ショーペンハウエルよりも、むしろショーペンハウアーのほうが、
有名かもしれないこのお方。さてさて。
下は長すぎるので、上に一通りの感想を記しておくこととします。
この著作はすごく読みやすくて、これが彼のスタイルなのかと思ったら、
これは文学(哲学含めて文学)に対して書かれているので読みやすいらしい。
とはいえ、それにしても、このひとは読みやすさを追求しているのも、
また事実でそれゆえに、アカデミックとの対立は否めない。
難解な専門用語、というものは現代でも、アカデミックへの、
痛烈な皮肉として存在しており、学者自身がそれを認めている節も、
あるくらいなのであるが、とはいえ、その難解な専門用語における、
学問界が依然継続されている以上、彼は敗北したとも言える。
だが、彼によって影響を与えられたひとは決して少なくはなくて、
彼の警句はどれもこれもが、的を射ているのである。
とはいえ、無論、反論もできる。
例えば、彼はしきりにヘーゲルをけなしているが、
やはりヘーゲルの働きというものは認めなければならないし、
とはいえ、この著作を読んでいるとけっこう引きずりこまれますね。
ただ、これは彼に限らず、優れた文筆家の著作はどれもかれもが、
そうでしょう。
小説に書かれているようなことっていうのを実際に体験すると、
たいていのひとは嫌なはず(俺はいいけど)、
それでも、追体験して、ああ、いいなぁ、自分もかくありたい、
と思うわけで、それっていうのはそれだけその物語に説得力があるから、
であろう。
小説を読んでいると、その人物は殺人者なのに、けれど、仕方なかった、
んだと感涙したり、不倫しているのに、しかしあれは妻が悪かったのだ、
と思ったり、さて、では、今度は、普段ニュースを見て、
殺人事件や芸能人の不倫などに意見を述べている自分を客観的に、
眺めてみたとしたらどうなるだろう?
まぁ、まるで正反対になっているのではなかろうか。
つまり、あんた(俺)なんかその程度の人間さってわけですね、はい。
なにが言いたいかっていうと、優れた文筆家の著作には、
誰も彼もがすごく左右されるけれど、それじゃあ、みのりがない。
その著作を自分の中に取り入れ反芻し、自らの思索のこやしとしてこそ、
意味がある、とまあ、ショーペンハウエルはそういうことが、
言いたいのだろうと感じました。
ただ、このひと、きっと相当に気むずかしくて粘着質な方だったろうと、
は思う。まぁ、他人事じゃないのだけれども。






●思索について
「思索にとって読書は有害である。なぜならば、読書とは他人の意見だからである」
「一番よいのは、自ら考えたことを、他人の書物の中で発見することである。自ら考えたことを書物で見つけたときは、がっかりするのではなくて、喜ぶべきなのである」
⇒これはすごく大事だと考える。つまり、なんのために哲学をするのか?といった点に繋がってくるのではないか。哲学ってのは思索に囚われた人間が、その答えを得るためにくる場所である。しかし、それはあくまで自分で一生懸命考えているからこそ、言葉がほんとうの意味で理解できる、といったところに繋がってくるのではないか?というのも、昔はさっぱりだった哲学も、今はけっこう言葉が頭に入ってくるのである。
「思索はいつだって行えるものではないので、思索が行えないときにこそ、読書をして待つべきなのである。しかし、多読はいけない」
⇒読んだ後に考えてこそ読んだ意味があるのであって、知識の収納庫となってもなんらその知識は実践的ではない。
「思索を自分のために行うものと、他人のため(名声)のために行うものとがいるが、真の思索家は前者である。後者はソフィスト」
「...

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確か、授業用に買ったのだけれど、結局でずに終わったもの。
哲学的な経験と知識を基にして、倫理を解いたもの、
というといいのだろうか。

これはいつか再読の必要がありだなと感じた。
言葉がすーっと入ってきて、なるほどなぁと思わされる箇所が多い。
難解そうに見えて意外とわかりやすく、
ふっと、ときおり、一つの項目に考えをめぐらさときに、
この本をめくるといいかもしれない。

「死」や「孤独」など23題について記されているので。


印象にのこったところ。
「孤独」:「われわれは孤独を知っている限りものにはほろぼされず、
ものに滅ぼされるのは孤独を知らない時である」
「われわれが孤独に迫るのは表現だけであり、
孤独を超えるには自己の表現活動をおいてほかない」

「利己主義」:「利己主義者は期待しない人間である、信用しない人間である。それゆえに己の猜疑によって苦しめられるのである」
「利己主義者は自分のことを合理的な人間だと感じている。
しかし彼は彼の理知の限界が想像力の欠乏にあることを知らないのである」

「感傷」:「感傷は自分のうちにとどまっているだけであって、
決して中へと入っていくわけではない=思索にはなりえない」
「それゆえ、感傷的である人間は決して深くはなりえない。
あくまで無害であるだけである、過去を生きるだけである」
(そして、過去こそがエンターテインメントであり、
現在こそが純文学である)

「仮説」:「仮説はある意味で論理よりも根源的で、論理も仮説から生まれる」「思想だけでなく人生も仮説的である、それゆえに人生は実験的なのだ」
「全ての確実なものは不確実から生まれてくる、その逆はない」
(慣習や常識というものは確実となったもの)

「偽善」:「偽善者にはフィクショナルなものへの、誠意も熱情もなければ、
創造力がない。それゆえに阿諛する。阿諛は他を惑わせ、腐敗させる最低のものである」

「娯楽」:「娯楽は本来は生活とひとつであらねばならない。しかし、現代は娯楽が生活から切り離され逃げ場となってしまっている(意訳)」「創造する娯楽が必要」

「希望」:「失われる希望は希望ではなく期待である。希望は生ける力であり、希望を持っている者はそれゆえに生命そのものが若い。希望はまた、確固たる存在である」

「旅」:「どこからきてどこへと行くのかそれが人生であるが、そんなものわかりはしない。わかりはしないがそれゆえに人生は実に旅なのである」

「個性」:「個性は獲得しなければならないもの。個性を獲得するには、無限の心を知らなければならない。つまり、愛の心を持ち創造することが必要となる。そして、創造し自己を見出し、自己を否定することで、自らを愛して個性を獲得するのである」

とこんな感じでしょうか。
この一冊はたぶん、思考や思索型の人間なら得られるものが大きい反面で、危険な一冊でもあると思われる。なぜならば、ストレートに真理をついてきて、それゆえに残酷なくらいに鋭い刃の言葉たちが襲い掛かってくるからである。厳選された言葉たちからは無駄な肉がそぎ落とされているために、それゆえに、衒いも無く突き刺さってしまうのだ。

しかし、著者は最後のほうで、「とはいえ、自分もまだまだこんなの実践できてないけどねぇ」みたいなことを言っている。
そういうあっけらかんとした姿勢に好感が持てる。
どうにも獄死してしまったみたいだけだ。たぶん、マルキシストだったことが、禍いしたのでしょうね。

個人的には感傷はあってもいいと思う。
ただ感傷を感傷で終わらせないためにそれを創作へと結びつける、
たしかにそれは大事だと思う。感傷だけならばいつしかそれが風化してしまうかもし...

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読書状況 読み終わった
カテゴリ 哲学、思想

そもそも、これ小説なのか?というとかなり怪しくはある。
小説らしさなんてなにひとつとしてないからである。
描写もへったくれもなく、簡単な解説と後はひたすらに、
「会話の応酬」である。
つまり、「会話の応酬による思想書」、というのが、
本著を端的に表わした言葉かな。


かつて、ともだちは宗教のことを、「思考停止」だと言っていた。
マルクスは、宗教のことを「癌」だか「毒」だか言っていたはず。
しかし、トルストイは思考停止に陥ってはいなかった。
ユリウスの許に現れる「医者」と友「パンフィリウス」。
この二人の間で主人公は揺れ続ける。
医者はキリスト教は欺瞞であり、瞞着だと言い、
パンフィリウスはキリスト教こそが正しいのだと言う。
最終的にユリウスはキリスト教に行くわけだが、
そのときには年をとっており、早く、改心しなかったことを、
悔やむわけだが、老人から、
「神の前では我らは卑小、んなこと関係ねーよ」と言われて、
すっかり安心するわけだ。
まあ、今で言うところの「地球論」みたいなやつですね。
「地球に比べれば俺たちは卑小、俺が死んだところで地球が、
どうなるわけでもなし、まあ、気楽にいきましょーや」って感じ。

