- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004315964
作品紹介・あらすじ
「学び」とはあくなき探究のプロセスだ。たんなる知識の習得や積み重ねでなく、すでにある知識からまったく新しい知識を生み出す。その発見と創造こそ本質なのだ。本書は認知科学の視点から、生きた知識の学びについて考える。古い知識観-知識のドネルケバブ・モデル-から脱却するための一冊。
感想・レビュー・書評
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知識を増やすことが学ぶということではない。
知識を使って新しいシステムに変化させていくことが学びだ。
つまり、身体を使って体験することで、知識をさらに他のものに転移させていくことが大切だということ。目的を知ることにしてしまうと発展はない。
超一流の熟達者は当たり前のようにそれを繰り返している。
やり続ける「根気」と失敗しても立ち上がる「打たれ強さ」。
探究人であり、超一流の熟達者になるための必須条件である。
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学びとは何か
〈探究人〉になるために
岩波新書 新赤版1596
著:今井 むつみ
おもしろかった。
学びというものを、スキームという概念をつかって説明する書です
人間は本来天動説を実感している。
不安定な球の上に住んでいるというのは、どうみたってまともな人間の考えることではない。
地動説とは頭でわかっていても、身体が信じているのは、皆天動説なのである
つまりもともと、人間は、天動説のスキームをもっているのである
それを、地動説を信じるというのは、その人のこれまでの体験を全否定すること、
これをコペルニクス的転回というが、必要なのである。
気になったのは次です。
■はじめに
・本書では、認知科学の観点から学びについて考えていく
・認知科学とは人のこころの働きとその背後にあるしくみを理解することを目的とした学問である
・あることを長い間つづけていくと、そのことに習熟し、熟達する
・熟達者になると学習を始めたときに比べ、行動が大きく変わる
・一般的に「熟達者」というと、スポーツや、芸術、技能、将棋や囲碁、外国語など、普通の人はしない(できない)特別な分野での達人のように考え勝ちだ。
・しかし、熟達は誰にでも起こる。
・学習することは熟達に向かう過程なのである
・「よい学び」を実現するためには、まず、一人ひとりが自分は何を目的にして学びたいのかを考え、その目的のために最もよい方法は何かを考え、それを実践しつづける「学びの探究人」であってほしい
■誰にでもできる探究
・究極の学習というのは、「自分をきちんと客観的に知る」(メタ認知)と、「相手の気持ち、考え方、感情を知る」(思いやり)であると思っています
■記憶と知識
・「学ぶ」ということは「覚える」ということと深いかかわりがある
・「よく覚えられる」というときには、「記憶に入れるプロセス」と、「記憶を取り出すプロセス」の2つの異なるプロセスがかかわっている
・外界の情報はまず「瞬間記憶貯蔵庫」に入る
・「瞬間記憶貯蔵庫」に入れられた情報はさらに、「短期の記憶貯蔵庫」に入る
・「短期の記憶貯蔵庫」もまた、一時的な、コンピュータにたとえれば、「バッファ」のようなものだ
・時間がたってから思い出そうとおもったら、情報は、「長期の記憶貯蔵庫」に移されなければならない
・「短期の記憶貯蔵庫」に入れられる情報は多くて7つだ
・達人はもともとは関係ない情報をうまく関連づけ、ひとつの塊にしてしまい、塊のまま覚える
・知識が使えない状況では理解が難しく、したがって記憶もできない、つまり、学習ができない
・知識は、身体の一部になってこそ生きて使える、逆にいえば、身体の一部になっていない情報は使えない
■乗り越えなければならない壁
・人は何か新しいことを学ぼうとするときには必ず、すでに持っている知識を使う
・自分がそのような知識をもっているということに気づかずに無意識につかっている場合も多い。
・スキーマは、そのような知識だ
・スキーマとは、心理学の用語で、何かを理解するために、行間を補うような、常識的な知識のことをいう
・スキーマに関連して容易に理解された情報のみが記憶され、スキーマにあわない情報は記憶されることはあまりない
・スキーマが誤ったものであると、何が起きるか。問題解決に必要な情報に目が行かず、関係ない情報ばかり注目してしまう
・その結果、誤った思い込み知識は、修正されるどころか強化されてしまう
・そういうことが繰り返されるので、誤ったスキームの修正は難しいのである
・人が熟達していく上で大事なことは、誤ったスキームをつくらないことではなく、誤った知識を修正し、それとともにスキーマを修正していくことだ
■学びを極める
・熟達とは、
①経験を積むことで、最初はできなかったことが素早く、よどみなく、正確にできるなるというレベル
②それを超えて、その分野で、一流となり、さらに超一流となるレベル
とがある
