愛するということ 新訳版

  • 紀伊國屋書店
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  • / ISBN・EAN: 9784314005586

感想・レビュー・書評

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  • 1956年に出版されましたが、その内容は普遍的に現代でもあてはまるのではないでしょうか。それほどまでに、「愛」は普遍的なテーマだと言えるでしょう。
    「愛する」行為は技術を要すること、そして自ら能動的に人を愛することで、相手の中にも愛を生み出せることが本書の中でも核となるものだと思います。
    幼稚な愛は「愛されているから愛する」、成熟した愛は「愛するから愛される」。このフロムの考え方にはっとさせられました。
    また、本書でより強烈だった箇所が「愛するという事は、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという
    希望に、全面的に自分を委ねること」という文章です。
    永遠の愛などあるのか、移ろうものではないか、と考えていました。しかしフロムのこの文章を読み、「それは違う」と感じ、私自身の考え方にも大きな影響を与えました。
    この本を、私が学部生の頃に紹介してくださった先生に感謝です。小手先の恋愛指南書とは大違い。学生のうちにぜひ読んでほしい1冊です。(S.T)

    宮教大OPAC
    https://www.lib.miyakyo-u.ac.jp/opac/volume/586275

  • 愛することは技術。
    技術習得には修練が必要。
    修練は日常生活で実行できる。
    神話、聖書、心理学、経済、様々な観点から
    愛を論ずる。

  • ●たいていの人にとっての「愛」
    愛の問題を「どうすれば愛されるか」という視点で、「愛するのにふさわしい対象」を見つけることを重視する。
    「恋に落ちる」体験と、「愛している」という持続的な状態を混同している。

    ●著者が読者に伝えたい「愛」
    ・愛することは技術(自分次第)←本書のテーマ


    ✳︎ 書いてある内容✳︎

    1.なぜ愛するのか
    2.愛とは何か(概要)
    3.愛の種類(具体)
    4.愛する技術を習得するために

    ✳︎ 印象的だった部分の抜粋✳︎

    ① 愛に必要なのは自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断

    ② 自分は揺るがないと信じる者だけが、他人を信じ、他人に誠実になれる。その信念を持つには勇気がいる。信念と勇気を育てるには、自分がどんなところで信念を失いやすくなってしまうか、それをどのように正当化しているかを知ることが第一歩。 

  • ・「愛する」とは技術である。
    ・「愛する」とは対照の問題であり、能力ではないという勘違い
    ・「愛する」という技術(能力)の獲得のためには、配慮、責任、尊重、知が必要
    ・兄弟愛(平等)、母性愛(無償)、異性愛(彼(女)を通して世界を愛する)、自己愛(自己を愛して始めて他者を愛せる)、神への愛(自然との一体感※偶像崇拝的になってきた)
    ・信念と勇気(←規律、忍耐、集中)
    ・個人的には、責任は「相手に応じる用意があること」というのが響いた

  • 愛は1つの快感でありそれを経験するかどうかは運の問題で、うんがよければそこに「落ちる」ようなもの ではなく、愛は技術であり、知識と努力が必要だ。
    このような文章から始まり、著者の生きるということよりは非常に読みやすく1〜2日で読み終えた。
    自分に響くような箇所が複数あり付箋を貼りながら読んだが、そもそも処方箋をもらえると思っていた私が甘かった。
    読んだ後も考えさせられる本となり、すぐに何かを解決することを求めている人には、その考え自体が改めなくてはいけないことなのだと教えてくれるだろう。
    母性愛にはすごく共感。異性愛も無条件の愛を与えるものに近いのかと思っていたら、それとはまた別のよう。
    本質的には、意志に基づいた行為であり、自分の全人生を相手の人生にかけようという決断の行為であるべきだ、と。
    奥が深い。
    全部が全部今は理解できなかった部分もあったので、もう少し成熟したらまた読み直したい。

  • “愛は技術である”

    時代背景に影響されてか、なぜか真っ先に“愛される”ことを考えてしまう。そして関係がうまくいかなければ、それは対象の問題であるとひとり納得してしまう。愛が技術であるとするならば、失敗したなら振り返り改善する必要があり、そこに対象は絡まない。愛が技術であるとするならば、愛されることではなく、まず愛することについて考えなければならない。

