愛するということ 新訳版

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314005586

作品紹介・あらすじ

人間砂漠といわれる現代にあり、こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の習得をすすめた本書は、フロムの代表作として、世界的ベストセラーの一つである。

感想・レビュー・書評

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  • ふたりがひとりになり、しかもひとりであり続ける。

  • 「愛するということは、どういうことか?」について、丁寧に考察した名著です。
    よく考えると、今まで自分であまり真剣に考えたなかったテーマのような気がします。
    わかったようで、本当のところはよくわからないといったテーマで、奥が深いと思いました。
    人生の根元的で重要なテーマであり、読む価値ありの名著です!

  • 「自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたときに、恋に落ちる。」資本主義に毒された恋愛感を当たり前に受け入れていた自分に驚く。

  • 内容として理解はできたんだけど、いかんせん経験不足で体の奥から湧き上がるような分かるって感覚になれなかった。

    人生の局所局所で読み返したい本。
    一生、本棚に鎮座すると思う。

  • 2度目。
    掴みはとても面白くて、最後の習練もおもしろいです。が、途中がむずかしいです。
    3度目はもっと違う理解が出来るといいです。

    与えられるものがわたしにもあるといいなぁ
    ものではなく、わたしそのものが持っている経験、感情、態度…。また読みたい本です。

  • 20代前半という年柄もあり、
    これからの自分にとっての生きやすさや大切な人をきちんと大切に出来る為の知識や教養を身につけたいと思って手に取った本

    難しくて100%理解しきれたかと言われるとそうではないけど、自分が今持ちうる経験や思考の中で当てはめて納得のいくことは沢山あった

    言われれば本当に、
    なぜ愛するという事は自然発生的で、自分の能力ではなく対象の問題だと思い込んでいたのだろう、、と不思議に思った
    誰かを愛するために、「自分を信じる」

    これから歳を重ねていく中で感じ方がどのように変化していくのか楽しみ、何度でも読み返したい

    他のフロム作の本や社会心理学にも興味を持った

  • 中庸な主張である。平凡という意味ではなく、急進的な考えを慎重に避けている。

    その上で、資本主義が人間性と精神性を脆くし、愛することを難しくしている様を描く。

    現代文明批判の側面もある。実践的なマニュアル本の側面もある。人格の高潔性、自律を重要視することに立脚している。

    『自由からの逃走』の主張も一部含まれていたが、両書を読むことで論旨が豊かになっていく。

    宗教と愛の関係を敷衍するところが本書の白眉か。

  • 第一章 愛は技術か

    愛は技術である。愛は快感の一種類ではない。

    第二章 愛の理論

    人間の実存(いまここに存在していること)

    人間がそれぞれ孤立した存在であると知りながら、いまだ愛によって結ばれることがない  ここから恥が生まれる。同時に罪と不安もここから生まれる。

    いかに孤立を克服するか、という人間の歴史

    酒、麻薬、女を使っての孤独の克服は負の連鎖を引き起こしている。(太宰治?)

    人は自ら望んで共同体の中へ入っている。仕方なく、受動的に、ということはない。

    集団に同調したいという欲求を自分が持っていることに、気づいてすらいない。(知らず知らずのうちに資本主義社会に生まれ、消費者という部族に属している。さらに自分の欲望であると錯覚している。実際は作られている。)

    みんなとは違う!っていう意識。現状を疑わなかったら生まれないから、それまでは満足していた、ということになるのかな。

    平等……「搾取の廃止、すなわち利用の仕方が残虐であれ「人道的」であれ、人間が人間を利用することの廃絶」

    平等は人間が孤立から逃れるために生まれた?

