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一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
- 東浩紀
- 講談社 / 2011年11月22日発売
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「情報化の思想的意味」を明らかにし、高度情報化社会の”政治”概念を鮮やかに覆す、エッセイの衣をまとった夢物語である。
前提知識の有無にもよるが、難しい概念はほとんどなく手軽に読めてしまう。ところが、扱われている論点は、現代思想・政治哲学・情報社会論と幅広く、平易な語り口の深層に入り込もうとすると、非常に難しい本だと思う。
主張は単純明快で、きれいな一直線を描いていく。
ルソーの「一般意志」とは、そもそも理性的に交わされた社会契約に基づくものではなく、大衆の「無意識」的なものの集合であると解釈できる。
それを現代にあてはめると、「一般意志」とは、インターネット上に日々何気なく投下される無数の小さなつぶやきの集合体――そしてそれらが織りなす”データベース”――とは言えないだろうか。
彼が提案するのは、この現代版「一般意志」、すなわち「一般意志2.0」を、危機に陥った現代の代表制民主主義の刷新に使えないだろうか?ということである。
具体的には、「熟議とデータベースが補いあう社会」が提案される。
現代の社会は複雑化・多様化し、もはやコミュニケーションそのものが成り立たなくなってしまった。いま政治的な「熟議」が成り立つのは、限られた知識をもった人たちによって構成される限られた場のみである。
そこで、その場に”データベース”を大衆の無意識を可視化したものとして投入することで、大衆の無意識が専門家による熟議の暴走を押さえ、一方の熟議は大衆の過度に行き過ぎた無意識を抑制する、という国家像を構想する。
すると、大衆の面倒な政治参加なしに「公と私の対立を乗り越える『共』のプラットフォーム」としての政府がそこに創出され、さらに既存の「公共性」の原理が塗り替えられる――というわけである。
さて、以上が概略となる。
これ以降は、2点ほど気になった点について検討してみたい。
1.『一般意志2.0』におけるコミュニケーション
しばしばネット上で「政治的コミュニケーションを否定している」「熟議を否定している」といった批判がなされ、著者本人が「そんなことはない」と反論している様子を見る。
この点について少し気にしながら読んでいた。
結論から述べれば、決してコミュニケーションも熟議も否定していない。
なぜ誤解されるかと言えば、出発点が「コミュニケーションが成り立たない」というところにあるからだと思われる。
彼の論はおおよそ
1:コミュニケーションが成り立たない
2:だからコミュニケーションなしでも政治ができるようにしよう
3:するとかろうじて残ったコミュニケーションの場を強化することができる
という経路をたどっている。
1はポストモダン化した社会状況に、2は「一般意志2.0」そして”データベース”の構想に、3は「熟議とデータベースの補いあう社会」に対応する。
2まで読んで早とちりすると3を読み逃すし、実際2から3への展開も少し大がかりである。
この点は、ぜひぜひ良く読んでほしいと思う。
2.「オープンガバメント」との比較
先日読んだ『「統治」を創造する』の扱う「オープンガバメント」の概念を頭に入れながら読んでいた。
「オープンガバメント」の主張は、政府の持っている情報をくまなく公開することで、それを活用する市民によって熟議が促進される、ということである。
ところが、これは「政治参加の意思をもった市民」の存在を前提としており、『一般意志2.0』の掲げる思想とは相いれない部分がある。
この点『「統治」を創造する』のレビューではさっくりと批判してしまった淵田論文が重要な意味を持つ。
「オープンガバメント」の文脈では、淵田論文は『一般意志2.0』の導入に終わっているが、『一般意志...