で、トルストイが思考停止に陥っていなかったという点の、
優れているところは、会話の応酬がかなり本気入ってるからである。
例えば、聖書だとか古事記だとかってやつは、
ひたすら神に都合がいいように書かれているわけだけど、
本著はそうじゃなくて、生々しいやりとりが繰り広げられている。

「君たちは、神の教えを実践できていないじゃないか」
「じゃあ、君たちこそ、自分たちのやろうとしている事業なんかを、
思うとおりに成し遂げられているのかい?」
パンフィリウスがユリウスにこう言ったように。


あるいは、医者がユリウスにこう言ったように。
「いいかい、キリスト教のやつらが教えるのはだね、
百姓が他人に向かって、どうせ思うような量の収穫にはいたってないわけだろ?じゃあ、海に種をまけよ、とそう言ってるようなものじゃないかな?」


この物語の惜しいところは、最終的に、
ユリウスがキリスト教徒の許へ行ってしまったところだろうと思う。
彼は行くべきではなかった。
なぜなら、彼みたいに迷って迷い続ける姿こそに、
ひとってやつが生きるある意味でひたむきかつ真摯な姿があるからだ。
右往左往しているユリウスはかなり間抜けにうつるかもしれないけれど、
人間なんてそんなものだ。
むしろ、パンフィリウスみたいな思考停止に陥ってしまうのは、
やはりいただけないのだ。
ユリウスは流され思考停止をしているように見えるけれど、
彼は彼なりに悩んでいるのであってつまり思考はやめていない。



さて、最後に宗教に対する個人的な見解を。
宗教はあってもいいが、そこに入信している人々は神を盲信するのじゃなく、
宗教の意義についてあれこれ考えて疑い悩み続けるべきである。
それこそが思考停止を防ぐものでありそうすれば無理に教えを、
誰かに押しつけたりもせずにいられることだろう。
逆にそれができない宗教はなくなってしまえばいいと思う、
とまで書くと暴論かもしれないが、
しかし、トルストイみたいに一生懸命考えてもらいたいと思う。
俺にしたって、宗教を端から否定していないし、
その意義も認めている(つもり)。
実際に宗教がなければ立ち直れないひともいるし、
宗教に救われたというひとも数少ないわけじゃないのだから。

つまり、悩み苦しみから逃げるようにして入信するのじゃなく、
悩み苦しみを背負ったまま入信するか、あるいは、
満たされているが敢えて入信するか...

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個人的には、「女生徒」「ダスゲマイネ」「駈込み訴え」「走れメロス」「東京八景」が印象的。
太宰治の半自伝的な小説は、人間失格や東京八景なんかは面白いのだけれども、
ワンシーンだけをとってきたようなものは、あまり響かない。
やはり強烈な生き様を描いた捨て身の作品こそが太宰かな。
とはいえ、女生徒もかなりいい。多感な少女をうまく描いている。
しかし、これを読むべきなのか読まざるべきなのか。
少女時代にこうしたものを読んでしまうとかえって、とらわれてしまうのかも、
しれないとも、思う。
走れメロスは、太宰としてはかなり例外的かもしれないが、
太宰的に人を信じることと、信じないことの極致は同一だと、
考えている節がうかがえるので、ある意味では一貫しているのかもしれない。
しかし、編集があんまりよろしくないかも。
一冊としての一貫性がなくて、順番もなんというかめちゃくちゃだし、
言ってしまうと、太宰作品の寄せ集めの一冊になってしまっている。

読書状況 読み終わった

初めての太宰治、というのも、なんとも微妙なものだが、
とにかく、初めての太宰治。

太宰治のすさまじさは、つまり、これが彼の生き様なのだと、
思わせる訴えのようなものだろうか。
彼は全身を使って、全人生を使って、
ただひとつのことを訴え続けているような気がする。
ではその正体は何なのか?
それはたぶん、容易に言葉に出来ないものだ。
してはいけないものだ。
そうした瞬間に抜け落ちてしまうから。
だから言葉にするのではなく感じるべきなのかもしれない。
しかしそれは甚だしく危険な行為にも感じられる。

文体や文章の意外なほどの柔らかさにはびっくりする、
という点も記しておく。

読書状況 読み終わった

小説というよりは、むしろ遺書とうのがいいのかもしれない。
まともな小説という形態を取っているのは、一つ目の、
「玄鶴山房」くらいのもので、「歯車」、「或阿呆の一生」
はもはやまともな小説という形式を取っておらず、散文詩による、
遺書みたいなものだと感じる。
静けさを湛えた狂気が始終、漂い、冷静に自らの狂気を見据えている、
視点が空しき物悲しさを訴える。自らを第三者の視点で描いているのは、
それだけ自らを冷静に見据えようとする彼なりの努力なのかもしれない。

しかし、この一冊というのは彼の終着点のようなものであり、
それゆえにこの一冊までの彼の軌跡を知ってこそ、
この一冊の重みが知れるのだろうと思う。
その軌跡を知らなければこの一冊から感慨は得られず、
ただこの暗澹とした世界観にひきつけられるだけだろう。
その意味において、彼の他の著作も読まなければならないと感じた。

読書状況 読み終わった

白バラという、ミュンヘン大学の学生たちが中心となって、反ナチズムを訴えた実在した集団の戦いを描いた作品。いよいよ、敗戦の色が濃厚となり、反ナチの機運が高まりつつあるのを感じた彼らは一つの勝負に出る。大学にビラを巻くことにしたのである。結果として、彼らは行為の一部始終を見咎められ、連行、逮捕、裁判、処刑の路を辿る。

映画は主に、警察官、裁判官(法務大臣)との、弁舌に終始する。舌戦。まさに命を賭けた舌戦。初めはノンポリ=ノンポリティクス=政治的無関心を装うものの、次第に証拠が出揃い始め言い逃れできなくなるのを見て取ると、真っ向から自らの主張を戦わせる兄弟。ゾフィーとハンス。映画では、仲間内の三人が処刑されるところで終わるが、実際には、他の学生二人に加えて、教授も後日、逮捕、処刑される。ゾフィー、ハンスと共に捕えられた、クリストフはそもそもビラ配り自体に反対し、おまけに子供が三人もいるというのに処刑されてしまうことや、裁判から処刑執行までの猶予が一日もなく即座に遺書を書いて処刑が執行されるあたりはあまりにやるせない。あの絶望感はない……。しかも、ギロチンである。

映画がどれだけ事実に忠実なのかはわからない。資料がいくら揃っていようと、全ての孔が埋まるわけではないのでそこに多分の想像が込められる。それでも、二人の兄弟が無謀かつ勇敢であったことや、その仲間たちが恐怖を抱きながらもそれでも戦って散って行ったことは恐らくは事実であろうし、馬鹿に出来ない。もう少し待っていればよかったものを、それでも、彼らは信念を貫こうとした。ヒトラーによる占領政策、ユダヤ人、精神病患者の虐殺。大衆は善人であるが、しかし、大衆は大衆であることによって悪となる。恐らくは、誰しもが。彼女たちの勇敢さも見所だが、愚直なまでに見事な戦時下のナチの高官や警官の役を努めている彼らの演技も非情に緊迫している。本当はやりたくないのだろうに、あの役を演じきることが自らの親たちが犯した罪滅ぼしだと考えているのかもしれない。

2011年5月14日

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読書状況 観終わった [2011年5月14日]

二重の意味で泣いた。一つはストーリーで、もう一つは自らの経験と重ね合わせて。貧富の差、引き裂かれ、互いに互いの人生を歩みながらも、再会、葛藤、そうして今へと至る、アーリーの記憶が蘇りこのまま終わるのかと思うと、彼女は途端に記憶を失い、暴れだす。ノアは心臓発作を起こし倒れる。記憶が永遠に取り戻せなくなることを怖れるアーリーを、ノアは、奇跡が起こるさ、と宥めて、朝目覚めると二人は一緒に死している。

実は以前にも視聴したことがあったのだけれど、どうにもラスト十分間くらいを見逃していたようだ。そのせいで、かなり大事な部分を見逃していたもったいなぁとしみじみ感じる。あの部分は泣かずにはいられない。

けれど、愛し方が凄まじい。ほんとうに半端ない。こう、服を脱がす時間すらもどかしく感じているようなあの昂ぶりは凄まじい。しかし、人間ってやつは髭だけで十歳くらい老けられるものなのか……メイクも多少あるのだけれど、こんだけ一気に年取れるのはすごい。ある意味髭文化だ。日本は髭文化が廃れてしまってるので、ほぼ顔変わらないのに二十歳くらい年取ったみたいなのが往々にしてあるけれど……。

しかし、読み聞かせるっていうところがすごいくるなぁ。やっぱり、好きなひとに物語を書いたり読んだりって言うのはそういうふうになるのかもしれない。同じようなことをしてしまったから……俺はどうなっているんだろう。けれど、俺はやっぱり変わらずに好きだな、やっぱり忘れられないなと思ってこう涙がじわじわと浮かび上がってくる。忘れ、られないよ。あのひとが忘れても、俺だけは覚えていよう、そのためにあれを書いたのだもの。


「忘れないで」って僕はただ唄って、「忘れたいの」って君はただ踊る――plastic tree『眠れる森』

2011年5月16日

ネタバレ
読書状況 観終わった [2011年5月16日]

1990年版。この種の映画を見て思うのはやはりどれくらいこれは史実に近しいのかどうか……というあたりだろうか。しかし、この映画は比較的史実に近いようだ。なので、信用していいところも多いらしい。とはいえ、所々史実を知らなければ急激過ぎてついていけない展開が多々見られる。ゴッホが精神病院に隔離されていたり、テオもそうなったのかな?