    アルコール依存症、薬物依存、セックス依存、自殺などは、集団への同調がかならずしもうまくいっていないことのあらわれといえる。

    「仕事も娯楽も型どおり」孤立に対する恐怖を忘れると、自分が人間であること、たった一度だけ生きるチャンスを与られたこと、希望、失望、怒り、悲しみ、愛への憧れがあることを忘れる。

    共棲的結合 受動的な形 服從 マゾ 相手の一部になることで孤独を紛らわす
    能動的な形 支配 サゾ 相手を支配して自己を拡張する。
    マゾとサゾには共通点が多い。

    成熟した愛は「自己の全体性と個性を保ったままでの結合」愛とは「人間の中にある能動的な力」

    現代における活動は自分の外にあるエネルギーに力を注ぐこと(仕事)と、外界の変化に関わりなく、自分に本来備わっている力を用いる(瞑想)二種類がある。

    情熱(受動的)と行動(能動的)

    愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。

    与えることは自分の持てる力のもっとも高度な表現

    たくさん与える人が豊かな人(クリスマスキャロル)。自分の生命(自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみ)という人間的なものを与えることが最重要。
    与えること自体がこの上ない喜び
    与える 貰う ☓ 与える 与える ◯

    愛 その配慮
    愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。(方法の方法論)

    愛 その責任
    愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、仲間にも責任を感じる

    愛 その尊重
    尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである。

    愛 その知
    人間の秘密を知りたいという欲求。サドはその方法の一つだが、愛によってのみ完璧に満たすことができる。

    男性的・女性的な性格p61

    「愛するから愛される」「あなたを愛しているから、あなたが必要」

    母の愛……無条件、コントロール不可
    父の愛……条件あり、コントロール可
    「やがて子どもは成熟し、自分自身が自分の母であり父であるような状態に達する」

    神経症は母の愛、父の愛のバランスが崩れることによって生じる。(その他 強迫神経症、抑うつ、ヒステリー)

    愛の種類 友愛 別け隔てなく与える愛
    恋愛 特定の一人、だが、恋愛における愛しかない人は自己の拡張をしているに過ぎない。

    p35「自分で選んでいない」娯楽

  • 結婚後、トラブルが起こってから夫婦関係がうまくいかず、それでも試行錯誤して、いま夫との関係性が良好になった。自分の中でどんな心境の変化があったのか、夫婦とはどうあるべきか、と考えたくて、図書館で借りた本。

    内容は難しくて理解できないことも多かったけど、愛することについて、ハッとさせられることが隋書にあり、もっと深く理解できるように何度も読みたいと思えた。購入して置いておこう。

    夫婦関係が上手くいかなかった時は、とにかく夫からの愛が欲しくて、いつも独りよがりで自己中心的な欲求をしていた。
    ある一件から、夫のことを信じて、受け入れようと、真剣に話を聞いて、自分から愛を与えることができるようになってから、夫婦仲はよくなった。

    この本で愛する技術を知り、やはりこれでよかったんだな、今後、愛する対象が増えていっても、自ら愛する技術を実践していきたいと思えた。

  • ■評価
    ★★★✬☆

    ■感想
    ○フロイト左派と言われるように、フロイトの言ったものに対して否定的なスタンスを取るという印象があった。セックスについての取り扱い等。前半は、反フロイト感がつよい。
    ○それだけフロイトの影響力が高いということなんだろう。
    ○フロムは、愛は難しいものという認識がありそう。でも大切だと。本当に?難しいものなのかな??という疑問も合った。

  • 愛するということは、自然に備わっている能力ではなく技術だ、という概要を読み、これは読まねばと思った購入本。
    「はじめに」で釘を刺されつつも、覚悟して読み進める。む、難しい。でも、安易なテクニックが知りたい訳ではない、物事の本質や自分の思考について考えさせられる本を求めていたのだから大丈夫大丈夫と言い聞かせる。
    神や宗教の話になると少し意識が遠くなってしまうが、そう思って読んでいると急に理解できる部分もあったりして。(目の前に謎の玉があって、それがすごく近くなったり、遠くにいったりするイメージ。私はただそれを見ていることしかできない。)
    母性愛や46p-56p、愛の習練の章は書き留めたフレーズもあり何度も噛み締めたい部分。
    今の自分はこの範囲しか分からないが、谷川俊太郎さんが帯に書かれていたように、経験を重ねて深まるところもありそうだ。

