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読書について 他二篇 (岩波文庫 青 632-2)
- A.ショウペンハウエル
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ショーペンハウエルよりも、むしろショーペンハウアーのほうが、
有名かもしれないこのお方。さてさて。
下は長すぎるので、上に一通りの感想を記しておくこととします。
この著作はすごく読みやすくて、これが彼のスタイルなのかと思ったら、
これは文学(哲学含めて文学)に対して書かれているので読みやすいらしい。
とはいえ、それにしても、このひとは読みやすさを追求しているのも、
また事実でそれゆえに、アカデミックとの対立は否めない。
難解な専門用語、というものは現代でも、アカデミックへの、
痛烈な皮肉として存在しており、学者自身がそれを認めている節も、
あるくらいなのであるが、とはいえ、その難解な専門用語における、
学問界が依然継続されている以上、彼は敗北したとも言える。
だが、彼によって影響を与えられたひとは決して少なくはなくて、
彼の警句はどれもこれもが、的を射ているのである。
とはいえ、無論、反論もできる。
例えば、彼はしきりにヘーゲルをけなしているが、
やはりヘーゲルの働きというものは認めなければならないし、
とはいえ、この著作を読んでいるとけっこう引きずりこまれますね。
ただ、これは彼に限らず、優れた文筆家の著作はどれもかれもが、
そうでしょう。
小説に書かれているようなことっていうのを実際に体験すると、
たいていのひとは嫌なはず(俺はいいけど)、
それでも、追体験して、ああ、いいなぁ、自分もかくありたい、
と思うわけで、それっていうのはそれだけその物語に説得力があるから、
であろう。
小説を読んでいると、その人物は殺人者なのに、けれど、仕方なかった、
んだと感涙したり、不倫しているのに、しかしあれは妻が悪かったのだ、
と思ったり、さて、では、今度は、普段ニュースを見て、
殺人事件や芸能人の不倫などに意見を述べている自分を客観的に、
眺めてみたとしたらどうなるだろう?
まぁ、まるで正反対になっているのではなかろうか。
つまり、あんた(俺)なんかその程度の人間さってわけですね、はい。
なにが言いたいかっていうと、優れた文筆家の著作には、
誰も彼もがすごく左右されるけれど、それじゃあ、みのりがない。
その著作を自分の中に取り入れ反芻し、自らの思索のこやしとしてこそ、
意味がある、とまあ、ショーペンハウエルはそういうことが、
言いたいのだろうと感じました。
ただ、このひと、きっと相当に気むずかしくて粘着質な方だったろうと、
は思う。まぁ、他人事じゃないのだけれども。
●思索について
「思索にとって読書は有害である。なぜならば、読書とは他人の意見だからである」
「一番よいのは、自ら考えたことを、他人の書物の中で発見することである。自ら考えたことを書物で見つけたときは、がっかりするのではなくて、喜ぶべきなのである」
⇒これはすごく大事だと考える。つまり、なんのために哲学をするのか?といった点に繋がってくるのではないか。哲学ってのは思索に囚われた人間が、その答えを得るためにくる場所である。しかし、それはあくまで自分で一生懸命考えているからこそ、言葉がほんとうの意味で理解できる、といったところに繋がってくるのではないか?というのも、昔はさっぱりだった哲学も、今はけっこう言葉が頭に入ってくるのである。
「思索はいつだって行えるものではないので、思索が行えないときにこそ、読書をして待つべきなのである。しかし、多読はいけない」
⇒読んだ後に考えてこそ読んだ意味があるのであって、知識の収納庫となってもなんらその知識は実践的ではない。
「思索を自分のために行うものと、他人のため(名声)のために行うものとがいるが、真の思索家は前者である。後者はソフィスト」
「...