ゴッホとテオの書簡が有名でよく二人の関係が賛美されているけれど(冷静に考えると二人共ゴッホなので、ヴィンセントとテオと言うべきなのだろうが……)、映画を観た限りでは「異常愛」とも言える。テオの妻が、テオに対して、「家族より兄がすきなんでしょ?」と金切り声を出し、テオは兄に対して怒声を発し、ゴッホはテオを優しく宥める。洋画、とりわけ古い洋画を観ていて思うのは怒り出すのがあまり唐突だったりしてついていけないというところかもしれない。唐突に怒り出す。このあたりは民族性の違いかついていけないところもあるけれど、往々にして人間が思い切り当り散らせるのっていうのは、本当に心を開いている人間だったりする。なので、テオとゴッホの間の当り散らし合いが序盤から激しく展開される。また、テオは、「兄のためなら全てを捨てられる」とまで発しており、兄の死後は、「ここは僕と兄の部屋だ」と主張し、妻と我が子すら追い出してしまっている。無論、ここには虚構も含まれていようが、しかし、兄の死後後を追うように死ぬことや、手紙を大切に保管していること、仮定を犠牲にしてまで兄に最期まで施し続けたテオを思うと、美談とういよりは、むしろ、「異常だ」と感じる。別にそれを責めるわけでもないし、そのある種の、「純真性」には感服しかけるが、これをむやみやたらに礼賛するのは少し違うと思う。

また、映画を観て感じたのは、意外と同性愛が薄いというところだ。ゴッホ=同性愛=自画像みたいなイメージが強く、そこに、ひまわり、テオが加われば現代的なゴッホのイメージはほぼ完成する。しかし、同性愛性は限りなく薄いのかもしれない。ゴッホは女性に欲情するし、どちらかと言えば女性のほうが好きそうだ。ゴーギャンに対しては、彼よりもむしろ彼の絵に興味があるようで、同性愛ってよりは弟へ対する異常愛のようなものが強いようだ。しかし、まるで売れなかった作品が死後高騰する。ある意味、死を持ってゴッホの絵は完成したとも言える。それはつまるところ、人ってやつが持つ特性のせいでありそこにゴッホの責任はあまりないのであろう。そこまで考えると、なんだか複雑である。ゴッホの絵は芸術の最高峰だと教えられて、ゴッホの絵を観るから自然と感慨を抱いてしまうのだけれど、実際はどうなのだろうなぁと考えると芸術なんてまるで評価できなくなる。そういえば、トニオクレエゲルにもあったな、こういう一節。
「詩人はほんとうに素晴らしい詩は誰も理解などしてくれぬと知っているくせに、世間の評価が気になって仕方ないのである」――みたいなの。

ちなみに、ゴッホと言えば、ひまわり、自画像の印象が強いけれど、個人的には風景画が一番好きかもしれない。

『夜のカフェテラス』
『ばら』
『星月夜』
『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』

あと、ゴッホのひまわりは実はたくさんあって、とはいえ、あんまり明るいひまわりは実はないみたい。暗鬱としているものもあれば、ぎらぎらした力強さを持つものなどがあるのだけれど、どれもこれも、こう迫り来るような、それでいて、奇妙に気分を落ち着かなくさせる不気味な圧迫感に溢れている模様。なんていうか、ひまわりがまるで食虫花みたいなんですよね、重力に悶えながらも、虫を捕らえようとうねる食虫花……。

2011年5月19日

ネタバレ
読書状況 観終わった [2011年5月19日]

ヴィクトル=ユゴー原作。1998年アメリカ制作版。原作自体の内容が膨大であるためか、映画では全ては描かれきっていない模様。ジャンヴァルジャンと、シャベール警部との追走劇がメインとなっている。一応、六月暴動がクライマックスとなっていて、シャベール警部が自殺し、ジャンヴァルジャンが晴れやかにセーヌ川沿いを歩いていくシーンで終わる、このやり方はなんとはなしに、先日視聴したマリーアントワネットを髣髴とさせる。

ジャンバルジャンは、犯罪者から聖人になる軌跡みたいなのが本来的には描かれているのだけれど、この映画では、ジャンバルジャンが自由となり解放を掴むところで終わっているので、少し、原作と趣旨が異なってきそうだ(原作未読であるけれど……)。原作では、ジャンヴァルジャンの死まで描かれる模様で、コゼットがマリユスに嫁いでしまったことでの孤独感などにも溢れている。尺や、ジャンヴァルジャン⇔シャベールっていう構図があったのもわかるのだけれど、元がジャンバルジャンが聖人になるまでの軌跡、つまり、自らを犠牲にしてでも他者に尽くしていく姿だが描かれているので、彼の死まで描かれないことには物足りなさが残る。こういうのは固定観念なのかもしれないけれど、聖人は死して聖人になるのだと思うから。確かに、聖人という観念は好きではないけれど、というか、そもそも、聖人なんてやつは存在しないと思うけれど、それでも、困っている人を絶対的に放っておけないっていうタイプの人はときおり存在して、そいういう人間は本当はただの弱者でしかないのだけれど、それは聖人ではないのだけれど、恐らく、聖人と呼ばれるのだろう、少なくとも、そう呼びたくなるのだ。だが、呼びたくなるためにはある種の悲劇とカタルシスが必要となってくる。一種の心理作用としてだけれど。


とはいえ、物語のつくりが非情に丁寧だと感じた。洋画(アメリカ)って、ばしばし場面が切り替わっていったりして、感情移入しきれないまま物語が展開されていく的なことが多々あるので、アクション映画とかSF映画、コメディ映画なんかはすごい合っているのだけれど、緻密な描写を求められるストーリーなんかだとあれなのだけれど、これはすごいそのあたりが丁寧。原作では当時のフランス事情なんかについても描写されているようなので、マリーアントワネットと共にこちらも岩波文庫あたりで読破してみたいところだが、マリーアントワネットは二巻で、こちらは四巻。やはりボリュームがすごい。その気になれば、短篇で映画つくれるのに、四巻を百四十分でこれだけきれいにまとめてくれるのだから、まぁ、なんとやら、だ。しかし、ジャンヴァルジャンな生き方かぁ、こういう本がありそうだけれど、しかし、ジャンヴァルジャンな生き方か、それとも、シャベールのような生き方か、シャベールは正直赦せないと思うシーンも多々あったけれど、一徹に信念を貫いている様には、なにやら感じるものがある。地味に、コゼットを担ぎながら、パリを目指して歩いているシーンがすごく好きだ。君はフランス女王だ、というジャンヴァルジャン、あの逃走劇の頃が一番愉しかったのかもなぁ、なんて……。

2011年5月20日

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読書状況 観終わった [2011年5月20日]

イーディ・セジウィック――画家志望であり、女優やモデルをこなした彼女の伝記映画。これもどれくらい史実に忠実なのかはわからないけれど、細部が微妙にぼかされていたりして、事実関係が曖昧にされているのでけっこう忠実につくられているのではないかと思われる。それゆえに物足りないけれど、そこに誠実さが見え隠れする。とはいえ、ボブディランやルーリードらが、この映画に文句をつけているようだ。というのも、イーディ・セジウィックは、アンディウォーホルやボブディランたちに振り回されたことによって破滅して行ったように描かれているので――(ルーリードは、アンディ側の人間)――、当事者は自らに責任がかかりそうになるとほぼ文句をつけるだろうから、正直なところよくわかりはしない。特にアメリカのロックスターはどれもこれも麻薬に溺れていたりするので、女優などもそうだけれど、なので、彼らの人間性なるものをこう評価するのは難しいところだ。早い話、普段いいひとでも、麻薬につかれば意味不明になるだろうし、その間に自分がしたことは覚えていまい。

