べつの言葉で (Crest books)

  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (136ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901202

作品紹介・あらすじ

「わたしにとってイタリア語は救いだった」ローマでの暮らしをイタリア語で綴るエッセイ。子供時代から、家では両親の話すベンガル語、外では英語と、相容れない二つのことばを使い分けて育ったラヒリ。第三の言語、イタリア語と出会ってから二十余年。ついにラヒリは家族を伴いローマに移住する。初めての異国暮らしを、イタリア語と格闘しながら綴ったひたむきなエッセイ。イタリア語で書かれた掌篇二篇も付す。

感想・レビュー・書評

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  • イタリア語への愛がある故に傷ついてしまう心があり、喜ぶ機会がある。
    愛情があるから求める。喜ぶ。傷つく。
    愛情が無ければそれらも無い。
    何かと向き合う時には「違いを知る」ことを避けられないから、対象が人であれ、物であれ、言語であれ、自分が絶対に傷つかない守られている状態では愛は自分の中に宿らないんだと思う。

  • 語学を学び直すにあたって、このラヒリのイタリア語での試作は実に考えさせられる。ぼくが学ぶ英語とラヒリのイタリア語の学びはもちろん歴然とした違いがある(ラヒリの学びの姿勢から、あえて英語よりも「マイナー」とされかねない言語を学ぶ矜持についてぼくはもっと深く考えねばならないはずだ)。だが、同じ「言語の学び」という所作を愛しそこから新しい感覚(おそらくはそれこそ「新しい自分」)に触れようとするラヒリを必要以上に「敬して遠ざける」のはもちろん「もったいない」というもの。この本はその点で、学びの動機づけに実に最適だ

  • わたしのいるところ
    から派生して読みましたが、
    こちらの作家さんの作品をもっと読みたいし
    じわっとなじむという感じなので孤独な老後に読んでも幸せだと感じられるのではという見解

  • 言語とアイデンティティーというものを問い直させられる。
    筆者は、アメリカへの移民であり、母語としてのベンガル語は完璧に操ることはできない。一方で、生きていくために必要であった英語は血となり肉となり、自身の言葉として浸透している。
    大人になって、自分自身で学ぶことを選んだイタリア語。その不自由さと困難さの中にある自由。言葉を覚えるということが、また新しい世界を発見することにつながることが静謐に語られている。

  • 属してるのか属していないのか分からない微妙な境界線。入り込もうとしても完全には入り込めないもどかしさ。言語が変わることで弱くなってしまう自分自身。

    ただ外国語を勉強するだけじゃない、その場所に芯から溶け込もうとして初めて湧き出てくる感情、そして所属することの難しさ。色んなことを思い出した本だった。

    外国語で書くと母国語で書くのとはどうしても変わってしまうように感じるけど、最後の一篇でラヒリらしさが出てた気がして、根底は変わらないんだなと改めて。

  • アメリカ育ちの英語話者だけど、これはイタリア語で書いたんだって!
    イタリア語、に心を惹かれ、とりつかれてイタリア移住までするのか!すごい。
    コトバのことでまるで恋みたいに一喜一憂している。作家にもいろんな人がいるんだなーと思った。

  • A.K

  • 外国語を学ぶ期待と失望と苦しさ、はーめちゃわかる〜と思いつつも本まで出しちゃうラヒリに対し私は甘いなもうちょっと頑張ろうと思った。

  • 彼女とイタリア語は、出会うべくして出会った。運命だったんだろうな。狂おしいほどに熱狂し、葛藤し、日々こころを揺さぶられている。自分というアイデンティティの一部を担うまでの何かに出会えるって、すごい。奇跡だと思う。

  • アメリカで名を成した作家であるジュンパ・ラヒリが40を過ぎてから外国語であるイタリア語を選び取り、ローマへ移住した経験をイタリア語で綴ったエッセイ。

    手に取ったとき「言葉に関する本なのに、表紙の女の子がジャンプしているのはどうしてだろう」と思っていたのだけど、読み終えた今、境界を飛び越える・新たな世界に踏み入って挑戦する、という意味を込めたかったのかなと思った。

