- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003316412
作品紹介・あらすじ
昭和14年以来、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907‐81)が、文化を築き支えてきた伝承者=老人達がどのような環境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーをまじえて生き生きと描く。辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の舞台にうかびあがらせた宮本民俗学の代表作。
感想・レビュー・書評
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1960年(昭和35年)。
民俗学者・宮本常一の代表作。柳田国男が言及を避けてきた性風俗や被差別民について積極的な研究を行ったことで知られる。フィールドワークに裏打ちされたエピソードはとても興味深い。
特に印象に残ったのは「女の世間」と「土佐源氏」だ。「女の世間」は農村の女の話を採録したもの。いわゆる「エロ話」なのだが、実に開放的な話が多い。例えば、夜這いは日常的な習慣で、結婚前に処女喪失するのは珍しくもなかったという。また、自分の村しか知らない娘は「世間知らず」とバカにされて嫁の貰い手がない(!)から、若い娘達だけで見聞旅行に行く習慣があり、旅先で出会った男と夫婦になって戻ってくることもあったという。現代人も顔負けの奔放さだ。
「土佐源氏」は、乞食として最底辺の生活をおくる老人の生涯を綴ったもので、小説として成立しうるほど文学的完成度が高い。この翁は親に望まれぬ子として生まれ、ヤクザ稼業をしながら放蕩を重ねた挙句、乞食に身を落とした駄目男である。だが、その女性遍歴の原動力は母性に対する憧憬であり、自身も弱者であるがゆえに弱者たる女の哀しみを知り抜いたこの男に、満たされない心を抱える女達が次々と身を任せてゆく。この乞食男に「源氏」の名を与えた著者のまなざしに、深く頭を下げるばかりだ。
なお、本書で取り上げられているのは主に西日本の村落である。これは、当時の民俗学の研究対象がほとんど東日本に限られていたことや、東京を中心にモノを見たがる学会のありように対する、著者の異議申し立てでもあったらしい。
<一つの時代にあっても、地域によっていろいろの差があり、それをまた先進と後進という形で簡単に割り切ってはいけないのではないだろうか。またわれわれは、ともすると前代の世界や自分たちより下層の社会に生きる人々を卑小に見たがる傾向がつよい。それで一種の非痛感を持ちたがるものだが、御本人たちの立場や考え方に立って見ることも必要ではないかと思う。>(p306)
この意見は、1960年代に西洋思想史を刷新した文化人類学者レヴィ=ストロースが展開した西欧中心主義批判と符合する。本書の執筆時点において、宮本氏が西欧の新思想についてどれほどの知識を得ていたのかは不明だが、「無字社会の生活と文化」という共通テーマを研究対象とした両者の辿り着いた結論が同じだというのは、とても興味深いことだと思った。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
何度も読み直したくなる一流のドキュメンタリー
前半は文字を読み書きできない老人たちを語り部とした、村における風俗史といっても差し支えない内容。口語調であるが故に容易に情景が浮かび上がります。中盤は氏の祖父の歴史、世間師、大工といった村と外部をつないだ人々の話から、いかに外部と交流することで変化していったか、が描かれる。
終盤は村におけるインテリ農民による記録から村の隆盛の過程を紐解いていく。。
それぞれが非常に面白く、想像力が掻き立てられます。
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宮本常一という民俗学者が日本全国を旅しながら、その土地のお年寄りから聴いた話をまとめたもの。
明治、大正を生き抜いたある意味自分の祖父母の若い時代はちゃんとしっかり若者で、自分の足で様々な所に旅したり、出稼ぎに出たり、ずっとアクティブだったんだと実感。
性に関しても現代よりもずっと奔放な感じでそんなエロ話が田植え中の奥様たちがとても健康的に語る姿にクスッと笑ってしまいました^_^ -
・面白い!