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人生論ノート (新潮文庫)
- 三木清
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確か、授業用に買ったのだけれど、結局でずに終わったもの。
哲学的な経験と知識を基にして、倫理を解いたもの、
というといいのだろうか。
これはいつか再読の必要がありだなと感じた。
言葉がすーっと入ってきて、なるほどなぁと思わされる箇所が多い。
難解そうに見えて意外とわかりやすく、
ふっと、ときおり、一つの項目に考えをめぐらさときに、
この本をめくるといいかもしれない。
「死」や「孤独」など23題について記されているので。
印象にのこったところ。
「孤独」:「われわれは孤独を知っている限りものにはほろぼされず、
ものに滅ぼされるのは孤独を知らない時である」
「われわれが孤独に迫るのは表現だけであり、
孤独を超えるには自己の表現活動をおいてほかない」
「利己主義」:「利己主義者は期待しない人間である、信用しない人間である。それゆえに己の猜疑によって苦しめられるのである」
「利己主義者は自分のことを合理的な人間だと感じている。
しかし彼は彼の理知の限界が想像力の欠乏にあることを知らないのである」
「感傷」:「感傷は自分のうちにとどまっているだけであって、
決して中へと入っていくわけではない=思索にはなりえない」
「それゆえ、感傷的である人間は決して深くはなりえない。
あくまで無害であるだけである、過去を生きるだけである」
(そして、過去こそがエンターテインメントであり、
現在こそが純文学である)
「仮説」:「仮説はある意味で論理よりも根源的で、論理も仮説から生まれる」「思想だけでなく人生も仮説的である、それゆえに人生は実験的なのだ」
「全ての確実なものは不確実から生まれてくる、その逆はない」
(慣習や常識というものは確実となったもの)
「偽善」:「偽善者にはフィクショナルなものへの、誠意も熱情もなければ、
創造力がない。それゆえに阿諛する。阿諛は他を惑わせ、腐敗させる最低のものである」
「娯楽」:「娯楽は本来は生活とひとつであらねばならない。しかし、現代は娯楽が生活から切り離され逃げ場となってしまっている(意訳)」「創造する娯楽が必要」
「希望」:「失われる希望は希望ではなく期待である。希望は生ける力であり、希望を持っている者はそれゆえに生命そのものが若い。希望はまた、確固たる存在である」
「旅」:「どこからきてどこへと行くのかそれが人生であるが、そんなものわかりはしない。わかりはしないがそれゆえに人生は実に旅なのである」
「個性」:「個性は獲得しなければならないもの。個性を獲得するには、無限の心を知らなければならない。つまり、愛の心を持ち創造することが必要となる。そして、創造し自己を見出し、自己を否定することで、自らを愛して個性を獲得するのである」
とこんな感じでしょうか。
この一冊はたぶん、思考や思索型の人間なら得られるものが大きい反面で、危険な一冊でもあると思われる。なぜならば、ストレートに真理をついてきて、それゆえに残酷なくらいに鋭い刃の言葉たちが襲い掛かってくるからである。厳選された言葉たちからは無駄な肉がそぎ落とされているために、それゆえに、衒いも無く突き刺さってしまうのだ。
しかし、著者は最後のほうで、「とはいえ、自分もまだまだこんなの実践できてないけどねぇ」みたいなことを言っている。
そういうあっけらかんとした姿勢に好感が持てる。
どうにも獄死してしまったみたいだけだ。たぶん、マルキシストだったことが、禍いしたのでしょうね。
個人的には感傷はあってもいいと思う。
ただ感傷を感傷で終わらせないためにそれを創作へと結びつける、
たしかにそれは大事だと思う。感傷だけならばいつしかそれが風化してしまうかもし...