  • 20年ほど前、大学の一般教養"国際関係論"の先生が、初回講義の冒頭でなぜかこの本について言及していました。
    その記憶がずーーーーっと残っていて、気になっていたけれど一度も実際には手に取ったことがなかった本。まさか最愛の人を通じてこの作品と出会うことになるとは。

    この世界をよくするヒントや示唆や知恵が散りばめられている素晴らしい本。

    愛という、人類の非常に本質的な性質?について、深く味わいながら学びながら読むことができる良書です。

    全人類におすすめしたい。
    特にマネジメントに関わる方にはぜひ読んでもらいたいなと感じました。

  • NDC 141
    精神分析の研究者、エーリッヒ・フロムの著、1956年。
    愛をテーマに、人間と現代社会について考察。フロムは、現代人は愛の本質を見誤っており、「愛する」には「技術」が必要だと指摘している。

    「人間砂漠といわれる現代にあり、〈愛〉こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の習得をすすめた本書は、フロムの代表作として、世界的ベストセラーの一つである。」

    目次
    第1章 愛は技術か
    第2章 愛の理論(愛、それは人間の実存の問題にたいする答え;親子の愛;愛の対象)
    第3章 愛と現代西洋社会におけるその崩壊
    第4章 愛の習練

  • 差別的な論旨に関しては時代を理由にあきらめることもできてしまうかもしれないが、男はこうで女はこうというときの根拠がよくわからず、というか全体的になんで?ほんとに?と思わされる主張が多くて、論理的な学術書というよりはエモーショナルな自己啓発本に近い感覚だった。

  • 万人を愛すること
    信念という核を持つこと

  • 想像していたよりも文章が難しかった。なかなかずっと自分の中に入ってこなかったので、また読み直してみようと思う。
    でも、以前読んだ「暇と退屈の倫理学」に書かれていたのと似た表現があってとても不思議な感覚になった。


    愛するというのは孤独から逃れ、一つになることを目指すこと、ということなのかな。
    もう一度しっかりと読み直してみたいと思える本だった。

  • 愛がなければ誰だってまともに生きていけないというのは、もはや自明すぎることだと思うが、その愛についてこれだけ深い思索を重ねて論じている本書は、その試みにおいても、そしてそれを読む我々においても、重要な意味を持つ一冊だと思う。
    宗教的な精神論のような色合いは特段濃いわけではないし、フロイトの主張のようなトンデモ感もなく、初版は1950年だが現代においても重要な示唆を与えていると思う。

    孤独耐性がなさすぎて群れてばかりの奴らに本当の愛なんて見えてねぇんだよ、とかスレた思いを抱きつつも、でもそういう奴らのほうが自分なんかよりも幸せに生きてるな…などと感じている私のような人間には、本書はある意味救いであった。

    本書の言葉を借りれば、愛するということは「自分の内に存在するものだけを現実として経験する」ナルシシズムの対極にあり、客観性の観点がなければ実践しえない。そしてその客観性は「理性に裏打ちされたもの」であり、「その基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである」。
    本書で言われるところの「ナルシシズム」が蔓延っている現代には、「愛」が欠落している(あるいは表層的な愛しかない)のも道理であろうし、それはまた知性の欠落とも言い換えられよう。

    一点、あえて批判的な感想を述べるとすれば、愛の理論的な枠組みにおいて、「父親的」「母親的」といったようなジェンダー的な論法が目立つところはどうしても気になった。一部で比喩的な言い回しとして用いられているニュアンスはなくはないが、「男と女」という明確な二元論に議論が立脚していることはほぼ明らかである。20世紀前半〜半ばの著書であるので時代背景的に無理もないのかもしれないが、性別を超えたところの愛(隣人愛や母性愛でもなく)というものを本書では十分に説明できていないのではないかと感じ、この点だけはフロムの理論の不完全な部分ではないだろうか。