    エーリッヒフロムの名著「愛するということ」は40年以上読みつがれている。内容には新鮮さもありながら、どこか“知っていた”ような気もしてしまう。人はあらゆる場面で自分を偽っている。自分に不都合なことにはすぐさま蓋をしてしまう。愛されるよりも愛することの方が大切で難しいと、本当は知っていた自分をこの本の読者は見つけるだろう。

    そして本当のところ、愛されるよりも愛したいと強く思っている。けれど能動的な愛するが否定されるより、受動的な愛されるが否定されることの方がダメージが少ないから、わたしたちは自然と“愛される”ことにフォーカスをしてしまったのかもしれない。

    愛は実存しない。決まった形もなければ、愛の条件などもない。それは良いところであるし、能動的な愛を見つけられていない人からすれば悪いところでもあるだろう。でも形がない決まりもない愛だからこそきっとこんなにも惹かれて、追い求めてしまう。

    “愛”について迷ったら、まず愛することのできる自分がいるかどうかを問おう。愛されることを望む自分がいたら、それはなぜなのかさらに自分に問おう。最終的には愛を与える自分になれるように、日々健やかな心を自分の手で育てていくことを胸に誓おう。愛を持たぬ人は孤独で不幸だが、自ら愛を生み出せる人は孤独でも幸福だ。

  • Ⅰ愛は技術か
    フロムは人を愛するには技術が必要だと述べている。
    技術を習得するためには3つの要素がある。
    1、理論に精通すること
    2、修練に励むこと
      ▶実際の体験を山ほど積んで、理論的知識の集積と実践の結果が一つに融合し、自分なりの直感が得られる。この直感こそが、あらゆる技術の習得の本質である。
    3,その技術を習得することが自分にとって究極の関心事にならなければならない。
    愛は心にしか利益をもたらなさない。現代的な意味での利益は与えてくれない。

    Ⅱ愛の理論
    愛の要素、配慮、責任、尊重、知である
    配慮▶愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
    責任▶責任は、愛の第三の要素、すなわち尊重が欠けていると、容易に支配や所有へと墜落してしまう。
    尊重▶尊重とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。
    知る▶自分自身を与え、相手のうちへと入ってゆく行為において、私は自分自身を、相手をと自分の双方を、人間を発見する。自分が相手に関して抱いている非合理に歪んだイメージを克服し、相手の現実の姿を見るためには、相手を、そして自分自身を、客観的に知る必要がある。思考によって神を知ることができると考えられている。

    こどもの成長
    愛することによって、子どもは、ナルシズムと自己中心主義によって築かれた孤独と隔離の独房から抜け出す。
    生まれて始めて、合一感、共有意識、一体感といったものを知る。
    幼稚な愛「愛されているから愛する」
    成熟した愛「愛するから愛される」
    未成熟の愛「あなたが必要だから、あなたを愛する」
    成熟した愛「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」

    愛の対象
    愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。
    a兄弟愛
    兄弟愛は、あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊重、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のことである。
    b母性愛
    母性愛は、子どもに「生まれてきてよかった」と感じさせる。人生にたいする愛を教える。
    母性愛は、世話と肯定の象徴である。
    母性愛は、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が必要になる。
    c異性愛
    異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいという強い願望である。
    d自己愛
    自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊重・責任・理解(知)に根ざしている。
    利己的な人は自分を愛さなすぎる
    e神にたいする愛
    人間は自分の手で作り出したものを神に変える。(中略)疎外された形で、自分の能力や財産を崇拝するのである。

    西洋と東洋の神の違い
    西洋は、神を、神の実在を、神の正義を、神の愛を、信じることと同じである。神への愛とは本質的に思考上の体験なのである。
    東洋の宗教や神秘主義においては、神への愛は一体感という感覚上の強烈な体験であり、それは、生のすべての行為においてその愛を表現することと不可分に結びついている。

    Ⅲ愛と現代西洋社会におけるその崩壊
    二人の二元が自分たちの存在の中心と中心で意志をつうじあうとき、すなわちそれぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。