2012年2月24日
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「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会
- 谷本晴樹
- 春秋社 / 2011年12月21日発売
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IT社会のもたらす新たな”統治”の形を、「新しい公共/オープンガバメント/リーク社会」という3つのキーワードから提示する意欲作。
寄稿者の幅が広いという理由もあるが、理念的なことから実践的なことまで、そして法律からビジネスそして文学までカバーしており、政治・統治に関わる問題領域の広さと深さが体現されている。
上記の3つのキーワードは並置されているが、全体を通しての主軸は「オープンガバメント」であり、それを支える「リーク社会」と、それがもたらす「新しい公共」が付随的に論じられているという印象。
しかしながら、「オープンガバメント」という概念自体が新しく、浸透し切っていない段階において、うってつけの「オープンガバメント入門書」と言えると思う。
序章西田論文による現状の統治のあり方に対する問題提起からはじまり、第1部はオープンガバメントの導入となっている。
「オープンガバメント」とは何かと問われると、基本的には
・政府の持つ情報の公開(=政府のプラットフォーム化)
・それを利用して民間サービスが活発化、人々の政治参加が活発化
(=「新しい公共」の活性化)
の2点に集約される。
ところが、概念の新しさゆえに、この2軸から枝葉のように伸びるメリット・デメリットが点在していて、それらを各論文が拾い集めていく。
谷本論文は「熟議」をひとつのキーワードとしつつ、純粋に政治の観点からオープンガバメントを吟味するのに対し、塚越論文はウィキリークスを題材に、情報公開に関わる正当性/正統性といった観点からオープンガバメントの効用を説いた。
一方で、淵田論文と吉野論文は、「オープンガバメント」の重要性を社会思想の点から裏づける。
淵田論文が東浩紀『一般意思2.0』の紹介に終わってしまっている点が少々残念だが、同書が文脈的に重要であるのことは間違いないのでやむをえないともいえる。というのも、谷本論文も文部科学省の「熟議カケアイ」を引き合いに出しつつ、インターネットを介したやりとりとリアルのやりとりの相乗効果に期待をかけているからである。この相乗効果に関しては、評者も民主主義の強化につながるものとして、可能性を求めるところである。
第2部はより実践的な側面に軸足を移す。
西田論文は寄付文化に、藤沢論文は東日本大震災への対応に、どのように「オープンガバメント」的なものが利用されたかを検証する。例が身近で非常に分かりやすい。とくに藤沢論文は、以前『思想地図β2』で読んだ津田論文と通底するものがあり、面白い。
その後、池貝論文が少し視点を変えてオープンガバメントと著作権の問題に視点を当て、さらにイケダ論文がビジネスの方向へ舵を切る。「オープンガバメント」のはらむ問題や可能性が、政治/統治にとどまらないことを示している点で、池貝・イケダの論文は重要である。
そして第3部に「もう一度考える」と称してぽつん、と入った円堂論文。
執筆者の幅が広いとはいえ、やはり文芸・音楽評論家は他と比べても異色である。
しかし、第1部・第2部が「オープンガバメント」による”「統治」の創造”を、ポジティブに、現在を中心に論じているのに対し、文芸を題材に、新たな動きをより慎重に、歴史的な経緯も絡めて論じていることに好感を持てた。ちょっと不思議な構成だが、悪くない。
というわけで、敬称略でざっと内容をさらってみた。
以下、個人的な感想を2点ほど述べたい。
1つは、「オープンガバメント」の前提となる情報の透明化がはらむ問題を、負の側面として検討して欲しかった。
今さら抵抗があるわけではないが、個人の嗜好・行動のすべての情報が集積されるようになる「プライバシーの消失」が、この手の論議にいつも気になってしまうたちである。
2つは、やは...
