- Amazon.co.jp ・本 (257ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102114025
作品紹介・あらすじ
神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。-本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である"不条理の哲学"を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。
感想・レビュー・書評
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人生の不条理について、自殺、人物像、小説、神話を軸に説いた本。
刊行から半世紀が経っているのでしかたないが、absurde =「不条理」という訳語のせいで深遠な雰囲気が先行してしまい、言葉だけがひとり歩きしていないか。たとえば「ばかばかしい」という訳語に刷新するだけでずいぶん印象が違うはず。
ともあれ『幸福な死』のMersault←mer(海)+soleil(太陽)、『異邦人』のMeursault←meurs(死ぬ)+soleil、海と太陽と死はカミュがくり返し語った3つの主題、という解説がおもしろかった。
【引用】
●哲学上の自殺
ガリアニ神父がデピネ夫人に語ったように、重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ。キルケゴールは病から癒えることをのぞむ。病から癒えること、これがかれの懸命な願い、かれの日記を終始つらぬいて流れている願いである。(70-71頁)
●征服
ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。ぼくは多くのことを口には出さずにおくだろう。(151頁)
観想と行動とのどちらかをえらばねばならぬときが、かならずやってくる。こういう選択、それが人間になるということだ。(153頁)
そう、人間自体が人間の目的である。そしてまた、それが唯一の目的でもある。人間がなにものかであろうと欲するのは、この生においてだ。いまやぼくにはそのことが充分すぎるほどよくわかる。(156頁)
●哲学と小説
大切なのは、不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体のかたちで見いだすことである。こう考えた場合、最高度に不条理な悦びは芸術創造である。ニーチェはいっている、「芸術、ただ芸術だけだ、われわれは芸術をもっているからこそ、真理ゆえに死ぬということがなくてすむのである」。(166-7頁)
創造するとは二度生きることだ。プルーストの、不安におののきながら、手さぐりで進むような探求、花々や綴織りや苦悩の細心な蒐集は、二度生きるということ以外のなにものも意味しない。(167頁)
真の芸術作品は、つねに、人間の尺度に釣合っている。それは本質的に、《よりすくなく》語るものだ。芸術家の経験の全体とそれを反映する作品とのあいだには、『ヴィルヘルム・マイスター』とゲーテの成熟とのあいだには、ある関係が存するのだが、作品が説明的文学の花文字で飾られた仰々しいページのなかに全経験をもりこんでいると自負している場合、それは悪い関係である。作品が経験のなかから切りとられた一片、いわばダイヤモンドの一切子面──ダイヤモンドの内部の輝きがみずからにすこしも制限を加えずにそこへと集約されているような一切子面──にほかならぬ場合、それはよい関係である。前者の場合、そこに見られるのは経験の詰めこみすぎ、そして永遠への意図だ。後者の場合、作品のなかに直接もりこまれていない経験が言外に匂わされており、その豊かさが推測できる、──したがってそれは豊饒な作品だ。(173-4頁)
●キリーロフ
ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題によって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。(185頁)
●フランツ・カフカの作品における希望と不条理
カフカの芸術のすべては、読者に再読を強いるというところにある。カフカの作品における物語の解決のされ方、というかむしろ解決の欠如を読むと、読者はさまざまな説明を思いつくが、そうした説明はどれもはっきりとしたかたちで浮びあがってはこないので、それを根拠のある説明たらしめるためには、どうしても物語を新しい角度から読み直さざるをえなくなるのだ。(221頁)
【目次】
不条理な論証
不条理と自殺
不条理な壁
哲学上の自殺
不条理な自由
不条理な人間
ドン・ファンの生き方
劇
征服
不条理な創造
哲学と小説
キリーロフ
明日をもたぬ創造
シーシュポスの神話
《付録》フランツ・カフカの作品における希望と不条理詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
難解な本だった。おそらく、まだ内容を理解できてはいないだろう。
世界に「永遠なるもの」の存在を否定した結果、本能的に世界に真理を求めようとする人間の生は、無意味なものとなる。我々は、何の希望を持つことも許されず、無基準の「自由」で不条理な生活を強いられる。それでは、今ここで自殺することは、不条理な生に直面した人間にとって、優位な選択となりうるだろうか。
いや、違う。なぜならば、自殺は不条理を不条理でなくそうとするものだからだ。不条理に対する人間にとってそれは、一種の欺瞞である。
それでは、どうやって我々は生きるのか。それは、不条理な運命に対する反抗であるとカミュは述べている。その反抗を通じて、我々はこの無意味な世界とその人生に満足感を得ることができるのだ。
時期的にもナチスへのレジスタンス精神の影響を感じる内容だった(もちろん、元からそのような人物であった可能性もあるが)。
個人的には、彼の考えに同調できない部分があることも事実である。
まず、反抗により得られる幸福は、明晰な見解のもとでは空虚なものとなりうるのではないか。つまり、不条理に対する反抗を通じて満足感を得ようとする試み自体が、その幸福を、たとえ自己欺瞞的なものであれ、希望と化することにつながるのではないかということである。