    Ⅳ愛の習練
    1、技術の習練には規律が必要である。生活全般における規律も含まれる。
    2、集中が技術の習得にとって必要条件であることは、証明不要だろう。
    3、忍耐である。何かを達成するためには忍耐が必要だ。
    4、技術の習得に最高の関心を抱くこと
    重要ななのは、自分自身の愛にたいする信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。
    他人の可能性を「信じる」ことである。

    信念と勇気の習練
    1、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。
    人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。
    愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。
    愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

  • 愛することは技術であり、訓練を通じて身に付ける能力である、という著者が愛について説明した本。
    なんだけど、全体の半分は愛する能力のない人やそういう人を生み出す資本主義体制をdisる話で、なんというか、読んでて「バカヤロー」と思った(著者はコミュニストらしい)。
    愛がなんだかわからないから、学ぼうと思って読んだのに、著者に自分がケチつけられてガッカリだよ。しかも、愛する技術の獲得は悟りを得るようなもので、こうすればおkという風に解説できるようなものではないとか書いてあって、結局disられ損。まぁ愛する技術なんてそんなものなんだろうなとは思うけどさ、愛せない人への愛が全然ないよね、この本。まだ聖書でも読んでたほうがなぐさめになるわ。

  • 「愛」について人々は「愛される」かどうかを問題にするが、
    愛について重要なのは、いかに「愛する」かということだ。
    だが心配ない、「愛する」ことは技術であり、知識をつけ習練をすることにより近づくことができる。

    「愛する」ことは、能動的であるべきであり、愛は自ら与えるものである。
    成熟した愛においては、
    「相手が自分を愛してくれるから、相手を愛する」のではなく、
    「自分が相手を愛しているから、相手は自分を愛してくれるようになる」のである。
    (ただし最初から見返りを求めて愛すのではない)
    「相手が自分を必要としてくれるから、相手を愛する」のではなく、
    「自分は相手を愛しているから、相手のことが必要になる」のである。

    また、
    愛する相手と自分は、別個の違う人間であることを常にわきまえておくことが必要で、過度に同一視し依存的になることなく、個人としての相手を尊敬していることは成熟した愛への最低条件である。
    愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるであろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

    さらに、フロムがこの本で語る愛の対象はさまざまで、いわゆる“恋愛”に代表されるパートナーへの愛だけではなく、家族の愛や聖書的な隣人愛も含まれている。

    読んで思った、この本にある「成熟した愛」を達成できる人ってほんとうに聖人じゃないか。
    でも、理想形を仮にこれのように置いて、規律・集中・尊敬のトレーニングを重ねていき、能動的で相互に尊敬した、愛に溢れた関係性をつくることに尽力すれば、その道程でかけがえのない素敵なものをたくさん得るのだろう。(見返りを期待して愛することをはじめるのはご法度なんだった、私はまだまだだ)

    過去の経験に刺さりまくる辛い読書だったけど、これを心に留めて人といい関係を築いていきたいものだなあー!

  • 折に触れて読み返したい本。いろいろ考えさせられた。


    *誰かを愛するというのは、単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。
    *愛が冷めるのは、自分に愛せる能力がないことも原因である。
    *未成熟な愛は、あなたが必要だからあなたを愛するといい、成熟した愛は愛するから愛されるという原則に従う。
    *愛というのは幸せ物質です。愛せば愛するほど、幸せ物質は自分の内側から増えていきます。

  • 愛が欲しくてたまらないのにその愛の本質を見失いがちな、今を生きる私たちのバイブル、とも言いたくなるくらいに響いた。

  • ご多分に漏れず、読みたいところだけ読んでいます。

    まず書かれ方について。
    非常に変わっていると思います。右脳で直感的に書いていると思わせるような、飛躍ぶりですが、文体はロジカルな風に書いているので、気持ち悪く思う人もいるかもしれません。
    また、宗教や過去の哲学者や心理学者を批判する一方で急にそれらや彼らを根拠として理論を展開します。

    でも、私はこの本が比較的好きです。
    なぜなら、とても直感的で、所々良いと思える言葉があるからです。

    ・東洋では昔から 、人間にとって肉体的にも精神的にも良いことは 、最初は多少の抵抗を克服しなければならないとしても 、快いものでなければならない 、と考えられていた。
    ・人は自分自身にたいして敏感になることができる 。たとえば 、疲れを感じたり 、気分が滅入ったりしたら 、それに屈したり 、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそうした気分を助長したりしないで 、 「何が起きたんだろう 」と自問するのだ 。