・西日本が記述の中心であることが、なんとも嬉しい。
・もとは「年寄たち」という総題が想定されていたのだとか……「忘れられた日本人」は同じ意味だが、より大上段に構えた表現であって、もとの素朴な想定のほうが内容にフィットしている。
・寄合とか地域会とかめんどくせぇと肌で嫌悪するシティボーイなので、興味を持ったのは多くの人と同じく「土佐源氏」が、結構作者による創作なのだという事情を聴いてから。
・が、むしろ冒頭の「対馬にて」「村の寄りあい」あたりで、記述内容と、地の文の文体と、差し挟まれる聞き取り引用会話文の面白さが、「女の世間」を経て「土佐源氏」で大爆発する、という構成の妙に強烈に引き込まれた。
・その頂点が、148p「(略)つい手がふれて、わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった。/秋じゃったのう。/わしはどうしてもその嫁さんとねてみとうなって、(略)」。
・「人のぬくみ」を思い出す「私の祖父」や、「非農民の粋」を語る「世間師」、そして貴重な取材源を疎かにしない「文字をもつ伝承者」が後半にくる、やはり構成の妙味。
・隙のない連作短編集の構成だ。
・奥さんをないがしろにして「助手」を伴って取材旅行に出ていた自身の「いろざんげ」を、「土佐源氏」に代弁させたのだ、という読み解きも、実に文学的でぐっとくる。
・ちくま日本文学022の文庫解説では石牟礼道子が解説を寄せているのだとか。確かに、石牟礼道子、森崎和江、上野英信、谷川雁らサークル村の活動と、近接する研究だ、とは思う。が、敢えて露悪的に言えば、根本に左翼思想を置いて、日本の原郷を目的として探る、という活動と、宮本常一の活動は、因果が逆なのだと感じた。宮本の左右政治思想は知らない、が、この本を読むと、思想より人への興味が先行しているように思えるのだ。
・また、被差別部落に生まれ落ちたことを根拠に文筆活動を組み立てんとする中上健次に対して、「中上健次の同和理解は暗くて浅い、私の理解ではもっと明るくて深いものだ」と言ったという。勝手な推測だが、路地出身とはいえボンボンのインテリに過ぎなかった中上の近代性を、むしろ前近代性から批判し得る見聞をたくさん仕入れている、ということなのだろう。「山に生きる人々」にて、ある種の作家(三角寛とか?)のサンカ幻想を意に介さない記述があるらしいが、うーんたとえば吉本隆明に「どういうことですか」と質問を繰り返した岸田秀のごとき、カラッとした鷹揚さが感じられるのだ。
・左翼ー日本探求という点では、宮崎駿も同じ文脈に入れるべき。文芸や表現が、左翼的心情を出発点にしたりモチベーションの源にしたりするのはありうべきことだが、主張の道具に、作品や研究が使われてしまう可能性もあるのだな、とここ数年の石牟礼ー森崎読書で知った。いやむしろ石牟礼ー森崎は、谷川ー上野のその傾向に抗しているのかもしれない……今のところは想像するばかり。そこに思春期に熱中した中上や大江も加わってきたり、いずれ読みたい柳田国男や折口信夫や南方熊楠もきっと関わってくるんだろうと想像されるが、何かしらのストッパーとして、宮本常一を憶えておきたい。
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柳田国男・渋沢敬三の指導下に,生涯旅する人として,日本各地の民間伝承を克明に調査した著者(一九〇七―八一)が,文字を持つ人々の作る歴史から忘れ去られた日本人の暮しを掘り起し,「民話」を生み出し伝承する共同体の有様を愛情深く描きだす.「土佐源氏」「女の世間」等十三篇からなる宮本民俗学の代表作. (解説 網野善彦)
目次
凡例
対馬にて
村の寄りあい
名倉談義
子供をさがす
女の世間
土佐源氏
土佐寺川夜話
梶田富五郎翁
私の祖父
世間師(一)
世間師(二)
文字をもつ伝承者(一)
文字をもつ伝承者(二)
あとがき
解説(網野善彦)
注(田村善次郎) -
1955年あたりから、村々の年寄りから、聞き集めた伝承をまとめたものです。幕末から、戦後まぎわあたりの話で、まさに忘れられた日本人の姿が、老人たちの口から語られています。
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第二次世界大戦後まもなく、対馬や四国、愛知県などの農村/漁村を訪ね、昔の生活を人々に聞いてまわる。
歌を愛し苦労を癒す農民たち、貧しく苦しい生活、夜這いの慣習、ハンセン病を患い差別された旅人との出会い、盲目の乞食、各地の復興を飛び回った大工、心優しい祖父と亀を助けた話、農家の元気な女性たち、
文字を書けない人も多く登場する中で、後半に紹介される二人の文字を知る農民(田中翁、高木翁)の姿には感銘を覚える。農家の立場を誇りに思いながら変わっていく世間への目線を持ち、その村の発展に貢献しようとする。
ここで取材されたのがほんの70年前、というのは不思議な感覚でもある。日本の明治時代からの変化の激しさがわかる。結構近い時代までフリーセックスに近い慣習が多く残っていたというのも驚き。
「昔の人は良く働いた」というのがよくわかる。健康な人がハードに働かないと、立ち行かない時代だったし、それが難しい人は苦しい目にあっていたんだろう、と思う。
この本が出版された1960年頃、すでに”忘れられた日本人”と冠される人たちだった。今ではこのような人たちは絶滅しているだろうか?