・熟達者は、いちいち考えなくても必要な行動が必要な時に自然とできる
これを認知科学では「スキルの自動化」という
・「直観」が働くためには、膨大な量の過去の記憶があり、それが必要な時に適切に取り出せることが必要だ
・人は、熟達の過程で、その分野で重要な情報を非常に短い時間で効果的に記憶するすべを身につける
しかし、熟達者のすぐれた記憶の本質は、「その場の情報をそのまま記憶する力」ではなく、
持っている知識によって状況を認識できる「認識力」にあるのである
・「認識力」は、「識別力」でもある
熟達者は、普通の人にはわからないちがいがわかる
■「生きた知識」を生む知識観
・世界は客観的に存在しても、それを視る私たちは、知識や経験ノフィルターを通じて世界を見ているのである
聴くこと、視ることは、私たちがもっとも多くの情報を得る経路である
聴いて記憶に取り込まれた情報、視て記憶に取り込まれた情報が、「解釈されたもの」であるとしたら
それで基盤に習得される知識もまた、「客観的な事実」ではありえない
・知識は常に変化をつづけている流動的なものだし、最終的な姿はだれにもわからない
最終的な姿がわからないのに、システムを構築するためには、要素を増やしつつ、それに伴ってシステムも
変化させながら成長させていうしかない
・「生きた知識のシステム」を構築し、さらに新しい知識を創造していくためには、直観と批判的思考による熟慮との両方を両輪として働かせていく必要がある
・多かれ少なかれ、達人たちは、常識的な思い込を排除するための、振り返りをしているはずだ
直観に頼った素早い判断、素早い学習は、熟慮による修正を伴って初めて、精緻な知識のシステムへと成長していくことが可能となる
■超一流の達人となる
・超一流の人は、小さいころから質の高いトレーニング方法を模索し続け、実践しているのである
・実践をしながら、集中力の緩急の付け方、時間の配分のしかたも同時に学んでいる
・創造性は特別な才能を持った人が特別な分野で示す特別な能力ではなく、状況に合わせて自分独自のスタイルで問題を解決できる能力に他ならない
・創造性は臨機応変であることの延長線上にある
・「天才」と呼ばれる一流人に共通しているのは、向上への意欲だけではない
自分の状態を的確に分析し、それに従って自分の問題点を見つけ、その克服のためによりよい練習方法を独自で考える能力と自己管理能力が非常にすぐれているのである
■探究人を育てる
・「天才」と呼ばれる人は、どこまでも追究し、新しい道を切り開く人である
・一流の達人は、向上をするための手立てを常に模索し、実践する探求人だ
・人と一緒に、人をたよらず 協調学習
複数の人が集まって考えを出し合うことで、自分では考えつかなかった視点やアイデアに気づくことができる
同時に、大事なことは、一人で考えることをおろそかにしないことだ
・探究人を育てるには自分が探究人になるしかない
目次
はじめに
誰にでもできる探究
第1章 記憶と知識
第2章 知識のシステムを創る―子どもの言語の学習から学ぶ
第3章 乗り越えなければならない壁―誤ったスキーマの克服
第4章 学びを極める―熟達するとはどういうことか
第5章 熟達による脳の変化
第6章 「生きた知識」を生む知識観
第7章 超一流の達人になる
終章 探究人を育てる
おわりに
参考文献
ISBN:9784004315964
出版社:岩波書店
判型:新書
ページ数:256ページ
定価:960円(本体)
発売日:2016年03月18日 -
こんなに堅そうなテーマ、かつ堅い岩波新書…にも関わらず、
高評価なこの本は、教育に興味があれば、読まずにはいられません。
認知科学(これがどんな学問なのか、正確には理解していないのだけれど…)の専門家である著者が「学び」について論じた本。
特にこれからの「学び」は大人も子供も「探求」だ、と言っていて、
最後の章が個人的にはとても自分の価値観・考えとも合って、心地よい。
どうやら著者は外国語の学ぶプロセスを研究している方らしく、
学びの過程を外国語学習の過程になぞらえて説明してくれているのだが、
本当にそれでよいのかは、素人なのでしっくりこなかった。
それでも、これからのあるべき教育を語ってくれている良書だと思います。 -
認知科学を専門とする今井むつみ(1958-)が、子どもの発達とりわけ子どもの言語習得の過程に関する研究を参照しながら、あるべき「学習の型」を考察する。2016年。
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「主体的で自律的な学習」の在り方について考えさせられた。
「学習」とは、外から与えられる新たな知識を単に記憶に貯蔵していくだけの「一方向的な量的蓄積の過程」なのではなく、①新たな知識を自分で発見し、②既存の知識を通して新たな知識に対して主体的に意味を付与し、③既存の諸知識が予め相互に関係づけられて配置されているシステムの内部に新たな知識を位置づけ、④新たな知識が既存の知識のシステムと矛盾する場合はその整合性を保つためにシステムに必要な変更を施し、⑤知識のシステムをより精緻で豊穣なものにしていくことでさらに新たな知識を発見し創造していこうとする、「自己反省的な質的変容の過程」であるといえる。最終的な目的が予め措定されていない弁証法的な過程。