    とはいえ、愛について質の高い評論が展開されている本書を読み、そして自分なりに考察するのとしないのとでは、愛を必要不可欠としている私たちの生にとって、大きな違いがあるのではないかと思う。

  • 愛は能動である。能力である。与えることである。
    愛するということについて本一冊語れることがすごい。
    愛するは自分と自分以外の人、物、行為をつなぐ感情なのだけど、世の中が便利になって、繋がりがなくても薄くても生きてはいけるようになって、「愛する」とか繋がりを保つ能力が衰えてると感じる。それに子供のころからの教育がその感性を育てないで、自立や競争がメインになってるのでもともと人間としてもっている力なのに発揮してこれなかったなあ、人生の後半に来てようやく気付く。

  • 愛は技術であり、習得していくべきもの。
    愛は与えることであり、もらうことではない。
    与える他にも、配慮・責任・尊敬・知が必要。
    自己中心主義を克服し、客観性を身につけることが必要。

    本書を読んで、学生時代の”恋愛”が、今ひとつうまく行かなかったのがすんなり納得できた。
    今振り返ると、だいぶ自己中心的だったなぁと苦笑。

    生活すべての面で、つねにぼんやりしないこと。
    それが、自分・他人ともに退屈させない、能動性のある人間になれるそう。
    愛というジャンルにとどまらず、人間力を鍛えるという視点で、新年の抱負にしたい。

  • 6、7年前に購入してから、愛することに立ち止まる毎に本書に手を伸ばすも難解さに断念し続けてきたところ、この度ようやく読了。

    後半は比較的読み易く感じ自分自身の経験や人間関係が思い返された。

    なにもせずにひとりでいられる、ことが必要とされていたが、「読書も何もせずに」ということでハードルが高く、確かにその場合には不安を感じる。ただ、訓練によって習得可能ということで、心掛け次第という点に希望を感じた。規律、瞑想を参考にしたい。

    咀嚼しきれていないためもう一度読み返して落としこみ、人を愛することに取り組みたい。

  • 大半の話が難しかったけれど、ぐさりと刺さる部分もあり学んだこともたくさんあり。
    何度も読み返したい

  • 愛をキッパリと手段と分け、しかし技術なので、ちゃんと修練しないとまともなものは得られない、なぜなら我々は常に社会に適応し、なんらかの方向づけを意識せずとも備えているからと。
    精神分析をベースに語る著者は、ナルシシズムを一旦家族関係という土壌に還元するが、その背後には常に社会のありようが控えているとも言う。
    身体感覚や、他者への集中、奪還が語られている後半は、正しいことを求めることの険しさを、知識ではなく実践にしか価値はないと、従って言葉でいくら正しいご託を並べてもしゃあないと宣言する。それはたしかに。じれったくなったのか、瞑想一日20分以上をすすめるなどという指南書になっていく。また読みます。

  • どうして愛が必要なのか。僕だったら、愛を媒介として子孫をつくり後世へと生命を繋げていくためで、あくまで手段としてプログラムされたものなのかもしれない、と答えるでしょう、いきなり訊かれたならば。しかしながら、「でも……」とそう答えてしまってから首をひねるでしょう。愛って、そんなに矮小なものだろうか。そしてそんな単一な機能しかもたないものだろうか。人生を楽しくしたり、幸せにしたりするのも愛だとする。それだって、楽しい人生じゃないと生きようという気持ちが芽生えず、生命は滅んで行ってしまうからプログラムされた、と言えるかもしれない。ここで再び、「でも……」とプログラム説の冷たさにたいして疑問を感じ始める。愛っていうものは、生命を巧妙に騙すプログラムで、人生に豊潤さすらもたらすくらい、全力をかけてできているものだとする。生命が愛ありきで設計されたものであっても、人間の知性が世界というものを知り、それを肯定して深めていって完成させるものなのかもしれなくはないでしょうか。これは、才能が、生まれついての先天的なものか、あるいは環境や努力による後天的なものか、という問いに似ています。プログラムはされていてもそれはある意味で「種」であって、後天的に発展させたり深めたりを自分でしていかないとうまく成熟しないものなのではないでしょうか。