ともかくも、本映画はイーディが映画女優として大成し、その後、麻薬と人間関係、金銭問題などが絡まって破滅しかけそこから更正の意思を持つ、というところでほぼ終わり、所々にかつての自分を振り返るナレーションが混ざりつつ、ラストはアンディの語り、そうして、クレジットでは彼女と実際に関わった人物たちによる彼女への評がナレートされる。父親の呪縛に囚われた彼女は、そこから抜け出すためにか、アンディに溺れていく、つまり、彼女にとってアンディがその像を埋め合わせることとなった。映画ではアンディはしかしゲイとして描かれており、アンディと彼女との間にあるものは恋愛ではなかった。やがて、彼女がボブディランにひかれるようになっていくことで、そのバランス関係が崩れ始める。彼と彼女との関係とは一体なんだったのか?そのある種の危うい糸が初めて彼らに実感され、その実感が二人をすれ違わせ、決別へと向かわせる。ドラッグに溺れていく彼女――しかし、そもそも、誰が彼女にドラッグを教えたのかもいまいちわからず、ともかくも、彼女は溺れていく。誰が彼女を助けようとしたのか?すらも、もはやよくわからなくなり、誰が彼女を破滅させたのかすらもやはりよくわからなくなり、彼女は映画の中では、「自分が選択した、責任は自分にある」と述懐している。

ものすごく冷たい言い方をすれば、短絡的な女の子が周りの大人たちに振り回されて、利用されて、捨てられて、破滅していった、というよくある話になってしまうのだけれども、この映画の主題みたいなのは、個人的には誰が彼女を殺したのかもよくわからないというところなのではないのか?と感じる。無論、それが意図されたテーマだとは思わないけれど、しかし、誰が彼女を破滅させたのかまるでわからず、とはいえ、みんなが寄って集って彼女を破滅させたというのもまた違う気がする。つまり、「人と関わる」ということはそれだけの「危険性」を持ちうる、ということ。人は一人では生きてはいけない、それは人の逃れられない定めのようなものだ。我々は文明社会で生まれた以上、文明社会から逃れることなど考えられない。ならば、人と関わらねばならず、人と関わる以上は、自分が誰かを殺したとしても、何らおかしくはない。無論、直接殺すことは滅多にないだろうけれど、間接的に殺したり、間接的に破滅の原因をもたらしたり、といったことは誰しもが起こしうる。早い話、恋人を少々酷い捨て方をするだけで、その人は破滅へと坂を転がり落ちていってもおかしくはないし、ついた嘘の一つによって、その人間が人間不信となり破滅に誘われていくかもしれない。それは、親と子、恋人、兄弟、友人、夫婦、知り合い、初対面……ありとある関係に適用されるだろう。誰...

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2011年5月25日

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読書状況 観終わった [2011年5月25日]

青春はあらゆる年代にあると思う、それの30代バージョンっていう感じだろうか?レビューなどを散見すると、ストーリーが地味だという意見が多かったのだけれど、なんとなくそういう人はストーリーでしか映画を観ないのだなあと感じて、なんだか昔の自分を思い出したけれど、個人的に映画は表象なので、ストーリーってよりはシーンやら雰囲気やら背景やらで決まるかもしれないと最近は思うようになってきたのは進歩なのかしら?

ちなみに、この映画は洋画らしくない洋画として個人的にはそれなりにツボにはまった。ストーリーが確かに特徴的でないのでぐいぐい引きこまれたりはしないけれど、心理描写やらが生々しいし(小説に比べたらたいしたことはないのだけれど)、それに全体を通しての雰囲気やら空気感みたいなのが出来上がってていいなって思う。ただ、所々意外と強引な展開が多くて困る。主人公と友人の心理描写がメインのようで、どうにも友人を出したいところから、友人がパリに行く理由をつくりあげたのだろうけれど、そのあたりも無理やりだし、意味のわからないシーンが散見される(とはいえ、これには文化的背景もあるのだろう。例えば、日本映画を外人が観ると、どうしてこういうシーンを盛りこむのか?って思ったりするだろうし、そのあたりの国特有の空気感みたいなのを知らないとついていけないのだろうなと思うともどかしい)。あと、ストーリーに難をつけさせてもらうと、普通に主人公は可愛いし、加えて美人だし、お洒落だし、お洒落も気取ってるってよりは可愛いお洒落なので、この人がこんなにも男に困ることなどないだろうという雰囲気で、そのせいでやっぱり映画だなぁと感じた。映画とか、漫画とかの問題点っていうのは、視聴者、読者に好かれるような絵である必要があるので、必ずしも本当に使いたい絵を使えないということだろうな。そのあたり小説なんかは余計な絵を使わなくて言い分、なんていうか、作者の世界にしやすいのだろうと感じるし、絵がイメージと違うからということで幻滅することもなくなる。



結局のところ、この映画の見所は主人公の可愛さとお洒落ぶりに行ってしまいそうで、後は同年代の女性からは心理描写的に共感されて、まぁ、女性向けの映画だなぁといった感想を抱いたのだけれど、これがアメリカで制作されているってところに個人的には感心した。ちなみにストーリーを一行くらいに要約すると、焦った30代女性のラブストーリー、です。と、ラスト十分を残して書いていたら、ラスト部分の二人の会話と表情のやりとりを見ていたら引っくり返りました、なんていうか、あの、はにかみがたまらない、思わず、にやってしまうようなあのはにかみがいいね。あと、ラストの音楽もいい。


ちなみにタイトルの意味は、一般的には、「英語を外国語として使う人が起こす間違った(特に文法・構文ですが熟語,単語も含む)とされる使い方をした英語の表現」ということで、ニューヨーク女とパリ男の恋愛っていう意味を指しているのだと思われます。

2011年5月28日

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読書状況 観終わった [2011年5月28日]

マリ=クロード・ピエトラガラ主演の『ラ・ピエトラ』――ということは、ピエトラガラを題材として、ピエトラガラから始まった映画なのだろうか?ともかくも、彼女の鬼気迫る踊りはバレリーナならではのこそだと思うけれど、不気味な美しさを一身に背負っていて凄まじい。美しいのだけれど、その美しさは背景に闇を背負っている、彼女の黒い髪と瞳とがそれに拍車をかけているし、彼女の不気味な美しさが醸し出されるシーンは総じて背景が暗い。ダンスのシーンも見所だが、一番印象に残っているのは、全身ずぶ濡れでバスタブに腰を乗せているシーン。あの虚のような瞳と、人形のように精彩をかきながらも整った顔と体の輪郭、シルクだろうか?の漆黒のワンピースは水をすって奇妙な滑りを放っている。ちょっと、AVとかで観そうな雰囲気なのだけれど、それは思い返せばそう思うだけで、そのシーンを見たときはぞっと怖気を感じながらも画面に引きこまれた。

しかし、情欲をかき立たせるという意味においては、他の女優たち、娼婦と夫の浮気相手のからだは艶かしい。どちらも、胸が露に映されており、なんていうか、情欲をかきたたせる摂り方かつボディだった。個人的には娼婦が凄まじかったし、ちょうどそのときに流れたアップテンポのBGMに加えて、バンが頻繁に切り替わるあの摂り方によって、倒錯的に夫が女に溺れかかりそうになる様が引き立っていた。娼婦とその後に夫が交わった女は、基本的に主人公が夫の性欲を満たすために呼びかけたのだけれど、最後の浮気相手はこっそりだったので、それが発覚した際の、主人公と浮気相手のそれぞれの台詞が印象的だ。主人公は夫を殺そうとして眠っている夫に銃を向け、その後自分にも向け引き金を引くが弾はこめられていなかった。目を覚ました夫に、「あなたを殺そうとしたわ、愛してるの」と黙っていることもできずに訴えかけ、浮気相手は、二日後に妻が死ぬという夫に対して、「わたしはそれを待っているの」と泣きながらにして訴える。板挟まれる夫はほんとうはどちらを愛しているのか?無論妻への気持ちが大きいのかもしれないが、浮気相手のことも愛している、ただ、彼の良心が、「愛している」とは決して言わせてくれない。主人公はラストで死ぬからその後のことはわからないけれど、彼はやはり浮気相手のところには戻らないのではないだろうか?そして、浮気相手も待ち続けるのかもしれない。陰を抱えた男は総じて魅力的に見えるのだろうから(無論、元々魅力がなければ駄目だけれど)、妻が死に目にある、なんていう状況であれば、それは相当魅力的に映じてしまうし、男だって誰でもいいから溺れてしまいたいという心境にあるのだろう。不謹慎な言い回しかもしれないけれど、そのあたり人間の心理ってやつは非情に難しい。