    エッセイを読み進めるほどに、文章が長く、語彙も多彩になり、ときおり物語も登場するので、著者の語学習得のスピードが肌で感じられて恐れ入る。

    読んで二つのことを考えた。まず外国語を学ぶ楽しさ。次に言語とアイデンティティの関係について。

    一つ目の、大人になってから学ぶ外国語について。著者の語学学習に取り組むときの情熱的な姿勢が色んな感情を呼び覚ました。新しい語彙(つまり新しい世界の切り取り方)を知る興奮。辞書を使いながらでも本を読み終えたあとの達成感。靄がかっていた世界が理解できるようになったときの晴れ晴れとした気持ち。

    私も大人になってからタイ語を学んで、全く違う語彙の世界の前に立ちすくんだ記憶が蘇った。今まで習ったどんな言語とも語彙レベルでは似ても似つかなくて、単語を何回も声に出しながら書くという泥臭い作業をしてもなかなか覚えられず、途方に暮れていた。そんなある日、住んでいたコンドミニアムに帰ってきたときに警備のおじさんから話かけられた「今日は何をしてきたの?」が意味を伴って耳に飛び込んできたとき、霧がわぁと晴れるような感動を覚えた。それまでノイズ・雑音としか聞こえなかったタイ語が突然言葉として理解できるようになった瞬間が、忘れられない。
    言語への愛に当てられてフランス語や英語の本が読みたくなった。(※フランス語や英語のメンテナンスもままなっていないのでタイ語は放置でもう忘却の彼方…涙)

    著者はまた、自分の語学力は不完全だと認識することによる緊張感が、言葉について深く丁寧に考えることに繋がり、それは創造力を刺激するとも指摘する。私はこの境地に至ったことはないけど、初めてのことに取り組むときの真摯さって大事(=初心忘るべからず)ということを改めて感じた。

    二つ目の、アイデンティティについて。著者は母語ベンガル語と継母語の英語が敵対関係にあって、それから逃れるためにイタリア語に自由を求めた、と説明をしていて驚きがあった。

    おもえば、私は母語日本語とのどっしりとした安定的な関係を築いた上で海外に放り出されたので、言語的アイデンティティが揺らぐことなく、フランス語とも英語ともあくまで友好的に付き合えたのかもしれない。ここ数年でいろんな書物を通して「言語的アイデンティティに悩む」という事象を「発見」していたのは、私にとっては言語的アイデンティティは疑いようもなく安定していたからだったのだと、逆説的に理解できた。何事にも良い面・悪い面はあるけど、母語が確立するまでは焦って外国語に手を出さないという教育方針はアイデンティティの安定においては一定の意味がある気がした。(もちろんマルチリンガルな家庭もあるので、何が絶対正解というのはないけれど)

    過去の投稿、タイ語について
    『マリンのタイ語生活〈1〉挫折しないタイ文字レッスン (マリンのタイ語生活 1)』
    https://booklog.jp/users/shokojalan/archives/1/4839601976

  • 母語以外を好んで使う人の頭の中でいったいどんな冒険が繰り広げられているのかを知りたくて手に取った。言葉を上手に使えなくて当たり前の立場であることがときにその人を助け、時に傷つけるようすを垣間見た。

  • 初めてジュンパ・ラヒリの本を読んだ。とても素晴らしい小説。ラヒリは英語をベースとしながら、ベンガル語、イタリア語を扱う。イタリア語があることによってベンガル語と英語の関係もやや安定した。ただ彼女の中ではベンガル語は両親がいることによって成立している言語であって、両親が亡くなったら消えてしまう恐れもある。またイタリア語は今ローマに住んでいるから日々学び流暢さも増しているのだと思うけれど、別の国に行ったら消えてしまう言語かもしれない。
    あいにく私は日本語以外に確固たる言語を持たないのでそこまで強い感覚を持たないが、イタリア語での読書は英語より内省的な読書体験であるといったようなラヒリの感覚はわかる気もする。日本語では読み飛ばしてしまう箇所を外国語であるが故に引っかかりより深く理解しようとする体験は同じだと思う。
    しかし、イタリア語で書いているにも関わらず、その文体内省の深さはさすがで、英語の彼女の本も読みたいと思った。本書の最後に収録されている短編「薄暗がり」はとても美しく静物描写と心理描写の重なり具合が均整が取れていて非常に心地よい。詩人のような作家という印象を持った。
    外国語の読書へと誘う一冊。

  • 何と、勉強中のイタリア語で書いたエッセイ+小説とのこと。
    作者にとっては、言語と自己アイデンティティーは深く結びついていた。なので、自己アイデンティティーと全く関係のないイタリア語との出会い、そしてその勉強は、「不安」と「好奇心」が混然一体となって表れる体験だったということが、随所ににじみ出ている。