    本書は、この、後天的な部分を担当する読み物です。とりとめのない愛というものの本質を、愛することととらえ、さらに愛する技術を学ぶことが大切だとしています。愛は、考れば考えるほど、自分の視野ではとらえきれないようなものだとわかってしまうようなものですが、本書は、うまくそこに形を与え、理論化しています。途中、同性愛を否定する箇所や、眠りを疎んじ覚醒をもてはやす箇所などで古さを感じるのですが、それ以外はおおむね読ませるどころか、新たな学びともなる、ひとつの見事な論理として愛というものの姿を知ることができる内容になっていました。

    前置きが長くなりました。ここで序盤の文章から一文を引用します。
    ___

    人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。
    (p23-24)
    ___

    著者・フロムの心理分析では、こういった「孤立」を解消するために愛があるとされます。また、愛にいたるまでにも、「孤立」を解消する行動を、人はいくつも行うことも記されています。たとえば、外界があるから孤立を感じる、というところに人は気づくのです、おそらく無意識の領域で。では、外界と同調し自分を失えば孤立はなくなるがそれだとどうか、となる。どうして生きているかもわからなくなりそうです。そうならないようにうまくやるには、つまり外界との同調を嫌いながら孤立感をやわらげるには、外界を消し去るほかなくなります。アルコール依存や薬物依存の理由はそうやって外界を消し去るため。外界を消すことは、外界から徹底的に引きこもることで成されるからです。また、祭りなどの非日常の行動も、孤立感を消し去る効果がある。これは、高揚状態と集団の結束のつよまりから孤立感が薄れます。この類いの行為としては、考えてみると、パチンコや競馬などのギャンブルに足を突っ込みすぎることというのは、孤立ゆえに外界を消そうとする行為なのだろう、とわかってきたりします。あとは、創造的活動が、没頭して生産的になることで世界とひとつになるような経験をし、孤立感が無くなります。ただ、人間同士の一体感こそが、偽りでもなく一時的でもない一体感であり、孤立から脱する完全な答えとしての行為が、愛なのだ、と著者はいうのでした。

    ここで僕なりに思い浮かんだことは、引きこもることも、外界を消す行為だということでした。孤立から自分を救うための行為ということになります。誰も自分のことをまるでわかってくれないことが孤立だともいえます(孤立とその不安を解消できる機能を備えた社会が作れるのならば最高ですよね)。少なくとも西洋社会では、個人は孤立から逃れる心理ゆえに自ら社会に同調していくといいます。日本はどうだろうかと考える。建前で同調して、隠した本音では同調することで自分をなくしたくないと思ってはいないだろうか。だとすれば、本音を隠したその行為、その心理は孤立感を育てるでしょう。ゆえに不安を呼び、強迫的な行動に繋がりやすくなる。また、不安って認知を歪めるといいます。隠された本音由来の孤立感からくる不安が認知を歪めることで、似非科学や陰謀論にふりまわされやすい心理状態になりやすいのではないかと考えるところです。

    愛は与えることだとも書かれていました。ある人が誰かに与えることで、与えられた誰かの中でそれがなにかが生まれるきっかけになり、なにかが生まれたときには与えた人にそれが思わず返ってきたりする。上昇スパイラル、正の連鎖ですね。べたな例ですけど、ライブなんかでのミュージシャンやアイドルと、観客やファンの関係はそれにあたりそうです。損得や犠牲で「与える」という行為をとらえているうちは、うまくいかないということでした。

    とても勉強になったのは、父性と母性のところでした。無条件で愛する母性と、自らの言うことを聞くなら愛するというような条件付きで愛する父性。人は成熟すると、自らのなかに母性も父性も自足するようになるというのです。ただやっぱり、ちょうどいい母性と父性との関わり具合があって、そのバランスがおかしいと愛することがうまくいかなくなる、と。神経症的な愛の形になってしまうんです。

