いやぁ、意外に良かったなあ。原作を読み返したくなるなぁと感じさせられた逸品。岡本信彦うさ忠が余りにもはまってて見事。◇物語がかっちりしていることもあってか、殺陣のアニメっぽさが気にならなかった。また短編が多い原作を考えると、30分くらいの締まった展開の方が却って良いのかもしれないなぁと。勿論、これなら続きを見たいと感じさせられる。

2018年9月6日

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1984年(底本初版1922年)刊行。
著者は底本初版刊行時は東京帝国大学法科大学教授(日本法制史)。


 歴史研究の題材・素材に文学作品を用いることは(特に社会史研究において)、今でこそ少なくないが、大正年間ではどうだったのだろうか?。
 本書は、法制史研究の第一人者が、江戸時代の文学作品を通じ、かような作品の中で当然に前提とされている、当時の民事法・家族法の内容を検討していく書である。

 当たり前であるが、近世と近代における、家督相続の異同・裁判所制度の存否・近代所有権の成立如何など、根本的に違うものは少なくない。
 あるいは民事・商事の未分化。封建的な土地所有の帰属如何など、戦後現代とは元より、明治近代とも大きく異なる点は当然に存在する。
 これが反映したのが、例えば、親権の目的。相続制における階級差異や家禄・家俸の承継の意義。
 不動産売買の可否や条件。夫婦財産における妻持参の金員・不動産の帰趨(対外的には夫の責任財産だが、離婚時に返還を要するため夫の処分権は制限)。事業認可という意味合いの株制度がそれだろう。

 しかし、例えば、売買契約での手附の議論は、現行法や解釈にも大きく関わるし、また婚姻の過程での「結納」の意義や、譲渡担保の内実など、現代に仄かに影響する要素も少なくない。

 一方で、本書で開陳される、上方と江戸に表れる差も興味深い(ここでは譲渡担保における慣習的な規範内容。いうなれば、担保権的構成の上方、所有権的構成で売渡担保の概念まで辿り着きそうな江戸)。

 ただし、文学作品が上方を舞台にしていることも多く、なかなかいろいろな項目で比較ができなかったというのがやや残念か。借家なぞは違いがありそうなんだけれど…。

 なお、破産制度は分散と称した点には注目。

2018年6月2日

◆今は昔と片付けられない、権力機構による新聞への支配構図。歴史は繰り返されることに鋭敏であるべし、ということを、新聞の歴史を叙述する本書は我々に教えてくれる◆

1992年刊行。
著者は上智大学新聞学科長・教授(元共同通信社ニューヨーク支局長)。
◆新聞の歴史は、専制権力を中核とする権力への批判と、権力からの弾圧に彩られてきた。他方、権力は初等教育の拡充が図られるにつれ、これに従属させる=下僕と化すために、新聞発行を容易に許容せず、逆に販売・流通・情報提供に便宜を図る御用新聞を作り、支援してきた。
 これが、15、16世紀からの英米仏独露の新聞の歴史、そして近代日本の新聞の歴史を纏めた本書から伺える帰結である。

 日本は勿論、世界での昨今の報道機関への権力側の在り様。これへの懸念・危機感から紐解いた本書であるが、その帰結・要約は予想に違わず、意外性はなかった。

 ただし、だからこそ本書の読破をして、今、どのように考え、何を成すべきかを考える一つの指標にはなったことは間違いない。


 若干の補足として。
 ビスマルクの新聞操縦法。ビスマルクの圧政下の新聞で自由は失うも、尻尾を振るまでに放っていなかった各紙。これに対して、考案した策略が探査気球(観測気球)方式。ある情報をリークして新聞に書かせるが、これに世間の好意的反応が引き出せない場合は、それを(政権として)否定し、これを載せた新聞社を誤報呼ばわりして信用を失墜させる。ビスマルク批判は虚偽のリークの危険性を生み、損なので、当たり障りのない記事でお茶を濁すようになる。
 また御用新聞=ウォルフ通信社のみに情報を出す(反体制新聞の情報を遮断)。
 御用新聞と知りつつも(情報源がその御用新聞だけということになるので)、情報を格安・容易に入手できる点で、反体制新聞も御用新聞掲載情報を無碍には出来ない(そればかりか、速報という意味で御用新聞の信用を上げ、反体制新聞の信用を貶めることもできそう。)、というもの。
 これを過去の事象、外国の事象と片付けられるのだろうか?。御用新聞=YないしS新聞の存在。A新聞が最初にスクープした退位日時を、後に強引に変えさせた人たち。等々…。

