「認められたい」の正体 承認不安の時代 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062880947

作品紹介・あらすじ

「『空虚な承認ゲーム』をどう抜け出すか。その『答え』ならぬ『考え方』を教える本書は、規範喪失の時代における希望の書である」(斎藤環氏)。現代社会に蔓延する承認の問題を真正面から捉えた注目書! 私たちを覆う「生きにくさ」の本質に迫る。

感想・レビュー・書評

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  • 山竹さんの分析は納得感がある。

  • 「承認欲求」について、親和的承認、集団的承認、一般的承認の3段階で説明され、承認の不安はどこからきているのか、その不安を軽減していくにはどうしたらいいのかの提案がされています。

    固い本かなとしばらく積ん読にしていましたが、読み始めたらおもしろく、一気に読み終えてしまいました。

    自己分析や対人援助の際、この知識があると役に立ちそうだなと思いました。
    この視点をもって、しばらく世の中を観察してみようと思います。

  • 「認められたい」の正体 承認不安の時代 山竹伸二

    第1章 「認められたい」の暴走

    ■家族の「空虚な承認ゲーム」
    現代は承認への不安に満ちた時代である.自分の考えに自信がなく,絶えず誰かに認められていなければ不安で仕方ない.ほんの少し批判されただけでも,自分の全存在が否定されたかのように絶望してしまう,そんな人間が溢れている.(p8)
    一般的に家族は,「ありのままの自分」を受け入れ,認めてくれるような安らぎの場所が理想とされている.ただ存在するだけで無条件に喜ばれ,本音を出し合える関係性.そこでは「偽りの自分」を作る必要性は全くない.それが大多数の人間に共有された理想的な家族のイメージだろう.(p9)
    しかし現在,多くの人が家族に対して本音を隠し,「ありのままの自分」を過度に抑制し,家族の求める役割を演じ続けている.そうしなければ,家族というシステムを維持することができず,相互に承認しあっている微妙な関係が壊れ,自らの居場所を失ってしまうからだ.しかも,こうした不安から家族の承認が維持されている限り,そこには特に「認められている」という喜びは生じない.(p10)
    実のところ,このような偽りに満ちたコミュニケーションは現代社会では家族以外の人間関係においても頻繁に行われている.(p10)

    ■「見知らぬ他者」の排除
    スクールカーストのような現象には,身近な人々の中にさえ線引きし,あえて交友関係を広げまいとする心理が垣間見える.線引きをした外側の人間は,例え同じクラスにいても「見知らぬ他者」と同じであり,自分を認めて欲しい相手ではないのである.(p15)
    これは思春期独自の問題というより,若い世代を中心に広く見られる傾向でもある.多くの人は思春期を終えて,大学生や社会人になっても,身近な人々の直接的な承認にこだわる点では変わりなく,承認の対象を見知らぬ他人に広げようという姿勢があまり見られない.(p15)
    だが,これは身近な人間関係だけを重視し,見知らぬ人々との出会いにはあまり期待もしていない,ということでもある.社会学者の宮台真司が,『仲間以外は皆風景』と表現しているように,仲間以外の人間には関心がなく,見知らぬ人間はいてもいなくてもどうでもいい,と感じているのである.(p16)
    家族や仲間の承認のみを求め,それ以外の人々の承認を求めないのは,多くの人間の賞賛を求める野心とは無縁な,ある意味で堅実な生き方のように思えるかもしれない.理解してくれる人が少しでもいればそれでいい,という思いも十分に理解できる.しかし,見知らぬ大勢の人々の承認など不要だとしても,自らの行為に価値があるのかないのか,正しいのか間違っているのかについて,身近な人間から承認されるか否かのみで判断し,それ以外の人々の判断を考慮しないとしたら,それはとても危険な考え方である.(p16)
    求められているのは「自分は価値のある人間だ」という証であり,その確証を得て安心したいがために,身近な人々の承認を絶えず気にかけ,身近でない人々の価値を貶めようとする.見知らぬ他者を排除することで,自らの存在かちを保持しようとする.例えそれが悪いことだと薄々気づいていても,仲間から自分が排除されることへの不安があるため,それは容易にはやめられない.そして底無しの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまうのだ.(p17)

    ■無差別殺傷事件における心の闇
    見知らぬ他者の排除,ということですぐに思い浮かぶのは,2008年6月8日,東京秋葉原において日本中を震撼させた無差別殺傷事件である.歩行者天国に小型トラックで突入した加藤智大被告は,5人の通行人をはねた後,トラックから降りて12人の通行人をナイフで次々と襲い,死者7人,負傷者10人という惨事を起こした.この事件について,当初,経済格差の拡大に原因を求める意見が大勢を占めていたが,のちに「承認」の欠如に原因があるのではないか?という意見が増えている.例えば親しい友人や恋人もいなかった加藤被告は,ネット掲示板にモテないことへの恨みがましい言葉を書き綴っているが,この点について社会学者の大澤真幸は,「モテるということが承認の究極の姿になっている」と述べ,事件の原因が承認の枯渇にあったと主張している.(p18)
    自分の存在が認められなかったことへの怨恨が原因なら,認めてくれなかった顔見知りの人々に刃を向けるのが普通だろう.ネット上で彼を誹謗中傷した人々がいたとしても,世の中の全ての人間が彼を非難したわけではない.むしろ見知らぬ人々の中に,自分を認めてくれる人が現れるかもしれない,という可能性さえある.にもかかわらず,加藤被告が見知らぬ人々を無差別に殺傷し得たのは,見知らぬ他者に対する驚くほどの無関心に起因するのではないか.(p19)
    岡山駅のホームで見知らぬ人を突き落とした少年,土浦の連続殺傷事件を起こした金川死刑囚,八王子で見知らぬ女性二人を死傷させた菅野被告など他の無差別殺傷事件を引き起こした彼らの言葉(刑務所に行けるなら誰でもよかった,誰でもいいから複数人殺せば死刑になると思った)の裏には,見知らぬ他者の実存に対する関心の低さ,著しい感度の欠如が窺える.彼らにとって,見知らぬ他者は存在していないに等しく,その内面や家族,生活について想像することはできないし,共感や憐憫も,そして怨恨さえも生じない存在なのだろう.(p20)
    加藤彦奥が世間の眼差しに怯えていたわけではない,というのは事実だろう.だが彼は世間の眼差しを求めていたわけでもないように思える.彼にとって見知らぬ他者は承認の対象ではなく,どうでもいい対象であったからだ.その一方で,身近に感じられていたネット掲示板の人々の言動や視線には過敏な反応を示し,批判されることを極度に恐れていた.彼の犯行は世間に自分の存在を認めさせるためというより,自分と直接関わったことのある人々に対する存在の誇示だったように見える.重要なのは,「身近な他者」と「見知らぬ他者」に対する,このあまりにも大きな態度の落差ではないだろうか.(p21)

