中学の時、教科書に載っていた啄木の歌に惹かれた。もっと読んでみたいと思いこの本を買った。はじめて自分で買った文庫本だったと思う。

高校の時、制服の胸ポケットにはいつもこの本が入っていた。載っている歌はほとんど覚えてしまっていたけれど、持ち歩くだけで気分が落ち着くような気がした。本である以上に、お守りみたいなものだった。

後に、少年時代の寺山修司も文庫本啄木歌集を持ち歩いていたと知った。そうさせる魅力がこの本にはあるのだ、と感じた。

そんな、文庫本啄木歌集。触るだけで懐かしい本。

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カテゴリ 詩歌

「孤独は山になく、街にある」

倫理の教科書で見かけたこの言葉に惹かれて、この本を買った。人間に関わるさまざまな事象、感情について優しく考察する。
なぜだか、「優しい」と言いたくなる本。こちらに語りかけもしないし、決してやわらかい表現を使っているわけでもないのに、その言葉からは不思議とあたたかみが感じられる。

悩んだ時や悲しい時、怒った時、どうすればいいかわからない時、この本を開く。答えはでなくとも、気持ちは楽になる。好きな本はたくさんあるけれど、座右の書というに最も相応しいのはこの本をおいて他にない。

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カテゴリ 評論・研究

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

漱石の作品にはありがちだが、これも前半はなかなか話が先に進まず、引っ張って引っ張って後半に続いていくタイプの小説。「結論を先延ばしにして読者の興味を引き付ける手法」とも評されるが、せっかちな人は途中で嫌になるかも知れない。けれど、話の全体像がぼんやり見え始めてからはどんどん引き込まれるはず。

自分が初めてこの作品を読んだのは高校の時だった。今もそうだけれど、当時は本当に主人公の一郎(兄)に共感したものだ。 自分の日頃考えているようなことを的確に代弁してくれていたから。

こんなことを言うと、「中二病」とか「思春期」なんていう言葉であっさり片付けられてしまいそうだが、その頃は冒頭にかかげた一郎のセリフのような考えを本気でもっていた。だから、同じ意味での孤独に苦しむ一郎には、生まれて初めて自分と同じ生き物を見つけたような親しさを感じられた。その親しさはとりもなおさず作者・漱石に対する親近感でもある。一郎の苦しみは作者自身の苦しみだったのだから。

最近この作品についていくつかの評論を読んでみたが、そのどれもが作品の主題を「妻を信じられない夫・一郎の苦しみ」としていることに驚いた。自分自身、上記のような共感もあって「知の苦しみ」こそが主題に他ならないと思っていた。『行人』は、途中でいったん執筆を中止して、最終章「塵労」を後から付け加えた作品。だから、途中で主題が変わってしまっている失敗作と言われることもある。けれど、本当にそうなのだろうか。最終章で一気に語られる一郎の「知の苦しみ」が根幹にあって、作品の最初から最後までを一貫してつらぬいているのではないか。妻を信じられないという問題はそこから派生する枝葉にすぎないのでは。

同じ作者の『彼岸過迄』のようにいくつかの短編をまとめて一つの作品にしている、とも言われるが、それも疑問だ。むしろ各章の話が一直線に「塵労」での一郎の告白へと流れ込んでいるように思われる。

一番不思議に思うのは、たくさんある批評文の中で最終章「塵労」について詳しく語っているものがあまり見られないこと。この「塵労」こそ漱石の思想が最も現れている部分で、重視しなければいけない部分ではないだろうか。むしろこの部分は、作者の思いを入れすぎてしまったと言える位かもしれない。『行人』という作品を読みとくに、この章を無視しては全く軽いものになってしまうだろう。この章があってこそ、『行人』は、何年たっても頭の中にこびりついてことあるごとに思い出される作品となりうるのだから。

いろいろと議論の多い作品だけれども、対象としては大学生が読むと思う所の多い作品だと思う。あるいは彼氏・夫が自分にかまってくれないという女性が読んでもいいかもしれない。