人に歴史あり、を強く感じる一冊で、淡々とした語りだけど面白かった -
人類学者宮本常一さんの一冊。読み終わって感じたのは、現在自分の頭の中にある"日本人"という言葉の持つ曖昧さ、残酷さ、虚しさです。そして様々なレイヤー(切り口、断面、側面、肩書き)で自身を認識することの必要性を認識しました。
本で紹介されている"日本人"の多くは、現在一般的に持たれている日本人のイメージとは離れているように感じました。そう感じたのは以下の2点です。1.性に関する大らかさ、2.家庭で主導権を握る女性の在り方。
まず性に関する大らかさです。男性が夜暇になり寂しくなったら隣町までも歩いて行き好みの女性に夜這いをかけることが当たり前となっている村社会。そしてそれを良しとし、黙認する女性とその両親の話。また田植えをしながら性に関する歌を歌ったり、女性が逆に男性に対して露出することにより男性が逃げるという、逆痴漢的な話。加えて一年に一回、村の誰とでもセックスをして良い日がある村の話など。よく今の若い世代は性に対してだらしなく、昔(イメージでは1930年~60年代に生まれた方々)は性に対してもっと厳格で、婿入り嫁入り前の男女が肉体関係を持つことに抵抗感があり、性に対してもっと誠実だった、という話をよく聞く気がしますが(映画『風立ちぬ』にもそういうシーンがありますが)、宮本常一さんがその時代(1940年から60年ぐらい?)に回った西日本の各地域では、性に対して所謂"今時の若者"のイメージよりもさらに解放されていた方々がいたんだという話に、とても衝撃を受けました。当たり前かもしれませんが、日本の地域や時代によってその生活スタイルや「当たり前の感覚」は全く異なるのだと、思いました。
次に主導権を握る女性の在り方です。本のある場面で女性中心で作業が進み、男性がそれを手伝うシーンがあります。女性は男性をこき使い、男性が女性に作業中からかわれたりします。日本は家父長制が強く、男性が家のトップというイメージが強かったのですが、(もしかすると本で紹介されている村もその作業中のみの話かもしれませんが)、女性が男性に対して主導権を完全に握る人たちがいた(もしくは期間があった)という話は、元々頭の中にあった日本の家父長制のイメージを一部破壊してくれました。
以上より感じたのは"日本人"という言葉の持つ限界でした。たしかに日本人という言葉で括り、日本人が自身のアイデンティティーを語ることは一部可能であり、時として強い力を持ちますが、それだけで自身を十分に説明し、個人のアイデンティティーの安定を保つことができるものではないと、改めて強く感じました。
もう一点、日本人に対するイメージの話からは少し外れますが、本で紹介されていた村の「寄合」にはとても興味を持ちました。別に何を話してもよく、トピックも飛びまくり全く収集がつかない話し合い。しかしそれが定期的に実施されることにより村人が村の全体像をなんとなく把握しコミュニティを形成する、というのはとても面白かったです。現在はいかに論点を整理し、限られた時間のなかで議論をピンポイントで深く行うかが重要とされている気がしますが、そもそもそれはいい事なのか、というのは、とても考えさせられました。
"日本人であること"について考える際の材料として、おすすめの一冊です。 -
名もない人々の日常を聞き書き。
人びとの生きた記録が、文学作品のような読み応えになる。
土佐源氏は読んでしばらく噛み締めちゃった。それから94pからの、和さんのエピソードがとても好き。
他の方も感想に書いてるけど、昔の日本人の意識って「女の子は慎み深く」「嫁いり前なんだから不用意に男の人とお話ししちゃいけません」みたいなものだと思ってたけど、思った以上に強くておおらか(?)で意外だった。思えば民謡の歌詞とか聴くとわりと大らかで下ネタも満載だから、まあ、そういうものなのか。この辺のことは地域や時代、社会的立場も関係するのかな。
聞き書きの良さを感じたものの、同時に思うのは、どの程度、開示されるのだろうか、という事。姑のイビリはそんなに無いという話のところでふと思ったんだけど、他所者にどの程度、自分たちの事情を話してたんだろう。
嫁イビリがそんなに発生しない理由は読み進めるとちゃんと説明されてるので、まあ、そうかもね、と思うものの。レアケースな割には世に嫁イビリの話や唄があるのはなんでなんだろう。 -
再読。
柳田民俗学が風俗や風習に焦点をあてた横串の民俗学だとすれば、宮本民俗学はひと一人ひとりの個人史を追う縦串?の民俗学だ。でもそんなことはどうでもよい。
宮本常一の聞き取る古老たちの、あるいは村の生活史は、一つ一つがおとぎ話みたい。村の名士も、橋の下の乞食(本人がそう名乗る)も、それぞれの時代を自分なりに精一杯に生きた。 楽しいばかりでも、哀しいばかりでもない。それらが縦横に入り組んで織りなす人生の物語は、どっしりとした重量感がある。
後の世に伝わるのは王様や天才や豪傑の名前だけれど、本当に歴史を作るのは、大勢の名もないただの人たちだ。著者が残そうとしたのは、語らぬ人々の語る声。
「無名にひとしい人たちへの紙碑の1つができるのはうれしい」 -
この本にはたくさんの昔の言葉や地域での言葉が出てくる。これらをググってもこの本への参照としての検索結果しか出てこない。インターネットは世界のほんの一部しかカバーしていないことがよくわかります。