    上記の文体の気持ち悪ささえ許容できれば、一読する価値あり。

  • ”愛とは「世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のこと」という定義(p.76)に強く共感。ただ、これはある程度いままでの自分のなかにもあった考えで、新たな行動にはつながらない。

    「合一感」「生産的に生きる」「息づいているものを与える」あたりに強く興味をひかれた。いまの自分に足りないもの、いまの自分が欲しているものかな。

    <抜き書き>
    ・成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。p.41
     ※やわらかい優しいものではなく、もっと力強い、猛々しいものなのだ。岡本太郎みたいだね (^^)
    ・与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある。(略)自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の命を、与えるのだ。(略)自分のなかに息づいてるものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているあらゆる表現を与えるのだ。p.45?46
     ※SNSやブログなどはこのために使いたいな。
    ・愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。p.76
     ※世界全体!方向性!! → でも、これはある意味で誰もが納得するフレーズだな。
    ・異性愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、一つの前提がある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうということである。p.90
    ・理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。p.186
     ※「生産性」という意外な言葉!!
    ・信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
     ※勇気はあるか? 覚悟はどうだ?
    ・能動とはたんに「何かをする」ことではなく、内的能動、つまり、自分の力を生産的に用いることである。愛は能動である。p.190

    <きっかけ>
     人間塾 2015年12月の課題図書。
     墓参りの帰り道に読了。これも何かのご縁!”

  • メンヘラちゃんに読ませたら溶けそうだと思った。
    愛するってとってもハード

  • 技術の習練
    ①規律
    ②集中
    ③忍耐
    ④関心

    愛には...
    信念(自分・他人)、謙虚さ、客観性も。

  • 愛する事は全方位に対して能動的的になる事。
    あと抜粋で良かった所
    その人を知れば知ろうとすると遠ざかるばかり。知りたいために、サディズムにはしり、洗脳して思うがままに動かすようにする。
    苦しめて秘密を白状させる、人間の秘密を。白状やバラバラに暴力分解するだけではしれないが、愛を通して相手のうちに入り込めば知ることができる。
    人間は、超越への欲求がある。それは自分が創造された、生まれたとの受動的な役割から、創始者と思いたい欲求である。女性は子供を産んで愛し世話をすることがそれだが、男はできないから人工物や思想を作って超越したくなっている。
    それなら女性で人工物や思想を作る人はなに?
    さらに母性愛は巣立つから手離れするまでを望んで後押ししなければならない。

  • さおちゃんには愛があるので大丈夫!

  • 良本。いいトライ。ほぼ永遠と語り継がれるだろう、哲学本であり、絶対にたどり着けない領域の話だなぁと思いつつ、近づきたいとも思える。


    ・愛は能動的で自由な行動である。自分の人間的な力を信じ、自分の力に頼ろうという勇気を獲得しているとき、初めて、愛することができる。

    ・愛するということは、共感することとは違う。愛する者の生命と成長を積極的に理解しようとし、気にかけることである。

    そうありたい。

  • 「愛とは技術である。」

    精神的に成熟していない人間は誰かを愛することが出来ない。

    人々は愛されたいとは願うが、愛しようとは思わない。
    というのも、「愛すべき人」が現れたら、勝手に愛することができるという思いが人々にあるのだ。
    先ずそこが間違っている。
    隣人を愛することができる人間でなければ、真に人を愛することができないのだ。

    愛について知りたい人におすすめ

  • 自宅の本棚にはありますがこれを読んだのはもう四半世紀前。私の中では「利己的な遺伝子」とセットで読むべき本。人間的である、という観点ではどちらもシニカルな内容ともいえるかもしれませんか、絶妙に相補的でそれぞれの本を豊かにしている気がするのです。他人への溢れ出る愛なんてないですよ、とフロム先生は言い、ドーキンス先生はそれを自然科学的考察から裏付ける。でも愛そうと努力することが愛とちゃう?とフロム先生が説き、ドーキンス先生は同種内での慈愛的行動の道理を説く。そして我々を一段上の迷宮へと導く。
    フロム先生がこの本で仰るように、愛するということが愛そうと努力すること、努力し続けることであるならば、君の事を心から愛してると確信を持って言える人はウソつきなんじゃないかと思えてきます。実際そういう傾向がないとは言えなくもなくないかい?そうするともう「100年先も君を愛している」とか歌っている嵐の5人なんてもう大嘘つきですな。
    話が逸れましたが時代を超えて心に届く内容だと思います。名著です。是非とも。