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カテゴリ 小説

高校の図書館で、何気なく手にとったこの本が自分の文学観を決定づけることになるなんて、思い出すだけで不思議な気持ちになる。人それぞれ、こういう作品との出会いがあるんだろう。自分にとっては、これだった。

装訂に惹かれて何気なくとったこの本の、何気なく開いた頁にあった「蒼空(L' Azur)」にやられた。詩なんて教科書でしか読んだことがなかっただけに、この出会いは強烈だった。これが詩というものか、と驚愕した。フランス詩の世界に没入していく最初の一歩だった。マラルメからボードレールへ。ボードレールからゴーチエへ。詩から詩論へ。すべての始まりはこの本だった。図書館のあの場所にあの本があって本当に良かったと思う。

後に鈴木信太郎訳も読んだけれど、やはりこちらに惹かれてしまう。それだけ鮮烈だった。万人受けする本だとは思わない。でも、言葉というものはこんなふうにも使えるのだ、と知ることはできるはず。

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カテゴリ 詩歌

思えばフランス文学への傾倒はこの作品から始まった。高校のある時期にはこの本を読む時間を中心に生活のすべてが回っていた。ジャックはもはや登場人物ではなく、友達だった。高野文子『黄色い本』の彼女のように。

むかしは自分をジャックに重ねたものだけれど、今はむしろメネストレルだと感じる。ジャックの主観を通した姿と、現実の戦争を前にした存在の瑣末さ、そのアイロニカルな立ち位置に共感してしまう。若くないな、と思う。

作中に出てくる秘密めいた本にも惹かれた。ジイドの『地上の糧』。ジイドを読むようになったのも『チボー家』がきっかけだった。マラルメを読んだのも、『チボー家』を読んで他のフランス文学を読んでみたいと思ったから。これを読んでいなかったら今頃何していただろう。

とにかく受けた影響は計り知れない。高校の時に読んでおいてよかった。なんたってあの長さ。今読もうと思ったら、ちょっと体力がいる。

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カテゴリ 小説

ほとんど短歌を読んだことがない人に、短歌の本でおすすめはありますか、と問われれば先ずこの本を挙げる。
もともと新聞連載だったこともあり、とてもわかりやすい。それでいて単なる解釈ではない、著者独特のコメントがおもしろい。
歌を通して人の心のさまざまな有り様を見ることができる。どんな恋をするにせよ、また恋のどの段階にあるにせよ、勇気づけ、癒し、懐かしむことの助けとなるような歌にあふれている。
ことあるごとに開きたくなる本とはまさにこのような本を言う。

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カテゴリ 詩歌

詩人としてのゴーチエは、驚くほど知られていない。
実際、邦訳出版されたまとまった詩集はこれだけである。これとて今は絶版。現行の書籍でゴーチエ詩に触れられるのは岩波文庫『フランス名詩選』等のアンソロジーのみという状況。憂慮すべきである。

そんな忘れられた詩人ゴーチエだが、かのボードレール『悪の華』の扉には

「完全無欠なる詩人 フランス文学における完璧な魔術師 わが敬愛し崇拝する 師にして友なるテオフィル・ゴーチエに 最も深い謙虚な気持ちをもって これらの病弱な花々を 私は捧げる」

とある。詩人達からの支持は絶大だった。
一般に浸透しない原因はその詩としての硬さにある。完璧な韻律で構成された職人的ともいうべき作品。とっつきにくい印象はたしかにあろう。

しかし、詩人としてのゴーチエの本領はその思想の体現にある。『モーパン嬢』序文で高らかに宣言した芸術至上主義(L' art pour l' art)の思想を最もよく表現し得ているのがこの本に収められた詩集『七宝とカメオ』の最後の詩、「芸術(L' Art)」。

