グレ-ト・ギャツビ- (村上春樹翻訳ライブラリー f- 2)
- 中央公論新社 (2006年11月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (356ページ)
- / ISBN・EAN: 9784124035049
感想・レビュー・書評
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最初は文化の違いや、独特の言い回しからページが進まなかったが、徐々に登場人物について知るうちに夢中になって一気に読んでしまった。
主人公のややこしい人をほっとけないところや、傲慢なトム、悪気なく人を傷つけるデイジーなど、時代や文化は違えど全く別の世界の話とは思えなかった、むしろとても近く感じた。
何より過去に囚われた哀れな男、ギャツビー。
人をから女を奪うにはあまりにも優しすぎた。
そして時とともに人は変わる。どれだけお互いを強く思っていたとしても。
ラストはあまりにも衝撃的で切なかった。
現実的でもあり、幻想的でもある。
なのになんだか納得してしまうラスト。
パーティーで見たたくさんの人々は幻だったのだろうか。
それともギャツビーが幻だったのだろうか。
彼はデイジーを手に入れるためにたくさんのことを犠牲にし過ぎた。
デイジーがすでにギャツビーの中のデイジーではないということを知らずに。
村上春樹がこの小説を愛している理由がわかる気がする。
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相手と自分の「好き」が同じ程度であり続けることはとても難しいと、改めてこの本を読んで感じた。
手が届かないと思ったとき、その場にとどまって信じ続ける人。手が届かないと思ったとき、思いを抱きながらも、次の道へと進んでいく人。
前者は、信じることに時間を費やすことで、さらに思いを強めていく。後者は、別の人やものに時間を割くことで、次第に過去の思い出としていく。
この両者が再会したとき、一瞬はあの頃の熱量を取り戻したかのように見えても、やはりそれは一時的なものでしかあり得ず、次第に離れていく運命にあるのだろう。
その結末を思えば、初めから出会わない方がよかったと思う人もいるかもしれない。それでも、そのくらいの眩さを放つ瞬間は、人生にとってそう何度もあるものではなく、多くの人は、その瞬間を胸の奥に大事にしまって、後の人生を歩んでいくのだと思う。 -
毎年恒例、私が選ぶ今年の夏の終わりの一冊。
グレート・ギャツビーって、タイトルはずっと知ってたけど正直あらすじは全然知らなかった。
ジェイ・ギャツビーという大富豪の青年が、結婚してしまったかつての恋人・デイジーをひたすら想い続ける話だったとはね。
そこにまた別のW不倫も絡んで、人物相関図は中々に複雑だ。隣人ニックの視点で進んでいく。
デイジーがニックの家にお茶をしにやってきて、そこにたまたまギャツビーが居合わせた、という設定の作戦は最高だった。免色さんじゃん。私としてはこの再会のシーンが一番のハイライトだと思う。
約束の四時二分前に「誰もお茶には来ないよ。もう遅すぎる!」と顔面蒼白で叫ぶギャツビー。
彼にあれほど愛されるというのは、どのような気持ちがするものなんだろう?そして彼があれほど恋い焦がれるデイジーは、いったいどれほど素敵な女性なんだろう?
過去は流れ去っていくし、私たちはそれらに押し戻されながらも決して手に取ることはできずに、取り返しのつかない焦燥感に耐えるしかない。今なら届きそうだと思っても、過去には決して手をつけてはいけないのかもしれない。
果たされることなく終わった悲しみや、人の短命な至福。まっすぐにそれらを追い求め続けるギャツビーという一途でピュアな青年に、ニックだけじゃなく私だって好感を持たずにはいられない(まぁちょっと束縛強すぎてめんどくさそうだけど)。
そして、ああ、夏の日の昼下がりに飲むミント・ジュレップがたまらなくおいしそう。ミント・ジュレップがなんなのか分からないけどそれでもおいしそう。
そこかしこに村上春樹が影響を受けたんだろうなと思わせるエッセンスが散らばっていて、それを見つけることが楽しかった。デビュー作の風の歌を聴けの雰囲気、そして騎士団長殺しに至ってはオマージュかと思うほど。そこに並々ならぬリスペクトを感じる。 -
映画のポスターでしかこの作品の存在を知らなかったので、ポスターの煌びやかなイメージで読み始めていたが、世界観はすごく落ち着いていて、なんなら最初の方は少し退屈なぐらいのんびりしていた印象を受けた
だけれど、前半にのどかなシーンが続いたからこそ、後半の急展開に持っていかれた
結末はたしかに切なさを感じたが、不安から生まれる根拠のない思い込みや保身という、人間の嫌な部分の怖さの方が読んでいて印象深かった
生涯掛けて憧れていた人の本性を見た時、ギャッツビーは何を思ったのだろうか
主人公と彼が直面した人間の真実や現実を含めて、最後の一節に込み上げてくるのがあった -
映画も観ました!