  • 愛とは(愛するとは)、人間の真の欲求だった。わたしたちは、愛するということに対して、資本主義活動の影響を受けすぎている。市場価値がある人を愛すのではない、自分が愛する人を愛すのである。愛されることがいかに自分を幸福にしてくれるを考えるばかりだったが、人を愛することによる自分の幸せが真実なのだと考えさせられた。

  • 「愛は技術である」という挑戦的なテーゼを築城したと言われる一冊で、技術といっても安易なハウツー本ではなく、「どうあるべきか=how to be」を説く内容。

    ただ正直疑問符を感じる点も多い。端的に言えば、これは「キリスト教世界を前提に書かれた本」であり、それは聖書からの引用を多用した不安定な論展開に見られるような顕在的な部分だけでなく、母性と父性を明確に切り分ける描写や、同性愛を認めていないことであったり、21世紀的見地からは著者自身古典的な宗教観やそれに紐づくジェンダー観に引っ張られすぎではと思わずにいられなかった。

    また、社会と個人的愛の関係について論じた後半部分は正直たるかった…「いや、そうだよね。で?」って内容に終始しており、その中でどう生きるべきかを指し示すような示唆もなし。

    結局言ってることは、愛されることを待つんじゃなくて、「愛されるよりも〜愛したいまじで〜」っていう気持ちが愛だよねっていう、Kinki Kids的恋愛論で、それ以上でも以下でもない本だなと思いました。

  • 愛は技術である、と著者はいう。愛する技術を学ぶための、愛の理論と習練について書かれている。

    人格全体を発達させる努力をしなければ、愛そうとしても失敗するという。愛は、世界に対して人がどう関わるか、その方向性なのだ。

    習練の方法をかなり具体的に示している。しかし、実践はなかなか難しい。この本でも取り上げられている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」が難しいように。

    世界がぜんたい 幸福にならないうちは
    個人の幸福は あり得ない

    という賢治の言葉に通じる考え方だと思う。

  • 年齢や経験を重ねるほどに、よく理解できる気がする。何度でも読みたい。

  • 愛する技術に、愛の経験が影響力を持つのは当然で、特に親や家庭から受けた愛の経験が一番強いのは百も承知だった。でも、この本を通してこれからのわたしが愛する経験でそれを超えられると思うことが出来た。

    再読。五年前に読んだときより、断然に理解が深い。五年の間に、愛する経験がわたしの中に積まれていったからだろうと思う。愛することが出来て、幸せだ。「必要だから愛するのではなく、愛するから必要」だと、段階が変わったことをここからも感じられて、幸せ。

  • 愛する「技術」についての記述が多いです。かなり具体的な内容となっています。結論は「自分自身の内面の成熟度に比例した相手しか見つからない。真に愛する為には厳しい自己鍛錬が必要となる。」
    フロムらしく手厳しいが名著だと思う。

  • 愛とは孤独状態からの離脱、恋に落ちるとは一過性の現象であり、それはそこに至るまでの孤独状態の強さに起因する。愛の本体はむしろ愛に留まることにあるのであってそれが難しい。愛は一過性の快感ではなく愛されることより愛することに本体がある。技術であり能力である。愛は能動的なもので自ら踏み込んで行くもの。より具体的に言えば「愛は与えること」

    人間の最大の欲求は孤立を克服し孤独の牢獄から抜け出すこと。互いに異なることを認識した上で愛し合い合一に至ること

    子が受ける愛には母性的な愛と父性的な愛がある。母性愛は無条件の愛であり、存在の肯定がある。父性愛とは条件付きの愛、教育である。母性愛によって存在が肯定され、父性愛を受けるために努力をする。これら両方が必要不可欠でこの両輪で人は成長する。これらはそれぞれの性別を単に切り分けるものではない。どちらの方が優勢である割合が大きいかということでどちらのせいであってもある程度両方持っているものである。