2012年2月21日
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ニグロとして生きる (サピエンティア)
- エメ・セゼール
- 法政大学出版局 / 2011年9月29日発売
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新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)
- 羽田正
- 岩波書店 / 2011年11月19日発売
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従来の「世界史」を、"中心史観"を脱し、「地球市民」の立場からよりニュートラルに描き直そうとする、「地球史」試論。
ここで扱っている「世界史」とは、主に学習指導要領に準拠した、高等学校程度で教えられている世界各地域とその結びつきを含む歴史総体を指す。
全体の流れとしては、「世界史」のたどった歴史を諸外国と比較しながら振り返りつつ、現行「世界史」の問題点を指摘し、その克服の試みを通じて、現在の世界に合わせた新たな「世界史」の構想へと導入する。
肝心の、筆者が主張する「新しい世界史」とは、グローバル化が進み「地球市民」としての自覚が必要とされる現代において、一国/一地域中心史観を脱するとともに、主権/国民国家の存在を暗黙の前提とする時系列の各国史・地域史を解体した上で、各時代ごとの人間集団を横軸で比較した歴史を構成し、しかもあくまで「現在」との比較対象として、「世界はひとつ」として描く、という構想である。
この本の印象について、最初に少々厳しい評を述べる必要があると思う。
半分以上読み進めても、「新しい世界史」をめぐる筆者の具体的な主張が伝わってこないのである。先行する「世界史」の批判と自身の「新しい世界史」の構想・説明に3分の2以上が割かれているのだが、構想が具体例によってしか明示できないものであると思われるため、なんとも上滑りのむず痒い話が延々と続く。
筆者自身も冒頭で自覚的に述べているように、この本は研究の「中間報告」的な側面もあり、多少内容が実験的なものであることはあらかじめ予測できる。しかし、それにしても、結局何が言いたいのかを知るためだけにただページを繰ったという感が否めない。
主張の内容についても、いまいち納得がいかない部分がある。
筆者の主張は、とにかく中心史観を脱することにあると受け取れるのだが、それは本当に可能なのだろうか。
「新しい世界史」の構想をわたしが解釈する限りでは、「世界史資料集」という類の書に収録されている「○○世紀の世界」という地図をたくさん用意し、その上に載っている人間集団を、政治・経済・文化的な観点から比較対照する、という作業になる。その際、ヨーロッパ・中国のようなどこか世界の中心を措定することなく、国・地域の枠を超えた個々人の活動にスポットをあてて描く、ということになる。
ところが、今のわたしの持つ知識や枠組みでそれをやったところで、「AとBはこのように違うが、このような共通点を持っている」という気づきを、ただ差し出される地図に対して延々と積み重ねるだけになる。しかも1枚1枚の地図を時系列で結びつけていくことはしない。ここでは「物語」が永遠に不在なのである。
「歴史」が本質的にどういうものなのか、筆者はもっと読者に考えさせるべきであろう。議論はそれからで遅くない。わたしたちの中に少なかれ存在する、「歴史とは物語」という認識が、ここでの違和感の根源なのだ。
この点で筆者は、「国民国家」と「国民」創出のための歴史の批判を通し、この認識を否定しているように思われる。しかし、中心史観を脱した「物語性のない歴史」は果たして「歴史」と言えるのだろうか。これはそもそも「歴史」という概念をひっくり返すことになる、大事な問題であろう。ところが、この部分を筆者は大きく取り上げることはない。
もうひとつ違和感があるのは、「世界はひとつ」という思想を、現代の既定路線と受け取って良いのだろうか、ということだ。
筆者が「世界史」の問題点としてあげるように、「○○世界」「○○地域」と最初から区分して教えることで、各国・各地域は「もとから違うもの」という印象をわたしたちに埋め込む感は否定できない。
とはいえ、それらが実は「ひとつ」なのだ、と教えることも必ずや良いことではない。実際、わたしたちが...