この詩論詩にやられて、詩なるものそれ自体の有り様を考えるようになった。詩歌に関わるならば、決して無視することのできない作品だと思う。

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カテゴリ 詩歌

絵本以外で初めて読み通した文学作品がこの本だった。読書は嫌いだったのに、これは本当におもしろくて、文字を読むことが苦痛にならないということが新鮮だった。特に、前半のワクワクする感じ。この作品の「すぎでっぽう」以上に魅力的なオモチャを僕は知らない。だからこそ、結末は衝撃的だった。物語はハッピーエンドだけじゃないなんて知らなかったから。そう考えるといわゆる少年文学宣言に方向付けられた古田の目論見は、(少なくとも僕の読書体験においては)しっかり機能していたように思う。

大人になってから再読すると、あの結末にはまた違った印象を受ける。この本を読み返しつつ、小学生だった時分の行動範囲を歩いてみると、最後の1ページがものすごい重みをもってのしかかって来る。変わってしまったという事実と、変わっていくしかなかったのだという思いと。大人の側の視点を得た故に、問題の複雑さが見えてしまう。彼らは決して敵ではなかったのだということも、今ならわかる。

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カテゴリ 絵本・児童文学

同じ道を歩く身として、過去の懐かしさと現在の共感、未来への期待と不安とが次々に感じられた。はたして研究者としての純粋さを求めたら、大学にはいられないのだろうか。確かに大学は研究機関であるとともに教育期間でもあるのだから、ある程度避けられない部分はあるけれども。

2012年11月19日

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カテゴリ 小説

もともと筑摩書房からでていて、その後長らく絶版になっていたこの本。当時小学生だった自分が町の本屋に行って初めて本の注文というものをしてみたのに、数週間待って「既に製造していません」といわれた時の残念だったことといったら。

ただ、幸運なことに第3巻の『ギャンブルのトリック』だけは市立図書館で発見することができた。もう何度借りたかわからない。また、しばらくして第4巻『ミラクルトランプマジック』もブックオフで発見して購入した。たしか800円くらいだったか。

この本を欲しがったのは自分だけではなかったようだ。 後に知ったことだが、2001年に復刊されるまでの絶版期間中には、ヤフオクで一冊数万円で取引されたこともあったという。1冊だけとはいえブックオフで800円で買えたことは本当に幸運だったのだ。

現在は、復刊ドットコムで署名が一定数集まった結果、五巻セット二万円で復刊されている。自分が全巻揃えることができたのもこの時だった。まだ中学生だったのでその年のお年玉をつぎこんで買ったけれど、全く後悔はしていない。本当に買って良かったと思っている。内容を考えれば二万円なんて安いもの。それほど多くのことが学べた本だった。

2014年4月2日

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カテゴリ 趣味

死をめぐる人間心理(死ぬ者と、死ぬ者を見る者と)を露わに描き出した希代の名作。「かつてキゼヴェーエルの論理学で習った三段論法の一例――カイウスは人間である、人間は死すべきものである、従ってカイウスは死すべきものである、という命題は、今まで常に正確このうえないものと思っていた。(中略)しかし自分にとっては、無数の感情と思念をもったワーニャにとっては、イワン・イリッチにとっては――全然別問題である。自分が死ななければならぬというようなことは、しょせんあり得べきはずがない」という言葉は、人間の死の認識を極めて残酷に、しかし極めて正確に言い当てている。ジャンケレヴィッチの『死』およびキューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を併せて読むことで、より立体的に、この作品に現れた死の認識を理解できるだろう。

2013年6月5日

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カテゴリ 小説

実際、世界各地の神話にはある程度近似した型のようなものがあることが知られているけれど、そういう事実をSF的に解釈して練られた話なのかな、と思った。比較神話学っぽい視点を意識しながら読むとかなりワクワクできる。 それと、実際の古代習俗や上代語なんかを踏まえた表現がところどころに散りばめられていて、個人的にはそのあたりもニヤニヤできた。もちろん、そんなこと知らずともSFとして極めておもしろい。

2012年11月28日

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カテゴリ 小説

思春期のうちにこれを読まなかった(読めなかった)ことを強烈に悔やんだ。もちろん、今読んでも文句なく素晴らしいと感じたが、あの頃に読んでいればきっと、いろいろなことが大きく変わっていただろう。それだけの力がある作品だと思う(『ぼくは勉強ができない』も、そうだ)。余談だが、読み終わってすぐに最初から見直し、喪主の伏線に気付いてジーンと来て、雛人形の伏線に気付いてドキッとした。