  • ベンガル語の両親のもとにうまれ、アメリカで英語で教育を受けて育ち、英語で作家になったラヒリ。彼女がイタリア語を学びはじめ、ローマに移住し、イタリア語でものを書くようになる過程。

    イタリア語で書かれた小説『わたしのいるところ』は好きだったのだけど、このエッセイはまだイタリア語がうまく操れないからなのか、思っていたより観念的で読むのがなかなかしんどかった。

    同じく外国語を学んで海外に住んだ経験もあるので、彼女とイタリア語の距離など共感する部分もあるのだけど、彼女の場合はもうすこし、アイデンティティに関わる何かがあるかな。

    ベンガル語も英語もどちらも自分のものではないという、二世が感じがちなある種の疎外感を感じていたラヒリは、自ら好んで学び、魅了されたイタリア語にはその疎外感を持たずに済むのかもしれない。

  • ひとつの言語を習得する過程が繊細に描かれており、追体験しているようだった。

  • ベンガル語で育ち、4歳から英語で生活しはじめ、大人になってイタリア語を愛して学び小説を書きはじめた作者の本。

    言語が人ととても密接に結びついていること。母語が無い人は帰る国が無い、亡命すらできないということ。
    淡々と語られていく。

  •  期待はずれ。ベンガル語と英語のバイリンガルであり、英語で小説家として成功しているラヒリさんが、イタリア語に魅せられ、学んで、イタリア語で本を書くようになった。
     もっと前向きでワクワクする話かと思ったら、全然そうではなかった。
     重苦しい読後感。

  • 言語の行き来が興味深い

  • ベンガル人である著者は幼少期に渡米して教育を受け、作家になった。彼女の書いた『停電の夜に』という短編集が素晴らしくて、とても好きな作家の一人。

    もう20年来イタリア語を勉強していたそうで、最近イタリアの移住してイタリア語で書いたエッセイ集が本書。

    イタリア語の似たような意味を持つ単語がまるまる一頁に渡って書かれていたり、イタリア語習得についての苦悩などが綴られている。 イタリア語を学んでいる人は楽しめるのかもしれないが、これがぼくには極めて退屈だった。

    この本は初のエッセイでもあるのだが、信じられないくらいつまらなかったので、エッセイは面白くない作家なのかもしれない。 すごく好きなミュージシャンのインタヴューを読んだら、想像を絶するつまらない人物だった時のような気持ちになった。

    何語でもいいから、面白い小説を書いてもらいたいです。

  • "イタリア語に対して、わたしは魅せられていると同時に怯えてもいる。謎のままで、愛されていても素知らぬ顔だ。わたしの感動を前にして、何の反応も示さない。"


    "不完全さは構想、想像、創造性に手がかりを与えてくれる。刺激してくれる。不完全であると感じれば感じるほどわたしは、生きていると実感する。"(p.74)


    "わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。小さな子供のころから、書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法だった。わたしには静寂と孤独が必要なのだ。"(p.118)

  • ベンガル語を話す両親に、幼少期からいたアメリカでは英語があふれ、イタリア語に絆や情愛のような『雷の一撃』をおぼえたジュンパ・ラヒリ。

    私だったら環境の過酷さに腐ってたかもしれないのに、アメリカで小説家として偉大な賞を獲得しているだけでも、その心の強さ、あるいは凄さを感じられるのだが、その後の出来事で、真の『生きる』ということを実感するという、彼女の人生の先の読めない面白さ、怖さに、なぜか共感じみた親しみを感じた。

    なぜ、そう感じたのかは、私の場合、先に「わたしのいるところ」という、このエッセイより後に発表した、初のイタリア語で書いた小説を読んでいることもあり、彼女の孤独の部分に深い共感を覚えているからだと思う。

    このイタリア語で書かれた初のエッセイでも、『わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法』とあり、小説家であることは、彼女の存在意義のためには必要不可欠であることが分かり、また『言語の壁を壊し、自分を純粋に表現するために書く。書いているときは、わたしの顔かたちや名前は関係ない。偏見やフィルターなしに耳を傾けてもらえる』ともあり、言語の壁に今でも苦しんでいる彼女の姿が垣間見える。

    また、単純にエッセイとして、すごく励まされた。

    『無知なことが何かの役に立つことは分かっている』や、『不完全であると感じれば感じるほど、わたしは生きていると実感する。もし、すべてが可能だったら、人生に何の意味があるだろうか?』など、彼女のイタリア語として紡ぎ出されると、妙に説得力がある。

