この作品の最も根本的な問題は、ジョンが最初にチームを呼び集めたときに言った、脱出冒険物語なのに先が読めて、さほど感情に訴えないという点にあった。『トイ・ストーリー』の出来事からおよそ三年後を舞台とする物語は、ウッディがはたして収集家のアルの言いなりになってちやほやされる(が、遊んでもらえない)「収集品」として生きるのか逃げ出すのかを中心に描かれている。持ち主だったアンディの元へ帰るチャンスをつかむために戦うのか戦わないのか。映画として成立するには、いつかは成長し自分を捨ててしまうアンディのいる世界に戻るのか、安全だが愛してくれる人のいない場所にとどまるのか、というウッディの迷いを、観る人が本当のことのように思えなければならない。だが、観ている人は、ピクサーとディズニーの映画だからハッピーエンドで終わる、つまりウッディはアンディと再会を果たすために帰っていくに違いないと思っている。必要なのは、ウッディが本当にジレンマに陥ってると思わせることだ。それには観る人が共感できるジレンマでなければならない。言葉を換えれば、ドラマが必要なのだ。
物語のオープニング、ウッディがアンディとカウボーイ・キャンプに出かけようとするが、腕がちぎれてしまい、置いていかれる(アンディの母親の棚にしまわれる)のは原案どおりだが、ブレイントラストは、この時点で最初の重要な変更を二つ加えている。ペンギンのウィージーというキャラクターを登場させ、自分は鳴き声が出なくなってからずっと棚に置かれっぱなしだ、とウッディに告げる。どれほど気に入られたおもちゃでも、壊れてしまえば棚にしまわれ、相手にされず、ともすれば永遠に放っておかれる運命にあることを導入部でインプットするためだ。こうしてウィージーは物語の感情的な伏線を成立させている。
ブレイントラストが行った二つ目の根本的な手直しは、カウガール人形のジェシーの物語を補強することだった。ジェシーは自分の持ち主の女の子が大好きだったが、女の子が成長すると、ほかのおもちゃとともに相手にされなくなってしまう。自分がどれほど望んでも、大切に思っても、アンディもいつかは子どもじみたものを手放す日が来る、という。ジェシーからウッディへのメッセージは、サラ・マクラクランの歌う「ホエン・シー・ラヴド・ミー」をバックにモンタージュ(複数のカットを組み合わせて映像に意味を持たせる構成法)シークエンスを使って悲痛な調子で語られることになった。ジェシーは、ウィージーが切り出したテーマを取り上げ、黙示的だったテーマをウッディとのマセた会話を通してオープンにするわけだ。
ウィージーとジェシーが加わったことで、ウッディの選択は、より複雑なものになった。いつかは捨てられるとわかっていながら大好きな人のそばにいることもできるし、本来の愛のかたちではないがいつまでもちやほやされる世界に逃げることもできる。それは究極の選択であり、本質的な問いだ。クリエイティブチーム内ではこういう言い方をしていた。「あなたは永遠の人生と愛、どちらを選びますか」。その選択が持つ葛藤を感じることができて初めて、映画だと呼べるのだ。
取っ手と本体が数本の糸でかろうじてつながっている古くて重いスーツケースがある。その取っ手は、一見、的を射た奥深い言葉のように思える「プロセスを信じよ」か「物語が一番偉い」を表し、スーツケースは、このフレーズに飲み込まれてしまったあらゆるもの――経験、深遠なる知恵、努力の末に得られる真実――を表している。我々は取っ手だけを持って、スーツケースがないことに気づかないまま立ち去ってしまっている。それだけでなく、置いてきたもののことを考えもしない。要はスーツケースより取っ手のほうが何倍も持ち歩きやすいのだ。
一度スーツケースと取っ手の問題を知ると、それがやたらと目につくようになるだろう。人は格言や逸話が好きだが、実際の行動や意味をそれにすり替えているに過ぎない。広告は、商品の価値を伝える言葉を価値そのものの代わりに使用する。企業はよく、一流品しかつくらないという意味で、「卓越性を追求する」という。「品質」や「卓越性」といった言葉は使い古されてほとんど意味をなさない。マネジャーは、本や雑誌をあさって知識を得ようとするが、新しい用語を覚え、それで目標に近づいたと満足している。誰かが言った心に響くフレーズは拡散し、元の意味から離れて一人歩きし始める。
