- Amazon.co.jp ・本 (143ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102114018
感想・レビュー・書評
-
難解だった。不条理を認識し、自己に落とし込むのがとても難しい。小説には常識を逸脱した様々な形があることは分かった。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【新潮文庫2014夏の100冊27/116】嗚呼、どうしてフランス芸術ってこういつもいつも絶望的に暗いんでしょう( ꒪Д꒪)自分に対し正直に生きても、それを表現するのを疎かにしてたらムルソー君みたいになるぞ、それでも自分を貫くと最後の対抗策は死を受け入れることになるぞって( ꒪Д꒪)母親の葬儀で泣けないと、葬儀の後にすぐにゃんにゃんしたりコメディ映画観るデートなんかすると非人間扱いとなる、だから人は自分に嘘をつく。嘘をつくのが賢いのか、自分に正直であることが悪いのか・・・。
-
ムルソーは「希望」に意味を見出さず、現実の刺激に従って行動している。また、母の葬儀中や裁判中にも世間的な演技をせず自分の感情に素直な言動をしている。
ムルソーを見ていて幾度も「上手くやってその場を凌げばいいのに」と思ったが、彼は彼の感情と社会の道徳的、慣習的なルールとの間に差があることを理解しつつ、嘘をつくことを拒み、惰性の生ではなく真実の生の中に幸福を見出したのだろう。 -
ムルソーって正直なだけだったんじゃないかな。その時代の人々が一般的に信じている道徳とか宗教から外れてて、通常の論理的な一貫性がうしなわれてるとみなされてああいうことになってしまったけど。友人の女性がらみで殺人を犯して裁判に、かけられるんだけど。ことごとく人々の機嫌を損ねてしまう。私は自分が世間の人と同じだということ、絶対に世間の尋常な人たちと同じだということを弁護士に強調したいと心では願ってたにもかかわらず。牢獄でマリィのことを想うが、だんだんどうでもよくなってくる。ひとが慣れてしまえないかんがえなんてないんだ。とか、ムルソーの考えはカミュの洞察を含んだ考えで大衆には理解できずうとまれたんだろうか。ムルソーの気持ちになり人が人を自分の思い通りにうごかそうとする様にウンザリした。
読書会に参加して、関連本のバンド・デシネ異邦人やムルソー再捜査などと合わせていろんな感想を聞いた。バンド・デシネの訳者の青柳先生も交えて。フランスにおけるカフェ・オ・レの意味や、カミュの生い立ち、誰しもが自分の物語だと思いつつも、どこか受け入れられないない想いを抱くのは何故か。辻褄が合いすぎているけどムルソーに騙されているのかなどいろんな伏線がはってあり。アルジェの文化やアラブ人の立場。本を読むにもその国の文化や背景がわかるともっといいな。-
俺が人を自分の思い通りに動かそうとついしてしまうことに自覚的であろうと注意はしているんですけど...なかなか難しいです。俺が人を自分の思い通りに動かそうとついしてしまうことに自覚的であろうと注意はしているんですけど...なかなか難しいです。2019/02/22
-
2019/02/22
-
-
社会システムから見て大なり小なりアウトローの人物を主人公にして、社会システムの矛盾、非情、滑稽を描いていると思います。この作品の主人公の性格は、他の作者の造形する主人公に通じていると思います(少なくとも基礎的な部分は)。第一部と第二部に登場する人物達の性格や、その人達の世界観・価値観の対比が鮮やかで、読者に上手く印象付けていると思います。おそらく作者が、この作品にそのような構造を持たせたのだと思います。ただ、第二部で登場する人物達が戯画的に描かれすぎていると思います。
第一部で登場した人物達は、ある程度友情や愛情を行動基準にしていましたが、第二部で登場した人物達は、語り手であるムルソーの視点から見ると、滑稽で非常識な人達の様に描かれていました。けれど、社会システムから見ると、ムルソーが滑稽で非常識な人に映っています。この対比の部分と、この対比を鮮やかに浮かび上がらせたのが、この作品の凄い所だと思います。現実の社会では、ムルソー的な人達の「声」や「訴え」は社会システムにかき消されていると思います。そしてこの「答え」は、よく文学に取り上げられる素材になっていると思います。 -
「異邦人なのはどっちだ?」
養老院に預けていた母を亡くしたばかりのムルソーは、女友だちのマリィらと訪れた海岸でアラビア人を殺害する。逮捕され裁きの場に引き出されたムルソーに、本人すら確たる動機もわからぬまま判決は下される…
名作と謳われるカミュの代表作だが、正直なところよくわからなかった。なんら説得力のない動機でピストルの引き金を引くムルソーはもちろんだが、母の弔いに涙ひとつこぼさぬというだけで被告を「人非人」と断じる法廷、その処刑に興奮する人々に感情移入できず、この小説世界に出てくる全ての人が、まさに私にとっては「異邦人」だった。
どこまでも割り切れぬ数字のようなこのストーリーはいわゆる不条理小説。だが世の中なんでもかんでも道理が通ることばかりなわけではない。不条理は不条理としてあるがままを描いたカミュは現実を良く知っていたということなのだろうか。不条理を納得いかないものとして自分の内に落とし込めない自分こそが実は「異邦人」なのか? -
何度目かの再読。自分で感じたことしか信じない、この瞬間に湧き出る欲望のほか確かなものなど何もない。ムルソーの情熱は分かりすぎるほど分かる。偽善と権力に汚されたこの世界で純実に生きることの疎外感。それに打ち克つ勇気がないのは私の問題で、ムルソーには灼熱の太陽の光こそが真実。太陽を裏切ることなどできやしない。偽りの観客の中で、最後まで偽りのない自身の死にざまを見せつけようと希求するムルソーの叫びにただ震えるばかり。これが幸福だと言い切るムルソーに、真の幸福とは何たるかを叩きつけられる。自分に嘘をつきたくない。
〈追記〉
ムルソーと太陽の関係について。他の方々の感想を読んで、太陽=権力の象徴という読み方があるのを知ってびっくりしちゃいました。私には太陽こそが真実の象徴で、その光の強さゆえに全てをさらけ出す、暴き出すという意味で捉えたので。それゆえにムルソーは引き鉄を弾いたのだと。だからといって自分の感想に修正を施す気は全くありませんが、読む人によってそれぞれの解釈があって面白いな~と。全肯定型の人間は思うわけです。 -
超かっけえ!
イギリスのキュアーというバンドがこれに影響を受けて「アラブ人殺し」という曲を出しました。