2018年5月27日

◆中国人研究者による日本史研究をまとめたシリーズ第12巻のテーマは、中国の史書や研究から見た日本像。戦火が相手の関心を最大にする皮肉とともに、ナショナリズムとは異質の研究者魂も垣間見できる◆


1989年刊行。
著者武安隆は南開大学歴史研究所助教授、同熊達雲は中国人事部行政研究所講師。
◆中国人の日本研究者によるシリーズ12巻は、タイトルどおり、各時代の中国人による日本研究である。つまり現代における日本、あるいは日本史研究というだけではなく、過去において同時代的に日本を研究・調査した(それこそ三国志の「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」も含まれる)ものも分析対象とし、各時代の日本への視座・誤謬についても検討を加える。

 中国人研究への批判的な目線は著者らにすら伏流しているため、彼らの、ナショナリズムとは異質な研究者魂も感じ取れる。ただ、現代の歴史研究者はマルクス主義(というより硬直的な段階史観)を分析視座の究極に据えているため、完全な誤りとまでは極言しないものの、明治維新・戦後改革や経済発展の分析の雑駁さ、実証性の低さは否定できない。

 ところで、戦火を交えた時と、その前後に日本研究の活動が活発化しているのは、戦いに勝とうとするときに相手に最大の関心が生まれるという皮肉を露わにしているが。具体的には➀倭寇と豊臣秀吉の朝鮮半島攻撃(明代後期)、➁日清戦争前後、➂十五年戦争期において、良くも悪くも日本研究が盛んになり、後代に残るほどの優れた研究・調査の跡を見つけ得るようだ。

 備忘録。
➀ 遣隋使での「無礼な国書」と「派遣使の皇帝への慇懃な態度」は両立できる指摘。
➁ 倭国に「日本」との国号を押し付けたのは、唐を周という国号に変えさせた則天武后の可能性。
➂ 中世室町時代の勘合貿易は、明朝側が懸命に日本側に朝貢実施を求めた結果、実施・継続した可能性。

 なお、戦火のキナ臭さが研究を進めるという面はひとまず置くとしても、この歴史研究書を見るにつけ、日本において、対中研究所が、公的・民間を含めどれほど存在し、人的・物的な量・質が投入され、充実した国費の投入があるか?。
 寡聞にして知らない点ではあるが、どうにも不十分ではないかとの疑念がむくむくと…。

2018年5月11日

2013年刊。著者橋爪は東京工業大学教授、同大澤は元京都大学教授、同宮台は首都大学東京教授(何れも社会学)。


 タイトルどおり、中国(特に現代中国の政治・社会)について、史的・宗教的側面を踏まえつつ解読しようとする対談集。
 ただし橋爪ゼミに、一過言持つ些か喧しい2人の生徒が闖入した印象もある。


 何より橋爪氏につき、中国史と多様な事実を踏まえた中国の政治・文化・社会構造に関する博学に驚嘆する(思わず著者の中国関連の単著を読みたい本登録するほど)。


 気になる点。
➀ 漢字は、EU的統合体に過ぎない中国の非オーラル共通語。
➁ 君主世襲制は政治的安定を保つ装置、官僚の科挙選抜方式は能力優先による政治の能率化というハイブリッド。
➂ 天命が皇帝の正当性の淵源で、農民の完全な離反が天命消失を意味する無意識・無名の規範に従属。中共もその例に漏れない高い蓋然性。経済成長が止まる等により農民離反が進むと…。
➃ 確定序列の上位者による正当性チェック機構。
➄ オーラル言語では非統一の中国の根本経典は儀式(儒教の「礼」)。
➅ 皇帝という枠組みを解放した辛亥革命と孫文の三民主義、また資本主義導入の障害であった様々な社会規範を解放した文化大革命という画期。
等々、他にも多数存在する。

