- Amazon.co.jp ・本 (204ページ)
- / ISBN・EAN: 9784106100031
作品紹介・あらすじ
イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国、若者と老人は、なぜ互いに話が通じないのか。そこに「バカの壁」が立ちはだかっているからである。いつの間にか私たちは様々な「壁」に囲まれている。それを知ることで気が楽になる。世界の見方が分かってくる。人生でぶつかる諸問題について、「共同体」「無意識」「身体」「個性」「脳」など、多様な角度から考えるためのヒントを提示する。
感想・レビュー・書評
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【感想】
自分の頭の中に入ることしか理解できないor理解しない、自分の考えと違うことにはそれを「無かったもの」「間違ったもの」として存在を拒むという態度は、令和の時代にも数多く見られる。
本書が書かれたのは平成15年だが、当時と今では時代が違う。情報の量が圧倒的に増えた。
情報の絶対量が増えれば、その質を見極めるための鑑識眼が必要になる。この能力がなければ、自分に都合のいい情報だけを選り好んで取捨選択するようになる。知識や情報に誰しもが簡単にアクセスできるようになった現代では、脳内に「バカの壁」を築く人が多くなっているのは間違いないだろう。
ただ、情報を見極めるというのは難易度が高い。何を信じるかによって情報の濾過の仕方も変わってくる。
本書では情報と個性の関係性について論じており、情報は「不変なもの」、個性はその情報を取り入れながら「流転していくもの」だと定義している。大切なのは「揺るぎないファクト」であり、一次情報に対してどれだけ柔軟に価値観を変えられるかによって、その人の賢さが見えてくる。バカの壁の中に籠ることなく、ダメな情報と良い情報を切り分けながら、自らのフィルターを高機能にさせていくことが求められている。
「日本には、何かを『わかっている』のと『雑多な知識が沢山ある』というのを別のものだということがわからない人が多すぎる。常識を雑学の一種だと思ってしまっている」
「そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と『自分たちは現実世界について大概のことを知っている』または『知ろうと思えば知ることが出来るのだ』と勘違いしている」
令和の時代においては、この言葉に一層耳を傾けながら「理解すること」を深めていかなければならないと思う。知識は文字や動画として吸収するだけで足りるのか、それともアクションを起こし身体に浸透させてこそ完成するのか。言わずもがな後者であり、私も頭でっかちにならないように気を張って行動していきたい。
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以上、本書の中から現代に通ずるものをピックアップしてみたが、これは本書の中でもごく一部分であり、全体としては、価値観が古く読むに堪えうるものではない。書かれたのが約20年前なので致し方ない部分もあるが、そもそも内容自体が筆者の観測範囲の中のごく狭い箇所を切り取ったエピソードトークに終始していること、主張の大部分に科学的根拠がないこと、主張がセンテンスごとにぶつ切りになっており本全体として何が言いたいのか分からない&言いっ放しになっていることなど、2003年当時としてもだいぶ怪しい。一つひとつのトピックを抜き出せば納得のいく主張はあるが、さすがに20年も経っていると手垢がつきまくっており、目新しい記述はない。平成で一番売れた新書というが、令和では参考程度にとどめておくのがよいと思う。
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【まとめ】
1 知識は常識ではない
結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。それを「バカの壁」と呼ぶ。また、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。これも一種の「バカの壁」である。
知識と常識は違う。知識を知っていても、本当は何も知らないこと、経験していないことはたくさんあるはずなのに、それを見ずに「分かっている」と言ってしまう。
日本には、何かを「わかっている」のと「雑多な知識が沢山ある」というのを別のものだということがわからない人が多すぎる。常識を雑学の一種だと思ってしまっているのだ。
現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と勘違いしているのだ。
2 個性
