- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101167312
感想・レビュー・書評
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粋な随筆である。
良いものの価値を知ること、その国その国の特性や格好良さ。いいものを知っている上の価値観。
かっこいいなーとしびれる。
なんと言っても免許を取った妹への助言がかっこいい。
是非ご一読を。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
半世紀も前の本なのに内容は全く色褪せない。英語のこと、お洒落のこと、今でもほとんど状況は変わらない。いや、それに加えて作者の選ぶ題材も本質であり普遍だったということか。
本質への強いこだわりは一貫していて、キザなのに読んでいて嫌な気持ちにはならない。伊丹十三氏のカッコよさは自分の道を曲げないところで、この本にもそれが確り現れていると思う。(後の自殺(と見せかけた追い込み殺害)は残念ではあるが、氏の一貫性を却って強調させている) -
気取っているけどクールでおしゃれ。
ヨーロッパすきなのでうらやましい。
あとがきの重ね合いがおもしろい。 -
映画監督である事、残念な亡くなり方をされた印象のみの作者であり、映画監督作はすべて観たけれど俳優としての作者は全く知らなかった。ヨーロッパでの俳優生活での有名俳優を友人に持つことやその多彩な職歴に驚く。あらゆる方面に才能を開花させた人物だったんですね。
映画「タンポポ」で挿入されるスパゲッティの食べ方にまつわるエピソードが印象的でしたが、この本でも語られてますね。食やファッションに対する独特の感性が語られており、そのこだわりこそ面白みが感じられます。
もう少し生きて足跡を残して欲しかった、と。 -
「ロンドンで、一人の婦人が、子牛ほどもある犬をつれて、横断歩道を渡っているのを見たことがある。
犬にとって、その行く先はよくよくいやなところであったに違いない。腰をおとして抵抗しようとするのであるが、婦人は綱引きをする人のように、ほとんど四十五度くらい傾斜して力いっぱいひっぱったから、犬は「おすわり」をしたままの姿勢で、少しずつ移動してゆくのであった。
車の往来のはげしい通りで、このためにずいぶん車が止まったが、みんな英国人特有のがまん強い、落ち着いた顔つきで、もちろん警笛を鳴らすものもいない。
オープンにしたスポーツ・カーを運転していた一人の老人などは、しばらく運転席の中でごそごそしていたと思ったら、湯気の立つ紅茶茶碗をとりだして、お茶を飲み始めたくらいである。
その間も、婦人は一心に犬を引っぱってゆき、横断歩道を渡りきったあとまで、周囲のだれの顔をも見ようとしなかった。彼女の顔はーーおそらく激しい運動のせいであろうーー首筋まで赤くなっていたのである。
わたくしは、そのとき、洗濯屋の前に車を止めて妻を待っていたのであるが、事件が一段落したので読みかけていた本をとりあげた。
が、それもつかの間、五分ばかりして何気なく目をあげると、今度はさっきと正反対の光景が展開しているではないか。すなわち、不平不満の犬が毅然たる態度で反撃に移ったのだ。
今度は、引いているのは犬である。婦人の首筋は一段と赤みを帯びて、彼女は、見えないイスに腰をおろした姿勢のまま、見る見る出発点まで引き戻されてしまった。
犬は、今や得意の絶頂である。もはや内心の満悦を隠そうともせず、周囲をながめたり、後ろ足をあげて、あごの下をかいたりなんかもしてみたのだ。
わたくしが、全く英国的だと思ったのは、その後の情景である。
婦人は、犬と向かいあって道ばたにしゃがみこむと、わかりやすい大きな身振りを使いながら、ゆっくりした口調で犬を説得しにかかったのである。
話していることばは聞こえなかったが、右をさしたり、左をさしたり、大きな弧を描いたりしている手つきからすると、「いつもは、この道をまっすぐ行って左へ曲がって家へ帰る。今日は、この横断歩道を渡ってから右へ曲がって家へ帰ろうというだけの話だ。結局、同じことではないか」という趣旨であると思われた。
犬にとっては、かなり抽象的で、難解なテーマである。「そんならそうと早くいえばいいのに」という顔つきで、犬が先にたって横断歩道を渡り始めたのは、三十分ばかり後のことであった。」
現代の大人がいちゃもんつけなさそうなところを引用してみた。
数年前、愛媛の山の中に住んでいるころ、松山市街との行き来は国道33号線を使っていて、その道路から見える石手川の支流に挟まれた土地に伊丹十三記念館の黒い建物が見えていて建物脇に保管されているかつて伊丹十三が乗っていたベントレーも国道からチラッと見えるので、気がついたときにはベントレーをチラッと見るようにしていた。律儀にお参りはしないけれど遠目に鳥居が見えたら心の中でお辞儀する、くらいな気持ち。大江健三郎があんまり伊丹をもちあげ続けるものだから、自然とそうなっている。
「大江健三郎より書簡。
来年の六月に子供が生まれる由。子供の名に、戸祭などはどうだろう、という。苗字とあわせて大江戸祭になる、というのだ。ふざけた男である。
わたくしも、いよいよ麹町の伯父さんになるわけだが、わたくし個人としては、やはり姪にしてほしい。
かつてマラルメがしたように、わたくしも、小さな姪に仔馬とヨットを贈るため、一夏過酷に働く、なんて、いつか是非やってみたいような気がするのだ。」
伊丹十三を読み返したついで、ではないが、大江の特集の雑誌の、故郷の四国の山の上で耳を澄ます格好の大江の表紙が目についたのでAmazonマーケットプレイスで買った。1990年の雑誌、ついでに1990円。伊丹が死ぬ七年前、大江はまだ55歳、ノーベル文学賞の四年前。なお本書は余裕のない中年以降には向いていません。 -
うーん。イマイチなじめなかった。
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エッセイストとしての伊丹十三の処女作。書いたのは二十代。嫌みのまったくない気障と数々のこだわり。
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映画をあまり見ないせいか、著者のことは俳優で映画監督もしていた方、というくらいしか知りません。
読み始めてすぐは、なんだか気障だ…という印象が強く、遠巻きに様子をうかがうような感じで読んでいたのですが、だんだんその気障さがかっこよくなってきました。
着るものや食べるもの、言葉の使い方やふるまい方。
著者の中には、よいものとよくないものがはっきり分かれていて、その点に一切妥協はありません。
著者の哲学や感性の鋭さを感じさせるエッセイにしびれます。
表紙や本文中の挿絵は著者の手によるものなのだそう。
独特の味がある線で描かれる、身の周りの品や人の表情の数々に、つい見入っていたのでした。 -
時間があれば