    兄弟愛
    他人に対する責任、配慮、尊敬、理解。私たちは一つだという意識。対等なもの同士の愛であり、助けを必要とするときに互いに助け合う精神

    異性愛
    合一への欲求と排他。フロイトは異性愛を性欲と結びつけるが、性欲と愛は重なる部分はあっても同じではない。
    性欲=あらゆる激しい感情と結びつく。
    異性愛は兄妹愛から生まれ全面的に関わり合い精神/肉体双方の合一。自分の本質を愛し相手の本質と関わる。1対1以上では到底できないために排他的になってしまう。人は人間という全体の一部でありながら一人一人は唯一無比でありだから孤独である。孤独を埋め合一を獲得すべく自分の人生全てを相手の人生に賭けようという決意を異性愛という。感情という刹那のものでなく、意思という任意のものでもなく。

    自己愛
    特定の誰かを愛するために人間全体を愛するという前提がある。自分を愛することは他人を愛することと不可分で自分を愛せない者は他人も愛せない。愛とはその相手への気遣いであり尊敬であり責任であり理解であり知ることである。人生、幸福、成長、自由を肯定することである。ナルシズムは自己愛ではない。自分を愛しきれないために愛しているように見せる行為。非利己主義は結局他人も愛せない。


    神=〇〇ではないという形でしか表現できないもの、二元論で説明のつかないもの。xはaでもあり非aでもある、という説明が成り立つ存在。

    市場原理によって愛の崩壊が起きている。物欲・効率・投資の世界が自分自身も商品化させあらゆるモノから疎外されて最大利益を求めて行動するようになる。二人の合わさった利己主義・契約という形の「愛」という協力体制は真の愛ではない。

    愛するには勇気が必要。これが一番と判断して思い切りジャンプする。何の保証もなくこちらが愛せば相手の心にも愛が生まれるという希望に身を委ねること。信念。

    • 江戸っ子さん
      誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。
      それは決意であり、決断であり、約束である。
      もし愛が単なる感情にすぎないとしたら「あな...
      誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。
      それは決意であり、決断であり、約束である。
      もし愛が単なる感情にすぎないとしたら「あなたを永遠に愛します」という約束は何の根拠もないことになる。-フロム

      自分も読み始めたよー
      2017/07/07
    • harukakinouchiさん
      おー!!
      これおもしろい!後半分読んだらまたちゃんと書く!
      おー!!
      これおもしろい!後半分読んだらまたちゃんと書く!
      2017/07/07
  • 世の中には愛されるためのノウハウのような本はいくらでもあるが、愛するということを哲学的に突き詰めていった本はとても少ないと思う。この本で言いたかったことは愛は技術であるという一言だ。そのために配慮、責任、尊敬、知が必要なのだ。汝の隣人を愛する、人間は本来孤立した存在、同一性、兄弟愛と母性愛、与えるということが自分の生命力、愛する者のために働く、超自我、異性愛は排他的、無条件の愛、ルター、フロイト、重要なのは思考ではなく行為、自分を愛しほかの人を等しく愛する、等人間のことを哲学的に考えさせられた。生きることは愛することなのだと思う。

  • 愛をとことん言語化・体系化する、という立場はとても西洋的だが、かなり本質をつきつつある。
    つきつつある、と言うのは、著者というより読者側の問題で、愛にはどうしても言語化できない「イデア」があることを、まずはじめに理解しておく必要がある。そのうえで、明瞭にしておけるところは、やはり明瞭にしておいた方がいいだろう。
    「愛がわからない」という人、あるいは「愛をわかっている」という人におすすめの一冊。

  • 「何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。ある者に、より多くの知識が備わっていれば、それだけ愛は大きくなる。全ての果実は苺と同時期に実ると思い込んでいる者は葡萄について何一つ知らない。」パラケルスス

    現代では「平等」は「一体」ではなく、「同一」を意味する。それは雑多なものを切り捨てた同一性である。残念ながら「男女平等」で、男女が平等なのは男女の違いがなくなったからという思い込みが生まれた。