    ■承認への渇望とコミュニケーション能力
    こうした承認をめぐる議論において,特に目を引くのが,「コミュニケーション能力」を中心にした考え方である.(p21)
    本来,他者の承認をもたらすものは,何もコミュニケーション能力だけではない.例えば,普段は人付き合いの下手な人間でも,困っている人を助ければ,周囲の人々はその行為の価値を認め,称賛するだろう,また口下手で気の利いたことが言えなくとも,上手に絵を描いたり,高い運動能力を見せることができれば,そうした行為を高く評価する人間は必ずいる.人は「価値ある行為」によって承認され得る存在であり,私たちはコミュニケーション能力が低くとも,承認の希望を持てるのだ.(p23)
    では,なぜ現代では「承認」の問題が議論される際,コミュニケーション能力ばかりが問題にされるのであろうか.またこうした議論に一定のリアリティがあるとしたら,つまり「価値ある行為」よりもコミュニケーション能力の方が承認を獲得する上で重要になっているとしたら,それは一体なぜなのだろうか?(p23)

    ■普遍的な価値観の崩壊
    コミュニケーション能力ばかりが承認に関する議論の爼上に上るのは,このように周囲の人々の承認だけが問題化されるからだろう.それは社会共通の価値観への信頼が揺らぎ,価値観の相対化,多様化が進展していることに起因する.(p24)
    かつて社会学者のデイヴィッド・リースマンは第二次世界大戦後のアメリカ社会を評し,他者からの信号に絶えず,最新の注意を払い,他者の価値観や期待に同調して行動する社会だと主張した.彼はこれを「他人指向型」社会と呼称し,「ひとが自分をどう見ているか,をこんなにも気にした時代はかつてなかった」と述べている.これは他人の承認を過剰に気にして行動する人々と言い換えることもできるだろう.(p24)
    しかし,今の日本人に,果たして「見知らぬ他者」の価値観を受け入れるだけの柔軟性があると言えるだろうか.むしろ多様な価値観を前にして,何が本当に価値があるのかが分からなくなり,この混乱から逃れるために「見知らぬ他者」を意識から排除し,身近な人々の価値観以外には耳を閉ざしている,というより,厳密には何の価値観もさほど信じておらず,身近な人々の言動のみ留意し,どのように反応すれば嫌われないか,受け入れてもらえるか,ただそれのみを気にしている.(p26)
    社会共通の価値観が崩れれば,「価値ある行為」によって承認を得るみちが見えなくなり,強い承認不安とニヒリズムが生み出される.その結果,身近な人間の承認を維持するために,かつてないほどコミュニケーションが重要な意味を帯びてきたのである.(p26)

    ■形式化された空虚な行動
    大きな物語:宗教やイデオロギーなど,個人が生きる意味を見出すための社会共通の価値観
    例えば,キリスト教が強い影響力を持つ社会では,神への信仰を示す行為や生き方こそ,その人の生の意味を決定するし,共産主義の国家では,国家に忠誠を示す行為こそが称賛され,その価値を認められるだろう.
    「大きな物語」が信用を失い,社会共通の価値観が揺らいだとき,私たちは何をすれば社会に認められるのか,そして生きる意味を見出すことができるのか,その規準を見失ってしまう.そのため,「大きな物語」のフェイク(偽物)を無自覚のうちに捏造し,それを信じようとすることで,かろうじて生きる意味を見出そうとする.家族が各々の役割を演じるのも,一方では家族の理想像を見失っているにもかかわらず,幸せな家族像をあえて信じようとしなければ,自分の居場所を見出せないからなのだ.(p27)
    このように信じるべき価値を持たないからこそ,形式だけでも信じるフリをしてしまう精神,これを哲学者スラヴォイ・ジジェクはシニシズムと呼んでいる.(p27)
    自分が属する小集団の価値観は,誰もが信じている価値観というわけではないこと,世の中には多様な価値観が存在することを普通は誰もが知っている.そのため,自分が属する小集団の価値観への熱狂が冷め,関心が薄れるとその価値観に準じた行為に意味を見出すことができなくなる.それでも仲間の承認だけは維持したいため,そうした行為の価値を無意味に感じる反面,それを止めることができない.(P29)

    ■自由と承認の葛藤
    一般的に承認に対する不安が強い人間ほど,他者に承認されるための過剰な努力,不必要なまでの配慮と自己抑制によって,自由を犠牲にしてしまいやすい.自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し,「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ.その結果,心身ともに疲弊して鬱病になったり,心身症や神経症を患ってしまうケースも少なくない.(p32)
    すでに述べたように社会共通の価値観への信頼が失墜したため,何をしたら承認されるのかがわかりにくくなり,結果として承認不安が強くなっている.だが,「自由と承認の葛藤」という観点からもう一歩踏み込んで考えると,そこには「自由な社会の到来」という,より大きな時代背景が見えてくる.(p32)
    現在では社会の抑圧がそれほど強いわけではなく,自由に生きることを妨げる足かせはほとんど存在しない.科学の進歩と産業の発展,二度の世界大戦,マルクス主義の退潮,そして消費社会の到来によって,先進資本主義所国においては伝統的価値観の影響力が弱くなり,多くの人が特定の考え方に縛られず,自由に生きられるようになっている.しかし,その一方で,誰もが認めるような行為の規準が見えにくくなり,何をすれば他者に認めてもらえるのか,極めて不透明な状況になったのも事実である.このため多くの人間は,自分の感情や思考を自由に表出すること,自由に行動することを抑制し,身近な人々の承認を維持するために,彼らに同調してしまいやすい.自由と承認の葛藤は,今や「個人の自由」と「社会の承認」の葛藤ではなく,「個人の自由」と「身近な人間の承認」の葛藤になっている.今,コミュニケーション脳呂奥が重要になり,「空虚な承認ゲーム」が蔓延しているのは,社会共通の価値観を基盤とした「社会の承認」が不確実なものとなり,コミュニケーションを介した「身近な人間の承認」の重要性が増しているからなのだ.(p34)