 その上で若干の疑問点を備忘録として。
➀ 「侵略」等に顕著だが、具体的な政治・経済・社会の事象に関する事実を多数集積することで、物事を解明しようとする姿勢は強くない。
➁ 現代を除き経済に関する議論が殆どない点と、経済関連事実が占める意味が社会システムと文化よりも軽視されている(ただし橋爪氏だけは、中国の史的な意味での経済関連事実の造詣の深さを窺わせる部分はある)。権力とその機構だけを論じ、その具体的現れたる租税システムの言及が殆どない点に如実に露呈している。
➂ 叙述だけからの印象。
という意味で、宮台氏の関心領域と中国の内実分析が噛み合っているのかに大きな疑問を感じてしまった。
 実際、橋爪氏への質問の大半を大澤氏が担い、宮台氏は社会哲学・政治哲学に関する西欧での議論を紹介しつつ、橋爪氏の議論を補足する役割が相当程度を占めている。

 このように、本書の宮台氏の発言内容から見るに、彼の関心が日本、あるいは現代日本において最も関係性の深いアメリカにあり、中国への関心はそれらへの反射的・間接的関心に止まるように見える。
 逆に言うと大澤氏の関心の広範さ、事前準備の豊饒さの表れかもしれないが。

 ともあれ、自らの認識と理解のレベルの低さを存分に味わうことができた。
 換言すれば、まさに知的刺激を受けるというのは、こういう書を読破した時に感じ取れるものであって、有益であった。

 あと、南京事件に関して、虐殺云々も勿論だが、その背後に隠れている強盗・強姦・放火・殺人未遂や傷害といった多数の被害全体を象徴したものであり、そういう中国人の認識を軽視することの愚を説いている。この点は、先に読破した「軍法務官の日記」や秦郁彦著「従軍慰安婦と戦場の性」からみるに、強姦や強盗事件他が殺人とは別に数多発生していることを考慮すれば、十分納得できる指摘である。

2018年4月21日

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1987年刊。著者は和歌山大学経済学部教授(経済原理)。


 表題は「渡来銭の社会史」だが、もう少し広く史的に「銭・貨幣」を巡る経済・社会問題(租税他、政治も若干関連する)を幾つかの側面で解読する書と言えそう。

 具体的には
➀ 貨幣貸の成立と、その社会的・政治的意義(中世後期の室町時代中心。一揆論も)。
➁ ➀と同時期に盛んに貨幣利用を進めた地域、つまり都市論(特に京都の生活の内実)。
③ 日本における貨幣変遷(古代の皇朝十二銭~中世の輸入銅銭~近世の三貨)。
➃ 中世における貨幣の日欧比較。
➄ 貨幣の意味に関する通史的理解。古代の呪術的・官位獲得手段(蓄銭叙位令)→中世以降の経済発展に伴う物との交換・流通機能→多数種貨幣間での交換機能(近世の三貨制度)。

という具合である。

 教科書的な貨幣の歴史を、中世を中心にして少し深めながら、経済学における貨幣論のとっかかりの部分を、歴史の流れと歴史上の事実に即して(多少の脱線も含みつつ)解説してもらった。そんな印象の残る著作である。


 ところで、備忘録。撰銭とグレシャム法則。
 撰銭は通貨通用力を持つ権力が希薄な中、複数通貨が流通する場合、低価値の通貨を強制通用させる公権力がないため、通貨受取人に通貨選択の優先権が齎される。
 結果、良貨は悪貨を追放する。これが室町時代の現象。

 他方、グレシャム法則とは、通貨の強制的通用力を持つ権力が存在する中、額面共通なのに価値の違う通貨が流通する場合、通貨の払渡人が自らの利益のために悪貨のみを利用。
 結果、悪貨は良貨を駆逐する。これが江戸時代(特に後期)の現象。

 両者は銭の選択・選り好みの点で共通するが、内実は完全に違う。

2018年4月17日

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1982年刊。著者は東京大学助教授。


 鎌倉幕府の評定衆、室町時代の徳政一揆、同時代後期に蠢動した国人や国衆。
 他方、これらを遥かに遡る平安時代の僧兵や強訴。
 そして時代をずっと下った江戸中期の百姓一揆。あるいは一揆の名すら出ない和田合戦(鎌倉前期の和田義盛の謀反)。

