- Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102010099
感想・レビュー・書評
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大きすぎる自尊心、強すぎる自意識。自分の思想を人に聞いてもらって認めてもらいたくて仕方なくて、でもそんな自分の卑しさにも気づいていてでも止められなくて…を繰り返す主人公のことを誰が他人事と笑えるんだろう。もう見るからにイタいんだけど、ほとんどの人はそういった面が表出しないよう無意識のうちに細心の注意を払って社会生活を送っているだけで、その差は紙一重なのでは?と思った。
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なんか、めっちゃ共感性羞恥を煽ってくる。
ビリヤードのところのちょっと邪魔者扱いされただけで、ストーカーして個人情報集めて道端で肩ぶつける為に良い服用意して、そんでようやく肩ぶつける事が出来て満足してるとこ、もう哀れ過ぎて涙出てきた。
でも文章はユーモア?というか、面白くてめっちゃ読みやすい。
プライドエベレスト超えて大気圏突破してるとことか、苦笑い溢れるけどまぁそれはそれで楽しめる。
いじくり回した思考回路も、興味深いなぁって思いながら読んでた。 -
最初から最後までインターネットにいるキッッッッッッッッッッショい自我の話が繰り広げられていて、ここまで普遍的な実存の苦しみを、「エッセイ」じゃなくて「小説」として書けるドストエフスキー天才か?となった。今まで読んだドストエフスキー作品の中で一番楽しめたかもしれない。
自分以外の全ての人間が鈍感で野蛮に見えて、まともな人間はこの世で自分だけなんだと思ってんだけど、そういう風にしか他人を見られない自分のことが惨めでたまらなくて、さらにここまでの思考の道筋を他人の視線に目配せしながら曝け出してしまうの完全にTwitterにいる人(私含む)じゃん…「かくして意識は、二枚の合わせ鏡に映る無限の虚像の列のように不毛な永遠の自己運動をくり返し、ついになんらの行動にも踏み出すことができない」(解説より)耳が痛すぎるだろ。たぶんオーパーツなんじゃないか、この小説は -
いわゆる古典で声を出して笑うことって自分にとっては中々無いことだったけど主人公のあまりに膨れ上がった自意識と側からみたらぶつぶつ神経症のように独り言を呟いているだけで何も行動せず、誰とも交流できない様があまりにもリアルで、滑稽で笑ってしまった。序盤の自意識や理性、恣欲についての文章では彼が何年もかけて理論武装してきた毒々しい文章が不思議と身近に思えてきた。
随所で見られる「読者は〜だと思うかもしれない。しかし、〜」構文はいかにも自意識過剰な自分の意見をメタに見ている感じがして本当に面白い。
イギリスで始まった産業革命の波がロシアにも確実に押し寄せている19世紀中盤において、科学がきっと人類全体を善き方向に導いてくれるという漠然とした期待があったに違いない。それを嘲笑うかのようなドストエフスキーの筆致。理性で人間を導くことは不可能だし、科学が発展を極め、人間の根源的な欲求さえも計算できるようになったら、それこそ糞面白くもないのだ。
後半の同窓会に行くシーンはそのまま今クールのドラマで描かれていそう。膨れ上がった自意識でどこか生きづらさを感じ、直情型の体育会系に引け目を覚える多くの現代人にとって、この「地下室の手記」は秘蔵本になるだろう。決して、救いの書ではない笑。 -
第二部では、主人公の青年時代の回想になります。バランスを崩しながら、そのバランスをうまく平衡状態にもどすことができずに(いや、しようともせず)、そのまま生きていくことで、雪だるま式に不幸と恥を塗り重ねていくさまを読み、たどっていきます。著者は「跛行状態」と書いていますが、跛行ってたとえば馬の歩様がおかしいときにそう表現します。なんらかの肉体的なトラブルを抱えてしまった時なんです。それを、人生が跛行している、というように形容するのは、バランスを崩している、というよりも上手な表現だなあと思いました。