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光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)
- トルストイ
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そもそも、これ小説なのか?というとかなり怪しくはある。
小説らしさなんてなにひとつとしてないからである。
描写もへったくれもなく、簡単な解説と後はひたすらに、
「会話の応酬」である。
つまり、「会話の応酬による思想書」、というのが、
本著を端的に表わした言葉かな。
かつて、ともだちは宗教のことを、「思考停止」だと言っていた。
マルクスは、宗教のことを「癌」だか「毒」だか言っていたはず。
しかし、トルストイは思考停止に陥ってはいなかった。
ユリウスの許に現れる「医者」と友「パンフィリウス」。
この二人の間で主人公は揺れ続ける。
医者はキリスト教は欺瞞であり、瞞着だと言い、
パンフィリウスはキリスト教こそが正しいのだと言う。
最終的にユリウスはキリスト教に行くわけだが、
そのときには年をとっており、早く、改心しなかったことを、
悔やむわけだが、老人から、
「神の前では我らは卑小、んなこと関係ねーよ」と言われて、
すっかり安心するわけだ。
まあ、今で言うところの「地球論」みたいなやつですね。
「地球に比べれば俺たちは卑小、俺が死んだところで地球が、
どうなるわけでもなし、まあ、気楽にいきましょーや」って感じ。
で、トルストイが思考停止に陥っていなかったという点の、
優れているところは、会話の応酬がかなり本気入ってるからである。
例えば、聖書だとか古事記だとかってやつは、
ひたすら神に都合がいいように書かれているわけだけど、
本著はそうじゃなくて、生々しいやりとりが繰り広げられている。
「君たちは、神の教えを実践できていないじゃないか」
「じゃあ、君たちこそ、自分たちのやろうとしている事業なんかを、
思うとおりに成し遂げられているのかい?」
パンフィリウスがユリウスにこう言ったように。
あるいは、医者がユリウスにこう言ったように。
「いいかい、キリスト教のやつらが教えるのはだね、
百姓が他人に向かって、どうせ思うような量の収穫にはいたってないわけだろ?じゃあ、海に種をまけよ、とそう言ってるようなものじゃないかな?」
この物語の惜しいところは、最終的に、
ユリウスがキリスト教徒の許へ行ってしまったところだろうと思う。
彼は行くべきではなかった。
なぜなら、彼みたいに迷って迷い続ける姿こそに、
ひとってやつが生きるある意味でひたむきかつ真摯な姿があるからだ。
右往左往しているユリウスはかなり間抜けにうつるかもしれないけれど、
人間なんてそんなものだ。
むしろ、パンフィリウスみたいな思考停止に陥ってしまうのは、
やはりいただけないのだ。
ユリウスは流され思考停止をしているように見えるけれど、
彼は彼なりに悩んでいるのであってつまり思考はやめていない。
さて、最後に宗教に対する個人的な見解を。
宗教はあってもいいが、そこに入信している人々は神を盲信するのじゃなく、
宗教の意義についてあれこれ考えて疑い悩み続けるべきである。
それこそが思考停止を防ぐものでありそうすれば無理に教えを、
誰かに押しつけたりもせずにいられることだろう。
逆にそれができない宗教はなくなってしまえばいいと思う、
とまで書くと暴論かもしれないが、
しかし、トルストイみたいに一生懸命考えてもらいたいと思う。
俺にしたって、宗教を端から否定していないし、
その意義も認めている(つもり)。
実際に宗教がなければ立ち直れないひともいるし、
宗教に救われたというひとも数少ないわけじゃないのだから。
つまり、悩み苦しみから逃げるようにして入信するのじゃなく、
悩み苦しみを背負ったまま入信するか、あるいは、
満たされているが敢えて入信するか...
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走れメロス (新潮文庫)
- 太宰治
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個人的には、「女生徒」「ダスゲマイネ」「駈込み訴え」「走れメロス」「東京八景」が印象的。
太宰治の半自伝的な小説は、人間失格や東京八景なんかは面白いのだけれども、
ワンシーンだけをとってきたようなものは、あまり響かない。
やはり強烈な生き様を描いた捨て身の作品こそが太宰かな。
とはいえ、女生徒もかなりいい。多感な少女をうまく描いている。
しかし、これを読むべきなのか読まざるべきなのか。
少女時代にこうしたものを読んでしまうとかえって、とらわれてしまうのかも、
しれないとも、思う。
走れメロスは、太宰としてはかなり例外的かもしれないが、
太宰的に人を信じることと、信じないことの極致は同一だと、
考えている節がうかがえるので、ある意味では一貫しているのかもしれない。
しかし、編集があんまりよろしくないかも。
一冊としての一貫性がなくて、順番もなんというかめちゃくちゃだし、
言ってしまうと、太宰作品の寄せ集めの一冊になってしまっている。
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人間失格 (新潮文庫)
- 太宰治
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初めての太宰治、というのも、なんとも微妙なものだが、
とにかく、初めての太宰治。
太宰治のすさまじさは、つまり、これが彼の生き様なのだと、
思わせる訴えのようなものだろうか。
彼は全身を使って、全人生を使って、
ただひとつのことを訴え続けているような気がする。
ではその正体は何なのか?