個人的には、伊集院静の「乳房」を思い出した。乳がんで死に瀕している若妻の見舞いに毎日のように通いながらも、他の女との情欲に溺れていく男。後ろめたさを抱えながらも、曖昧に微笑んで接する男。あの作品に比べれば妻はこちらのほうがよっぽど精神的に不安定で、最初から最後まで始終不安定だった。娼婦を渡しておいて、夫が娼婦にはまりだすと、嫉妬して当り散らし、「女心をわかってよ」と訴える妻。つまり、自分じゃ夫を満たす自信がない、だから他の女をあてがう、けれど、ほんとうは夫が他の女を抱くのが嫌で嫌でたまらない、夫は他の女を抱くことで妻への気持ちを確認し、主人公も夫に抱かれたくなり、交わる、というのが二度ほど繰り返された。娼婦と、主人公が紹介した別のバレリーナとで。最終的に夫は浮気をしてしまうのだけれど。あまりにも暗すぎて陰鬱としているし、主人公が不気味な上に、序盤から中盤にかけては不気味な美しさを持っているのだけれど、終盤ではもはや不気味なだけに変容してしまうので、あまり一般受けし...

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2011年5月31日

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読書状況 観終わった [2011年5月31日]

若き日のチェ=ゲバラとアルベルトグラナドのバイクでの旅を描いたもの――原作はゲバラ自身の日記であり、タイトルやパッケージから一見、青春物を髣髴とさせるが、実際は青春要素を持つものの、革命家チェゲバラの「素地」としての内容が強い。当然、若き日の彼の青春もそこには含まれるのだけれど、彼が隔離されたハンセン病者と出会い、共産主義思想を持ったが故に警察から追われ、仲間は海に埋められたという夫婦と出会い、貧困に喘ぐ地方の人々と交流していく中で、彼は資本主義なる世界観に次第に疑問を抱いていくのであろう。ハンセン病の隔離施設では、彼は去り際に、「南米大陸の統一を――」と言ったことを述べているが、そこには彼の共産主義思想がほぼ完成していることを物語っている。そのときの、アルベルトの真に迫った顔も否めない。独自の思想へと突き進んでいくゲバラに対して危惧しながらも、彼の主張自体は決しておかしなものではないとう事実。

正直、想像以上に面白い映画だった。ゲバラの「素地」が主題ではあるものの、ロードムービー自体も面白い。バイクが壊れてしまい、金もないために、新聞に自分たちを売りこんで記事にしてもらい、その記事を見せることでバイクを修理してもらう。修理屋の妻に誘惑され、ついていこうとしていると、そのさまを見咎められ、保身のために妻は、ゲバラに対して、「離してっ」と叫び始め、ゲバラとアルベルトは男共に追われて逃走し、バイクに跨り街を去るものの、ブレーキが利かずに牛に激突してバイクが大破、という一連の流れなんかは、これが青春ロードムービーだというくらいの青春振りである。誇張もされているのだろうけれど、似たようなことがあったのだろうし、実際にゲバラは端整な顔立ちをしているのでありえなくもない。晩年のゲバラは髭が伸び放題で日本人からすると若干グロテスクな顔立ちにも映じるけれど、若かりし頃のゲバラはどこに行っても女の子が言い寄ってきそうな雰囲気を発している。あと、写真を見たけれど、アルベルト訳の男優は実物とクリソツである。ありえんくらい似ている。

映画の内容から外れるが、共産主義という言葉を出した瞬間にヒステリックに否定する人もいるけれど、否定するときに言うのは、「北朝鮮」とか「ソ連」とか「労働意欲の低下」とか「独裁」とか固定観念的な単語ばかりである。それは個人的には違うと思う。共産主義=独裁っていうのは間違ったイメージである。恐らく共産主義思想があるやつがそれを実行すると、クーデターを起こして政権を乗っ取るしかない。民衆は基本的にはどこに行っても大衆なので、共産主義の思想を理解しきれないので、誰かが先導するしかない、となると、結局のところ独裁になってしまう、もうその時点で共産主義ではなくなっているのだけれど、なんとかその理念を徹底しようとする。このときに、独裁者が良心的ならばキューバなどのようになるけれど、そうじゃなければ、北朝鮮やソ連、中国のようになってしまう、とは言っても、ソ連は「社会主義」なのであるけれども。結局のところ、共産主義をほんとうの意味で達成するためには、大衆全員がその意味と意図するところを理解しなければならないのだろうけれど、それが実質的に無理な上に、人間が動物である以上競争原理から逃れられない上に、感情などという厄介な代物まで背負っている以上、共産主義は机上の空論でしかないと言えるだろう。実際にキューバだってカストロが倒れればどうなるかもしれないし、結局のところ独裁でしかないのだ。しかし、共産主義思想から机上の空論ならば、民主主義自体も机上の空論である。そもそも、民主主義という言葉は実は明確には定義されていないので、使う国や更にその国の中の人物によって異なったイデオロギーをこめられて使われている。個人的には共産主義も民主主義も理念上は実はあんまり...

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2011年6月2日

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読書状況 観終わった [2011年6月2日]

キリスト教圏のお家芸的な聖人物語。とはいえ、レミゼラブルや、グリーンマイルなんかは聖人物語だけれど、少々色が違うとは思う。レミゼラブルはいいところも悪いところもそれに描かれ、さらに丁寧に緻密に物語がつくられているし、グリーンマイルは聖人を殺してしまったことに対する贖罪みたいなのがテーマとなっている点で一段深い。この映画自体は、序盤は別段そういう雰囲気でもなかったのだけれど、後半で急に主人公が聖人にされてしまうあたりがかなり無理やりではある。一応、主人公は傷害致死で服役していて、犯罪者という形をとっているけれど相手は殺されてしかるべきなクズで、日本なら五年も服役しなくてもいいのでは?というくらいの罪なのだけれど、まあ、それはいいとして、ともかく、このあたりはジャンルジャンもうそうなのだけど初期条件としては整っているのかもしれない。そうして、凡人でありながらも聖人となる。このあたりはなんとなく遠藤周作的聖フランチェスコ風なのかもしれない。ただし、映画の中での時間は短く彼女は聖人たるようなことをしているわけでもなく、ほんとうにただ普通にそこにいただけであり、彼女が徐々に打ち解けていく空気や雰囲気自体は非情に暖かくて見ていて引きこまれたのに……要するに無理やり終盤で「聖人物語」へと転換させてしまったせいでストーリーが破綻し、聴衆自体もついていけなくなってしまったといった具合だろうか。

とはいえ、それは日本での話。キリスト教圏で、聖人物語や悔恨が好きなアメリカ人からすればこれはヒットするかもしれない。これは民族性や文化的に受け容れられやすいといった感じなのだけれども、彼女が死ぬ必然などなかったし、あまりにも間抜けな死に方をしているのもいただけない。聖人物語自体は嫌いじゃないのだけれど、あまりに無理やりすぎた感が否めない。服役をすませたぶっきらぼうな少女が田舎の喫茶店で働きながら心を開いていくというのはなんともいい感じだったのだけれども……。とはいえ、田舎の閉鎖社会を良くも悪くも描いてるのは間違いない。意図しているのかどうか知らないが、いい面も悪い面も緻密に描かれている。余所者には冷たく、あれこれ詮索し、あからさまに陰口をたたき(この一見矛盾したような行動をとるのがいかにも閉鎖社会)、一旦受け容れると心を開き温かく接してくれるが、他者がなにかすればそれを自分も知らなければならないと思いこんでいて、あれこれと干渉する。誰か一人に問題が起こればよくも悪くも全員でことに当たろうとし、事件があれば良くも悪くもそれを糧にして結束を深める。日本ではよく懐古主義なんかが唱えられるけれど、あれもこれも全員が知っているだとか、無理やり干渉してくるだとかは正直いただけないし、現代社会は無関心主義だと言われるけれど、目の前で困っている人がいたら心根さえ優しければ助けるわけで、逆に言うと以前と異なって個人個人の裁量――に任されるようになった社会というのが妥当な気がする。あれこれ干渉したりするのは別にやさしいからじゃなくてそういう風習だから性質だからなのであって、裁量に任されたらそこらへんは個人個人の性質が前面に出てくるだろうと言う話ではないのだろうか。

あと、やっぱり起こり始めるポイントが日本とアメリカは全然違うと思う。日本人は基本的に怒り出すには怒り出すための間というか流れがあって、突発的に怒り出す人は半分精神障害を煩っているような具合に見られるけれど、アメリカ映画は間も流れもなく突発に怒り出すのが普通なのでこのあたりも国民性なのだろうとは感じるが、やはりついていけない。評価は辛口になってしまったけれど、ラスト三十分までの一時間半に関して言えば文句なしの採点だった。あれこれ噂する周囲に、自分は元犯罪者です、と大っぴらに言えるところとかは気持ちよかったし。ちなみに萩...

