人との比較から逃れて、将来に目を向け、絶対水準でものを考えることが必要だ』

2008年8月18日

『情報共有圏(インフォコモンズ)が地縁や血縁、あるいは企業共同体と決定的に異なっているのは、情報が軸となることによって人間生活の視野(パースペクティブ)がきれいに広がって見えてくるからだ。その手がかりが実感のある手応えへと変わり、自分自身の世界との結合をしっかりと認識できるようになった日、人々は人生に対する不安を少し和らげることが出来るようになっているだろう』

…逆に自分自身に対する幻想が抱きにくくなって絶望する人も結構な数いるのではないかと。
他人との比較が更に激化するとか。

可視化されて安心する理論的なタイプと、見えないことで安心できる情緒的なタイプの差は性格そのものであって、越えられない違いがあるような気がします。

2008年8月7日

マーケットで何度でも同じことが起こるのは何故だ???
と思っていたので、過去の経過を丁寧に解説してくれるこの本は非常に有益だった。
市場参加者はどんどん入れ替わっており、圧倒的多数は素人や若いプロなのだということを頭に叩き込むべし。

2008年8月2日

両親から承認が得られなかったキモメン男子(自称)がどんなもんかを滔々と語ったオタクによる自己解説本。
女にモテるにはなにより「俺を見てくれ!愛してくれ!」という心の欲求をいったん我慢して女の話を聞いてうなずいてやらねばならない。なぜそんな簡単な技術が全く知れ渡ってないのか謎。本田氏がモテなかった理由は第一にこれだと思う。最初に「得る」ことを考えちゃったら普通の人はまずモテないよ。そして第二に「相手を間違えている」。仮想敵として「30代負け犬」「恋愛資本主義に毒された女」を設定してるけど、それ以外の女は沢山いる。なぜそこに向かわないのか?理由は多分、彼女らがあんまり可愛くないからだろう。『どうせ私のこと理解してくれないんだったらイケメンかお金持ちがいいわ』『どうせ俺のこと許してくれないんだったら、理想の二次元キャラのほうがいいや』要するにお互い様です。でも越えられないんだよね、自分をキモメンだと信じてるから。母親ですら愛してくれなかったのに、まして他人である女が愛してくれるわけないと信じてるから。
多かれ少なかれ、こういうメンタリティは誰にでもある。もちろん私にもある。「恋愛資本主義」は「容姿至上主義」で「自己愛資本主義」だから、ブサイクも同じように苦しんでますよ。まぁ、「いくらオタクでもブスは勘弁」ってなもんなんでしょうが。

2008年7月24日

『患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴ってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい治療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護師はたとえ苛酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。』
ここまで書かれたらさすがに誰でも「これはおかしいな」と思うだろうが、実際に大病をすると動転して本性が現れてくる。
著者は「死生観」がなくなったと述べる。
感情のレベルで「いつかは死ぬ」ということを納得するためには、やっぱりどうしても若いうちに誰かの死を見る必要があるのだろうと思った。
今の社会では出産も死も生活から隠されている。

2008年7月18日

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