もう、醜悪で、みっともなくて、性悪で、露悪的で、どうしようもないアンチヒーローな主人公なんですけども、それこそが人間だろう、とドストエフスキーは言っているんじゃないかな。利己的だったり支配的だったりするし、また、他律性を嫌っているのだけれど、かといってそれを自覚できていないから、心に引っかかるものがある状態でうらぶれる。そして、うらぶれていると癪に障ってくるので他人を攻撃しだす。そうすることでしか、自分を確かめられなくなっている。つまり、それが、さっきも書いた「跛行状態」なのでした。自律に失敗している。自制がきかない。そこまでバランスを失ってしまった人間が、たどり着いてようやくなんらかの安定を得たのが、「地下室」でもあったでしょう。それは醜悪な自分を許容することで入室することができた地下室だったのではないかと思います。
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40歳の男は地下室で鬱々と手記を書く、過去の事を段落もなく、思いを垂れ流すように書いていく。
彼は、大柄な将校に、体を持ち上げて脇に置かれたことを恨み、その将校を主役にした暴露小説を書く。彼が決闘を受ける人間ならばと、2年後に果し状を書くが投函はしない。道をすれ違う時に、なぜ自分が避けるのかと悩み、肩がぶつかれば対等になれると信じて、幾度も怖じ気づきながら、給料を前借りして買った服を着てぶつかり優越感を感じる。1章では、彼とは1年半戦争状態で最後は自分の勝利に終わったと書いてある。
馭者は叩けるし、風俗嬢には9Pに渡って説教をできるが、昔の旧友たちには強く発しても言葉に詰まり、殴ろうと思うが理由をつけて回避する。 矮小で偏執的で、妄想で勝って自尊心を保つ。
1800年代のロシアに詳しくないが、この本は現代に置き換えても理解できるだろう。学もなく金もなく大した仕事にもつけず、部屋でマンガを読んで、たまに女を買いに行く生活。同窓会に参加したら嘲笑され、意味もなくレストランを歩いても見向きもされない。酔っ払って風俗に行って、嬢に説教する。妄想は肥大して、自己弁護を繰り返す。時が経ち何となく自伝小説でも書いてみるが、恥ずかしい。
ドストエフスキーは地下室の男のイメージに何を入れ込んだのか。金もなく格好良くもない男が持つ感情を極大にして書いているだけなのか。今の私には全てを理解するのは難しい。 -
『罪と罰』よりも早く書かれたので、この書き方もいくばくか不自然だけれど、あらすじ・形式は、『罪と罰』の、随筆バージョンとして良さそうだ。
ドストエフスキーは、物語もさることながら、本人が魅力的に崩れた人だ。ある人から聞いた話の受け売りだが、ロシヤ語の性数格の一致すらままならない(トルストイのロシヤ語は、その芸術性の半分も分からないですが読みやすい)。そして何と言っても倒錯した概念の割り込みが極めて多い。
私は音楽ばかりやってきたから、ふとこういう音楽が無かったものかと記憶の中を捜して回ってみたが、それはおそらく論理的に存在しえないだろうという話に落ち着いた。音楽には論理関係を表す道具がないからだ。音楽には理論があっても論理がない。例えば、音符に not とか because とかを言わせることができるだろうか。ある動機が変化を受けたとき、その変化について「矛盾」という位置付けはまずなされず、基本的には「変奏」と見做される。変奏は、種々の理論で説明がつけられる(むろん、その理論は論理「的」なだけであるが)。
文学は論理の表現がいとも容易に「できる」、専用の単語がその道具となるからだーソシュールなどを持ち出されては困るけれど。そういうわけで、解釈以前のテクストのレベルにおいて、音楽が持ち合わせない危ない魅力を持ち合わせているということに気づかされた。新鮮な体験だった。 -
正直、初めの100ページはまさにチラシの裏と呼べる内容で、ただただひたすらに自意識過剰の引きこもりの独白が続く。
しかし、その山を乗り越えた後に現れる外部との接触後の展開が素晴らしい。
学生時代にクラスから浮いていた人物が、誘われてもいない同窓会に突如出席したらどうなるのか??
ネットの世界で良く見かける、◯◯したったwwwを、100年以上前に描いていた恐ろしい作品。
Facebookなんて絶対やらないという気分にさせてくれること請け合いである。