「[略]、子どもの言語の習得の過程とは知識の断片を貯めていく過程ではなく、知識をシステムとしてつくり上げていく過程に他ならない」(p40)。
「子どもは大人が母語を使う(つまり話をする)ことを模倣して母語を学ぶ。しかし、それは決して「猿真似」ではなく、親が使う言語を聞いた時に、インプットに対して分析、解釈を行い、自分で言語のしくみを発見することによって言語を自分で創り直すことに他ならない。結局のところ、模倣から始めてそれを自分で解釈し、自分で使うことによって自分の身体に落とし込むということは言語や運動に限らず、すべてのことの学習・熟達過程において必要なことなのである」(p135-136)。
「言語はあまたの要素が互いに意味をもって関係づけられてつくられたシステムである。語彙の学習を例に挙げれば、単語を覚えるということはドネルケバブの肉片を貼り付けるように、それまでの地点で作られている語彙にさらに新しい単語を加えていくことではないのだ。新しい単語を語彙に入れるために、子どもはその単語の意味を自分で考える。そのときには、すでに知っている単語との関係を考え、語彙のシステムの中での新しい単語の収まる場所を考える。新しい単語が語彙に入れられたら、その単語と関係する単語の意味も変わりうるし、語彙のシステム自体も変動する」(p148)。
重要なのは、「学び」という営みは、単に事実的な知識を増やすことだけなのではなく、そこには「学び方に対する学び」という「学び」それ自体をメタレベルから対象化し反省する視点が内包されている、という点だろう。個々の知識を学習しながら、同時に学習のしかたそのものを学び、学習の質をも向上させていく。そもそも、完全な知識のシステムを一挙に構築することは不可能であり断念されねばならないのだから、自らの「学び」に対して自覚的であること、自らの「学び」に対する批評精神を失わないこと、が求められる。
「「思い込み」に導かれた思考のしかたは、誤った思い込みを生む危険性もある。それでもなお、そのような思考のしかたで素早く知識システムを立ち上げようとするのは、誤りは後から修正すればよいことも子どもは知っているからだ」(p158)。 -
学ぶということは、どういうことなのでしょう?
多くの知識を記憶すること?
知識とは何?
これらの問に正面から向き合っているのが本書である。
本書に登場する大事な言葉「スキーマ」の概念を抜粋しておく。
このスキーマを理解し、自分自身が持っているスキーマが何かを意識することで学び方が見えてくるのだ。
以下抜粋
私たちは日常で起こっている何かを理解するために、常に「行間を補っている」。実際には直接言われていないことの意味を自分自身で補いながら、文章、映像、あるいは日常的に経験する様々な事象を理解しているのだ。行間を補うために使う常識的な知識、これを心理学では「スキーマ」と呼んでいる
抜粋終わり
母国語を学ぶ子どもたちが、どのように言葉を理解し使いこなしていくのかを紐解きながら、学ぶこととはどいうことかを考えていく。
著者の最新作『英語独学法』でもスキーマについて触れており、本書を読むことで更に理解が深まった。 -
『学びとは何か』
1.生きた知識とは、状況認識&処理を高めるものである。
2.生きた知識とは、自分で見つけるのみである。
3.一流は、ロールモデルをみつけ、自身との差異を認識している。
→差異の範囲を認識。
→学ぶ目的を決定。
→そして、学ぶ を 踏み出す。
4.知識があるから、バイアスがかかり、結果、破壊再生の繰り返しとなる。
社会人となり、改めて学ぶ目的を考えている。
受け身ではなりたたないから。
そう、生きた知識が欲しいんだと気づいた。
さらに、それは僕がやることで、決めることなのだと気づいた。 -
認知科学の視点から言語習得過程をベースとして書かれているのでスタンスに偏りがあるようにも思えるし、「天才」とか「才能」というキーワードを持ち出して、結果論からアレコレ論じている部分もあって全体的に論点が発散しており、まとまりがなく、問題提起に終わっている印象。最後は教育論になってしまっているし。「学ぶこと」は「知識を得ること」という「知識偏重」の否定の否定?に関しては同意。
著者の立場からは天才や才能は「遺伝的に決定しています」とは言えないので、「努力とか根性とか慣れ」という要素を重視してしまうのは仕方ないか。そもそも母国語習得に遺伝は関係ないし。
参考になる部分はあったが、本書からは「学び」を語る難しさを思い知らされた。(これも学びか?) -
少し思っていた内容とは違ったので流しつつだったが、勉強になった。
学校教育で「知識偏重」からの脱却が言われるけれど、その場合の知識は「事実の断片」を指している。それに対し「生きた知識」とは、子どもが自分で発見するもの。コスパタイパの時代に、学びは効率でなく、耐久力を持って粘り強く取り組んでいくしかない。
そして何より親や教師がそれを実践することなんだよね。自分の学びを自分で工夫する。