    たとえば僕は母の介護をしているなかで、強い父権でもって完璧主義と強迫観念で母に接する父がいることで、家庭でのバランスを無意識にとろうとして無条件に愛する母性的接し方をするようになった。でも機能不全家庭で育った僕にそんなことができるのだろうか。まやかしの母性ではないかと疑念がわいてきます。愛することが得意かどうかというと、僕は子どもへの接し方に苦労するほうなので、そこを鑑みるとほんとうは得意ではなさそうなんです。でも、子どもってふつうに闇や悪をかかえているもので、ピュアではないことを知っている(自分の子供時分のことを覚えている)から接するのに苦労するのかもしれない。ある意味で素直でシンプルなのが子どもの可愛いところ。でもピュアな感じでの善とは違うでしょう。親を含む大人などの他者が子どもである自分をどうみているかをちゃんと知っていてそれを利用して演じたり嘘をついたりし、自分の思う通りにする。混み入った罠を思いつき実行したりもします。

    神経症な愛のひとつの例として、以下の引用をしておきます。
    ___

    「投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、そのかわりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐといった態度にも、神経症的な愛の一つの形が見られる。この場合、個人が、集団や民族や宗教のようにふるまう。この手の人間は、他人のどんな些細な欠点も目ざとく見つけ、他人を非難し、矯正することに忙しく、自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている。」(p151)
    ___

    後述に「自分が支配的だったり、優柔不断だったり、欲張りだったりしても、それを全部相手にかぶせて(投射して)非難し、性格によって、相手を矯正しようとしたり、罰したりする。」とあります。こういう人、いますよね。母性や父性との関わり方がうまくいかずに大人になったからではないか、と本書を通読するとそう考えてしまいます。

    最後に。
    愛の技術を磨くには、「規律」、「集中」、「忍耐」、「技術への関心」がカギになると書いてあります。そして、これらは様々な技術を会得するのに必要なものだし、愛の技術もそれらと同様なのだ、と解説されていました。なるほど、そうかもしれない。気が向いたときだけやるのではなく、規律をもって、気が向かなくてもやりなさい、というところが耳に痛かったです。

    おまけとして。
    他者に無関心でいることが現代の特徴だとして、その無関心を通り道にナルシシズムへ行き着くのではないのでしょうか。相手の事情を考えられなくなっていき、自分の利益ばかり主張するのがナルシシズムの一面です。客観性が弱い。それだと、まともな「愛する」行為がわからなくなっていく。偽りの愛ばかりになるのでしょう。本書では、客観性がないということは理性がない、ということになる、とありました。そして、謙虚さは理性の証みたいなものなんですよね。なるほどなあ、と肯くばかりで。


  • 「人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、決してうまくいかない」

    一番大切な存在なはずなのに大切にできない、愛しているが思い込みで心から愛せていない、これらの問題は自分の人格の未成熟さ、努力不足が招いているのだと理解できました。

    そのためには、自己愛、ナルシシズム、客観力、利己主義、幼少期の母親との関係から生まれた愛着障害、本当の意味での尊重、向き合うべき自身の問題は山積みですが、「愛するには技術がいる」という言葉の通り、知るべき理論の探索と習得、習練に励むための一歩を踏み出していこうと前向きな気持ちです。

  • 2022/09/13〜09/20

    【感想】
    とにかく難しい(内容も実践も)
    ハッとさせられたところは意識しつつ、また何回か読みたい
    一度で全てを理解しきれなかったし、落とし込めそうにない、、、、、

    利己主義と自己愛についてかなり納得した
    教育と洗脳の違いもわかりやすかった
    (教育→子どもが可能性を実現してゆくのを助ける
    洗脳→大人が正しいと思うことを吹き込み、それ以外を排除すれば正しく成長すると言う思い込み)