    現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としている。その標準化が「平等」と呼ばれている。

    与えるという意味で人を愛する事が出来るかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかによる。愛する為には、性格が生産的な段階に達していなければならない。この段階に達した人は、依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか、何でも貯め込もうという欲求を既に克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、目標達成の為には自分の力に頼ろうという勇気を持っている。

    愛は能動的性質であり、それには配慮、責任、尊敬、知の要素が見られる。

    愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかける事。


    男性的性格の特徴は、侵入、指導、活動、規律、冒険であり、女性的性格のそれは、生産的受容、保護、現実性、忍耐、母性である。


    成熟した愛は「愛するから愛される」という原則に従う。未成熟の愛は、「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

    愛とは特定の人間に対する関係ではなく、世界全体に対してどう関わるかを決定する態度、性格の方向性の事である。もし一人の他人しか愛さず、他の人間には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。

    誰もが、愛する人以外は誰も愛さない事が愛の強さの証拠だと信じている。つまり、愛は活動であり、魂の力である事を理解していない為に、正しい対象を見つけさえすれば、後はひとりでにうまくいくと信じているのだ。だが、一人の人間を愛するとは、全ての人を愛する事であり、世界を愛し、生命を愛する事である。


    兄弟愛
    あらゆるタイプの愛の根底にあるもの。その人の人生をより深いものにしたいという願望。人類全体に対するものであり、排他的なところが全くない。もし、愛する能力が十分発達していたら、兄弟達を愛さずにはいられない。

    身内を愛する事は動物だって出来る。無力な者や貧しい者、よそ者に対する愛こそが兄弟愛の始まり。

    母性愛
    聖書の「約束の地」は「乳と蜜の流れる地」として描かれている。乳は世話と肯定の象徴であり、蜜は人生の甘美さや、人生への愛、生きている事の幸せを象徴しているが、「蜜」を与える事の出来る母親はごく少数である。蜜を与える事ができる為には単なる「良い母親」であるだけはだめで、幸福な人間でなければならない。

    母性愛の真価が問われるのは、幼児に対する愛ではなく、成長をとげた子供に対する愛において。子供が自分から離れていくのを望めるかという事。母親は子供の巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。つまり、徹底した利他主義、全てを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力。多くの母親はここで失敗する。

    愛情深い母親になれるか否かは、すすんで別離に耐えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛し続ける事ができるかどうかによる。

    異性愛
    ベッドを共にしている時や、憎しみや怒りをぶつけあっている時だけ親しいように見えるが、この種の親密さは時が経つにしたがって失われる。そして新しい人との愛(と錯覚しているもの)を求める。

    もし異性愛が愛と呼べるものなら、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わり合うという事。

    激しい感情ではなく、意思、決意、約束。そして当事者二人が誰であるかは問題ではない。つまり、異性愛は一部の人にしか見られないような特殊なきわめて個人的な要素を必要とする。


    自己愛
    愛とは、人間の本質的な特質を根本において肯定する事。つまり、一人の人間を愛するという事は、人間そのものを愛する事。自分の家族は愛するが、他人には目を向けないというような者は、根本的に、愛する事ができない事の証明。すなわち、自分自身の人生、幸福、成長、自由を肯定する事は、自分を愛する能力そのものであり、これが出来ないとそもそも誰かを愛する事はできない。

    利己主義と自己愛は正反対。利己的な人は自分を愛せていない。生産性に欠けている証明。当然ながら彼は不幸で、自分で自分の邪魔をしている。真の自己を愛せず、それをなんとか埋め合わせ、ごまかしている。

    利己的な人は他人を愛する事が出来ないが、同時に自分自身を愛する事も出来ない。例えば子供をかまいすぎる母親。

    「非利己主義」者はしばしばこれを良い性格特徴として誇りに思っているが、実はこれはもっとも重い神経症の一種。真に愛する能力や楽しむ能力が麻痺している。背後に強烈な自己中心主義が隠れている。生産性の欠如が原因である事を明らかにし、その生産性の欠如を治療しない限り治癒しない。

    非利己的な母親の子供への悪影響は、利己的な母親のそれよりももっとタチが悪い。なぜならば、母親が非利己的なので、子供達は母親を批判する事が出来ない。子供達は母親を失望させてはならないという重荷を科せられ、美徳という仮面の下に人生への嫌悪を教え込まれる。