 これらは何れも教科書に出てきそうな基礎用語であるが、一見すると全く関係なさそうにも見える。
 しかし、これらを「一揆」=中間団体と一貫して捉えることで見えてくるものがあるのではないだろうか?。

 本書は時代毎に様々な顔を見せる中間団体を「一揆」と見て、その内実に史的な幹を入れつつ、この変遷に言及する書だ。

 確かに「一揆」というと近世、あるいは精々中世後期の徳政一揆・土一揆くらいしか想到しないのが普通だろう。
 しかし、一揆が人の集まりを意味するものであり、かような中間団体というものは、時代の(つまり経済的な側面)様相に応じて、変化しつつも常在してきた存在だ。
 その「一揆」を、骨というか、幹に見立て、広範囲に及ぶ史的な展開を論じて見せるのは、容易になしうる技ではない。もちろん、近世の百姓一揆との連関性も忘れてはない。

 大分前の書で、その存在に気付きにくいけれども、なかなか拾い物の一書であった。

2018年4月17日

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993年刊行(なお平凡社ライブラリー版が後に刊行)。著者は法政大学第一教養部教授。

 江戸時代(特に田沼時代以降。除く松平定信政権下)における江戸は、多種多様な文芸が栄えた。それは絵・文・演劇など媒体面の多様性だけでなく、舞台の多様性(吉原ほか江戸内の彼方此方で)。そして内容面では、愛憎あり、エロ(BL的男色含む)あり、美あり、笑い(パロディあり)と狂気あり。結果、例えばエログロ=抑圧による退廃、封建社会=抑圧社会等の括りでは説明困難な印象を持たずにはおかない。
 書きたい、描きたい、見せたい(そして儲けたい)という力強さが滲み出る多様性なのだ。

 なお、本書は、1988~92年の期間において、雑誌「太陽」その他で発表・連載された論考を集積したものである。

2018年4月16日

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2011年刊。著者は京都府立大学文学部准教授。


 タイトルだけを見ると、内容を誤解・誤導しかねない書である。
 なるほど本書執筆は2005年の「反日暴動」を契機としているようだが、それは、社会構造とその差が、社会制度・政治権力の差を生み、さらに対外姿勢の齟齬を導く。その夫々が相互の理解不足・イメージの歪曲や誤解を齎し、対立を重ね、何れは破局へ…、という懸念に基づいている。
 そもそもこれは歴史的事実ではなく、情緒と印象のレベルに止まるにすぎない。
 ところが、かようなイデオロギーに彩られた相互認識(相互誤認)が、民衆一般のみならず、政治家・官僚、さらに立派な知識人にも及んでいる。

 著者は、かような現状認知を危ういものと真摯に捉え、好悪の感情を越えた歴史的事実の認識の構築に誠実に取り組むことを歴史研究者のあり方と捉えている。その結果生まれた本書は、タイトルから伺える「反日」「嫌中」本とは一線を画しているのだ。


 詳細は、本書を紐解いてもらいたいが、まず、社会制度と経済システムにおいて、明朝の頃から大きく道を違えてきた日中(一国閉鎖完結型経済の日本。多様な物産輸出が可能だった清朝は、国土広大と人口多の社会統治を、民衆とは離隔した立場で展開)は、西欧の衝撃への取組みでも異質であったことを前提とする。
 そして、「倭寇」のイメージと、これに豊臣秀吉の朝鮮出兵・対明戦争のイメージを被せ、このような全体認識を踏まえた対日観を、大陸では清朝期以降、ずっと底流に保有しているという見方を提示する。つまり中国共産党の近々の政策的煽動に「反日世論」の原因を求める考えとは一線を画しているのだ。


 ただ、本書の主テーマは、実は反日の源流への回答ではない。
 つまり、近世から近代(=江戸期から日清戦争の頃。特に江戸期・清朝)における、日中の社会制度・経済システム、そして権力機構とこれら相互連関が生み出した両国の差異を比較・対照し、特に中国のそれを開陳しようと試みる書と言える。

 著者は「近代中国史」という新書を著しているが、これを読破した時と同様、非常に刺激的な読後感であった。
 そもそも両国の社会・経済システムの比較。それが帰結する両国の近代への道程の異同を克明に検討した書はさほど多くはない。しかも、歴史研究者らしく、きちんと先行研究に拠りつつも、そこでは触れられていない視点や事実を多く開陳することで説得力を増加させているのは、本書の買いの部分であろう。