最後の最後で虚しいというか報われない、でもただ1人の主人公の友人が救いのような、描写がすごく好きでした! -
自分にはつくづく文学的素養が無いのだな~、と実感させられることとなった読書でした。
名作として名高く、しかもあの村上春樹氏が「人生で巡り会ったもっとも重要な本」とまで評する本作にピンとこないのですから。
表現に使われる文章の美しさより、間延びした冗長さしか感じられません。
なかなか話が進まずに、起承転結ではなく、起承承承承承転結、という印象です。
後味もいまひとつでしたね。
せつなさ、でいうなら乙一作品のほうが好きです。
その後のデイジーがどうなったのか、まったく触れられていないのも不満です。
主人公がそれを気にしないのも納得できませんでした。
きっと自分には高尚で美しいいわゆる名作文学ではなく、単純な娯楽作品のほうがあっているのでしょう。 -
毎週のようにパーティーを開く謎の富豪、ギャツビー。華麗なる外見と振る舞いに隠された恋と孤独を描いた名作。
以前から村上春樹がこの本について絶賛していて、自信も翻訳しているのでちょっと読んでみました。どんな話なのか知らずに読み始めて、ただのアメリカの小金持ちの鼻持ちならない話を叙情的に語っただけの本か?とか思っていたのですが、意外に入り組んでいて楽しめるストーリーでした。
まあ、ストーリーも面白いのですが、村上春樹が(長い)後書きに書いたように、印象的なのはその実に叙情的な描写の数々であって、読みながらも「これは原文で読んでみたくなるな」と思わせるものがあり、それこそがまさにこの本の価値なのかもしれません。
そして物語は予想外に悲しい終わり方をするのですが、その叙情性と結末のほの悲しさが相まって独特の読後感が残りました。そういう意味で、とても印象深い作品だったなあ、と思わされた不思議な本でした。こうした魅力は原文で読んだほうがもちろん強く残るのでしょうが、そのエッセンスを上手に和訳してみせた村上の思い入れも(少なくとも、後書きで言及した、翻訳の目的は(僕的には)達成できていると思うので)相当なモノではないかと感じさせられました。
あとはアメリカの西部・中西部と東部の心情的な分断とかがそこはかとなく滲み出てきてその辺もアメリカという国を理解しやすくする描写で面白かったです。 -
村上春樹訳だからか、言い回しが独特でロマンチック。特に情景の描写がとても綺麗。じっくり言葉を味わいながら読みたい作品だと思った。自分の頭の中でちゃんと反芻しながら読まないと、この物語の良さは分からないだろう。
かつての夢を一途に叶えようとするギャツビー。人は変わっていくもので、変わらないものなんてないけれど、ギャツビーは絶対的に過去の夢を信じ続ける。しがみついていることで生きているように。自分の力でどうにもできないことって生きていたらある、運命のようなもの。でもその失われかけた夢を自分の力で、どんな手を使ってでも手繰り寄せようとした。
その切実さに惹かれる。
華やかさや煌びやかさ、作り物紛い物の安心感の中に、現実の虚しさや儚さが垣間見える。切ない気持ちになる。 -
何度めかのトライでやっと読了。
なかなか物語の世界に入っていくことができず、時間がかかってしまった。
村上春樹さんは1番といっていいほどこの本に影響を受けたそう。あとがきの方がするする入ってくるというあまりないパターン。本に出会う年齢やその時の状況でその後心に残る本は違うのだろうな。
ギャッツビーの家の対岸にデイジーの家があるというのは騎士団長殺しの設定を思い出させた。
2021.5.11
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この頃のアメリカ上流階級に漂う、どこか「まがいもの」の薄っぺらさ……。
ロシアやイギリスの文豪達が描いた「上流階級」と「民衆」の「埋めようもない隔たり」に比べて、富裕と貧困が近しい位置に存在し、紙一重の危うさと軽薄さが漂う。
ギャツビーの悲劇はそこに生まれた。
村上春樹が愛したのは、そんな「不安定さ」だったとすれば、あらゆる文章表現を駆使して、華やかであやふやな登場人物達がギャツビーとその周りを踊り回る姿を、見事に「翻訳」した。
ロバート・レッドフォードやレオナルド・デカプリオといった当世を代表する二枚目俳優で二度も映画化された上、翻訳者が村上春樹という「ブランド」では、もう素晴らしくない訳ない。
「美しい」かどうかは、人それぞれ……。