    ■承認不安からの自由
    社会共通の大きな価値観が存在しなければ,承認ゲームは価値観を共有する小集団のなかでしか成田立たない.社会の強制力が弱い分だけ,自分で集団や価値観を選ぶ自由は広がっているが,自分が認められる場所は自分で探し出さなければならない,という面倒な側面があるのも事実だ.しかもそのような集団が見つかり,そこで承認を得る道が開けたとしても,別の問題が待ち受けている.(p35)
    価値への信憑が存在しない分だけ,承認されることへの執着も大きくなる.信じるものを持たない人間は,何をすれば価値があるのか,価値のかる人間として認められるのか,まったく見当のつかない状況に陥りやすい.(p36)

    第2章 なぜ認められたいのか?

    ■服従の心理と承認欲望
    ナチスに服従した人々の生きた当時のドイツでは,第一次世界大戦の敗北による膨大な賠償金が物価の異常な高騰を招き,その後も世界恐慌の影響によって経済は破綻し,大量の失業者を生み出していた.配船による屈辱と貧困の中で,人々は自らの生きる意味を見失いかけていた.伝統的な価値観が崩れ,自らの判断に自信をなくしていたのだ.こうした中,新たに台頭してきたナチズムは,自分の行為に価値があることを確信するための新たな判断基準になった,と考えられる.それは多くの人が共通して認めた価値観になるにつれ,周囲から認められ,批判されたりしないためには,誰もが従わざるを得ないものになったはずだ.(p44)
    社会共通の価値観への信頼が揺らいでいれば,行動を規制する価値観やルールの強制力は弱く,ある意味で自由な社会が到来する.また消費社会のもたらした豊かな生活は,自由に生きる選択を広げていたはずだ.しかし実際には,当時,自分なりの価値観を持って自由に行動できる人は少なかった.むしろ他者に行為の判断を求める人々が多数を占めていた.彼らはナチス体制下に比べるとはるかに自由な言動が許されていたが,他者に同調し,行為の判断を他者に委ねてしまう傾向があった.それは承認不安を無意識の動機として考えなければ,説明がつかない行為である.(p45)
    承認欲望(認められたい欲望)は,決して近代以降の自由な社会に特有なものではなく,人間が文化を築き始めた当初から存在し,人間のあらゆる行為の基底にある欲望,まさに人間が人間であるが故の欲望である,ということだ.詳しくは後で説明するが,社会共通の価値観が存在した時代には,その価値観に準じて行動すれば一定の承認は確保できたため,承認の不安は全面に現れず,承認欲望に対して無自覚であったに過ぎない.(p46)

    ■人間の欲望は他者の欲望である
    実際には,人間が自由な存在であるからこそ,他者の欲望,他者の承認が重要な意味を持つ.近代になって初めて自由に生きる可能性が開かれて以来,私たちは自分が何をすべきなのか,選択の自由の前に立たされている.だからこそ,自分の中に複数の欲望が存在し,鬩ぎ合っていることが自覚できるのだ.そしてこうした葛藤の中で,私たちは承認欲望こそ人間存在の根幹になることを自覚し始めたのである.(p52)

    ■現象学の視点
    フッサール:生身のありありとした有様で与えられる事物的なものは全て,その生身のありありとした所与性にもかかわらず,存在しないこともありうるのである.生身のありありとした有様で与えられる体験は存在しないこともありうるということは全くないのである.これこそは,本質法則であって,この本質法則によって,体験の必然性と,事物的なものの偶然性とが,定義されるのである.(p54)
    現象学では,意識に還元して考察する対象は事物だけではない.「不安」,「自由」,「死」,「社会」,「無意識」,「言語」,「身体」など,様々な概念や経験もまた,意識に還元して考えることができる.(p55)
    例えば,「不安」という言葉で誰かと語り合っている以上,すでに「不安」の意味を自分なりに受け取っていることがわかる.(p55)
    「不安」という概念や経験を思い浮かべる際にも,その意味を直観しているのである.(p55)
    「不安」についての理論的な先入観を排し,自らが直観している「不安」の意味を出発店に据えて,誰もが納得できるような「不安」の意味を取り出すことができればそれは,「不安」の本質と呼ぶことができるだろう.(p55)
    このように現象学の思考法では,概念や経験の本質を明らかにすることができるのであり,こうした思考作業は「本質観取」と呼ばれている.(p56)
    このような本質観取の考え方は,承認欲望の本質を考える上でも役に立つ.(p56)
    人間が「認められたい」という欲望を抱くのはなぜなのか,その意味を考えようとするとき,私たちはまず,過去に自分が認められた経験を思い起こす.親に認められて嬉しかったこと,仲間の共感を得て安心したこと,会社で認められて誇らしかったこと,世間の評判を噂で聞いてホッとしたことなど,様々な状況を思い浮かべる.すると,そうした経験に共通する意味を見出すことができる.だがそれだけでは,まだ個人的経験のみに依拠した答えであり,問題の本質に達しているとは言えない,そこで,他の人々も多様な承認の経験をしていることを考慮し,他人はどう思うだろうか,どのように答えれば誰もが納得する答えになるだろうか,と思案してみる.様々な人たちの意見も聞きながら,誰もが共通して納得できる承認欲望の意味を見つけ出そうとする.そうした共通了解しえる一般性のある意味こそ,承認欲望の本質と言えるのだ.(p57)

    ■承認を与えるのは誰か?
    様々な承認の場面を想像してみて即座にわかるのは,「認められたい」という欲望の充足に不可欠なのは,何と言っても他者の存在である,ということだ.当たり前ではあるが,承認欲望は他者がいなければ決して満たされない.(p57)