    このエッセイ集には、彼女のイタリア語の言葉ひとつひとつを摘み集めていく、喜びと共に、苦難に満ちた日々に、生きているということを実感している姿が、真摯かつ丁寧に描かれていて、イタリアに興味がなくても、新しいひとつの人生論みたいなものを感じられるので、私的には、下手な日本人が書いたエッセイよりも遥かに共感出来た。おそらく、真面目な方なんだろうなといった雰囲気が、文章の端々に漂っている。翻訳の中嶋さんもすごいのだろうと思う。

    表紙の女の子が溝を飛び越える写真も、ラヒリの挑戦する気持ちと重なって見えて、すごくこの作品に合っていて良い。

  • ジュンパ・ラヒリが米国にて小説家として大成功したのちにイタリアへ移住。そしてイタリア語で書いたエッセイ。第二言語を学習する際の心持ちが赤裸々に書かれていて興味深かった。小説家である彼女にとって言語は特別な存在、人生そのもの。これまでの作品でも描かれてきたとおり英語とベンガル語の2つで板挟みになっていてアイデンティティクライシスに苛まれている。そこにイタリア語という何のルーツもない言語が入ってくることで自分のバランスを整えていく過程がオモシロい。第二言語の学習においてはどのようにモチベーションをキープするかが重要だと思っていて彼女はイタリア語に対する愛がそれにあたる。知りたい/話したい/書きたいという欲求のベースに言葉への愛を持っている人はうらやましいし強いと思う。また彼女がイタリア語を学ぶ上で不安に思うことを正直に書いている点がかなりグッときた。というのも英語話者が第二言語を習得しようとする過程を書いた本を読むのが初めてだった。「よそはよそ、うちはうち」というのは重々分かっているけど同じような困難に直面していることに安心した。分からないこと、変化すること、不完全であることに価値を見出す気持ちが大切だと思い知った。大きな達成感や喜びは大きな障害や苦しみを乗り越えないと得ることはできない。年を取ると予定調和に流されていくのが常である中、本著は何か止まってしまいそうなときに人を奮い立たせる能力を持っている。また本著には2篇の短編小説が含まれておりイタリア語で執筆されたものである。英語の小説では縦横無尽だった彼女の時間や場所のレンジの広さや大胆な展開はないものの、設定のシンプルさゆえの奥行ある感じが良き。英語話者が獲得したイタリア語で書いたエッセイを日本語訳で読むという言語を巡る不可思議さも本著の魅力と言えるだろう。

  • 新潮クレスト・ブックスはどれもシャレオツ装丁なのですが、とくにこの本は表紙写真とタイトルのインパクト、そしてなにより「ジュンパ・ラヒリ」という呪文のような美しい著者の名前によって印象に残っていました。

    ベンガル人の両親をもち、アメリカで育ったラヒリが、ベンガル語とも英語とも自分の母語としては違和感をもちつつ、ローマに移住し、イタリア語で綴ったエッセイ。

    英語で書いた作品によって作家として成功しているラヒリにとって、別の言葉で何かを語るというのは、もう別の人間になるようなもの。
    言葉をめぐるエッセイというよりは、ひとりの女性が自分のアイデンティティを探しながら語る文学論のようでした。

    もちろん私はこれを日本語で読むわけで、原本が英語であってもイタリア語であっても違いはわからないだろうと思っていましたが、ていねいに選んだであろう言葉、文体は日本語で読んでも美しく、おそらく使い慣れた英語ではなく、イタリア語で書いたからこそ、より彼女らしさが出た文章なのだと思います。

    以下、引用。

    何がわかるのだろう? 美しいのはもちろんだが、美しさは関係ない。わたしとつながりがあるに違いない言語のような気がする。

    わたしはローマにまだ友人はいない。でも、誰かに会いに行くのではない。生き方を変えるため、イタリア語と結びつくために行くのだ。

    ていねいにゆっくりと、苦労しながら読む。どのページもうっすらと霞がかかっているように感じる。障害はわたしの意欲をかき立てる。新しい構文がどれも奇跡のように、知らない言葉がどれも宝石のように感じられる。