 ただし、民衆と権力機構の離隔が中国(清朝以降、現代までか?)の特徴と言いつつ、権力機構の反日視点の発生要因のみを言及し、それが権力から離隔した民衆に波及した理由や要因についての言及は余り多くない。

 まぁ、この点が、本書をして、中国の、特に中国民衆の反日発生の要因論ではなく、近世~近代の日中の社会・経済制度比較。あるいは権力の特徴に関する日中比較・検討をした書と考える所以なのだが…。

2018年4月16日

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2015年刊。著者は芝浦工業大学工学部教授。

 本書は、環境問題を軸にした地下水あれこれの書である。

 さて、地下水に関する環境問題について、地盤沈下は国内では昭和30~50年頃に問題となったが、それが今では世界各地の水需要の増加に伴い、中国他、各地で発生している。

 一方の現代日本。ここでは地盤沈下よりも、難分解性分子の地下水汚染(ここでは半導体メーカーの汚染水が例示)が問題視され、地下を含む水循環の実態把握の重要性と、清廉な地下水の飲料他生活用水のバッファとしての役割に光が当たる。

 また、地下水利用に関する史的展開も若干触れられる。中でも、江戸時代、特に享保期以降の上水整備に多く筆を割いている。そこでは、武蔵野台地での井戸の開発とその技術面の進歩が興味深いところだ。

 なお、フクシマによる地下水汚染の問題も避けて通れない課題だが、判明している情報はさほど多くはない。


 さらに、水循環の維持確保の観点で、地下鉄などの地下構造物がその循環を阻害している可能性とその都市生活への具体的被害、さらには水循環との関係で、大深度地下開発の是非に際しても想起すべき事項か。

2017年6月10日

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1977年刊行。著者は元?沖縄国際大学教授。

 古代から近代前半期(明治期)まで沖縄の歴史を素描した書である。かえすがえすも、沖縄戦による史料・遺跡の散逸、あるいはそれらの破壊が残念な点であることは確かだ。

 さて、本書を要約するに、
① 沖縄の生産性の低さからくる商品経済進展の遅れ。特に中世後期に顕著であること。

② 確かに、身分制社会という括りで解釈できそうだが、そもそも、その身分内における貧富の差・階級的差異の小さいところも、商品経済・貨幣経済進展の遅れに由来する可能性という指摘がある。
 特に農民層の階層分化が、土地集積化の未達と相俟って、僅少という点は、他地域との比較で沖縄の特殊性といえそう。

③ 他方、前近代における航海能力の限界・問題の結果として生じた、沖縄の中継貿易地としての意義。そして、これに目を付けたのが薩摩藩という中世後期から近世期の構図に着目する必要がある点。

④ 単一ないし限定的作物(米と甘藷、鬱金(ウコン))栽培の強制と、その上がりを収奪するという状況。
 これは、世界各地でみられた、近代前半期の植民地経済に酷似する側面であるが、この関係性が、沖縄と薩摩藩との関係に見て取れる。

 これが全体像と言えそうだ。


 なお、建築や工芸といった、広い意味での文化面も拾っているのも特徴に挙げられるだろう。

2017年5月6日

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 敵役の(魅力的な)描写がないと(魅力的に限らず、愚劣、臆病、被害者面する事なかれ主義者でも何でもいい)、小説としては全然面白くない典型。実に淡々と準備をし、淡々と討ち入りし、淡々と泉岳寺に引き上げていく。確かに、吉良上野介が何もしなかった、用意周到でなかったという展開は、それでいいが、ならば、どうしてそうなのか、何を考え、何を見落としたか、文治主義の権化、権威主義の権化でも何でもいいので、その心中に迫って欲しかったところ。著者の発想なら上野介が善、赤穂浪士が悪でも良かったかも。吉保も敵役ではないしねぇ。
柳沢吉保や徳川綱吉を含む幕府側の思惑、近衛ら朝廷側の思惑、その暗躍の中で翻弄された吉良上野介、そして、狂言回しに利用された赤穂浪士という構図が本シリーズからは想定されるが、ならば、その一方の策士たる近衛ら朝廷側の思惑が一切語られないのは、片手落ちだし、上記構図の説得力や小説としての面白さを失わせる。これ、本当に「空白の桶狭間」と同一著者なのだろうか?