初めて参加するブレイントラスト会議。熟練の優秀なメンバーが部屋を埋め尽くしている。先ほど上映された映像について議論するためだ。この状況で、発言に慎重になる理由はいくらでもあるだろう。礼を失したくない。相手の意見を尊重し、できれば従いたい、恥をかきたくない。知ったような口をききたくない。自分が発言するときには、どんなに自信のある人でも、一度チェックするだろう。これはいいアイデアだろうか、それともくだらないアイデアだろうか。ばかなアイデアは何回までなら言っても許されるのだろうか。その主人公は現実味がないとか、第二幕がわかりにくいとか、監督に言ってもいいのだろうか。思ってもいないことを言ったり、何も言わずに済ませたいわけではない。この段階では、率直さなどそっちのけで、ばかだと思われないためにはどうするかしか考えていない。
もっとも厄介なのは、そういう葛藤と戦っているのは一人ではなく、皆がそうだということだ。社会的に自分より上の立場の人には本音が言いにくい。さらに、人が大勢いるほど、失敗できないプレッシャーがかかる。強くて自信のある人は、無意識にネガティブなフィードバックや批評を受けつけないオーラを放ち、周囲を威圧することがある。成否が問われる局面で、自分のつくり上げたものが理解されていないと感じた監督は、それまでのすべての努力が攻撃され、危険にさらされていると感じる。そして脳内が過熱状態になり、言外の意味まで読み取ろうとし、築き上げてきたものを脅威から守ろうと必死になる。それほどのものがかかっているとき、真に忌憚のない議論を期待するのはとうてい無理だ。
それでも、ピクサーの創業プロセスにとって、率直さほど重要なものはない。それは、どの映画も、つくり始めは目も当てられないほどの「駄作」だからだ。乱暴な言い方だが、私はよくそう言っている。オブラートに包んだら、初期段階の作品が実際にいかにひどいかが伝わらない。謙遜で言っているのではない。ピクサー映画は最初はつまらない。それを面白くする、つまり「駄作を駄作でなくする」のがブレイントラストの仕事だ。
作品の問題点を特定するのは比較的簡単だが、その要因を探るのはきわめて難しい。物語の不可解な展開や、現実味のない主人公の心変わりなどは、物語のどこか別のところに潜む些細な問題による場合が多い。この状況は、扁平足が原因だと気づかずに、膝の痛みを訴える患者にたとえるとわかりやすい。もし膝を手術したら、痛みは和らぐどころか悪化してしまう。痛みを和らげるには、根本原因を見つけて対処する必要がある。したがって、ブレイントラストの指摘は、特定の治療法を要求するものではなく、問題の本当の原因を浮かび上がらせるためにある。
アンドリューが言うように、「それが批評と建設的な批評の違いです。後者の場合、批評すると同時に建設している。壊しながら建てている。たった今バラバラにしたピースを使って新しいピースを生み出している。それ自体が一つの技でしょう。どんな指摘をするにしても、相手を考えさせることが大事だとつねに思っています。『あの子に課題をやり直したくさせるにはどうしたらいいか』というふうに、だから学校の先生と同じことをします。問題点を言い方を換えながら五0回くらい指摘すると、そのうちのどれかが響いて相手の目がぱっと開く。『ああ、それやりたい』って思ってくれるんです。『このシーンの脚本がイマイチ』と言う代わりに、『見終わった観客にあのセリフよかったよねって言ってもらいたくない?』と言う。挑発ですね。『これがやりたいんじゃない? やってよ!』って」
私がここで説明しようとしている試行錯誤の原則は、科学の分野では昔から重要だとされてきた。科学者は、疑問が浮かぶと、仮説を立て、実験し、分析して結論を出す。それをまた最初から繰り返す。その背後にある論法は単純だ。実験は事実の解明が目的であり、それが科学者の理解を少しずつ深める。つまり、だめな結果は一つもない。どんな結果も新しい情報を生み出すからだ。実験によって最初に立てた仮説が間違っていたことがわかったのなら、早くわかってよかったのだ。手に入れた新事実を基に、次の疑問に取り組めばいい。
集まったメンバーで、なぜまちがった選択をしてきたのか、仮説を立て検証した。監督候補を選ぶ際にこれまで見落としてきた、今後注意してみるべき重要な資質があるか、それ以上に、新人監督に、その心折れる仕事に立ち向かえるだけの十分な教育をしてあげていたか。「監督に失敗はさせない」と言いながら、何度失敗を許してきたか。
創業当初の映画の監督、つまりジョン、アンドリュー、ピートが皆、きちんとした訓練を受けずに監督になっていたことを当たり前のように思っていたが、それが特別なことだったのだと思えるようになった、ということも話し合った。アンドリューやピートやリーが何年間もジョンのすぐ隣で彼の教えーー決断から必要なことなどーーを吸収したこと、ジョンが相手と一緒になってアイデアを導き出すやり方についても話し合った。初めてジョンの後を継いでピクサーの監督になったアンドリューやピートは、その過程で苦労はしたものの、結果的に大成功を収めた。ほかの監督たちにも同じことを期待してきたが、会社が大きくなるにつれ、新人監督たちがそのようないい経験に恵まれる機会がなかったことは、事実として受け止めざるを得ない。