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2011年6月8日

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読書状況 観終わった [2011年6月8日]

終始、物悲しい音楽が流れ、そこには「いかにも」サガンの享楽的かつ孤独な人生をある種の固定イメージで描こうとしている浅ましさが見え隠れしていると同時にサガンの人生は「いかにも」そのイメージが似合ってしまうという事実。取り巻き連中が悪かったのだと言われるようだけれど、取り巻き連中の中にもいろいろいたようだ。サガンと付き合いが長いシャゾやペギーは実際に彼女を愛していたようだし(少なくともそう描かれている)、金を浪費はするものの、彼女を守ろうとしている。苦言も呈しているし、そういう意味で彼女の友足りえたとも言えるのではなかろうか……しかしながら、彼女を純粋に利用とした者たちもいたようで、彼女はコカインに溺れていく。コカイン自体は、彼女が事故を起こしたときの治療として用いられていたらしく、そこから依存が始まったようである。

彼女の人生を悲劇と称していいのかはよくわからない。彼女はただ彼女らしく在ろうとしただけなのだから。彼女に真に悲劇があったとすれば、それは早すぎる成功だったのかもしれない。ある種、彼女は苦労を経ずして成功してしまった。それゆえに自分を制御する術を学ばないまま、大人となってしまった。あるいは、そのせいで、全てが刹那的な享楽に映じてしまったのかもしれない。彼女にとっての現実なんてものはどこにもなくて、ただ、ときおりふっと自分を不安にさせる正体の知れぬ悪寒だけが彼女にとっての現実だったのかもしれない。彼女は自由すぎて、自由すぎた結果自分の進む道筋を固着できなくなった。誰しもが幻想の道筋を固着してそれを疑わずに生きて行くのだけれど、ときおり、絶望的にそれが不器用な人種がいるのだと思う。生来的に不器用なくせに、お金も富みもあったからなおのこと彼女は自らを固着できなくなり、けれど彼女は頭が悪いわけではなかった。彼女は人一倍繊細で、自分がどう思われているかについてはいつも頭をめぐらせていた。彼女はその一つ一つに自分の中で反駁し、それを作品につづっていった。映画を観ていれば、「自業自得」という感想がもれそうになる。彼女を助けようとした人たちはいたけれど、彼女はその人たちの手を離しては、寂しくなると手を掴もうとして、最後には拒まれたり、あるいは先に死なれたりする。正直彼女はもう少し早く死ぬべきだったと思ってしまった。彼女は孤独が好きで、けれど、その孤独を紛らわせて生きていたから、孤独を紛らわせてくれる人たちがいなくなった瞬間に彼女は絶望に縁取られることとなる。享楽的に生きられるのは若いうちだけで、一定以上年を経ればそこには空しさが残る。彼女はその覚悟をしていたのか、していなかったのか?

映画では無理やりか知らないが、最終的に親子間の繋がりに持っていこうとしていたけれど、息子はどうでもよかったのかもしれないと感じた。彼女は息子を愛していただろうし、息子も彼女を愛していたかもしれないが、息子は寂しさを埋めてくれるほどの存在には究極的にはなりえない、少なくとも彼女にとってはそうだったのではないだろうかと感じた。彼女にとっては不本意かもしれないが、彼女が長く生きた以上は(享楽的な生活を送っていたわりに)、ああいう結末を辿ることは彼女らしかったのだろうと思う。ああなりたくなければ自殺するしかなかったのだろうけれど、彼女はそれよりも醜く生き永らえる路を選んだ。死ぬ勇気がなかったというよりも、むしろ、その方が彼女の中の直観がその方が自分らしいと感じたのではないのだろうか?

2011年6月14日

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読書状況 観終わった [2011年6月14日]

正直期待が大きすぎて、あれ?と思いながら読んでしまった感はある。死刑に際してのソクラテスの弁明は文学作品としてみればかなり完成度は高いものの、ソクラテスの弁舌能力を示すには甚だ弱々しくもある。ソクラテスの本領は対話でこそ発揮される。ソクラテスは純真なる哲学者でありながらも、もう半分は詭弁家であったと思うのだ。だからこそ、彼の巧みな話術には相づちが必要であるし、彼の哲学を推し進めるためには批判も必要なのである。という意味で、これはソクラテスの弁明に限っていえばこれは完全に文学作品である。クリトンは対話形式を取っているだけあって、哲学的思索がつづられてはいるけれど、やはりこれもいくらか物足りなくもある。純真な好奇で問いを発し続けるソクラテスの姿こそが彼の本領なのであって、そこまで哲学的とは言えないあたりが少々拍子抜けしつつも、文学性なるものには舌を巻く思いにさせられるという作品。

ちなみに「弁明」については、ソクラテスの姿に感銘を受けるということは意外となかった。やはり、彼が年を召しているからだろうし、その場で即死刑となっているわけでもないので。彼の発言に所々見受けられるのは大衆蔑視と優越性である。ソクラテスは大衆蔑視に関してはある意味巧妙に隠しているように思われる。無論言葉としては発しているものの、「これこれの理由があって」という詭弁を発している。嫌いならば嫌いだと言えばなかろうとかとも思うのだけれど、嫌いという言葉は哲学的でないから彼は嫌いだったのだろうか?また、優越性についても、自分は決して優れていない無知な人間だと言いつつも、自分を賢者や知者と述べているところもあり、このあたりソクラテスも人間だったのだなあと感じる。つまり、無知だというのはある種のポーズで無知であると普段から思っておくことによって、高慢にならずにすむし、思考停止に陥らないということを意図しての方便みたいなものなのだろうと思う。「クリトン」では彼に逃亡を促すクリトンを説得する様が描かれているが、ここにもソクラテスなりの独特の思考は見受けられず、国や国法、それに自分なりの正義を貫こうとする彼の姿は見え隠れするものの、一抹の物足りなさが残る。つまり、一言で言うならば、アルキメデスの方がいかれてる。殺される間際まで研究をしていて、数字を踏むなと敵国の兵士に怒鳴りつけて、逆上した兵士に殺されてしまうアルキメデス。ちなみにアルキメデスだけは殺すな、と兵士は命令されていたのだとか……?あと追記するならば、解説者のこのプラトンソクラテス崇拝が少々行き過ぎている。

2011年6月25日

読書状況 読み終わった [2011年6月25日]

評判は悪いようだが、個人的には嫌いではない。エコールという映画と対比させてみるのがよいようだが、そちらは未読である。エコールを気に入った人には、こちらは現実的であり、なおかつ残酷描写や性描写が多すぎてどうにも好きになれないらしい。個人的にはまあ嫌いではないのだが、一言で言えば「刷り込み」とでも言えばいいのかもしれない。それは環境要因を含めてのだけれど。その世界で当たり前のように育てられてきて、その世界で当たり前のように生活してきていると、その世界から抜け出そうという気力が当然のように生じなくなる。そうしたある種の無気力が、その世界から脱しようとする人をも飲みこみ、場合によっては殺してしまう、そうした風情が延々と感じられる映画であった。