人間の脳というのは、出来るだけ多くの人に共通の了解事項を広げていくことで進歩を続けてきた。本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものであり、その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。
今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了解」を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところだ。「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているが、組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話である。
一般的には個性=揺るぎない自己、というイメージがあるが、それは違う。不変なのは情報のほうであり、人間は流転していく。
知るということは、自分がガラッと変わることだ。それが昨日までと殆ど同じ世界でも、世界の見え方が全く変わってしまう。
だから、若い人には「個性的であれ」なんていうふうに言わないで、人の気持ちが分かるようになれというべきだ。 むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事であり、みんなと画一化することを気にしなくてもいいのだ。
3 学習とは身体的アウトプットを伴う行動
身体を動かすことと学習とは密接な関係がある。脳の中では入力と出力がセットになっていて、入力した情報から出力をすることが次の出力の変化につながっている。「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがあるが、そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさなくて、脳の中で入出力を繰り返してもよい。
ところが、往々にして入力ばかりを意識して出力を忘れやすい。赤ん坊は、ハイハイや手で触って、自然と身体を使った学習を積んでいく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度の大人になると、入力はもちろんだが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態である。
4 脳と賢さの関係性
脳の形状とか機能で特に個人差があるわけではない。
では、利口とバカを何で測るかといえば、結局、言語能力の高さといった社会的適応性でしか測れない。すると、一般の社会で「あの人は頭がいい」と言われている人について、科学的にどの部分がどう賢いのかを算出しようとしても無理なことだ。
賢さについては、このように脳から判別していくのは非常に難しいのだが、他方、昨今問題になっている「キレる」という現象については、実はかなり実験でわかってきている。結論から言えば、脳の前頭葉機能が低下していて、それによって行動の抑制が効かなくなっている、ということである。
5 教育
若い人をまともに教育するのなら、まず人のことがわかるようにするべきだ。
学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業である。そこの能力が、最近の学生は非常に弱い。 逆に、いったん情報化されたものを上手に処理するのは大変にうまい。これはコンピュータの中だけで物事を動かしているようなものであり、すでにいったん情報化されたものがコンピュータに入っているのだから、コンピュータに何をどうやって入れるかということには長けている。
情報ではなく、自然を学ばなければいけない。人間そのものが自然だからだ。ところが、それが欠落している学生が多い。どういうものであるかというのを自分で体験してみようという考えをもった学生が、どんどん少なくなっている。
6 バカの壁の中に籠もる
バカの壁というのは、ある種、一元論に起因する。
バカにとっては壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。その前提に立たないと一元論には立てない。なぜなら、自分自身が違う人になってしまうかもしれないと思ったら、絶対的な原理主義は主張できるはずがないからだ。
安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのはすぐだ。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになる。それは一見、楽なことだ。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなり、話は通じなくなるのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