2014年10月1日

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カテゴリ 小説

過去を捨てていくのは、それよりもっと前に、捨てたくない過去があるからだろう。あの人のことを忘れたくないから。たくさん積み重なっていく過去たちの中に、あの人が埋もれてしまうのが怖いから。だから、新たに生成される過去を「箱の中にいれる」。かなしい防衛機制だと思う。

2012年11月19日

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カテゴリ 小説

愛おしいものたちと、その喪失、喪われてなお残るそのものたちの形ない痕跡が、しずかな筆致で描かれた作品。本作のミーナは『博士~』の博士や『猫を~』のリトル・アリョーヒンのような物語の軸となる人物だが、喪失対象ではない。本作で喪われるのはミーナを中心とした芦屋の日々であり、その喪失がもたらすのは、悲しみではなく愛くしみ。「時間が流れ、距離が遠ざかるほどに、芦屋でミーナと共に過ごした日々の思い出は色濃くなり、密度を増し、胸の奥に深く根ざしていった」(p.342)。再会に対する消極性は思い出の尊重と軌を一にする。

2015年10月27日

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カテゴリ 小説

セカイ系と言われることもあるが、『イリヤ~』に代表されるそれらとはやや異なる。本作における少年・少女の関係は「セカイ」の行方を左右する方向へは向かわない。喪失症という危機を抱えた「セカイ」にあって、現に存在する自己を確かめ合い、消えるまでの限られた未来を共有する関係に留まっている。内なる関係性が外へ影響を及ぼすのではなく、外の影響から内なる関係性が生じ、再び外へ還元されることはない。主人公が名前をもった特別な誰かではなく、最後まで単なる「少年」「少女」であり続ける点、そうしたあり方を端的に示すだろう。
「天国や地獄が本当に存在するとは思っていなかった。が、それでも消えた人間が、本当にただ消えてしまうとは思いたくなかった」(p.192)は、死に対する人間の根源的恐怖をよく言い表している。多くの文化圏で、死後の世界が想定され、その喪失を「別れ」と呼んでここではないどこかへ行ったかのように表現されることは、それに対する一つの慰みなのだろう。形見によって偲ぶ行為も、現在の不在を確認することで、かつて存在していたことを確かめる方法である。
しかし、本作の喪失症は、故人のあらゆる痕跡を奪い去る。形見も消え、偲ぶ方法も失われ、不在を確かめることすら困難にする。そのことは、かつて存在していたという記憶すら曖昧にさせる。そこに、三章幕間で述べられる少年らの抗いの方法がどれほど有効か。遺されたそれが遺されたものであることさえ、わからなくなってしまう危機に対して、その方法が慰みとなり得るのは何故なのか。説明できないが、不思議と共感はできる。

2015年10月27日

読書状況 読み終わった [2015年10月27日]
カテゴリ 小説

鉄道の形態もシステムも変わった現在、百閒式の鉄道旅行はできるのだろうか。そしてそれは『阿房列車』のような作品を生む旅になり得るのだろうか。少なくとも一等車はないし、食堂車も絶滅危惧種。宿も駅の紹介ではなく、ネット予約が主流だろう。時代の変化が悪いと言うのではない。ただ、現代なら百閒先生はどんな旅をするか、ということが気になる。その作品を読んでみたい。

2015年10月27日

読書状況 読み終わった [2015年10月27日]
カテゴリ 随筆

多元宇宙論的SF。とある事故で平行世界に飛ばされた主人公の奮闘を描く。後半には若干のスペースオペラ要素も。発表は1949年で、可能世界の現実性についてのデヴィッド・ルイスの議論以前。この時代にこれだけのものを書いたことに驚嘆せずにはいられないが、今の目で同趣の作品と比較しても、傑作の一つに数えて良いと思う。読後の余韻として残ったのは、この結末がハッピーエンドかどうかという問い。この世界・あの世界・その世界において、また主人公にとって、どうか。作品は判断を読者に委ねている節がある。他の人の感想を聞きたい。