    ばかげた話だが、この単語の意味を知ることでわたしの人生は変わるだろうと確信する。
    人生を変えることができるものは、常に自分以外のところにあると思う。

    人は誰かに恋をすると、永遠に生きたいと思う。自分の味わう感動や歓喜が長続きすることを切望する。イタリア語で読んでいるとき、わたしには同じような思いがわき起こる。わたしは死にたくない。死ぬことは言葉の発見の終わりを意味するわけだから。毎日覚えるべき新しい単語があるだろうから。このように、ほんとうの愛は永遠の象徴となり得るのだ。

    なぜわたしは書くのか? 存在の謎を探るため。わたし自身に寛大であるため。わたしの外にあるすべてを近寄せるためだ。

    橋を何度も渡っていると、わたしたちの誰もがこの世で行っている、誕生から死に至る旅のことが心に浮かぶ。橋を渡りながら、もうあの世に着いたのではないかと思うこともある。

    「新しい言語は新しい人生のようなもので、文法とシンタックスがあなたを作り変えてくれます。別の論理、別の感覚の中にすっと入り込んでください」

    わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。小さな子供のころから、書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法だった。わたしには静寂と孤独が必要なのだ。










  • 大学で英語とは別の言語を学んでおり、また1年の留学経験もあってか、作中の筆者の気持ちや綺麗な比喩で表現された独特の感情にとても共感した。
    外国語を学び、話すことは、本当に、母語の時とは違う自分になる、自分でも驚くくらい、留学先やその言語を話しているときはハッキリと自分の意見や思いをストレートに伝えられる。言語=アイデンティティ。英語を継母、ベンガル語を母から受け継いだ子、イタリア語を養子とする表現が、なかなか想像するのが難しいであろう作者のそれぞれの言語に対する関係性を非常にわかりやすく表していて、ストンと自分の中で腑に落ちた。

  • タイトルそのものズバリ☜!なエッセイ✎
    .
    というのも英語で作品を発表していたジュンパ・ラヒリが
    イタリア語で作品を創るまでを綴ったエッセイなのです。
    そもそもラヒリはベンガル人で母語はベンガル語だが
    幼い時にアメリカに移住し英語で生活するようになった。
    しかし20年前ローマに惹かれイタリア語を学ぶようになる
    そして40歳を過ぎてついにイタリアに移住し
    イタリア語に傾倒する。
    .
    自在に操ることができましてや評価までされていた言語を捨てるなんて!大胆!
    長い間ベンガル語と英語の間で迷い苦悩していて
    それから逃れるためのイタリア語習得だったと語る。
    .
    ラヒリの切実で脆い本心が
    飾らない言葉で真摯に綴られており胸を打たれた。
    先日より始めたメモはラヒリのコトバで埋め尽くされた。

  • 小説も読んでみよう

  • 「なぜわたしは書くのか?存在の謎を探るため。(中略)ものを書くことはわたしにとって、人生を消化し秩序立てるただ一つの方法なのだ。」
    作家が小説を書く、画家が絵を描く、作曲家が曲を作るというのは、こういう事なのだ。

  • 21編のエッセーと2編の短編
    母語,言語の宿命を断ち切って自ら選んだイタリア語を身にまとう.その困難さや葛藤の真摯な記録.言葉を選び直して生きることは自分が変身することだという,そういう感覚は頭では理解するものの,共感しづらかった.ベンガル語,英語に引き裂かれたからこその必然だったのかな.作家だから当たり前のことかもしれないが,本当に言葉を大切にする人だと思った.

  • 著者が惹かれてやまないイタリア語を20年勉強した後に
    イタリアに移住し、イタリア語で書いたエッセイ。
    両親が話すベンガル語を母、住んでいる場所で使う英語を
    継母、自分で決めて勉強したイタリア語を養子に例えている。

    この3つの言語による形づくられる三角形は額縁であり
    その中には鏡があり著者が写し出される、がその姿は
    明確ではなく空白であり不確かである、それを埋めたいと
    思う衝動が著者を創造へと駆り立てる。

    言語が変わろうとも、ラヒリはラヒリと分かる一冊です。

  • 素晴らしかった。

    ラヒリ曰く、外国語を学ぶことは湖を泳ぐこと。考えてみたら言葉を生業とするひとが、別の湖畔を目指したくなるのは至極自然なことなのかもしれない。水で繋がっているのだから。

    そして、その探求の始まりは、二重のアイデンティティからの逃避だと言う。生まれたときから英語を話す一流作家が、見た目から英語を母国語だと思われない。深いテーマを内包した秀作エッセイ。

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