❖ ざっくりこんな本
われわれは自分の脳に入ることしか理解できない。情報の伝達が突き当たる壁を、著者は「バカの壁」と表現する。知りたくないことは遮断し、耳を貸さないのもその一種。そうした延長線上に民族間の紛争やテロがあるという。現代人はいつの間にか、自分の周りにさまざまな「壁」を作ってしまった。情報は刻々と変化し、自分という人間は変わらないという思い込み。個性や独創性を礼賛する風潮。安易に「わかる」と思い込むことで、強固な「壁」の中に住むことになると著者は戒める。
❖ こんな人にオススメ
正直に言って、「養老孟司ってどんな人だろう?」という人には、この本はオススメできない。「村上春樹ってどんな小説だろう?」と思って『ノルウェイの森』を読んだ人の、はたして何人が彼の他の作品を読むだろう? これ一冊で養老孟司という人物を理解しようと考えるのは危険すぎる。
❖ レビュー
多くの人が、「バカの壁」という言葉の意味を勘違いしている気がする。つまり、相手がバカだから話が通じない。そう思っているのではないだろうか。
「バカの壁」に〝頭が悪い〟といった侮蔑的な意味合いはほとんどない。認識を妨げたり、理解を阻んだりするものを象徴的に表現している。そのくらいに捉えるべきだろうと思う。
この本のいちばん最初に出てくるエピソードだが、学生にお産のビデオを見せて、その後でレポートを書かせる。すると、女子学生は「大変勉強になった。新しい発見がたくさんあった」と書いたのに対し、男子学生は「保健の授業で習ったようなことばかりだ」と、まったく反対の感想を書いたのである。
男子はバカだからだろうか。そうかもしれない。しかし、男は自分が出産を経験することはない。だから、男子学生はどこかで「自分には関係ない」と思って見ていたのではないか。
人間は「自分には関係ない」と思うと、無意識のうちに壁を作ってしまう。それが「バカの壁」だ。他にも、思い込みや偏見、こうあって欲しいという願望が壁を作ることもある。壁を作っているのは、相手の方じゃなくて、お前さんかもしれないよ。養老先生はそう言いたかったんじゃないだろうか。
不思議なことに、この本の帯には「話せばわかるなんて大ウソ」と書かれているのだが、私はそうは思わなかった。わかってもらおうとすれば壁にぶつかる。わかろうとすれば壁は崩れる。私はそう感じている。 -
古書店のワゴンにあったのを見つけ、今更ながら買って読んでみました。
7年前の新書なので、当時と今の社会状況などの差からすんなり納得できない部分もありました。
しかし、多くの部分で興味深く読むことができたと思います。
インパクトのあるタイトルや、オビタタキなどから先入観を持たれがちですが、反して内容はしっかりしており、全部が全部納得できないまでも養老孟司氏の思考・問題提起には感じるものが確かにありました。
結局、この本に共感できなかったとしても、それはこの本でいう「バカの壁」を実感できたということでいいんじゃないでしょうか。
この著者のような老人が知り合いにいたら、面倒くさそうな気もしますが、こういう歳のとり方には、正直少し憧れてしまう面もありますね。
「結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。」 -
内容の大部分が哲学的すぎて難解であった。
本書は著者の独白を他者が文書化するという手法をとっているため主語がなく、分かりづらい箇所が多数あって集中力が途切れた。
また推論について過程やエビデンスが省略されたまま結果のみが記されているため、推論に説得力が感じられなかったのと、著者の先入観で物を断じているのか、固定観念が強いのかも思われる箇所が多数見受けられた。
しかし脳の構造仕組みの説明は具体的で分かりやすかった。 -
結局、われわれは自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的につき当たる壁は自分の脳だ。
かって数学にも、簿記にも、一見どうやって解いたらいいのかわからないような問題がならんでいた。が、習い、問いを解くうちに理解ができるようになっていく。つまり、壁とは、自分ではどうやってもこうやっても理解ができないことのことを言っている。
むしろ、わかっているつもりになっているがほんとうはわかっていないもののほうが怖いのです。
自分自身で知りたくないことについて自主的に情報を遮断してしまう。そういったものをまとめて、「バカの壁」といっています。
わかっていないのに、自分ではわかっている。外から説明されたかって、結局わかっていない。そしてそれを自分自身でも気がついていない。これが「バカの壁」です。
答えがないものに、答えを求める。「客観的事実が存在する」というのは、最終的には信仰の領域であって、突き詰めていけば誰にも確かめられないから。
