騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103534334

感想・レビュー・書評

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  •  図書館から借り、「第1部顕れるイデア編」に続いて。
     現実世界とメルヘンほどよく融合された作品、主人公に起きる7ヶ月あまりのできごと、ごく普通の現実と稀有(?)な現実、そしてメルヘンを通し、主人公が稀有(?)な現実を受け入れ安らかな日常に戻る物語だ。
     とはいえ、登場人物のそれぞれがこころの満たされない隙間(空間)を抱えながら生きている様が通奏低音のように敷かれている。

  • 2022年11月24日読了。美しい少女まりえの肖像画を描き始めた「わたし」は、周囲の人々の思惑に流されるうち奇妙な世界に旅立つことになり…。おいしい朝食を作ってセックスして女性の胸の形にこだわったりしているうちになんだかんだ奇妙な住人に導かれて穴の底の地底世界に降りて脱出を目指すことになる、と「めっちゃいつものハルキ小説やないかい!!」と叫びたくなる。要は「いつも通り・期待通りおもしろい」ということでとにかくつるつると読まされる村上小説。いろいろほのめかされる登場人物の秘密めいた情報や伏線はあまり回収されず「??」を頭に浮かべたまま読み進むことになるが、まあ人生とはそういうもの、なのかもしれない…。

  • 最初のあれはなんだったの?

  • 主人公である肖像画を描いて生計を立てていた私が、友人の父の山奥にある家に住むことから始まる物語。絵に自分の魂を入れることで何かを訴えるというのが基軸としてあったと思う。『騎士団長殺し』実際に見てみたい。

  • 相変わらず引き込まれて一気に読んでしまった。
    隠喩・暗喩された物事が多く、ファンタジーの部分でも多くの物語の中で示唆しているような武運があったように思う。
    明確には書いてはいないけど、あのとき起こった事件の背景はきっとこういうことだったんだな、と思わせるところがあるように思う。

    読んでてきになったところは下記
    - クリスタルナハト
    - 盧溝橋事件
    - 南京入城
    - 試合のルールについてぜんぜん語り合わないこと
    - どんなものごとにも明るい側面がある
    - リヒアルト・シュトラウスの薔薇の騎士
    - 試練は人生の仕切り直しの好機なんです。きつければきついほど、それはあとになって役に立ちます
    - エイハブ船長は鰯を追いかけるべきだったのかもしれない
    - ナッシュビルスカイライン
    - ドストエフスキーの悪霊

    人生に対する見え方を示唆するような内容にも読み取れる部分もあり興味深かった。
    この本を読んで私の中で何かが変わるかといえば変わらないのだけど、次に何が起こるのか気になる、引き込まれる物語のように感じた。
    文章の書き方について考えさせられる。

  • 僕はまた裏切られたのだろうか。

    といっても、僕はハルキストではない。これは前にも言ったと思う。それを聞いて君は残念に感じるかもしれないし、何も感じないかもしれない。でも今気にするべきはそれじゃないんだ。

    さて。

    第二部の前半は村上春樹の物語に浸っている実感があった。

    喪失感を抱いた主人公、ミステリアスな登場人物、不思議な存在、幻想と現実の狭間、パスタ、ジャズ、CD嫌い。

    これらは全てが村上春樹小説が村上春樹小説たらしめている記号でもあり、これらに存分浸ることができる。

    しかし、中盤以降は現実原則に即した物語になってしまう。

    そして最終的には何やらハッピーエンドっぽい感じになってしまう。

    ハッピーエンドは暴力的であって、『騎士団長殺し』も忘却を含めた暴力的な帰結を見るように感じた。

    この暴力的な帰結、ハッピーエンドは『1Q84』Book3と類似しているようでもある。

    ここで、僕はまた裏切られたのではないか、と感じてしまう。

    裏切られたと言ったけど、僕はハルキストではない。
    僕がハルキストであることを否定すればするほど皆、君はハルキストだと言うんだ。どうしてなんだろう。よくわからないな。

    バイ・ザ・ウェイ(by the way)

    裏切られたと感じた反面、この『騎士団長殺し』はこれまでの村上春樹の主人公=「僕」のその後が描かれたのではないか、とも感じる。

    謎の日本画家雨田具彦からは、これまでの村上春樹小説(『風の歌を聴け』から続く「僕」や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「私」といった「僕」たち)の影が見える。