内容自体は、どこかの森の奥にある女学校で、女子学生たちがバレエの練習をしているといったもの。しかし、実は彼女らは恐らくは小さい頃に誘拐でもされて連れてこられたようで(あるいは捨て子か)、森の奥に閉じこめられているというのが実情であり、彼女らはバレエの練習をしているものの、実はそれは見世物のなるためであり、主役に選ばれた少女(=ヒダラ)は侯爵の慰み者になるという始末。かなり烈しいプレイをしていたようで、おまけに無理やり処女を奪われるといった描写がなされており、股間に手を当てて血がべっとり、というのもかなり見ていてしんどいものがある。おまけに序盤は踊り続けてどんどん靴が血で染まっていくというオープニング映像。主要メンバーはことごとく死に、まるで救いがない。秘密を守るために、とあるが、実は秘密を守ることで得があるのは、性的に少女を蹂躙できる侯爵だけでその他のどの登場人物にも得がない、にも関わらず誰しもがそこから抜け出せないのは上記の思考停止の無気力状態故なのだろう。ヒダラは、日本的には顔が四角いしあまり好まれない顔かもしれないが美しいといえば美しいが、恐らくは準主役級の少女たちのほうが可愛いと感じた人が多いのではないかと思う。個人的には嫌いではないのだが、テーマ性みたいなものはかなりややこしいのか、何も考えていないのか判別がつきにくいが、少々わかりにくいが、敢えて言うならば上記の無気力感による閉鎖性と、結果として鬱積する狂気みたいなものなのだろうか?主演の子の相手役(=イレーネ)が、自殺する理由だけ明言されていないが、恐らくは、ヒダラが侯爵に妖艶に笑いかけるところに、女としての媚びみたいなのを感じて(ヒダラへの愛が深いゆえに)絶望してしまったからなのではなかろうか?と思うし、最後のところでそれをあたかも校長が意図したかのように述べられているので、ある意味これは繰り返されてきた悲劇であり、間接的な操作があったのだろう。総じて美しい幻想性は皆無かもしれないが、残虐的な幻想性で言えば高いと言えよう。途中、途中で伏線を放ったものの、回収されないといったシーンが複数見受けられ(同性愛が発覚して召使になったという二人やら)、侯爵の力がどれだけ強いのか?(国家権力をねじ伏せるほど?)、時代はいつなのか?とか疑問が残るものの、まあ、嫌いではない一作。

2011年7月13日

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読書状況 観終わった [2011年7月13日]

ゴダールの作品は断片的には観たことがあるが、通して観たのはこれが初めてである。ヌーヴェルヴァーグという運動の下でつくられた映画であるらしくて、ストーリー性が皆無など特殊な技法でつくられている。登場人物にはどことなく現実感が希薄で、彼らは完全に道化と化している。道化=ピエロ。主人公はヒロインからはピエロと呼ばれ、その都度フェルデナンと言い返す。刹那的で後先を考えずに思うままに行動する彼らには自由と空しさが終始ついて回る。刹那的に生きることで自由と快楽を求めようとすればするほどそれらが自ら離れて行く。彼らは一貫しておらずそれ故に度重なる後悔をするだろうけれど、それすらもある種の空虚さと諦念によって受け容れていく。ある種のハードボイルドが完成されているといえばされているのかもしれない。画面に向かって語りかける彼らは、視聴者をしかし画面上に引きこみはしないし、同化するわけでもない。ただ空虚さを湛えているだけだ。自由と快楽、そして空しさと正面から戦った作品と言えば割合この作品の内容を巧く言い表わせているような気もする。技法と表現したいものがうまくかみ合っているからこそある種の未完成な完成が構築されているとも言える。具体的に言えば、ストーリーのない突発的な撮影と、実際に突発的に行動していく主人公とヒロイン。彼らは自分たちの死すらも従容として受け容れる。無論、いくらかは抵抗はするが、彼らは死ぬ前から死んでいたし、死んだ後も生きているのだろう。そういう曖昧さの彼方を彷徨っているのだ。一応、内容としては気狂いピエロと呼ばれるフェルデナンが、かつての愛人と再会し、愛人と共に行動していく中で殺人犯に仕立て上げられ、そのままなし崩し的に罪を重ねていくき、最終的にはヒロインに裏切られヒロインを撃ち殺し、死に行くヒロインと愛を語り合い、ダイナマイトを頭に巻きつけて自爆するというもの。あれこれ感想や考察を書いてみたけれど一言で言うならばよくわからない作品である。

2011年7月18日

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読書状況 観終わった [2011年7月18日]

フィンランド映画。大学の助教授と色白の美人女子大生との間の恋愛。ヒロインが癲癇を抱えているというのが一つの特徴。助教授はボードレール研究者。冒頭主人公が水に溺れるシーンから始まり、それはヒロインが水泳をしていることと、発作によって意識を失うこととがかけられていると思われる。これといって目立つ部分のないストーリーではあるが、二人の肉体美みたいなところが訴求ポイントなのかもしれない。二人のセックスシーンは二人の肌のラインもそうなのだけれど、肌艶みたいなのが浅黒い艶やかさを放っていて、すごくきれいだった。音楽自体はどことなくUKロックを髣髴とさせるもので意外と熱いが、全編に渡ってはどことなく陰鬱な雰囲気のBGMが流される。ヒロインが溺れるシーンの映像美が最大の見せ場だと思われるが、ラストのヒロインの白いドレス?ワンピース?姿がかなりかわいらしく感じた。フィンランドは恐らく外見からするとゲルマン系なのだろうが、ゲルマン系の人はこう顔が濃いので、髪をおろしたりしてやや遠目から観るとすごくかわいらしく映じるような気もします。かわいらしいというのを好むのは日本人的嗜好なのでしょうが、日本人なのだからこのあたりは仕方ないのかなと思います。個人的にはボードレールなどについてもう少し実のある、というとあれだけれど面白い議論が見られればよかったのだけれどさすがにそんなところにはそれほど拘っていられないのでしょうかね。少々前だけれど、癲癇発作による事故が大々的に報道されていたので少々タイムリーな内容に感じられたのと、基本的には暗鬱とした空気の中での、恋愛は嫌いではない。ラスト部分の主人公の中途半端さみたいなのがどうにも微妙ではあったし、明らかに主人公はヒロインの両親から近寄るなと言われるはずなのだが、その両親が終盤にはまるで登場しなかったあたりは少々リアリティ不足とも言えようか。主人公とヒロインのセックスシーンが一度だけで互いに溺れていく様が描かれていなかったのが少々不満と言えば不満かもしれない。ちなみに主題歌のバンドがどうにも気になるので、このブログを万が一観て、あ、知っているという人がいたら書きこんでくれるとありがたい。

2011年7月19日

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読書状況 観終わった [2011年7月19日]

ネオフロイト派、あるいはフロイト左派、修正フロイト派などといった様々に呼称されるエーリッヒフロムについて記された一著。思想と伝記とが混じりあった構成となっている。基本的には彼はマルクス主義とフロイトの精神分析の融合を試みたようだ。つまりマルクス主義が持つ史的唯物史観、また社会構造を取り入れることによってフロイトによる精神分析をより完全なる物へ近づけようとしたというのがフロムのようだ。現在では時代遅れの思想の産物と捉えられているマルクス主義であるが、フロイトがミクロな観点(=個人)から普遍的な人類全体への共通原則を探ろうしたのならば、フロムは出発点をマクロな社会集団へと移したところが彼の特徴なのだろう。実際問題、フロイト精神分析は個人の内に眠る普遍性を見つけることや、あるいは症例に対するアプローチとしては優れていたが、それでは時代考察や社会を捉えるには不十分だったと言えよう。無論、フロイトにはその意図はなかったのであろうが、マルクス主義がフロイト的な思想(=無意識という概念)を取り入れることで二十世紀を生き延びようとしたのだろう。フロムは彼自身がユダヤ人であったことから、集団を捉える際に、ユダヤ教徒といったカテゴリーや、ドイツ人といったサンプルを選んで分析を加えている。最終的に彼は五類型を提唱する。受容的構え、搾取的構え、貯蔵的構え、市場的構え、生産的構えの五つである。受容的構え、搾取的構えはそれぞれフロイトが言うところの口唇性格の受動型にあたりマゾヒズム的である。搾取的はサディズム的であり、口唇性格の攻撃型にあたる。貯蔵的構えは消極的で現代的な性格でありフロイトが言うところでは肛門性格に該当する。市場的構えは機械的な性格類型であり、以上四者が「非生産的構え」と大別される。対して、生産的構えはよりよい人間関係を築いていくというある種の理想として定義されている。この点がフロムが楽天的であるとして批判される一員ともなっているが、フロムはこの生産的構えを持つ人たちこそが「真なる愛」を持ちうるのだと考えているようだ。そしてヘーゲルマルクスの進歩史観よろしく、恐らくは最終的には生産的構えへと人間は成長していくべきなのだと彼は考えていたのではあるまいか?ともかく、この生産的構えこそがフロイトによる人間の完成形とも言える「性器性格」に該当するのだろう。

さて、もう一つ彼がフロイトと決別することとなった権威的、人倫的といった二つの分類についても観ていかなければならない。彼がフロイトと異なる部分は大まかに言えば、「個人」に対して「社会」という概念を持ちこんだことや、リビドー理論(=個の欲動、エディプスコンプレックス他)に対しても同じように「社会」あるいは「関係」を持ちこんだことが挙げられるだろうが、もう一つ挙げるならば、フロイトを「権威的」であるとして批判したことが挙げられるだろう。フロイトの理論自体は強固であったものの、彼は権威的性格であったために多くの離反者を生むこととなる。彼はあくまで患者に対して絶対的な分析者であったわけだが、フロムはむしろ患者と親身になることこそ重要だと考えていたようだ。転移肯定主義とも言えるかもしれず、このあたりはクラインなどとも合致するのだろう。実際にフロイトが言うエディプスコンプレックスは権威的な父性社会でしか成立しえないというフロムの弁は非常に説得力があるし、それは否定できない。そこから母性社会に存在するものこそ本物の愛であると説いたところまで行くと、ある種の母性理想主義とも言えるのかもしれないが。ともかく彼は権威的、人倫的といった二つの分類をつくり、自らは人道主義的精神分析を行うのだと主張した。これは権威的な関係はある種のサディズム―マゾヒズムな関係であり、ここには性器性格とでも呼べるものは成立しえず治療も不完全なものと...