2017年1月22日

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読書状況 読み終わった [2017年1月22日]
カテゴリ 小説

 「神君家康の密書」繋がりで赤穂事件と関連させるとは…。そして、密書伝奇を内匠頭の心痛の原因と結びつけるのは、良くも悪くもらしいなぁという気がする。そして、忍の活用が実に著者らしいが、内蔵助と逢瀬を交わす浮橋(くのいち)が本巻の段階では機能しているとはいいがたい。それと桂昌院従一位贈号をめぐる吉良の暗躍と内匠頭の批判・討論と、「遺恨覚えたるか」との結び付けには、説明不足・描写不足は否めないかも(仮説の意味としては別儀)。内蔵助山科隠遁から吉良討入りの決意表明まで。

2017年1月22日

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読書状況 読み終わった [2017年1月22日]
カテゴリ 小説

 ご存じ忠臣蔵を著者なりの味付けで。柳沢吉保対大石内蔵助の構図か。綱豊配下の忍、吉保配下の忍が出てくるのが、著者らしいところかも。上巻は松の廊下刃傷事件前史から赤穂城開城まで。

2017年1月22日

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読書状況 読み終わった [2017年1月22日]
カテゴリ 小説

1965年刊。著者は立命館大学教授。

 小説・映画で語り尽くされてきた高杉の古典的評伝。

 本書で、高杉が魅力的と感じる人がいるのかなと思うほど、実に毀誉褒貶が激しく、行動の主体性を感じない人物である。

 すなわち、尊皇派、攘夷派、開国派、交易派、富国強兵派、その何れでもなく、またその何れともいえそうな存在感である(ただし、佐幕、公武合体派ではなさげ)。
 その理由が、藩内上層の出自、松下村塾門下生、父祖の意見を尊重する忠孝の心性を持つ人物ということに加え、意外なほど他藩や幕府の人間との邂逅が多くなく、つまり、酒色と女色には溺れたようだが、社交的ではなかったという社会性。そして、上海遊学経験等といった高杉自身の持つ多面性にあると、解読が出来よう。

 もっとも、功罪・善悪・毀誉褒貶がないまぜとなった高杉の実相が、リアルに示されているといえるかもしれない。

 なお、第一次長州征伐における西郷吉之助の目的が、武力によらない長州の潰滅にあった点、第一次長州征伐後、幕府恭順に傾く俗論派を藩主流から叩き出し得たのは、高杉ら奇兵隊による戦勝にあった点は個人的には注意すべき事項か。

2017年1月21日

ネタバレ

2005年刊行。著者は元都立高校校長。

 実は江戸時代において多数刊行されていたセックス指南書の解読を通じて、当時の男女関係とその基軸となるセックスのありようを解読する。

 現代のそれと比較しても全く遜色ない「豊穣」な内容には驚くばかりだが、このような指南書を数多生み出したのは、セックスを忌憚なく享受できる長期の平和と、その指南書を楽しんで読み解きうる大衆の識字力なのかな、との感。

 淫具も多数作られていることにはもっと驚く。

2017年1月21日

ネタバレ

綱吉編ラストから家宣、家継編へ。あちらこちらで吉宗が登場するのが先の伏線でしょうね。ただ、男女が入れ替わっているだけで、細部はともかく、基本的には史実に忠実なので、ストーリー的な目新しさはどうしても欠けてしまう。

2017年1月20日

ネタバレ

ネタバレ 母娘関係が絡むと女性どうしは難しいが、人間臭さを生む。本巻の吉宗と家重・宗武姉妹の関係はまさにそれだ。◆障害を持って生まれた家重は母に疎んじられてきたと曲解。才長けた妹宗武は姉への侮蔑と彼女に対する周りの助けが疎ましい。◇正直、史実に沿わせる展開では先の見える感が強く、個人的にはNG。ゆえに、史実ではうかがい知れない人間関係を描けるか、その中で男女逆転の意味を見出せるかが肝だが、この家族の関係性描写は、女の子供に対する生々しい感情を見せてなかなか見ごたえあり。◆また、紀州から付き従ってきた加納久通と吉宗。
この2人の晩節は、女の末長く続く友情の一面を垣間見せ、これまた良描写だろうか。◆赤面疱瘡についても、天然痘に即して展開させていってるのはニヤリとさせられる。