2015年10月27日

読書状況 読み終わった [2015年10月27日]
カテゴリ 小説

創元SF文庫(当時は創元推理文庫のSF部門)の記念すべき第一作。内容はSFばかりではなく(第一部「SFの巻」、第二部「悪夢の巻」)、ちょうどレイ・ブラッドベリ『ウは宇宙船のウ』のような性格の短編集。どの作品も簡潔でありながら奇抜なアイディアが盛り込まれており、思わず感嘆すること数度。先だって読んだ『発狂した宇宙』にしてもそうだが、フレドリック・ブラウンという人は、個々のストーリーを案出する力はもちろんのこと、それらを最も効果的なプロットとして構成する力に並外れた才をもっていたようだ。

2015年10月27日

読書状況 読み終わった [2015年10月27日]
カテゴリ 小説

動画共有サイト「ピアピア動画」をめぐる四編からなる連作SF。別々の話かと思っていた各編がきれいに繋がっていく構成は見事。冒頭二編を読んだ時はこれほどスケールの大きな話になるとは思わなかった。某動画サイトがモデルなだけに妙に現実感があるけれど、展開は理想的過ぎるほどに平和で希望に満ちている。起こり得る外交問題の一切を捨象しているからこそ可能な世界だろう。地球と宇宙と言うより、日本と宇宙と言うべき世界観。それ故にドロドロした展開が避けられており、爽快な読後感をもたらす作品として結実している。

2016年1月23日

読書状況 読み終わった [2016年1月23日]
カテゴリ 小説

同作者『ふわふわの泉』もそうだけれど、なんでもない普通の学生時代から始まり、大人になって本気で宇宙を相手にできるまでに成長する主人公。子供が子供のままでセカイを救う話との違いは、自分の将来に希望が持てること。歳をとるのもいいかもしれない、と思わされる。

2012年9月12日

読書状況 読み終わった [2012年9月12日]
カテゴリ 小説

音楽SFと呼べる作品は他に飛浩隆「デュオ」しか読んでいないが、それもこれも面白かった。「デュオ」同様、本作はイデア論的な理想追求を基に展開する。音楽小説とはいえ、音を言葉で表すことは本来できない。だからこそ、現実にない理想の音楽を扱うことが、小説にはできる。音の連なりからではなく、奏でる者の言葉を通して、〈音楽の理想〉は知られる。〈理想の音楽〉なるものも、聴く者の言葉を通してのみ、存在が保証される。登場するガジェット以上に、語られる音楽の非存在性がSF的と言える。音楽とSFとの相性の良さを感じられた。

2015年10月27日

読書状況 読み終わった [2015年10月27日]

宗教は、それ自体を目的とした純粋に自律する存在となりえるだろうか。救いを求めて宗教にすがるならばそれは手段にすぎないのであって、本作に描かれる宗教と本質的には同じではないか。両者の差は単に、個人の救いのためか、全体の救いのためかという点だけであり、オリオナエの叫び(p.96)も、その違いに対するものだ。神と惑星開発委員会との違いも、言ってしまえばそれだけのもの。そこに絶対的な正しさなど初めからないのかもしれない。正しさが相対的なものにすぎないならば、一人残ったあしゅらおうはどこへ向かえばよいのだろう。

2015年10月27日

読書状況 読み終わった [2015年10月27日]
カテゴリ 小説

全編に流れるどうしようもなさがたまらない。どこかで決定的な間違いを犯したわけでもないのに、やるせない出来事は抗い難くやってくる。とりわけ「80ヤード独走」や「フランス風に」に顕著な男女の関係において。時間の経過は残酷だ。その点、「ストロベリーアイスクリームソーダ」のみずみずしさは極めて異色。

2012年8月15日

読書状況 読み終わった [2012年8月15日]
カテゴリ 小説
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