    「ナルシシズムによって歪められたイメージ」と客観性の区別をつけなければならない、だったり、理にかなった信念(自分自身の思考や感情の経験にもとづいた確信を抱くときに生まれる確さと手ごたえ)を持つ、だったり、愛することは難しいけれど、「利己主義」ではなく「愛する」への道のりは見えた気がする(気が遠くなるほど遠い道のりではあるけれど、道を間違える可能性は下がった)

    【好きな言葉・表現】
    だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ。(P17)

    その技術を習得することが自分にとって究極の関心事にならなせればならない(P18)

    成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である(P40)

    自分の中に息づいてるもののあらゆる表現を与えるのだ。(P46)

    誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。〜感情は生まれ、また消えてゆく。もし自分の行動が決意と決断にもとづいてなかったら、わたしの愛は永遠などと、どうして言い切ることができよう。(P 91)

    集中するということは、いまここで、全身で現在を生きることである。(P170)

    【メモ】
    平等とは
    宗教的な文脈:われわれはみな神の子であり、誰もが同じ人間としての高貴な資質をそなえており、われわれはみな一つである
    われわれ一人ひとりは唯一無二の存在であり、それ自体が一つの宇宙である
    人間が人間を理よくすることの廃絶
    資本主義社会:同一、人間の標準化

    愛の能動的性質とは、配慮、責任、尊重、知

  • 大学生時代に親友とBOOKOFFでお揃いで買った。
    お互いに読み進めて感想を言い合った。
    思い出の一冊。

    その友達とはもう絶縁状態。

  • フロムいわく
    人を愛するにはそのための技術が必要

    人は孤独感を克服するために愛する

    そのための方法としては
    ありとあらゆる祝祭的興奮状態。
    いわばお祭りのような儀式

    または集団、慣習、信仰への同調
    「私はローマ人である」
    しかしこれも精神にとって効果的だが肉体にはあまり効果がないので、孤立感からくる不安を癒すには不十分
    利点は長続きすること

    平等とはすなわち、自分こそが目的であって、けっして他人の手段ではないということ。

    生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。
    祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。
    集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感

    完全な答えは、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛である

    共棲的結合の生物学的な形は、妊娠している母親と胎児の関係に見られる

    共棲的融合の受動的な形は服従の関係
    マゾヒズム

    共棲的融合の能動的な形は支配
    サディズム

    対照的に成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。
    愛は、人間の中にある能動的な力である。

    愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。
    そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏み込む」もの

    愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること

    逆説論理学的には「人は矛盾においてしか知覚できず、最高の唯一の実存である神を思考によって知ることはできない」

    宗教の究極的な目的は、正しい信仰ではなく正しい行いである。

    客観的に考える能力、それが理性である。
    理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである

  • 何度も何度も読み返したい本

  • 自分や他人との向き合い方が変わるであろう一冊。例えば、「愛は技術」「精神的に自立していること、相手を尊重することが大切」「成熟した人間は、自分の内部に良心を築きあげている」など、響く言葉が見つかると思います。

  • フロムは以前から気になっていたものの、今回初めて読んだ。並行して「生きるということ」も読んでいる。

    最初の方で、母性愛を無批判に崇めるような記述や同性愛を否定する記述があり、その時点で先を読み進めようか迷って、一旦中断した。その時代での価値観、というものはあって、それらをカッコに入れないといけないという場面は多くある。「過去の価値観は確かにまあそうだったよね」という「時代への理解」を、立ち止まらずにしてしまうことができなくて、未だにどう向き合っていいのかわからない。
    ただ、その母性愛礼賛/同性愛否定の部分を読む前の時点で、フロムは東洋思想にも関心を深めたと知っていたので、西洋/東洋の区分やその違い、考え方に混乱し始めた今日、また本書を手に取ってみた。
    途中で放り出さずに最後まで読んでよかった。上記のような賛同しかねる部分はあるものの、西洋/東洋をどのように捉えられるかという考えの入り口にもなったし、「愛」こそが、単なる標語や理想論ではなく、他者との共生のために必要な、現実的な「技術」であるという言明に、ウクライナで戦争の続く最中に出会えて少し救われたような気持ち。