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2011年7月19日

読書状況 読み終わった [2011年7月19日]

一応、ミステリー映画に分類されていたが、これは多分ミステリーではない。むしろ、ミステリアス映画といったほうがいいかもしれない。ミステリー要素にそれほど凝っているわけではない。それよりは、ミステリアスなヒロインとミステリアスな主人公とのラブストーリーと言った方がいいのかもしれない。ミステリー性を期待した人は裏切られたと感じるかもしれないけれど、そもそもそんなところには監督は拘っていないんじゃないかな。とりあえず、この映画でミラ(実はエヴァだけれど)の役を演じているアナ・ムグラリスの裸体が全てと言ってもいいかもしれない。あまりにも美しすぎる。この頃、日本で美しすぎるという言葉が流行っているようだが、本気で彼女は美しすぎる。文句の着けようがない。胸がもう少し大きくてもいいかもしれないとは感じるものの、均整の取れたプロポーション、引き締まった裸体、艶やかな肌質、妖艶でどことなく翳りのある顔、後ろで縛った髪、服装もワンピース状の黒の下着なんかがうまく合いすぎている。この裸体を観るためだけにこの映画を観ても損はしないと思われる。多分、ミステリー映画に分類されて、ミステリーマニアに酷評されて有名になり損ねているんだろうけれど、正直名作クラスだと思われます。


基本的に、序盤にセックスシーン、中盤で溺れていく様、後半は謎解き要素が加わり、終盤で最後のセックスシーンというひたすらセックスシーンが見せ場の映画で、彼女は主人公とも、夫である主人公の息子ともベッドシーンがある。息子は義理の息子であるみたいで、どうにも父息子仲はそれほどよろしくないようだ。とはいえ、一方的に息子が父親を嫌っているみたい。息子はあんまりいい描写がされていないですね。どことなくユダヤ人蔑視も見て取れるし。ちなみにミラに扮するエヴァは当初は、父の復讐+金のため、そしてなによりも主人公であるところのダニエルを自らの魅惑で徹底的に壊したかったみたいだけれど、いつの間にか本当に愛してしまったようだ。基本的にはヒロインの計画通りにことが進むのだけれど、どうにも複雑そうな感じになってしまっている。最初はダニエルをただ壊したかったけれど、最終的にはダニエルと一緒に溺れたくなっているというか、ダニエルは絶対に手放したくないというか……。ダニエル自体は自殺してしまうわけで、一応、警察が明らかな自殺と言っている以上は、明らかな自殺なのだろうけれど、このあたり殺されたようにも映じる撮り方がなされていて意味深。まあ、遺言らしきものがあるから自殺なのだろうけれど、彼女は最後に彼との関係をきかれ、「愛人」と答えているし、彼の息子、つまり夫に対しても、「愛人」といった単語を発していることから、ダニエルしか見ていないことは明らかでそれは最後まで変わらない。一応、原稿に関しては、ダニエルがぱくったというよりは、ポールとダニエルが互いにパクリあったというのが事実であったようで、もはやどちらがどちらなのかわからない。つまり、ポールとダニエルはほぼ同一人物としてリンクされるといった具合の結末である。惜しいのは、焦点を当てたかったのが、ダニエルとポールの関係なのか?それとも、ダニエルとミラ(エヴァ)の関係だったのか?がいまいち判然としないところかな。個人的には、息子の妻と夫が関係していて、おまけにその妻に接吻を見せ付けられてしまったダニエルの妻の発した「最低な男」っていう言葉かな。しかし、ミラ(エヴァ)は多分死ぬまでダニエルを忘れないだろうな。こういう女性って、文学的には性的に乱れていようが、実は一途な感じがする。

2011年7月31日

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読書状況 観終わった [2011年7月31日]

ロバートデニーロ主演、ユマサーマン助演。冴えない中年刑事が、偶然、マフィアのボスを助けた(?)ことから、一方的に恩義を感じられ、「夢をかなえてやるよ」という意味深な台詞を主人公が訝っていると、マフィアのボスの女が寄こされてきたのだった……みたいな感じで、後はそのまま身の上話を聞いている間に本気で恋に落ちてしまったといった具合。マフィアのボスの女に惚れてしまう、みたいな話はいいんだけれど、なんか二人が恋に落ちていく流れみたいなのはすごくテキトーに描かれたいたように思う。あんまり突き詰めるのは駄目だと思うんだけど、どうしてデニーロにサーマンが惚れたのか意味不明だ。あの流れだと、誰でもよかったように感じられる。後、終盤の一騎打ちの殴り合いはいいんだけれど、あんなコメディタッチにされてしまうと、正直萎える。結局、ラブコメディみたいな感じで落ち着いてしまっている。と、思ったら、ブラックユーモア風味のロマンティック・コメディ、となっているな。「ラブストーリー」のコーナーにあったんだが……この前も、SFXアクションがミステリーコーナーにあったし、分類テキトーすぎる……まあ、いいけれど。とはいえ、全体としての筋は嫌いではない。古きよきハードボイルドっていったらそうなのかもしれない。しかし、デニーロってこんな顔だったのね。ハードボイルドとか中年の哀愁とか言えば格好いいけれど、今だとハンサムには含まれない顔立ちだとは思います。ユマーサーマンはすごいきれいだけれど、身長180くらいあるんだってね、映像だけだとよくわからんわ。みなさん身長高いから。しかし、ビルマーレイとトムハンクス顔に過ぎてて、ずっとトムハンクスだと思ってビルマーレイを見ていましたよ……。

2011年9月17日

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読書状況 観終わった [2011年9月17日]

引き込まれて、引き込まれてあっという間に終わってしまった感じだった。こんなに見応えの在る映画もあるのか?というくらい圧巻だった。別に凄まじいインパクトがあるような作品ではないのだけれど、表象的表現の中に構築されている表象といったものがダイレクトに表象されているといった感じ。まあ、これはタイトルにある通り、映画の中でビデオテープが流れるのだけれど、そこに映じている表情や仕草、息遣いというものがどうにも妖艶で引きこまれるのだ。正に表象の中の表象。基本的には四人の主要人物、アン、その夫、妹、グレアムという謎の男(夫の学生時代の親友)によって織り成される物語。夫は典型的な浮気男で、外見はよく仕事も弁護士だがその分他者を見下していて、ひたすら自分に都合よく生きているといった具合で、いかにも癪に障る感じではあるが、序盤はむしろ、アンのほうがなんか地味で冴えないし、つまらない女性に映じる。この構図が次第に逆転していくのは、アンがグレアムにひかれていく様がリアルだからだろう。また、夫は浮気しているからアンがグレアムにひかれても視聴者は背徳感すら抱かずに済む。妹は姉の夫と浮気をしているのだけれど、この妹もかなりいい。演技もいいし、妖艶さもいい。彼女の心理描写には謎が多いけれど、基本的にはそのとき思ったように生きている。だが、姉の夫のことは肉体的に相性はよくても性格なんかは嫌いみたい。嫌いだけれど、肉体的な相性はいいからセックスするなんていうのは、なんとも、なんともだ。グレアムは芸術家気質の能天気な人間で動揺せずにある種観察者として振舞っていくわけだが、その構図が逆転していくあのアンとの格闘感みたいなのがいい。あそこにリアルがある。確かに低予算映画だとは思うんだけれど、その分表象というものがこれでもかというくらいに突き詰められていた。このとき、監督であるスティーヴン=ソダーバーグは26歳だったというのだから圧巻である。

2011年8月9日

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読書状況 観終わった [2011年8月9日]
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