    世界を激変させうる出来事(本作ではナチス要人の暗殺)と個人の糧(本作では画家)がリンクし、喪失感と不思議な冒険と失望。

    これが多くの村上春樹小説の「僕」たちだったし、雨田具彦からはこうした体験をした「僕」の影を感じる。

    そして、これまで「僕」たちが解決できなかった諸々、羊男との対話や「記号士」との決着やらやみくろだのリトルピープルだのの処理だの残したことも多かったはずだ。

    雨田具彦も同様、ウィーンの地で喪失感を感じ、イデアなる不思議な存在と接触し大冒険の末に帰国、イデアなのかやみくろなのかジョニーウォーカーさんなのかはわからないけど世界又は個人を破壊しうる存在を自宅裏の祠に封じ込めて残りの人生を歩んだのではないか。

    思えば、第一部には雑木林の中でねじまき鳥を思わせる鳥が鳴く描写や、そもそも井戸と騎士団長の穴には親和性を感じるし、そもそも『どろぼうかささぎ』(ロッシーニ)と『ドン・ジョヴァンニ』(モーツァルト)はオペラという共通点もある。

    こう考えると、そういった僕たちがやり残した諸々を偶然発見してしまった第二世代の僕が今回の主人公だったのではないか、などと感じるところもある。

    何はともあれ、やっぱり村上春樹らしくないところもありつつこれまでの村上春樹らしさの影も感じられる物語だった。

    でも僕はハルキストではないんだ。
    やれやれ、いったいどうすれば僕がハルキストではないと信じてくれるんだろう。

  • 前編のゆったりとした日常からは想像出来ないような、物語はスピーディーにかつ不思議な雰囲気をおびていく。秋山まりえが免色の実の娘であるかもしれない。まりえの肖像画を描くことになった主人公は、13歳の不思議な少女まりえとの接点を持つようになる。森に空いた不思議な穴、騎士団長、顔長...などなどこの世のものではないイデアやメタファーとの出会いが、主人公を2つの世界に迷い込ませ、まりえを救い現実世界に戻るため、主人公はメタファーの世界を進むことになる。細い洞窟の穴を這うように抜けると、そこは雑木林の穴の中だった。不思議な鈴をその穴から見つけて以来、2つの世界を繋げる環を開いてしまった。
    一連の騒動を終えて、柚との関係は元の夫婦に戻った。そこには娘もいる。物語は上手くいったように終わったが、前編のはじめに顔のない男がペンギンのお守りを持って現れている。環は閉じられ、2つの世界は交わることがなくなったように思われたが、顔のない男が自分の肖像画を描くように(以前メタファーの世界で主人公を助ける代わりに肖像画を描くと約束していた)、自分の周りの人を護りたくば肖像画を描くように言ってきたので、物語はまだ見えないところで続いているのではないだろうか。この時顔のない男の肖像画を描くことが出来なかった主人公が、今後どのような展開を迎えるのかは私たちの想像の中で補うしかない。

  • 一巡目での感想。
    (村上春樹氏の作品は、何度も読み返す度にまた違うものが見えてきて、新たな気付きや、新たな解釈が生まれるので)
    ストーリー展開や結末が分かっていても、再びページを開いてしまうとそこから読み返してしまう。読み返すと止まらなくなる。これは村上作品全てに共通する普遍。
    気に入った音楽を飽きることなく何度も聴きかえすように。

    村上作品は、文章を追うだけでしっかり体感できる。自分の心の中で描かれた情景が揺るぐことない映像として記憶される。
    ピンクのスーツを着たふくよかな女性の後ろ姿だったり(世界の終わり)、イルカホテルに棲む羊男だったり(ダンスダンスダンス)。
    村上作品だけは、何十年も前に読んだ本でも記憶を映像として呼び起こすことができるのは、この「心の情景」が描けている稀有な作家だからだと思う。

    ●心の情景

    まるで女性器のような雑木林の祠の穴。
    屋根裏に棲みついたみみずく。
    「騎士団長殺し」「白いスバルフォレスターの男」「未完成のまりえの肖像画」が置かれたアトリエ。
    谷の向こう側のまるで要塞のような免色さんの白い豪邸。
    会話の合間に眺めた、窓にうちつけられた雨の雫。