それから将来に目を向けてみた。監督として有望だと思われる人それぞれの強みと弱点を挙げ、彼らを育て、経験を積ませ、支援するための具体的な計画を立てた。失敗の後だったが、前に進むだけの安全な選択はしたくなかった。クリエイティブとして、リーダーとして、必要なリスクを冒さなければ自分たちらしくないという思いがあり、そのためには、時に従来の映画監督像に当てはまらない人にも鍵を渡さなければいけない。それでも、今までとは違う選択をする以上は、映画をつくるために必要な能力を備えていると見込んだ社員を教育するための明確なステップづくりが必要だということに全員が合意した。
そして、ベテラン勢が共有する経験値を監督の卵たちが自然に吸収するのをただ待つのではなく、ピートやアンドリューが、ジョンにぴったりくっついて仕事を覚えたようなことを再現できるような、正式な師弟教育プログラムをつくろうと決めた。今後、実績のある監督は全員、毎週、自分の担当スタッフの様子をチェックし、将来の長編作品になるかもしれないアイデアに取り組むスタッフに実践的なアドバイスや励ましを与えることになった。
後になって、アンドリューとこの合宿ミーティングについて振り返っていたとき、アンドリューが非常に含蓄ある言葉を言った。自分を含め実績のある監督は教育係を務める責任がある。自分の映画をつくり続けている間も、それを一番の仕事にすべきだと。「そのとき抱えている制作チームのメンバーで最高の映画をつくる方法を、監督になろうとするスタッフにどう教えるか。それを見つけることが命をつなぐことなんです。僕たちは必ずいつかいなくなるんですから、ウォルト・ディズニーはそうしなかった。だから、ディズニー・アニメーションは、彼を失ってから一五年も二0年もスランプに陥った。僕たちがいなくなった後、次の監督たちが自力で考えてやっていけるように教育できるか、それが本当に目指すべきことでしょう」
会社で一番その能力に長けている人以上に、適任者がいるだろうか。教えると言っても、講習会やかしこまった研修だけを指すのではない。先輩たちの行動や姿勢は、彼らに憧れと尊敬を抱くスタッフたちの生き方に、よくも悪くも影響を与える。そういうスタッフたちの教育や成長を会社全体の繁栄に貢献する望ましい方法だと望まれるような会社づくりをすべきだ。日常のあらゆることに教育のチャンスがあること、経験が効率的な学習方法だということを理解しているだろうか。会社の評価だけでなく、その志を高める社員を評価する組織文化を築くことも、リーダーが果たすべき最も重要な責任の一つだ。
社内の一部のスタッフは絵が描けた(それもすばらしく)が、大半のスタッフは芸術家ではなかった。しかし、描画の訓練にはある重要な基本原則があり、それを全員に理解してもらいたいと思っていた。そこで、ベティ・エドワーズによる一九七九年の著書『脳の右側で描け』(エルテ出版、河出書房新社)に影響を受けて、描画のワークショップを行っていたエリース・クレイドマンに来てもらい、観察力の高め方を教わることにした。
当時は、左脳思考、右脳思考という概念をよく耳にしていたが、それがのちにLモードやRモードと呼ばれるようになった。Lモードは「言語的・分析的」で、Rモードは「視覚的・直感的」だ。エリースによれば、多くの活動でLモードとRモードの両方が使われるが、絵を描くときにはLモードを遮断する必要がある。そのため、訓練の内容は、すぐに結論を出そうとする部分の脳の動きを抑制し、画像をオブジェクトとしてではなく単なる画像として見るものだった。
たとえば、人の顔を描くとき、ほとんどの人が鼻、目、額、耳、口をスケッチするが、ちゃんとした訓練を受けたことのない人が描くと、バランスがめちゃくちゃになり、誰にも似ていない顔になる。それは、脳から見ると、顔のパーツは平等につくられていないからだ。たとえば、コミュニケーションを行う目と口は、額よりも重要で、それを認識することにより重点が置かれるため、描くときにはどうしても大きく描きすぎ、額は小さくなりがちになる。人はありのままの額ではなく、自分のメンタルモデルに従って描いているのだ。
繰り返しておきたいことがもう一つある。社員に創造性を発揮させるためには、我々がコントロールを緩め、リスクを受け入れ、社員を信頼し、彼らの行く手を阻むものを取り除き、不安や恐怖をもたらすあらゆるものに注意を払わなければならない。これらをすべて実践しても創造的な組織文化を管理することは必ずしも楽なことではない。けれども、目指すべきは楽になることではなく、卓越することなのだ。