    この本の主題はたしかに「愛」ではあるが、私の昨今の個人的関心から、西洋思想・東洋思想を横断するような、それぞれを客観視するような視点の一つを知ることができたのが、一番の収穫かもしれない。最近は、言語学にも興味があり、言語と文化の関係性も気になっていた。自分の母語である日本語と、勉強中である英語くらいしか、比較した言説を聞いて納得できるものがないのが歯がゆいが、その中でも、「英語は論理的で、日本語は情緒的」というような話を聞くと、それは思考にも影響を与えていることなのだろうか、というのが疑問の一つとしてあった。

    フロムは、本書の中で「神への愛」にまつわる問題の一つとして、「東洋(中国とインド)と西洋の宗教的態度の基本的ちがい」について述べている。
    「アリストテレス以来、西洋世界はアリストテレス哲学の論理にしたがってきた。その論理とは、AはAであるという同一律と、矛盾律(AはAではない)と、排中律(Aでないと同時に非Aでもないということはありえない)にもとづく」「このアリストテレス倫理学の公理は、私たちの思考習慣にあまりに深く浸透しているので、『自然』で自明のように感じられ、『XはAであると同時に非Aでもある』と言われると、意味をなさないように思われる」
    「アリストテレス論理学の対極にあるのが、逆説論理学とでも呼びうるもの」「逆説論理学は、中国やインドの思想、ヘラクレイトスの哲学において主流を占め、さらに弁証法の名のもとに、ヘーゲル、そしてマルクスの哲学となった」
    さらに、「逆説的思考は、寛容と自己変革のための努力を生み、アリストテレス的な思考は、教義と科学を、すなわちカトリック教会と原子力の発見をもたらした。 」と続く。
    東洋思想においても「異端への迫害」はもちろんあったので、大分強引で荒い結びのように思うが、言語と思考の関係は、一直線に結び付けられるものではないというのはここからも導き出され、なんとなく腑に落ちるところもあった。
    その論理の「荒さ」というのは、フロムにとってこの一冊ですべてを語り尽くそうとしたわけではなく、概略を述べようとしたことから生じているものなのではとも感じるので、他の著作も読んでみたい。

    終章は「愛の習練」ということだが、その冒頭で、「目標への階段は自分の足で上っていかねばならない。決定的な一歩を踏み出すところで、習練の解説は終わる。」とあり、その内容は確かに、例えば今目の前の一対一の関係としての「愛」の悩みを抱える人の「処方箋」にはならないが、私にとってはなんて実際的で親切な言葉なんだろうと感じられた。それこそが、フロムが愛を抱ける人であることの証明でもあるだろう。

    「言語と文化」「西洋/東洋」についての私の自由研究は始まったばかりなので、まだまだ色々読んでみよう。サイードの『オリエンタリズム』も、そもそも「東洋」「オリエンタリズム」という言葉から抱いていた私のイメージと、サイードが述べるもの(中東・イスラム世界)とのギャップを前にして立ちすくんでしまったが、今日サイード自身の講演の様子をyoutubeで見たら、その生い立ちを踏まえれば納得できることもありそうと思えたので、また再度挑戦してみたい。

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著者プロフィール

ドイツの社会心理学者、精神分析家。1900年、フランクフルト生まれ。ユダヤ教正教派の両親のもとに育ち、ハイデルベルク大学で社会学、心理学、哲学を学ぶ。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーブに移り、1934年にはアメリカへ移住。1941年に発表した代表作『自由からの逃走』は、いまや社会学の古典として長く読まれ続けている。その後も『愛するということ』(1956年)、『悪について』(1964年)などを次々と刊行する。1980年、80歳の誕生日を目前にスイス・ムラルトの自宅で死去。

「2022年 『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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