それはたぶん、容易に言葉に出来ないものだ。
してはいけないものだ。
そうした瞬間に抜け落ちてしまうから。
だから言葉にするのではなく感じるべきなのかもしれない。
しかしそれは甚だしく危険な行為にも感じられる。
文体や文章の意外なほどの柔らかさにはびっくりする、
という点も記しておく。
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歯車 他二篇 (岩波文庫 緑 70-6)
- 芥川龍之介
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小説というよりは、むしろ遺書とうのがいいのかもしれない。
まともな小説という形態を取っているのは、一つ目の、
「玄鶴山房」くらいのもので、「歯車」、「或阿呆の一生」
はもはやまともな小説という形式を取っておらず、散文詩による、
遺書みたいなものだと感じる。
静けさを湛えた狂気が始終、漂い、冷静に自らの狂気を見据えている、
視点が空しき物悲しさを訴える。自らを第三者の視点で描いているのは、
それだけ自らを冷静に見据えようとする彼なりの努力なのかもしれない。
しかし、この一冊というのは彼の終着点のようなものであり、
それゆえにこの一冊までの彼の軌跡を知ってこそ、
この一冊の重みが知れるのだろうと思う。
その軌跡を知らなければこの一冊から感慨は得られず、
ただこの暗澹とした世界観にひきつけられるだけだろう。
その意味において、彼の他の著作も読まなければならないと感じた。
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ソクラテスの弁明・クリトン(プラトン) (岩波文庫 青 601-1)
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正直期待が大きすぎて、あれ?と思いながら読んでしまった感はある。死刑に際してのソクラテスの弁明は文学作品としてみればかなり完成度は高いものの、ソクラテスの弁舌能力を示すには甚だ弱々しくもある。ソクラテスの本領は対話でこそ発揮される。ソクラテスは純真なる哲学者でありながらも、もう半分は詭弁家であったと思うのだ。だからこそ、彼の巧みな話術には相づちが必要であるし、彼の哲学を推し進めるためには批判も必要なのである。という意味で、これはソクラテスの弁明に限っていえばこれは完全に文学作品である。クリトンは対話形式を取っているだけあって、哲学的思索がつづられてはいるけれど、やはりこれもいくらか物足りなくもある。純真な好奇で問いを発し続けるソクラテスの姿こそが彼の本領なのであって、そこまで哲学的とは言えないあたりが少々拍子抜けしつつも、文学性なるものには舌を巻く思いにさせられるという作品。
ちなみに「弁明」については、ソクラテスの姿に感銘を受けるということは意外となかった。やはり、彼が年を召しているからだろうし、その場で即死刑となっているわけでもないので。彼の発言に所々見受けられるのは大衆蔑視と優越性である。ソクラテスは大衆蔑視に関してはある意味巧妙に隠しているように思われる。無論言葉としては発しているものの、「これこれの理由があって」という詭弁を発している。嫌いならば嫌いだと言えばなかろうとかとも思うのだけれど、嫌いという言葉は哲学的でないから彼は嫌いだったのだろうか?また、優越性についても、自分は決して優れていない無知な人間だと言いつつも、自分を賢者や知者と述べているところもあり、このあたりソクラテスも人間だったのだなあと感じる。つまり、無知だというのはある種のポーズで無知であると普段から思っておくことによって、高慢にならずにすむし、思考停止に陥らないということを意図しての方便みたいなものなのだろうと思う。「クリトン」では彼に逃亡を促すクリトンを説得する様が描かれているが、ここにもソクラテスなりの独特の思考は見受けられず、国や国法、それに自分なりの正義を貫こうとする彼の姿は見え隠れするものの、一抹の物足りなさが残る。つまり、一言で言うならば、アルキメデスの方がいかれてる。殺される間際まで研究をしていて、数字を踏むなと敵国の兵士に怒鳴りつけて、逆上した兵士に殺されてしまうアルキメデス。ちなみにアルキメデスだけは殺すな、と兵士は命令されていたのだとか……?あと追記するならば、解説者のこのプラトンソクラテス崇拝が少々行き過ぎている。