    ●「性」「生」「死」

    「性」「生」「死」は、村上作品で一貫して重要になってくる要素。
    なかなか消化できないそれらの問題を、全てをまるごと享受して生きていく。

    今回は「井戸」ではなく「穴」。
    それは、茂みにひっそり隠れた「まるで女性器のよう」で更に「異次元に繋がっている」ことから、子宮を連想する。
    無から有に変わる場所(命が有形化され、魂が宿る場所)、無風だけど水がある(羊水)。
    別次元に迷い込んだ子宮(もしくは狭くて真っ暗な卵管なのか産道)を潜り抜けて再びこの世に生まれ落ちた時、私はもう一度生まれ変わり、ユズに会う決心をする。
    そして、実質的な我が子ではないけれど、ユズの身籠った子供は、自分にとってかけがえのない子だと揺るぎない確信を得る。

    ●「イデア=顕れる」

    ここで顕れたイデアは、内なる自分。
    「罪悪感」「怒り」「内なる悪」「邪悪なる父」の仮の姿、可視化。
    大切なものを奪われ、どこにぶつけたらいいのか分からない怒りのようなもの。
    表立って出ることなく、心の中だけに留められた怒りのような感情を、ただやり過ごして生きてしまった、未消化のままのもう一人の自分。
    昇華しきれてない感情があるものだけに見えるイデア。

    雨田具彦にとって、愛する女性を殺された怒りと、自分だけ助かった裏切りと罪悪感(騎士団長殺し)。
    私にとって、幼いコミを奪われた病魔と何もできなかった罪悪感、ユズが浮気して突然去っていった怒りとそれに向き合えない罪悪感(白いスバルフォレスターの男)。
    秋川まりえにとっては、母の命を奪ったスズメバチへの怒り、心を通わせられない父親への憤り。笙子への罪悪感。(免色家の謎の男)

    私が騎士団長を殺したことで、雨田具彦のイデアは救われる。
    そして、穴の中に入り、コミを失った現実としっかりと向き合う。
    まりえは免色家で、スズメバチや謎の男と対峙する。
    喪われたはずの愛する存在は、完全に失われたわけではなく、今も尚、自分を救ってくれている。

    ●「あらない」(「在る」と「無い」)

    騎士団長の口癖「あらない」には、「在る」と「無い」を両方含んだ「ない」である。
    「在る世界」と「無い世界」で判断しがちだけれど、実は「無くなった」ものは、完全に「無」になったのではなく、「在りながらして無い」のだ。

    ●「顔なが=メタファー=遷る」

    顔ながは、時空や次元を超えた目撃者(冷静に判断できるもの)で、二つの世界の蓋を開ける者。
    屋根裏を覗いた私そのものが、雨田具彦にとっての顔なが。

    ●「顔なし=二つの世界の橋渡し」

    現実の世界(生・肉体)と非現実の世界(死・魂)の橋渡し的存在。
    橋渡しが可能になるアイテムが顔なし次第で都度変わる。(鈴、ペンギンのお守り、完成した肖像画)

    免色渉=顔なし。
    免色渉の肖像画を完成させたから、ふたつの世界を行き来することができた。

    私は冒頭のプロローグで、顔なしの肖像画を描こうとしていることから、何らかの理由で再び向こうの世界に行こうとしているのかもしれない。

    ●穴の中の世界

    穴の中の世界は、子宮の中で命が芽生えることと似通っているように感じた。
    有形が無形になり、無形が有形になる、「在る」と「無い」が通り道となる場所。

    逆らえない運命のようなもの。
    水があれば飲まずにいられないような(羊水)
    川を渡るしか選択肢がないような(三途の川)
    細い穴を潜り抜けるしか道がないような(産道)

    ●二重メタファー=免色渉?