2011年12月1日
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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
- 東浩紀
- 講談社 / 2001年11月20日発売
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ヤシガラ椀の外へ
- ベネディクト・アンダーソン
- NTT出版 / 2009年7月17日発売
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『想像の共同体』で有名なベネディクト・アンダーソンの、いわば”回顧録”にして、アンダーソン流”学問の方法論”を綴ったエッセイ。
ナショナリズムについて考えるゼミの参考文献として指定され、自分もそのつもりで読んだので、少し拍子抜け。
訳者の解説によれば、日本は『想像の共同体』が広く読まれている地域のひとつであり、さらにアンダーソンとの縁も深く、日本の読者のために何か!という趣旨から生まれた企画だそう。
そのような方向で気を取り直して読んでみると、学術書ではなく完全なるエッセイ形式なためか、すいすい読めるし面白い。
”回顧録”と”学問の方法論”については、その生い立ちからはじまり、なぜ自分が東南アジア地域研究に従事することになったのか、地域研究の特性はどこにあるのか、「比較」という方法、日米大学教育の今昔、学際的研究のとらえ方、などなど、話題がもりだくさんであり、ここには要約しきれない。
アンダーソンの姿勢――それは同時に日本の読者(とくに若者)へのメッセージでもあるのだろうが――として特徴的なことは、この書の題名『ヤシガラ椀の外へ』にも表れているように、「とにかく自分の文化の外に出よ!」ということ。
様々な文化・言語の入り混じった世界での生い立ち(リービ英雄と少し似ているなと思った)が、長い歴史と西欧の植民活動で移入された文化・言語の入り混じりからできている東南アジアに目を向けさせ、そこから自らの住む欧米世界を見直した時に生まれたのが『想像の共同体』という書物なのである。
「どのように外に出るのか?」については、アンダーソンは非常に”言語”を重視しているように感じるし、わたしも同感である。
もうひとつは、”比較”であり、まるまる1章を割いている。”比較”は学問の基本方法だが、題材選定・切り口・基軸など、どう比較するかに研究者の個性が表れてくるに相違はなく、その点についてもアンダーソンは多様な示唆を与えてくれる。
そのほかも、アンダーソンの学問に対する姿勢はなかなか素敵なので、『想像の共同体』を読んでその思考の深奥に惹かれた人のみならず、学際的研究を志す人、学問や研究に従事しようという人は、ぜひ読んだら良いと思う。
2011年11月13日
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星条旗の聞こえない部屋 (講談社文芸文庫)
- リービ英雄
- 講談社 / 2004年9月11日発売
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"帰る場所のない"ベン・アイザックが、"あめりか"を抜け出し、日本語の飛び交う東京へと、そして「しんじゅく」へと迷い込む物語。日本語を母語としない作家による、初の日本文学である。
ぐいぐい引き込まれるのはなぜだろうと考えると、まるで自分が幽体離脱――ニホン語の空間を、ガイコク人の体から覗く――しているように感じたからだった。
どれだけニホン人の側に立っても、どれだけニホン人と同じ行動をとっても、どれだけニホン語を使っても、決して入れない「ニホン」という空間。「イングリッシュ・コンバセーション・クラブ」の大学生たちは、ベンに向かって英語で話し、決して日本語という殻を割らない。
それに対し、突如現れた安藤はこう言う。「日本に来て、どうして英語で喋べっておるんですか」。こう言う安藤に惹かれるように、ベンは"ニホン"に憧れ、のめりこんでゆく。
ここでえぐられるのは、いかにニホン人が"ニホン"を所有して手放さないかということ。
どうして「ガイコク人」には「ガイコク語」を使って話さなきゃならないと思っているのか。どうして「ガイコク人」が「ニホン語」を喋ると、その内実よりも上手い下手に心が行くのか。
ふだんは気づかないが、この両者はどちらもガイコク人には違和感のあることで、これは自分と相手の立場を置き換えてみれば良く分かる。
それと同時に、"ニホン語"という、ナショナル・アイデンティティの核の部分(とくに国家=民族=言語という等式がほとんどきれいに成立するゆえか)には決して触れられたくないという、ニホン人の日本/日本語に対する所有権の主張さえ感じるのである。