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2011年7月19日
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フロム (センチュリーブックス 人と思想 60)
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ネオフロイト派、あるいはフロイト左派、修正フロイト派などといった様々に呼称されるエーリッヒフロムについて記された一著。思想と伝記とが混じりあった構成となっている。基本的には彼はマルクス主義とフロイトの精神分析の融合を試みたようだ。つまりマルクス主義が持つ史的唯物史観、また社会構造を取り入れることによってフロイトによる精神分析をより完全なる物へ近づけようとしたというのがフロムのようだ。現在では時代遅れの思想の産物と捉えられているマルクス主義であるが、フロイトがミクロな観点(=個人)から普遍的な人類全体への共通原則を探ろうしたのならば、フロムは出発点をマクロな社会集団へと移したところが彼の特徴なのだろう。実際問題、フロイト精神分析は個人の内に眠る普遍性を見つけることや、あるいは症例に対するアプローチとしては優れていたが、それでは時代考察や社会を捉えるには不十分だったと言えよう。無論、フロイトにはその意図はなかったのであろうが、マルクス主義がフロイト的な思想(=無意識という概念)を取り入れることで二十世紀を生き延びようとしたのだろう。フロムは彼自身がユダヤ人であったことから、集団を捉える際に、ユダヤ教徒といったカテゴリーや、ドイツ人といったサンプルを選んで分析を加えている。最終的に彼は五類型を提唱する。受容的構え、搾取的構え、貯蔵的構え、市場的構え、生産的構えの五つである。受容的構え、搾取的構えはそれぞれフロイトが言うところの口唇性格の受動型にあたりマゾヒズム的である。搾取的はサディズム的であり、口唇性格の攻撃型にあたる。貯蔵的構えは消極的で現代的な性格でありフロイトが言うところでは肛門性格に該当する。市場的構えは機械的な性格類型であり、以上四者が「非生産的構え」と大別される。対して、生産的構えはよりよい人間関係を築いていくというある種の理想として定義されている。この点がフロムが楽天的であるとして批判される一員ともなっているが、フロムはこの生産的構えを持つ人たちこそが「真なる愛」を持ちうるのだと考えているようだ。そしてヘーゲルマルクスの進歩史観よろしく、恐らくは最終的には生産的構えへと人間は成長していくべきなのだと彼は考えていたのではあるまいか?ともかく、この生産的構えこそがフロイトによる人間の完成形とも言える「性器性格」に該当するのだろう。
さて、もう一つ彼がフロイトと決別することとなった権威的、人倫的といった二つの分類についても観ていかなければならない。彼がフロイトと異なる部分は大まかに言えば、「個人」に対して「社会」という概念を持ちこんだことや、リビドー理論(=個の欲動、エディプスコンプレックス他)に対しても同じように「社会」あるいは「関係」を持ちこんだことが挙げられるだろうが、もう一つ挙げるならば、フロイトを「権威的」であるとして批判したことが挙げられるだろう。フロイトの理論自体は強固であったものの、彼は権威的性格であったために多くの離反者を生むこととなる。彼はあくまで患者に対して絶対的な分析者であったわけだが、フロムはむしろ患者と親身になることこそ重要だと考えていたようだ。転移肯定主義とも言えるかもしれず、このあたりはクラインなどとも合致するのだろう。実際にフロイトが言うエディプスコンプレックスは権威的な父性社会でしか成立しえないというフロムの弁は非常に説得力があるし、それは否定できない。そこから母性社会に存在するものこそ本物の愛であると説いたところまで行くと、ある種の母性理想主義とも言えるのかもしれないが。ともかく彼は権威的、人倫的といった二つの分類をつくり、自らは人道主義的精神分析を行うのだと主張した。これは権威的な関係はある種のサディズム―マゾヒズムな関係であり、ここには性器性格とでも呼べるものは成立しえず治療も不完全なものと...
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