科学というのは絶対的なものではない。なぜならそれは1つの仮説だから。数学のように、絶対的事実であるものや、科学的推論にすぎないものを科学という言葉でひとまとめにしてはいけない。
個性が大事というが、それはウソなんです。なぜなら、個性が大事といいながら、実際にはよその人の顔色を窺ってばかり。常識的な行動から逸脱してれば、それは個性でも独創的でもない
スポーツ選手が身体的に本人でないとどうしてもできないもの、そういうものこそ、個性と呼べる、それ以外は個性ではないんです。
オウムに限らず、身体を用いた修業というものは、どこか危険を孕んでいます。古来より、仏教の荒行等の修行が人里離れて行われることには、昔の人間の知恵だったのかもしれません。
基本的に人間は、学習するロボットであること、それも、外部出力をする学習であるということです
何かの能力に秀でている人の場合、別の何かが欠如している、ということは日常生活でもよく見受けられます。
教育のあやしさ 若い人をまともに教育するのなら、まず人のことがわかるようにしなさいと、当たり前のことから教えていくべきだ、ということです
反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にはない。教師ではなくサラリーマンになってしまっているのです。サラリーマンとは、給料の出どころに忠実な人であって、仕事に忠実な人ではありません。
そもそも、教育というのは、本来、自分自身が生きていることに夢をもっている教師じゃないとできないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。
もともと日本は八百万の神の国でした。方丈記のゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、というのは一元論ではない。我が国には、単純な一元論はなかった。ところが近代になって意識しないうちに、一元論が主流になっている。大した根拠やそこにつながる文化がないにもかかわらずである。
<結論>
安易にわかる、話せばわかる、絶対の真実がある、などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのはすぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見楽なことです。しかし向う側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然話は通じなくなるのです。
目次
まえがき
第1章 「バカの壁」とは何か
第2章 脳の中の係数
第3章 「個性を伸ばせ」という欺瞞
第4章 万物流転、情報不変
第5章 無意識・身体・共同体
第6章 バカの脳
第7章 教育の怪しさ
第8章 一元論を超えて
ISBN:9784106100031
出版社:新潮社
判型:新書
ページ数:208ページ
定価:780円(本体)
発売日:2003年06月05日 5刷 -
流行った当時はまだ小学生で全く理解出来なかったので、時を経て再読。興味深い内容でした。情報化社会が更に進んでいる現在、私も「人間は変わるもの、情報は不変」ということがわかっていない人の一人であったことに気付きました。家康型の人生、一歩ずつ前進して、三日会わずにいたら刮目してもらうに値する人間になりたいです。
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もう少ししたら再読したい。一度では拾いきれない。ただ、新書はやっぱり鮮度も大切だなと思った。自分が生まれたころの新書を読んでもつまらない。サッカーの中田さんって誰。。。
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「わかる」という神話世界とその住人たちをめぐる考察
最も問題なのが「わからない」ことがあってはならないという恐怖と、強迫観念。
その恐怖から逃れるための忌避としての「わかっている」という自己暗示。
(「わかっている」を商売にしている人にとっては、「わからない」ことが大変好ましくないという雰囲気/状態は、最大の顧客獲得につながる。)
皮肉なようだけど「分からないと生きていけない」ことは、平時には割と少ない。
また「分からなくても生きていける」ことの多さが、結果的には住みやすい社会の指標になっている。
全体にとっての問題を一部の機関、人間が「分かっている」ことで、問題が解決される。
だから全員が農家、漁師、運転手、医者、兵士、警察、消防士、の他専門化でなくてもいいわけだ。「分からなくてもなんとかなる」から、安心して生活できる。
本書の例に挙げられた「男性が出産のデティールについて知ろうとしない」「地球温暖化の原因が炭酸ガスというのは暫定的であること」「一般相対性理論の反証」「シニフィアンとシニフィエ」etcも、分からなくたってどうってことはないだろう。