こうしたことからも私は、彼らは不条理な人間というよりも、反抗する人間と呼んだ方が正しいのではないかと思われた。彼らは不条理な世界で存在しない意味を見出すべく反抗しているのではなく、ただ単に反抗したいから反抗しているのではないかと考えたのだ。手段と目的が混同されているように感じたのだ。
不条理な世界や運命に対する反抗とは、つまるところ自由の回復である。そして、彼らは自由であるために悲劇的なのだが、そこに自己陶酔的な満足感を感じているのだ。それこそまさに、哲学的自殺ではないのだろうか。 -
シューシポスとはギリシア伝承で言うところのシジフォスである。石を山の上に運び上げる重篤で虚無的な刑罰に処せられた悲劇の男である。そんな虚しさ空しさに就いてを徹底的に語り尽くしたアルベール・カミュの代表的な評論。シューシポスの神話を読んだらぜひとも旧約聖書の伝道の書またはコヘレトの言葉を読んでみよう。此の世の空しさが痛いほどに理解できることだろう。
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哲学書を高校の倫理以降読んだことが無い私としては難解な思想がずっと続いて読むのが大変だった。
不条理性をテーマに人間の生と幸福を考えさせられるエッセイであり、常にカミュが大事にしてきた思想が伺える作品でもあると思う。人間の死と、それに対する反抗的思考を冷静に思考する。飛躍した希望的思想になりがちであった宗教への評も、気づかされる事ではある。
人間が人間自体の目的であり、それ以外の何でもないと思う事により、自決や夭逝を避ける事も可能なのではないかと思う。
これ以上の批評は出来ないが、常に自分自身の生に置き換え人生を見つめる作品となった衝撃作だ。 -
少しずつ読み進めてますが、若いときの読書体験の影響力とは凄まじいもの
僕が普段、何気なく心の芯においてる在り方みたいなものの多くはここに書いてあったことなのだなーと発見をしている
「人間の尺度を超えている、だから超人間的なものでなければならぬ、という。しかし、この、「だから」は余計だ。ここには論理的確実性などいささかもない。経験的蓋然性もいささかもない。僕の言い得るのは、なるほどこれは僕の尺度を超えている、これだけだ。そこから僕は否定を抽き出しはしない。いや、少なくとも僕は、理解不可能なものの上にはなにひとつ築きたくない。自分ははたして、自分の知っているものとともに、ただそれだけとともに生きられるだろうか、ぼくはそれを知りたい。」「不条理とは意識的人間の形而上的状態であり、神へとひとを導かぬものなのだ」
これだよ、まさに、ここから出発して、この後、カミュが言うシーシュポスの状態こそが、僕が10年以上前、この本こそ僕の本だと思ったそのことだ
言いたいこと全部書いてあるし、ここでカミュが保つ態度がカッコよすぎ
不条理を凝視しながら、意識を途切れさせず、神や永遠などに逃げ道を見つけず、ただひたすら生きることにしか価値はない、そう生きればそれが王だろうがサラリーマンだろうが、価値に差はない、生きる長さだけが価値になる、という最も過酷な生き方のみを推奨する
凄くざっくり言うと、神仏をバカにしながらも認める鷲巣のように生きるよりも、アカギのようであれ、ということかと
いや、ほんとに -
無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく"
届かないからそっぽを向いた。
「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」
不屈の反抗児カミュ。
このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。
だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。
永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。
これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。
有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。
死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。
ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。
どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。
有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。
在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。
では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。
ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。 -
シーシュポスの神話のカミュは全宇宙どころか爪切り一個にも押し潰されそうなところがあって、そこがいい。痛みというのは理解不能で、カミュはその上になにものも築かない。あれだけ慎重に結論を避けながら、しかも、爪切りのもたらす身体的な痛みには耐えない(耐えられない、耐えようとしない、耐える必要を考えない)。これは素晴らしい姿勢だと思う。ある苦痛に耐える者は彼にとっての必要上、あくまでそれに耐えようとするのだが、それより卑小と感じられる苦痛にもつい耐えてしまうものだ。せっかく耐えがたい苦痛を耐え忍んでいるのだから、それよりずっと耐えやすいとみえるものに耐えないことで自分の負った苦痛を台無しにしたくないと考える。このようにして彼は耐えないことに耐えられないのだが、それこそが彼の負った苦痛を台無しにするのである。
しかし、カミュはつねに耐えている。ただ耐えるべきものを耐え、踏みとどまっていることが誠実さだと感じさせてくれる。
痛みを耐えない僕にとってシーシュポスの神話は鎮痛剤として必要なものだ。胃に優しくて早く効く。