    ■3つの承認の相補的関係
    他者の承認は対象によって3つに分けられる.
    ①家族,恋人,親友など,愛と信頼の関係にある人間(親和的他者)による親和的承認
    ②所属集団で役割関係にある人々(集団的他者)による集団的承認
    ③他者一般の表象(一般的他者)を想定することで得られる一般的承認(p73)

    第3章 家族の承認を超えて

    ■発生論的観点からの考察
    保育園ではルールを重視するのに家ではしばしばルールを破る子ども.(p84)
    問題は親和的承認と集団的承認の違い.(p84)
    子どもが保育園で規則正しく生活できるのはそこに集団的承認のよろこびがあるから.(p84)
    家庭では反抗的な態度を見せるが,「ありのままの自分」を受け入れてほしい,というメッセージ.(p85)
    ルールを守って親に褒められれば,当然嬉しい.しかし一方では,ルールを守らなくても自分を愛してほしい,あるがままの自分を認めてほしい,という思いがあるのではないのだろうか.彼女が親に求めているのは集団的承認よりも親和的承認なのである.(p85)
    人間の心が幼少期からどのように発達し,どのような経緯で各々の承認欲望が生まれたのか,その発達プロセスを具体的に考えてみる必要があるだろう.それは,親和的承認,集団的承認,一般的承認という3つの欲望がいかにして生じるのか,「一般的他者の視点」が生み出される契機は何か,といった問いに答えを見出そうとする作業に他ならない.(p86)

    ■承認欲望の起源
    子どもの成長において,身体的快(空腹になればミルクを求めて泣き,眠たくなればやはり泣き叫ぶ)への欲望に続いて,それに付随するかたちで関係的快(他者関係そのもものよろこび)への欲望が生じてくる.(p88)
    関係的快への欲望は,「自己価値」(自分の存在価値)への承認を求める欲望の重要な発生契機となる.なぜなら,子どもは母親との愛情的関係(関係的快)の中で,初めて自分の存在が肯定されている(承認されている)という感触を得ることができるからだ.(p89)

    ■親和的承認と第一次反抗期
    所属集団や世間,社会から承認を得る場合には「価値ある行為」が必要であり,それは集団的承認や一般的承認の特質であった.ただこの段階では親にとって価値ある行為だけが問題になっており,親以外の人々にとっても価値があるかどうかは意識されていない.そこでは価値の一般性は度外視されている.子どもが求めているのは,愛の感情を伴った親和的承認だが,そこから集団的承認や一般的承認を獲得する基盤が形成されるのだ.ただしいくら親和的承認を得るためとはいえ,無条件に受け入れられていた乳児期からすれば,それは気分の赴くままに行動する自由が抑制された状態である.しかも親の求める行為の価値もまだ十分に認識できないので,欲求不満が生じやすい.そのため,一方では親の欲求を受け入れ,様々なことを学びながらも,しばしば親に反抗し,親の要求を拒否するようになる.このような反抗的態度,わがままな態度は,無条件に自分を受け入れてほしい,あるがままの自分を受け入れ,愛してほしい,という思いの現れである.(p93)
    よい行い,ユニークな歌や踊り,図画工作などを褒められる経験は無条件の承認とは異なった,新しい承認のよろこびを生み出すことになる.こうした「価値ある行為」への承認欲望が強くなると,それは当然母親に対しても向けられる.母親が子どもへの対応に失敗しない限り,子どもは母親の愛を失う不安よりも,母親に褒められたいという欲望の方が強くなるのだ.(p93)

    ■「価値ある行為」の一般性
    子どもが親の要求や期待を受け入れるようになると,親の要求する行動を身につけ,親のルールを内面化した行動規範を形成する.この身体化されたルール(内的な行動規範)のことを「自己ルール」と呼ぶことにする.(p95)
    自己ルールは最初,親の要求や期待を受けて形成されるので,親の行動規範や価値観を直接反映したもの,ほとんどコピーしたものになりやすい.そのため,フロイトはこれを「超自我」と呼び,大人になっても親の命令が無意識のうちに支配する,と主張している.しかしそれは神経症者についての話であり,一般的には成長するに従って親の価値観と行動規範は相対化され,自己ルールは一般性を有するものへと修正される.(p95)
    自己ルールはこうした集団的承認への欲望に押されて,親だけでなく周囲の人々が共通して認めるような,より一般性のあるものへと修正される.(p97)

    ■母親の示唆する第三者
    社会の一般的承認を得るためには,価値の一般性(普遍性)を吟味できる力が必要である.(p97)
    価値の一般性を判断するためには,様々な人間の立場に立ってみる想像力,及びそこから一般性を抽出する思考力が必要になる.つまり「一般的他者の視点」を持つことが必要になるのだが,それは一朝一夕に成り立つものではなく,学童期から思春期,青年期を経て,徐々に形成されるのだ.(p98)
    「一般的他者の視点」は親の言動や価値観を相対化し,価値の一般性を判断する上で極めて重要である.親の要求や期待,考え方を基盤として形成された自己ルールや価値観も,身近な他者の言動から修正するだけでなく,「一般的他者の視点」から内省し,より一般性のある自己ルールや価値観に修正するようになる.多くの人が正しいと思うかどうか,誰もが価値ありと判断するかどうか,他者一般の見方,判断を想定できるようになるのだ.(p102)

    ■集団的承認の呪縛
    より多くの人間から称賛や共感,承認を得たいと望むようになれば,それだけ「一般的他者の視点」から価値判断する必要性は高くなる.だが最初のうちは,「一般的他者の視点」も自己ルールの一般性も弱いため,自分自身の力で公正に価値判断することは難しい.そのため,身近に接する人間の価値判断を過大に重視し,その言動に左右されやすい状態にある.その際,特に重要になるのが友達関係,仲間関係である.(p102)
    「一般的他者の視点」はまだ弱いため,身近な他者,特に学校のクラスメートなど,自分の所属集団の仲間(集団的他者)から承認されるか否かが,自己価値を測る重要な指標となる.そのため,所属集団のルールや価値観が強い影響力を持つ時期でもある.(p103)