でも、それは「これまでは」の話で、「これまでの大半の人」はだ。
そうじゃない人がいて、そうでない状況に直面/衝突している個人、世代は別だ。
構成員の過半数が高齢者に偏っているこの国の場合、彼らが「知らなくても」問題ないからといって、若年層が「知らなくてもいい」ことにはならない。
やがて、一部と全体は入れ替わる。
著者が説明する「共同体が崩壊し、常識が喪失し、小さな共同体の論理が残され、機能主義に共同体的悪平等の論理が勝つ」日本世間。
その共同体の「バカの壁」自体が既に崩れ、幻想に縋る人々が、小さな共同体のなかに更に壁を築き上げているのが実情といった感を受ける。
壁は論理として構成員を束縛する。
壁で例えるの、うまいなぁと感じた。
わたしたちは、世間という共通了解の壁>職場や学校などの所属集団の壁>家族、恋人、友人の壁>自意識の壁 に囲まれて生活している。「わからない」は壁の周縁部分を目の当たりにしたときに始めて実感するもので、「わかろうと」とするから「わからない」にぶつかる。
壁の内側を支えているのは、すでに起こったこと(蓋然性)を材料、それに基づく推論から客観的事実を構築して「わかる」という建築物を建設している。
そう考えると、何だか蟻が巣を作っているような感じがして可愛いらしい。わたしたちは、「分かったことにしたい」から、せっせと分からないことを外に追いやって「バカの壁」を築き上げたのです。となる。
小さな共同体しかなくなった社会に生きる、わたしたち共同体依存生物は、SNSや特定の人間関係、所属集団に依存して、「バカの壁」の内側まで狭めている。
アルゴリズムがパーソナライズした特定の情報にだけ触れて、より閉域へと向かい、同じ閉域論理を持たない他者とはもはや接触すらしない。
まあ接触しない分には衝突もなくていいのか?
無関心、不寛容な住み心地良い狭い部屋で引きこもって暮らせるだけの平時は「バカの壁」の外から供給されるていることには気づかない。
一方、本書で問題になっている「個性」とは、どの共同体の、どういった論理なのだろうか?と疑問に感じてならない。
若年層の間では“キャラ”として浸透。
教育現場では長所伸展、会社では優秀なスキル保持者として。
個性あり、をかみ砕いて行けば、演じ分けが可能であれということに聞こえてくる。
ここら辺を考えると、ビジネスのトレンドがそのまま求められる個性かもしれない。
ビジネス書を見てもいい。
動画編集、SNSマーケティング、それに関連したスキル、SNSコミュニケーション能力とかWEB企画力とか、プログラミング技術とか、英語力とかかもしれない。
フォロワーの多さへの評価は露骨なもので、計測可能な個性となると、こんな風にまとめることができる。
求められる個性は、トレンドに則した金稼ぎのスキルに外ならない。
これらはある程度の努力と投資で、獲得可能でファッションのように着せ替えできる。
教育現場の個性伸展カリキュラムは、指導要領や単位習得要件なんかで、就職の実態とはかけ離れているので、混乱はやっぱり発生する。
学校では社会の求める個性なんて教育できませんなんて言ったら、客が減るので、学歴はまだまだ重要視される。評価される学生の個性は、学校社会のなかで挙げた成果だ。
外に出て身体を使って働けば「他人のことがわかる」ようになり、経験不足が解消されて、「自分は創れる」のか。
著者の言う「がんじがらめの共通了解を求められつつ、意味不明な個性を発揮しろと言われる」外へと出て行けばいいのか。
結論は出ていくしかないのだと思う。
そこにでわたしたちは、小さな共同体の一神教的な一元論的思考停止に陥った他者に出会う。
「分かり合えない」他者にであったとき、初めて分かり合えないことがわかる。
そこから、また更に別の「分からなさ」を持つ外部へと旅を続ける。
その移動を妨げているのが「万物流転、情報不変」への誤解だ。
自分は変わらない/自分を変えてはいけない。だから変わっていく自分の肉体や、認識に対して、不自然な強制を強いる。
不安定な自分や周囲が許せなくなる。
だから変化してしまう、不安定な存在としての自分から出発すること。
有為転変を理解すること。
揺るぎない事実なんて存在しないと考えることから始めるのがいい。
そう思った。
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追考
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今更ながらはじめて読んだ。
内側を信じて自分の外側から来た情報を遮断してしまう。一元論、一神教に陥らず、欲を追求するもそれを絶対の善としないこと。
重荷を背負って遠き道を一歩ずつ進むこと、なんとなくだけどわかった気がする。
221冊目読了。