    「1つの精神が同時に相反する2つの信条を持ち、その両方を受け入れることができる能力のこと。あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの。そのように肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からずっと住まっているものなの」

    物事には相反する表と裏があり、それがセットでひとつである。日が当たれば必ず影ができる。どちらか一方だけを無くすことはできないけれど、場合によっては影に覆い尽くされてしまうことはある。

    目に見える現実世界の出来事だけでなく、別の世界(想像の世界)も信じてもいい。しかし、免色のように想像の世界に現実まで貪られてしまっては元も子もない。

    現実世界と想像世界を上手に行き来できる柔軟さ、不確かなものを信じる力も大事、でもその信念は時に行きすぎると盲目的になり現実を脅かすものにもなりかねない。

    真実の顕れであるイデア(揺らぎのない真実)観念よりも、メタファー(揺らぎの余地のある可能性)不確かな現実を信じる免色渉は、「まりえが自分の子どもかもしれない」という不確かな可能性を拠り所にするために、半ば強引に豪邸を買い取ったり、笙子を手中に納めたりする。
    人間誰しもが、自分の正しさ(信仰)を追求するあまり、結果的に悪をもたらしてしまうことがある。

    ●最後のユズのくだり

    「私が生きているのはもちろん私の人生であるわけだけど、でもそこで起こることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手に決められて、勝手に進められているのかもしれないって。
    つまり、私はこうして自由意志みたいなものを持って生きているようだけれど、結局のところ私自身は大事なことは何ひとつ選んでいないのかもしれない。
    そして私が妊娠してしまったのも、そういうひとつの顕れじゃないかって考えたの。
    こういうのって、よくある運命論みたいに聞こえるかもしれないけど、でも本当にそう感じたの。
    とても率直に、とてもひしひしと。そして思ったの。
    こうなったのなら、何があっても私一人で子供を産んで育ててみようって。
    そして私にこれから何が起こるのかを見届けてみようって。
    それがすごく大事なことであるように思えた」

    これは、私が18歳の時に日記に綴った言葉とほぼ一緒。
    私は免色渉やユズのように、完璧主義で徹底している。
    避妊だってぬかりなく、計画外の妊娠なんて絶対に在りえないはずの条件で、妊娠してしまった。
    そして、私はユズと同じように「産もう」って決心した。
    結局産めなかったし、その後も流産を繰り返し、結果的に子宝に恵まれたなかったけれど。
    それでも、あの時思ったこの感情や出来事は、私にとって「あらない」なのかもしれない。
    現実には「無い」けれど、今でもしっかりと「在る」。
    私の人生の核となっている。

  • ねじまき鳥のクロニクルと同じ要素がいくつか。井戸と類似した存在の穴(入口出口がないのに通り抜けられる)はその最たる例だ。物語が推進力をもち、物語そのものが望む方へと筆を走らせると、その人の中では同じような場面へと帰着するのだろうか?計り知れない境地。この作品は、登場人物の会話が特に秀でている。会話の中から新たな価値観や物語を進める符丁のようなものが生まれる。それは常に、インフォメーションギャップのあるコミュニケーションだから、他愛もない会話でも目が離せない。東北大震災の出し方が、村上春樹の人間性を物語っている。というより、主人公の一人称からして、それ以外の出し方は考えられない。さり気なくて、慎ましい思慮に富んでいて、それでいて事実をズバッと指摘する端的さを含んでいる。一瞬一瞬を切り取りながら、その雰囲気を楽しむ作品だと感じた。

  • まりえが主人公に語りかける「私の絵を描いている先生の中に入ってそこから自分を見てみたい。それで自分自身の理解が深まる。先生も私のことをもっと深く理解できる」とは深い言葉。また主人公が自分自身の手を眺めながら「私自身にとって私という人間が意味を持たない存在であるように思えてきた。私の手に見えず、見覚えのないよその人間のもののように見えた」との言葉も、人間とは何かを問いかけている。井戸のような「穴」に異次元世界との接点を感じさせ、また意味深な象徴的、含みがあることが実に興味深いところである。第2部では主人公の実に不思議な世界の体験が、これぞ正に村上ワールドという感じで、私が魅きつけられる点でもあり、ついていけない人もいるところだと思う。
    終結部の平和さが、それまでの不思議な物語とどのように繋がるのかなど、これからも解説書などで研究してみたいテーマが多い。

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。79年『風の歌を聴け』で「群像新人文学賞」を受賞し、デビュー。82年『羊をめぐる冒険』で、「野間文芸新人賞」受賞する。87年に刊行した『ノルウェイの森』が、累計1000万部超えのベストセラーとなる。海外でも高く評価され、06年「フランツ・カフカ賞」、09年「エルサレム賞」、11年「カタルーニャ国際賞」等を受賞する。その他長編作に、『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』、短編小説集に、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』『一人称単数』、訳書に、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』『ティファニーで朝食を』『バット・ビューティフル』等がある。

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