- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102010099
感想・レビュー・書評
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この手記の著者も手記そのものもフィクションである。「彼」は社会の特徴的なタイプの一つの可能性であり、一世代の代表者だという。しかし、国も時代も違うのにどこか自分自身にも通ずる点があった。それだけに、「彼」の哀れさには鈍痛のように心に響く。
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ドストエフスキーの後期の傑作群を予感させる思想的展開がみられる重要な中編。19世紀ロシアの知的で過敏な自意識を持った男が現実生活や他者となじめずに孤独に生きる様を描く。とても現代的な作品。
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自己意識が、あらゆる概念的規定・目的合理的連関への従属を拒否すべく常に自己否定/自己超越の無限運動を繰り返し、この否定の無限運動自体をも自己対象化し続け、渇望しながらなお峻拒せずにはおれないその実生活に於いて、終ぞ何者にもなり得ない――一切の広がりも外部ももたない一つの点たる以外の何者にもなり得ない、何事も為し得ない――ことこそ、実存の地獄だ。
そんなとき、自殺を決断することも実生活に居直ることもできない大抵の人間は、無為を遣り過ごそうと、生理的存在に堕していく。
何者にもなり得ないのならば、他者とお互いの真情を交わし合う関係性も築き得ない。そもそも自己の真情なるものに対してさえ、何の確信も抱き得ない。
本書で描かれているのは、この出口なき無間地獄という実存の不可避的な機制、無際限の絶望――予め一切の救いの可能性が必然的に絶たれているという点で、まさに言葉の真の意味での絶望――である。
「安っぽい幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか?」
実存とは、常にあらゆる規定を超越する可能性へと開かれた不定態のことであろう。 -
自分の中に主人公がいるし、主人公の中に自分がいる……、、。
個人的には1週回って笑えた所もあった。
同族的な所も勿論感じるが、新しい感覚というか、考え方、そういうものにも出会えたと思う。
読んでよかった。 -
虚栄と自己正当化を極めたことで生まれる他者への敵意(そこはかとない同族嫌悪も感じる)、なのに湧き出る人恋しさ。極端ではあるけど、たぶん多数の人が通ったり留まったりしている心理状態だと思うんだよなあ。自分を顧みるきっかけにもなったし。書き手自身が鬱屈した自分を客観視して分析している描写もあるのが面白い。
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「おそらく他者を、さらには他者の意識に映る自己を意識していないような文章は、一つとしてないだろう。かくして意識は、二枚の合わせ鏡に映る無限の虚像の列のように不毛な永遠の自己運動をくり返し、ついになんらの行動も踏み出すことができない」
解説のこの文章が「地下室の手記」の形式の面白さを的確に説明している。「諸君ははこういう反論してくるんだろう?」という前置きの頻出が、主人公の自意識過剰さの特徴であり、そんな性格が「不毛な永遠の自己運動」としての鬱々とした精神世界に彼を引き摺り込んだのである。自分は頭でぐるぐる巡らしているだけで、行動していく他人が無神経に見えるという捉え方が、彼の自尊心を肥大させ、「自分は知的」という傲慢さを生み出した。しかしそう思ってしまう気持ちは共感できる。このような人間の詳細な心情が文学というジャンル以外で表面化することは絶対にない。彼のような人間を社会と一番下から掬い上げて世間の目に晒したドストエフスキーの功績は大きい。
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「 たまたま何かのきっかけで勇気をふるうことがあったとしても、そんなことでいい気になったり、感激したりしないがいい。どうせほかのことで弱気を出すにきまっているのだから。」
「 だれかに権力をふるい、暴君然と振る舞うことなしには、ぼくが生きていけない人間だということもある……」
「 安っぽい幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか?」