2017年1月24日

ネタバレ

七代将軍下、江島松島事件。そして八代吉宗期へ。◇大筋は史実準拠なので、女性が将軍、大奥が男ばかりに意味が見出せるかなのだが…。あくまで個人的な感想だが、序列を巡り争う女性像が何か宙に浮いたような気が…。争う女性像としては、関係性の中心に位置できるか、合従連衡に勝利できるかどうかと感じる。が、封建江戸時代の場合、殊に幕府・将軍家・幕閣においては、結局のところ、関係性ではなく序列争い。そのためか、本作の描写も何かしっくりこないところがあるが…。◇もっとも、吉宗と加納久通の関係は女性らしさを滲ませる。
やはり受け手の問題だけか……。

2017年1月24日

ネタバレ

大奥と市井の人物との繋がりが希薄な綱吉期。ジェンダーの逆転という特種性はあるが、史実+αの本作の場合、架空の人物がいないと物語の先が読めてしまう。多くの人と感想を異にしそうだが、ジェンダー逆転だけなら、「物語」としては面白いかは微妙(風刺という意味は別儀)。本巻も先の展開が読めてしまい、また、男性が権力者女性に踏みにじられるという描写も余り多くないのでジェンダー批評としても、うーんと言わざるを得なかった。

2017年1月24日

ネタバレ

田沼意次は、現代視点から見ると実は面白い政治家。大石慎三郎氏らが唱える意次像を割に反映している印象かな。◆単純な男女の愛憎劇を越えてきて、面白くなってきた感が強い。◆ちなみに、男性人口が赤面疱瘡で減少。こういう世界観が、ホントに女権社会を構築するかという根本的な疑問もないではない。数が少ない男性は希少価値を持ち、全国規模ならば少ない男性を巡り女性が競争。つまり男性に選択肢が増える一方、女性は男性を選べない。政治家もその数少なくなった男性が担うなんてことにならないのかな、と愚にもつかない感想が…。

2017年1月24日

ネタバレ

ネタバレ 田沼意次編完。そして松平定信政権期へ。◆漸う史実から抜け出そうという意図、つまり、歴史を物語として語る意味が見いだせた田沼編。吉宗編の片鱗を大々的に展開してきたのは田沼編だ。理由不明だが、作り手の自由度が増した印象が強い。◆その中で、特筆すべきは青沼吾作(蘭人との混血児で蘭方医学の指南役)と平賀源内(男の扮装をするが実は女)であろう。ジェンダーのゆらぎを語りうる男女逆転物語の中、従前はどうしても愛憎劇に偏りがちで、女性が子供を産む性の意味(生物学的な意味合いが強い)からみて、首を傾げる件が散見された。
◇しかし、仕事が絡んでくると、生物学的視座を超えて、社会科学的な意味合いを付与することが可能になる。男女逆転の物語は、こうして初めてジェンダーの物語として説得力を持ちうるのだろう。◇それが表れているのが、実は女の源内の死である。彼女は、他の女性たちから待遇面(能力でないところが心憎い)での厚遇による嫉妬を受け、それに起因する強姦・梅毒罹患による死を迎えるが、多少の誇張・作りすぎのきらいは置くとしてもなかなか見応えのある風刺図。◇こういうのが出てくると、男女逆転の物語として十分楽しめるものと思えてくる。

2017年1月24日

ネタバレ

 江戸時代、天明から寛政期、つまり田沼政権から松平定信政権に移行せんとする時、土佐沖で難破し、あほう鳥の大群が生息する無人島に漂着した人物がいた。この実話をもとに、絶望と締念、そして孤独に苛まれた男たちの生き様を描く。

 強い意思と工夫が未来を切り開く原動力となっているが、事実を丹念に描き、情感に訴えかける叙述を極力少なくしたタッチがいかにも著者らしい。

2017年1月19日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2012年12月11日]
カテゴリ 小説
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