    ■自己中心的な自己承認
    「一般的他者の視点」が十分に成熟していれば,多くの人々に自分の行為が「価値あり」と承認されるか否か,ある程度まで自分の力で判断することができるし,その分だけ周囲の人間の承認に依存しないで済む.(p105)
    しかし,「一般的他者の視点」が弱ければ公正な価値判断ができないし,仮にできたとしても,誰かに賛同を得なければ自信が持てない.その判断を誰かに否定されれば,一気にその確信は揺らいでしまうのだ.そのため,周囲の承認なくして,自分の存在価値を確保することは難しい.(p106)
    仲間に認められようとして,過度に集団のルールや仲間の言動に同調していれば,一定の集団的承認は得られるかもしれないが,自分の本音や感情を抑圧してしまうため,自己不全感は拭えない.しかも無理をしていればしているほど,ちょっとした行き違いによって批判や無視の対象になりやすい.そのため,この時期の若者の多くは常に承認の不安に怯え,慢性的にストレスを抱えている.(p106)
    この緊張状態から逃れるために,学校の仲間関係から抜け出し,集団的たすあの承認を諦める場合もある.(p106)
    自分の存在価値を見失ってしまうケースもあるが,逆に他者に同調することを見下して,自己価値を自分勝手に信じ込む場合も少なくない.まだ「一般的他者の視点」が弱く,多様な人々の立場を十分考慮することができないため,他者の視点や評価を考慮しない,「自己中心的な自己承認」に陥ってしまうのだ.(p107)
    ヘーゲルは『精神現象学』の中で「自己意識の自由」という精神のあり方について述べているが,これは「自己中心的な自己承認」にかなり近いものであり,この精神は「ストア主義」,「スケプチシズム」,「不幸の意識」の3つに分けられる.(p107)
    「ストア主義」:自分を抑制して独自性を維持しようとするあり方.他人の意見にかかわらず,自分は自分だと言い聞かせている.自分だけの世界に閉じこもり,他者の評価がどうであろうと,自分の存在価値を自分自身で認めて納得している.
    「スケプチシズム」:あれこれ他人の批判ばかりして,自分だけはわかっている,自分だけは特別だ,と思い込んでいるあり方.それは懐疑主義的でシニカルな態度をとなりやすい.「不幸の意識」:理想的な観念にしがみつくことで自分の価値を高めようとするあり方.宗教や政治的イデオロギーを信奉し,我こそは正義だと叫び続ける人などが典型.(p107)
    これらの精神のあり方は,自分の頭の中だけで「自分は正しい」,「自分だけは真実を知っている」と思い込み,自己価値を確保する方法に他ならない.自分の存在価値を他者に承認されなくとも,自分で勝手に理屈をつけて承認しているのであり,これは青年に抱きがちな自己中心的な思考パターンなのである.
    (例)オウム真理教
    反社会的な宗教活動を行っている人間は,その行為をどんなに周囲から非難されようと,正義のための行為だと信じている.これは他者一般の承認に耳を傾けず,自分の行為の価値と自己価値を自分勝手に承認している状態であり,3つの分類における,「不幸の意識」に相当.(p109)

    ■普遍的な価値への欲望
    人間の欲望が本質的に承認欲望である限り,他者の承認が得られない状況,自分勝手な言動によって批判されるような状況は,長く続けば耐え難いものになる.そのため私たちは,自己中心的な思考を抜け出し,あるいは集団への同調や自閉的な生活にピリオドを打ち,積極的に様々な他者の評価と向きあうようになる.そして他者の批判や賞賛を通して自分の行為を反省し,他者の承認を順ぶんに考慮した判断や行為をするようになる.(p108)
    他者の承認を介して自らの行為や知識・技能,作品の価値を問い直すようになると,単に身近な人々の承認だけを考慮するのではなく,より多くの人々が承認しえるよるなかちを求め始める.その行為や知識・技能,作品の中に普遍的な価値を求めるようになるのだ.それはもはや単なる承認への欲望ではなく,行為や知識・技能,作品の価値そのものに普遍性を求める欲望であり,ヘーゲルはこの普遍的な価値を「事そのもの」と呼んでいる.(p109)
    人間が価値の普遍性を検証し,判断するためには,単に現実の他者の承認(及び否認)を経験するだけでなく,経験に伴う内省が必要であり,この内省は「一般的他者の視点」からの内省でなければならない(p110)
    他者の称賛や批判を経験しても,単にその評価を受け入れ,鵜呑みにするだけでは,やはり世間への迎合,周囲への同調とあまり変わらないだろう.しかし,そこに自分の行為の価値をより一般的な他者の視線から見つめ直す作業が伴うなら,それは他者の意見に振り回されるだけではない,それでいて,「自己中心的な自己承認」でもない,自分の自由な意志による判断・行為と言って良いのである.(p111)

    ■一般的他者の視点
    思春期や青年期を通して,様々な他者の承認や批判を繰り返し経験する事で,また多様な価値観を学ぶことで,はじめて他者が一般的に評価する基準を理解するようになり,より一般性(普遍性)のある価値判断が可能になる.(p111)
    同調に疲れて他者との相互評価的な関係を切り捨て,自己中心的な自己承認に陥ってしまう.それでも大抵の場合,人間は自己の存在価値を確認するために,他者の承認を求めずにはいられない.だからこそ,私たちは様々な他者の評価を公正に重視するようになり,
    「一般的他者の視点」から内省することが可能になるのだ.(p111)
    一般的他者の視点から内省するのは何も承認欲望を満たすことだけが目的ではない.自分の行為が道徳的に正しいか否かを判断するのは,「より大勢の人間から認められたい」という欲望だけが動機ではなく,「正しいことをして,誰かの助けになりたい」という利他的な動機もあるからだ.この場合,利他的な動機は意識されていても,利己的な承認欲望のほうには無自覚で,あまり意識されないことが多いだろう.(p112)
    承認欲望の方が真実であり,利他的な動機は偽り(偽善)に過ぎない,と言いたいわけではない.2つの動機は分かち難く結びついており,両者相まって価値の一般性,普遍性を求める気持ちが強くなる.人間は他者の承認や批判を繰り返し経験することで,普遍的な価値それ自体を求めるようになる,と先に述べたが,それは承認欲望のような利己的な動機だけでなく,こうした利他的な動機の相乗効果によって強化されるのだ.(p112)