    子供が愛や喜びや幸福がどんなものであるかを知るには、自分自身を愛する母親に愛される事が一番。


    「もし、自分自身を愛するならば、全ての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身よりも愛さないならば、本当の意味で自分自身を愛する事はできない。自分を含め、あらゆる人を等しく愛するならば、彼らを一人の人として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。従って、自分を愛し、同時に他の全ての人を等しく愛する人は偉大で正しい」マイスター・エックハルト


    「哲学者達は世界を様々に説明してきたが、必要なのは世界を変える事だ。」スピノザ


    神への愛は、はじめは母なる女神への無力な者の依存であり、次に父性的な神への服従となり、成熟した段階になると、人間の外側にある力と見なす事は止め、愛と正義の原理を自分自身の中に取り込み、神と一つになる。最終的には、詩的に、あるいは象徴的にしか神について語らないようになる。


    集中力の習得は、一人でじっとしていられるようになる事。これは愛する事ができるようになる為の一つの必須条件。

    もし、自分の足で立てないという理由で誰かにしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなるかもしれないが、二人の関係は愛ではない。一人でいられる能力こそ愛する能力の前提条件。

    くだらない会話、純粋な会話ではない会話を出来るだけ避ける事。政治や宗教について論じる場合でも常套句ばかり使って話すのは無意味。

    愛を達成する為の基本条件は、ナルシシズムの克服。自分の内に存在するものだけを現実として経験するのではなく、人間や事物をありのままに見て、その客観的なイメージを自分の欲望と恐怖によって作り上げたイメージと区別する事。


    他人を信じる事のもう一つの意味は、他人の可能性を信じる事。

    教育の反対は洗脳。成長の可能性に対する信念の欠如。大人が正しいと思う事を子供に吹き込み、正しくないと思われる事を根絶すれば子供は正しく育つだろうという思い込みに基づいている。

    他人を信じるという事を突き詰めていけば、人類を信じるという事になる。すなわち、人間には可能性があるので、適当な条件さえ与えられれば、平等、正義、愛という原理に基づいた社会秩序を打ち立てる事ができるという理念を持つ。

    理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念に従って生きるという事は、生産的に生きる事。他人を支配するという意味での力、つまり権力を信じたり、用いたりする事とは正反対。

    信念を持つには勇気が必要。あえて危険を冒す能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟。安全と安定こそが人生の第一条件だと言う人は信念を持つ事はできない。

    愛するには勇気が必要。ある価値を、これが一番大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てを賭ける勇気である。

    能動とは単に何かをする事ではなく、内的能動、つまり自分の力を生産的に用いる事。愛は能動である。

    人を愛する為には精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなければならない。その為には毎日を生産的かつ能動的に生きなければならない。


    現在のようなシステムの下で、人を愛するの事の出来る人は当然例外的な存在である。愛の事を真剣に考え、愛こそが「いかに生きるべきか」という問題に対する唯一の理にかなった答えであると考えている人々は、次のような結論に行き着くはずだ。すなわち、「愛がきわめて個人的で末梢的な現象ではなく、社会的な現象になる為には現在の社会構造を根本から変えなければならない。」と。

    愛の性質を分析するという事は、今日、愛が全般的に欠けている事を発見し、愛の不在の原因となっている社会的な諸条件を批判する事。例外的、個人的な現象としてだけでなく、社会的な現象としても、愛の可能性を信じる事は人間の本性そのものへの洞察に基づいた理にかなった信念なのである。

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著者プロフィール

ドイツの社会心理学者、精神分析家。1900年、フランクフルト生まれ。ユダヤ教正教派の両親のもとに育ち、ハイデルベルク大学で社会学、心理学、哲学を学ぶ。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーブに移り、1934年にはアメリカへ移住。1941年に発表した代表作『自由からの逃走』は、いまや社会学の古典として長く読まれ続けている。その後も『愛するということ』(1956年)、『悪について』(1964年)などを次々と刊行する。1980年、80歳の誕生日を目前にスイス・ムラルトの自宅で死去。

「2022年 『今を生きる思想 エーリッヒ・フロム 孤独を恐れず自由に生きる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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