- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101121123
感想・レビュー・書評
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自らのことを火星人だと言い張る訪問者。対話を通じていく中で、寓話と現実の境が曖昧になってゆく。物語の立て付けやパーツによる定義を超えた、物語の現実との連続性の中での寓話性によって読者の現実を揺るがす手法がSFの真髄を体現していた。
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皮肉ではちきれそうな小説だ。安部公房という人はほんとに皮肉が好きだ。そして膨れ上がった自我から生まれる妄想を描くのがうまい。
なんといっても『人間そっくり』というタイトル、皮肉が効いてる。
本書の主人公「ぼく」は脚本家で、『こんにちは火星人』というラジオドラマを書いている。
そんな彼のもとへある女性から電話がかかってくる。彼女の夫がこれからそちらへお邪魔する、という用件だった。夫は上のドラマのファン。が、ちょっと気がヘンだという。追って迎えにあがると彼女は言っているが……
そうこうするうちに、男が「ぼく」の家へやってくる。なんの用かと思いきや、男は自分が火星人だと言い始めるのだった。
なるほどたしかに気がヘン(というか「分裂症」(統合失調症))だ。しかし「ぼく」は、二転三転し横滑りしていく男の詭弁にしだいに煙に巻かれ、いったいなにがどこまでほんとうかわからなくなっていくのだったーー
読みながらずっと念頭にあったのは、エッシャーのだまし絵。階段を上っていると見えたものが実は下りていた、上ってる?やっぱり下りてる?……とめまいを起こしそうな絵。
と、作中に「トポロジー」(位相幾何学)の語が。方法的にも意識してたんだ。そうすると、「ぼく」と男のやりとりはまさに「メビウスの輪」をモデルにしている。長細い長方形をひとひねりして端と端をくっつけたらできるやつ。
トポロジーで人間の意識/無意識をモデル化した人といえば精神分析医ジャック・ラカンだが、ひょっとして彼の著作の分裂症論までカヴァーしてたのかな。安部公房ならありうる話。なるほどラカンは「メビウスの輪」を例に人間の自己が本質的にはらむねじれを説明しているし。
本作は、例えば辞書のなかで、ある語を別の語によって定義せざるをえず、その定義で用いた語もまた別の語で定義せざるをえないという、その言語が逃れることのできない無限連鎖の仕組みを、「火星人」のめちゃくちゃな定義にそのまま適用して遊んでいる。これもまた、人間に対する大いなる皮肉だ。 -
火星人を題材にしたラジオドラマの脚本家の元に現れた凡庸な容姿の1人の男。自分は「人間そっくり」な火星人だと主張して憚らない。
狂人の戯れ言と思いつつも、どこか凶暴性を秘めた男に怯み、追い返せない脚本家…適当に相槌を打てば追い込まれ、論破しようとすれば堂々巡り…
不気味なオチ。夢野久作や芥川も使っていたパターンの変形というか、読者に委ねちゃうのでどうにもスッキリしない… -
来訪者:自称火星人の男
標的:ラジオ脚本家
クルクル裏返る男の物言いに翻弄される脚本家。人間がその人間たる足元を巧妙に削られ「人間そっくり」にされてゆく様には、滑稽と戦慄を覚える。
文豪がガチで飛び込み営業したら、何でも売っちゃいそうで怖い。 -
自分を火星人だといいはる男に見込まれてしまったラジオドラマの作家の話。その自称火星人男が自分は火星人であるということを証明するために、延々とわけのわからない屁理屈で主人公を説得し続けているだけの、まるで場面転換のない心理劇のような話でした。一種の『ドグラマグラ』的狂気というか、そのうちに、語ってるその男が狂っているってことがわからなくなってきてしまい、自分は狂っていないということを他人に証明できなくなってゆく恐怖というか、他人の妄想に洗脳されちゃうんですよね。なんかすごい恐いなあと思いました。
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ラジオ番組の脚本家である主人公の元に、火星人を名乗る人物が現れる。存在の不確かさを突きつけられる不気味な一冊。
自分が地球生まれである証明はできず、ましてや他人が同族であることも証明不可能だ。
出版年は昭和42年。戦争や政治的なムーブメントが巻き起こった時期に、他人への不信感が募っていたことの表れではなかろうか。
今や、大きな経済の変動は見込めない安定した社会になっている。しかし、だからこそ価値観が多様になり、他人を同族と見なしにくくなりつつあると思う。
筆者の測り得たことではないが、現代にも通じる側面があったと思う。 -
本書は解説によれば「日本SFシリーズ」の1冊として刊行されたらしい。また裏表紙にも「異色のSF長編」とある。しかし、これがはたしてSFかといえば、私の解釈からすれば答えは否である。今日的な観点からすれば(刊行は1967年)むしろ、純文学の範疇に位置づけられるべきだろう。主題は、自己と、そしてまたその周縁の他者をも含んだアイデンティティへの懐疑ということになるだろうか。それを4人の登場人物(主には2人だが)の対話の中で描いていくのであり、その意味では小説でありながらも、きわめて演劇的な指向性を持った作品だ。
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ほぼ全編が『』で成り立つ不思議な小説だが、
タバコの煙が立ち込める光の届かない
陰湿な部屋の中で繰り広げられる
自称『火星人』を名乗る男と脚本家の、
僅か2時間足らずのいたちごっこのような
会話の中で、読んでいるこちら側まで
自問を繰り返してしまう…。
単なる気狂いだと適当にあしらいつつも、
次第に相手の土俵の上に立たされ、仕留めたと
思ったのにスルリと抜けていく男の巧みな
口上には舌を巻いてしまう。
火星人のような地球人、地球人のような火星人…
それを証明するものは何もなくて、
わたしたちが火星人でないことも否定しきれない。
会話以外を埋める、安部公房の流麗な比喩が
最高、堪らなすぎる。
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脚本家の男のもとに火星人を名乗る男が訪問してくる。
そこからはじまるやりとり。
果たしてこの世界は現実なのか、寓話なのか?自分は何者なのか?
読んでいるこちらまで自分の存在があやふやになってしまうような作品。