    ■心の発達における3つの承認(まとめ)
    幼児期には親の無条件な親和的承認に包まれながら,親の要求に抵抗する一方で,親の要求に答えることで得られる新たな承認のよろこびを知る.それは「価値ある行為」によって得られる承認であり,この承認はやがて自己の存在価値の確信につながり,ますます重要性を帯びてくる.
    学童期から思春期においては,こうした自己価値を証明したいという欲望が高まり,小中学校や高校の同級生を中心に集団的承認を強く求めるようになる.この時期,徐々に「一般的他者の視点」も形成されつつあるが,まだ多様な他者の身になって考えるだけの力は弱く,自分の判断に自信を持つことができない.そのため,集団的他者の承認や親の承認に固執し,ちょっとした親の叱責や仲間の批判によって強い挫折感を抱き,自己否定的な抗うつ感に襲われることも多いのだ.
    こうした苦悩から逃れるために,他者の承認を放棄し,自分勝手に自己承認して自足してしま場合もある.しかし,それは一般的他者を考慮しないため,人間関係に齟齬を生み,新たな苦悩を生みやすい.そこで自分はやはり誰かに認められたいのだ,という承認欲望を自覚し,現実の他者の評価を再び重視するようになる.それは他者の判断に盲目的に迎合していた過去とは違い,今度は「一般的他者の視点」から価値の一般性を考慮し,判断しようとする段階に達している.周囲の人々の評価を真摯に受け止めながら,それを「一般的他者の視点」で内省し,自らの判断を導き出す.この繰り返しこそが,「一般的他者の視点」を成熟させ,一般的承認の想定を可能にする.それは他者一般の承認する価値を考慮した,自己中心的ではない自己承認なのである.
    このように,他者への承認欲望は,「親の承認(親和的承認)」(幼児期)→「仲間の承認(集団的承認)」(学童期〜青年期)→「他者一般の承認(一般的承認)」(壮年期〜),といった形で欲望対象の中心点を変えていく.それに伴って,自己ルールはより一般性のある行動規範に修正され,「一般的他者の視点」も成熟する.
    こうして,親和的承認,集団的承認,一般的承認という3つの承認パターンを経験すれば,以後,それらは互いに補い合うようになる.前章で説明した3つの承認の相補的関係は,このようなプロセスを経てはじめて可能になるのだ.(p113-115)

    ■歪んだ承認関係
    親の親和的承認が得られないのではなく,歪んだ形でこの承認が与えられた場合,集団的承認や一般的承認への視線変更が難しくなってしまうだろう.「言っていること」と「やっていること」が一致しない親は,子どもに強い承認の不安を与え,なおかつ親の承認への執着から抜け出せなくなってしまう可能性が高い.文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンはこうした言動不一致による心理的な拘束状況をダブルバインド(二重拘束)と名付ける.(p116)

    ダブルバインド状況が幼少期から繰り返されれば,親の愛と承認を得るためには何をすれば良いのか,いや,そもそも親が何を考えているのか,わからなくなってしまうだろう.その影響は親以外の他者にも波及し,他人の言葉や身振り,行為からメッセージを汲み取ることができなくなり,強い対人不安を抱え込むことになる.子どもは親の愛情と承認を基盤にして,他者から承認を得るためのルールを身につけ,コミュニケーション・スキルを習得するのだが,それも困難になってしまう.(p118)

    ダブルバインド状況において問題なのは,親に認められるか否か,という幼少期から青年期に至るまでの中心的問題から脱け出せないことにある.私たちは親のような親密な他者の承認(親和的承認)が得られなくても,所属集団における仲間の承認(集団的承認)や見知らぬ人々の一般的承認など,それを埋め合わせる道を持っている.現に,親に愛されず,低く評価されている場合でも,別の承認の道を見出して,たくましく生きている人も大勢いる.ところがダブルバインド状況を繰り返し経験した子どもは,親から否認されるだけでなく,同時に承認のメッセージをも受け取ってきたため,親の承認を断念できないのである.(p119)

    たとえ親の言動に矛盾がなくとも,親が子どもに対して偏った要求や期待,芽入れを与えていれば,またそうした命令に従った場合のみ承認を与えていれば,子どもは親の承認で頭が一杯になり,他の承認の可能性は想像できなくなる.その結果,大人になっても「親の承認」に執着し続け,親密になった他者との間で,親に対してとってきた態度を繰り返すことになりやすい.(p119)

    典型的なのは共依存と呼ばれる承認関係だろう.
    精神科医の齋藤学によれば,幼少期に虐待を受けて育った女性の多くは自己評価が低くなり,他人に尽くすことで自己承認を得ようとする.たとえば暴力を繰り返す夫に怯えながらも,「私がいなければ,彼はダメになる」と考え,じっと耐え続けている女性などがそうだ.彼女たちは,自分は取るに足らない存在で,ありのままの自分には生きる価値がない,と感じている.そして人に頼られることでしか,自分の存在価値を肯定できなくなっている.(p119)

    単に親から十分な承認が得られなかっただけでなく,虐待などよって親に徹底的に否認されたり,ダブルバインド状況のように矛盾したかたちで承認が与えられれば,子どもは親の承認に執着することになりやすい.また,自らの存在価値に自信が持てないまま大人になり,絶えず他者の評価に過剰反応するようになる.(p120)

    この場合,第三者の示唆もなく,親の価値を相対化する機会も少なく,「一般的他者の視点」から一般的承認の可能性を開くのは困難になるのである.(p120)

    ■失われた共通の価値観
    一般的に,個人の価値観は社会共通の価値観に基づいて形成されるため,それほど周囲の人々の価値観と大きな違いは生じない,と考えることができる.
    子どもに対する親の要求や期待は社会の価値観や文化的慣習に準じたものであり,それによって子供の内面に形成された価値観・自己ルールは,社会生活の中でさらに一般性のあるものに修正されている.そして社会全体に浸透している価値観に基づく行動であれば,社会はそれを正当な行為と見なし,批判するようなことはない.むしろ共感や賞賛に値する行為として評価され,その社会の人々から広く承認を得ることができる.(p123)

