世界が完全に思考停止する前に (角川文庫 も 13-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784043625031

感想・レビュー・書評

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  • 「変化や進歩が当たり前とする常識や思い込みに対しての抗いは、明晰すぎるものへの不安感や警戒心にも通底する。条件反射のような断言や自信たっぷりの確信に触れるたびに、頷くことへの躊躇いや曖昧な羞恥をどうしても払拭できない…」

  • すべてに賛成できるわけではない、当たり前やけど。
    でも「一人称を失った主語」の恐ろしさっていうのは、そのとおりやって思いました。広く考えなくたって身近な学校にだって、その恐ろしさは溢れてるよね。

  • 「タマちゃんを食べる会」という短文が掲載されている。
    2002年、あざらしのタマちゃんブームの際に書かれたものだ。

    曰く、自分のまわりにある数多くの製品が、
    夥しい数の他の生命の犠牲の上に成り立っている。
    そのことに無自覚に、思考停止に陥って、目の前のタマちゃんだけを
    可愛がるような不感症にはなりたくない、と。
    だから、タマちゃんを食べる、と。

    森達也が一貫して言い続けている「一人称単数」「思考停止」「想像力」が
    随所に現れた名著。

  • マスコミ報道に関して物申すと言いながら、じゃないかもしれないとやる、読んでるほうは混乱するし読みづらい。言いきらないスタイルなのだと思うけれどあまり関心出来ない。

  • 「そうそう!そうなんだって!」
    もあれば、
    「はー・・・まったく、その通りです。恥ずかしい。。。」
    まで、色々ありました。

    凄い底辺のところから見て、並べて、考えて。
    だから短絡的に安易に流されない。
    「ちょっと待って、なんか、おかしくないですか?」
    それを見つけてくれています。

    意見代弁者とかでもなく、批判・批評家でもないみたいなんです。
    なんやかんや、優しいんだと思います。
    たぶん、俯瞰で見つつも人ごととしては見てないからかなと思います。

    私達に消されてはいけない情報ほど小さな声で一瞬で消えてしまう。
    それを一つ拾い上げては疑問を投げかけてくれています。

    読まなくてはいけません。
    誰にでも絶対できることは、「知ること」。
    なんとなく「かわいそうに」「大変だねー」と思うからねじれちゃうのであって、動きたい。まずできることは、知ること、考えること、小さな声を「無関心」で見捨てないこと。

    せめて、読んでみてほしいし、私も気付いたことを忘れないよう心がけたいです。

  • 内容全てに納得できたわけではありません。踏み込みが甘いとも思えるコラムもあります。
    しかし、新しい視点(物事の考え方)を得られたと思います。
    被害者は一方的な被害者か。加害者は一方的な加害者か。
    マスコミ(断罪者ではなく、あくまで報道者としての)のあり方とは。
    フィクションとドキュメントに境目はあるのか。
    表現することは、情報を単にパッケージすることではない。
    「私」が見たもの、聞いたもの、触れたものを「私」の中で考え抜いて、「私」という主体を通して発信する。
    客観性だとか、中立性だとかいうコトバを妄信してはならない。
    もちろん、他人が自分をどう見ているかを知る必要もあるでしょう。
    だが、客観性や中立性というものは、世間に流されているだけかもしれません。
    それが間違った流れだとしたら? ヒステリックな流れだとしたら?
    感覚を麻痺させてはいけません。
    「私」はいま、時代という流れの、ランナーの集団の、どの位置にいるのだろうか。

  • ・リアルな映像なんてのは存在しない。重要なのは、伝える側の「テーマ」と、受けて側のイマジネーションだ。

    ・世界ではあらゆる被害者が生まれている。例えば日本国内だけで、交通事故による志望者は1日20人。もしも遺族の心情を理由にするのなら、テレビドラマで交通事故なんてこれからは扱えなくなるはずだ。

    ・僕も明日引きこもるかもしれない。

    ・僕は常に自覚的でありたい。 過剰な善意や一方向だけへのヒューマニズムが。他社の生命や営みへの想像力を停止され、思考の麻痺へと発展するのなら、今のアメリカと変わらない。

  • フェイスの本棚から拝借


    「世界の思考を停め、僕らの身を現在も脅かし、そして僕らが本当に対峙すべき相手は、
    邪気や悪意などでは断じてなく、一人称の主語を失った善意や優しさなのだ。」


    森達也の文章はすーっと入ってくる簡単な言葉で語りかけてくる。
    私の思考を待ってくれる。

    森さんが文中で、(偶然最近読んだ)1984年を多々引用している。
    1984年の中ではニュースピークという新しい言語法が用いられた世界が展開されていて
    例えば虐待と拷問の違いがない。

    でも、実際今の日本において、虐待と拷問の違いについて、考えられる幅を持たせた記事はない。
    アメリカ人はグアンタナモの囚人をひどく拷問しているのに、日本の紙面では「虐待」と報じられている。

    1984年のような小説を読めば、ほとんどの人がこんな世界には生きたくない、
    こんな世界にしてはいけないと声高に叫ぶだろう。

    もうなっているのかもしれない。

    ニュースを見るとき、とりわけ誰かが非難されているとき、
    彼らの立場が自分から遠いとき、
    そんなときこそ「普通の感覚」を呼び起こそうと思う。

    「でも王様は裸だよ」
    と言える人に。
    オートマな考えにストップをかけられるように。

    そんなことを考えました。


    自らをジャーナリストではないという彼だけど
    ジャーナリストばりの情報力をもち
    かつ希少な視点で読み解いてくれる。

    読者を考えさせる作者なので、彼の作品は読み続けたい。

  • だらだらだらだら読み続けてやっと読み終わった。「タマちゃんを食べる会」は森達也の記事だったのを知らなかった。確か、どこかの小論文の入試問題になったとかならないとかで、どう思うかと聞かれたらなんと答えようかと考えてみたものだ。おそらく、「食べる」というのは挑発で、他の動物は平気で食べているのに、外国人には戸籍を与えないのに、タマちゃんだけに極度に甘く感覚が麻痺している人々を批判しているのだろう。しごくまっとうな意見である。その他、メディアの自主規制や、ぬるい倫理意識や問題認識についても考えさせられた。一方で、自体を正確に伝えようとする人がいることも知れてよかった。あと、掲載できなかった原稿も収録されていたので、こういう意見が没になるのだなあということもわかり、ためになった。

  • 大体、森さんの著書を読むのも一段落してきた感はある。いろいろと考えた。いろんな考え方に気付かされた。あー、何でこんなことも気付かなかったんだろうっていうくらいに、ごくごく当たり前のようなことを結構僕は見落としたり、ぽろっと落としてそのまま行ってしまったりしているんだなぁ、と感じながら、もう一度それを拾い集めてみようかなぁって気になった。(08/4/12)

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著者プロフィール

森 達也(もり・たつや)
1956年、広島県呉市生まれ。映画監督、作家。テレビ番組制作会社を経て独立。98年、オウム真理教を描いたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。佐村河内守のゴーストライター問題を追った16年の映画『FAKE』、東京新聞の記者・望月衣塑子を密着取材した19年の映画『i-新聞記者ドキュメント-』が話題に。10年に刊行した『A3』で講談社ノンフィクション賞。著書に、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『ご臨終メディア』(集英社)、『死刑』(朝日出版社)、『東京スタンピード』(毎日新聞社)、『マジョガリガリ』(エフエム東京)、『神さまってなに?』(河出書房新社)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)、『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』(ミツイパブリッシング)、『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(講談社現代新書)、『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)、『増補版 悪役レスラーは笑う』(岩波現代文庫)など多数。

「2023年 『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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