    したがって,特定の価値観が共有された社会,特にその価値観が強い影響力を持つ社会では,価値観の異なる多様な人々を想定する必要性があまり生じない.いちいち他者の立場を顧みなくても,その価値観に沿った行動の価値を信じることができるし,結果的に周囲の承認を得る可能性も高いからだ.成長家庭において親以外の人々の価値観に触れても,そこにあまり違いがないため,その価値を再検討する必要性を生じないし,「一般的他者の視点」も形成されにくい.(p124)

    しかし近代社会になると,自然科学の発展に伴って宗教的価値観の絶対性は揺らぎ,しかも交通手段の進歩と社会構造の変化により,世界の多様な価値観が出会うようになる.それは多様な価値観のなかで共通性を求め,より一般性のある価値を考えようとする視線を生み出したと言える.普遍的な価値を求めて,人間は様々な立場の人々を想定した上で,誰もが納得し得る価値判断を導きだそうとした.「一般的他者の視点」とは,まさに近代社会におけるこうした要請が生み出した視線なのである.(p124)

    だが現在,一般性のある価値,普遍的な価値そのものへの疑義が増幅し,価値相対主義が蔓延している.こうなると,表面的には保たれているように見える社会規範や社会共通の価値観も信頼できず,自己価値にもゆらぎが生じざるを得ない.社会が共有する大きな価値を信憑し,それに準じた行動を取れば自己価値も保証される,という状況はもはや崩れつつあるのだ.(p125)

    いま,多くの若者が強い承認の不安を感じ,「空虚な承認ゲーム」に陥っている背景には,こうした現代特有の心理が潜んでいる.価値観の相対化という時代の波の中で,多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い,自己価値への直接的な他者の承認を渇望し始めている.そしてみ時間人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果,極度のストレスを抱えたり,その承認を獲得することができず,虚無感や抗うつ感に襲われている.現代社会が承認不安に満ちた時代なのは,まさにこのような理由からなのである.(p126)

    ■近代に生じた新たな視点
    「一般的他者の視点」で価値判断をして,その判断に準じて行動する場合,その行為は多様な他者の承認を想定した上で判断されたものなので,多くの場合,批判を招くような誤った行為とはならないし,将来的にも他者の承認をえる可能性を確保することができる.しかも他者の判断に依拠するのではなく,自らの判断で行動することで,私たちは「自由に生きている」という実感を失わないでいることができる.

    すでに述べたように,「空虚な承認ゲーム」において苦悩を生み出しているのは,何も承認の不安だけではない.自己の感情や欲望を過度に抑制することによって生じた自己不全感であり,そこにかけているのは「自由」の意識に他ならない.従って,自由の意識を確保しつつ承認の可能性を切り開く「一般的他者の視点」は,自由と承認の苦しみに満ちた葛藤を脱け出す上で,とても重要な役割を担っている,と考えてよいだろう.

    社会に共通の価値観が浸透している間は,「一般的他者の視点」はあまり必要とされなかった.そのような内省をせずとも,価値基準は誰の目にも明白であったからだ.社会共通の価値観への信頼がゆらいでいるからこそ,様々な価値観を持つ他者との出会いの中で,共通了解しえる価値を求め始め,「一般的他者の視点」が生じてきた.それは行為の価値を確認するためだけではなく,自分の意志で行動する自由を確保するために,どうしても必要なものであった.(p128)



  • 承認欲望(承認欲求)は、「親和的承認」、「集団的承認」、「一般的承認」の三種類あるとされている。 現代社会は、「大きな物語」が崩壊したことにより、「共通の価値観」というものがなくなった。 また、親和的承認を手に入れることが難しくなってきた。 それ故、身近な集団的承認を求めるようになった。 だが、それは精神的もあまりよろしくない。 だから、一般的承認(道徳的に良しとされていること)を求めるような生き方を奨励する。

  • 日本人は宗教的観念も他国と比べて低いため、周囲の人たちの承認により、自分の必要性を感じようとする。あまり好きではない人との飲み会も、嫌われたくない、嫌な噂を立てられたくない、そう思っていたら断れず、だからといってそこで自分の承認価値が高まるわけでもなく、不服な気持ちを抱く悪循環。しかも交際費が重なるだけ。無意識に思ってしまう「しなければならない」という感情を(自己ルール)=過剰な自意識に気づいて自分を理解する。言い換えて、自己了解していくことで空虚な承認ゲームから脱出できるひとつの方法である。snsなどの発達によって親しい人からの本物の承認を得られにくくなっていく現代において、刺さる一冊!!ゆあてゃに憧れる人たち。まさに空虚な承認ゲーム

    共依存の本質は「人に必要とされることの必要です。自分にとって大切な人から「あなたがいないとわたしは生きられない」と言われることで、自分の存在がはじめて「承認」されたように感じることから、共依存者的な生き方が始まります。(p.120)


    なぜ知的な人々ほど神経症に苦しんでいたのか。

    しかし、知識人層のように、自由の意識が芽生えた人間、伝統的価値観に違和感を抱いた人間においては、たとえ承認を得るために伝統的価値観に準じて行動しても、そこに納得感は乏しく、どこか無理をしている感触が付きまとう。 p.144



    本当の自分が抑圧される原因は、周囲の人間の評価に対する過剰な自意識なのである。p.163

    空虚な承認ゲーム=同調行動が、功を奏して、承認が維持されているうちは、承認の不安を一時的に遠ざけることはできる。だがそこには、価値ある行為や知識、技能を承認される場合に生じるような充足感はない。p.165

    日本人の承認基準は、周囲の人々。
    欧米人の自我は神に支えられているから、対人恐怖にはならない。

  • 正解のない多様性だから 承認に飢えてSNSにすがる まずは身近な人へのリスペクトと承認から始めようぜ

  • 数年前に読んだ本だけど、メモを見返しての感想。

    就活に苦しんでいる自分に響く内容だった。まさに“承認と自由の葛藤”に悩んでいた。
    つまり、
    「大企業や名の知れた企業、ホワイト企業に入り、親や恋人、指導教員、同期から承認を得たい」という気持ちと、
    「一般的な企業で働くことが絶望的に向いていない(インターンが全て苦痛だった)ので、無名で給料も低いが自分の適正に合った仕事をしたい」という気持ち
    の2つで葛藤していた。
    自分の中にいる“一般的他者”の視野を広げることで、承認と自由の両立が可能であるという言葉に励まされた。

  • 2014年の68冊目です。

    私には、顕在化、潜在化した承認欲求があります。
    ここ数年来の自分のテーマでした。そんな時、リサイクルBookストアーの新書コーナで見つけた本です。
    本の前半では、人間の承認欲求について解説されていますが、「これは、ほとんど自分の事を分析して書かれている」と思うほど、合点のいくものでした。
    第1章「認められたい」の暴走の中に次の一節があります。「他者の承認は自分の存在価値に関わる、最も人間的な欲望であり、長期にわたってそれなしに生きていける人間はほとんどいないだろう」 それって私のことですと言いたくなるような文章ですね。ところで、承認を与える他者とは誰か?本書では、他者を自分との関係性から3つに分けています。「親和的他者」「集団的他者」「一般的他者」だそうです。「親和的他者」とは、家族・恋人・親しい友人など、愛情と信頼の関係にある他者のこと。ありのままの自分を受け入れてくれる他者でもあります。「集団的他者」とは、所属する組織・会社などで、共有するルールや価値観に見合う行動をすることで認めてくれる他者です。「一般的他者」とは。あったことも無いネット上の知り合いやほとんど知らない人達であり世間とか社会一般といえる。自らの行動が、社会全般に渡って認められる価値に見合うかどうかが認められるかどうかということになる。
    現代は、誰もが「認められたい」という欲望を抱く以上、そこには大勢の人間が共通して了解し得る意味(本質)があるはずだというのが、著者の論の中核に置かれています。すなわち自己了解と「一般的他者の視点」による内省ができれば、親和的承認や集団的他者承認に執着せず、「見知らぬ他者」の承認(存在承認の本質)を確信することで、また自分の意志で行為を選択することで、自由と承認の両方を切り開くことができると述べている。

    私の場合、「親和的承認」を、「集団的他者」の中にも得たいという部分があるように思える。また、現代において、「集団」に共通する価値観自体が不明確になりつつあるため、どういった行為に価値があるのかを見定めることも難しくなっている。人事考課とか賃金などがその行為の価値を測り評価を反映したものだったが、昨今の私の所属する組織ではそのような傾向は極めて希薄になっている。ここでの承認を得ずして、一般的他者の承認へシフトしていくことには、同意しづらい。価値観やルールが変動する中で「集団的他者の承認」を確実に得ていくかという課題について改めて考えて見たいと感じました。

  • 「認められたい」の正体は、人間としての本能。自己価値への欲望。と第二章で結論付け、最終章である第五章でそこからの脱出方法を考察している。二章で結論付けられたことについて、三章でそうなる過程を詳しく説明。

    個々の価値観の多様化によって、どうしたら認められるのか、つまり「認められるためには何をしたらいいのか」が不明瞭になり、その結果承認不安が強くなる、というのが現代。
    もともとは親和的欲求としての親の承認を得ようとし、それが学童期から集団的欲求としての友人の承認、壮年期からは一般的承認への欲求と変わっていく。その過程で「一般的他者の視点」も成熟していく。それぞれの欲求は互いに補完し合う関係性にある。「一般的他者の視点」が成熟しないと、承認不安からの脱却が難しくなる。
    自分の決定に納得するように考えてから行動することで、自分の意思で決定したことになり、自由の意識は保たれる。

  • <メモ>
    ・ 身近な人間だけに認められたい若者
    ・ 今は社会の価値観が多様化してきているため、何をしたら認められるかわからなくなっている…コミュ力重視の社会

    不可欠な「他者」の存在
    1.親和的承認・・・ありのままの私、無条件の愛 ex.家族・友人・恋人
      存在そのものへの承認、自分ではどうにもならない(片思いなど)
    2.集団的承認・・・集団への貢献、知識・技能
      集団の人間が評価する行為、求められる役割を果たすなど努力で手   に入れられる ex.学校・会社
    3.一般的承認・・・見知らぬ大勢の人
      献身的な人も無意識に「一般的他者の視点」から内省している

    家族で疎外されている人が仕事を頑張ったり、仕事がうまくいかない人が恋人に甘えたり。


    自由への欲望と承認への欲望の葛藤
    自由を捨てれば自己不全感に陥り、自由に生きても承認を捨てれば生きる意味を見失ってしまう
       ↓
    両立するためには「自己理解」と「一般的他者の視点」が必要。

    自由とは「自己決定による納得」
     他者への同調を辞め、まず自分がどうしたいか考える。納得のいく自己決定のためには、自分をよく知る必要がある。
    「~ねばならない」「~すべきだ」という義務感で自己不全感が生場合、そこに承認不安はないか、親への承認不安に基づく自己ルールが存在しないか分析する必要がある。

    一般的他者は、利害関係のない中立的な他者。身近な人間だけでなく、様々な価値観を持った他者を理解する。「見知らぬ他者」からの承認を確信して自分の行動に自信を持つ。

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著者プロフィール

山竹伸二(やまたけ・しんじ)
1965年、広島県生まれ。学術系出版社の編集者を経て、心理学、哲学の分野で批評活動を展開。評論家。同志社大学赤ちゃん学研究センター嘱託研究員、桜美林大学非常勤講師。現代社会における心の病と、心理療法の原理、および看護や保育、介護などのケアの原理について、現象学的な視点から捉え直す作業を続けている。おもな著書に『「認められたい」の正体』(講談社現代新書)、『「本当の自分」の現象学』(NHKブックス)、『不安時代を生きる哲学』(朝日新聞出版)、『本当にわかる哲学』(日本実業出版社)、『子育ての哲学』(ちくま新書)、『心理療法という謎』(河出ブックス)、『こころの病に挑んだ知の巨人』(ちくま新書)、『ひとはなぜ「認められたい」のか』(ちくま新書)、『共感の正体』(河出書房新社)など。

「2023年 『心理療法の精神史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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