安藤の手助けを借りながら、少しずつベンは「しんじゅく」へ足を踏み入れていく。その時々で、自らのナショナル・アイデンティティの不在を語り、「どうしてニホンなのか」を、直接には語らない形で徐々に明かしていく。
しかし、結局ベンは"ニホン人"にはなれない。ラストに「生卵を飲む」というシーンがあるのだが(ゼミで聞いたところ、生卵を食べるのはアメリカなどではあまり一般的ではないとか)、このような「日本人になるための儀式」を象徴した行為を経てさえも、彼は決して日本人にはなりきれないのである。
自分としては、なかなか衝撃的な一冊であった。
ひとつは、先述したように「日本語の所有権」という気づかなかった事実を突き付けられたから。もうひとつは、外から見た日本とはこうなのか、という越境を感じられたからであろう。
一読した程度だが、まだまだいろいろな謎が残っている。
たとえば、どうして日本でも東京でもなく「しんじゅく」なのか(「日本語」の問題は執拗に描かれるが、「日本」という空間を意識的に描いているとはあまり思われなかった)、どうして「星条旗の『聞こえない』部屋」なのか(『見えない』ではなく?星条旗のはためく音でもなく、英語でも中国語でもなく、「星条旗の聞こえない部屋」=「日本語の聞こえる部屋(=安藤の部屋)」ということなのだろうか?)。
これらの謎は、時間を置いて何度も味わううちに分かってくるのだろうか。ベンが"ニホン"という空間に入り込んできたように、わたしがベンの空間に侵入していくうちに。
2011年11月3日
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明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫 フ 10-1)
- モーリス・ブランショ
- 筑摩書房 / 1997年6月1日発売
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正直、難解。
読み切ったとはいえないけれど、一応読了ということで……いつかきちっと読みます。
2011年10月24日
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暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫 ホ 10-1)
- マイケル・ポランニー
- 筑摩書房 / 2003年12月10日発売
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「分かった」のが何故か「分からない」――そんな”知”の形に名前を与えるとしたら、まさに「暗黙知」なのかもしれない、と思わせる一冊。
要旨をまとめれば、学問や研究のみならず、どのような分野においても「はっきりとは目に見えていない何か」を感知する能力(=暗黙知)を人間は備えており、それを信じ追うことで、わたしたちは新しい実りを得て社会を発展させてきた、ということである。ある意味で、「言語化できないもの/根拠づけや立証がされていないもの」を軽視してはいけない、という現代人への警告ともとれる。
ほんの150ページ程度だが、哲学的エッセンスが凝縮されており、一読だけでは味わいきれない深みがある。
個人的に読みながら思ったのは、外山滋比古『思考の整理学』と少し似た趣がある、ということ。学問とは、研究とは、焦ってはいけない、早急に成果を求めてはいけない、そんな、まさに手さぐりの繰り返しなのだということを、読みながら頭の中で反芻した。
分野としては「哲学」に入るのだろうが、読みこめば、進化論であり宇宙論でありと、どんな風にも捉えられるテクストである。
学問・研究に携わる人なら、おそらく必読。そうでなくても、具体例を引きながら説明している部分は、難しい理論なしに「そういうこと良くある!」と思えるところがきっとあると思うので、ぜひ読んでみてほしい。
2011年10月21日
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日本史の考え方 河合塾イシカワの東大合格講座!
- 石川晶康
- 講談社 / 2004年1月21日発売
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日本史を二期に分け、その通底する特徴から『日本』という国を解き明かそうという試みのもとに書かれた、いわば日本史”読解”書。
夏ごろに「希少本・復刊本フェア」として書店に並んでたのを思わず手に取り放置していたが、自分の中で「日本(史)」について考えることが多くなり、ようやく手をつけた。
大筋としては、日本は天武朝期に、中国という大国の外圧と支配秩序の構築に伴う内乱の中で、天皇を「神」として戴き、異国を支配下に置く「帝国」としての形を整えた。そして、この展開は、外圧をもたらす大国が中国に西欧に変わりつつ、明治以降も繰り返された、ということ。
究極には、このような論理に支えられて存続してきたのが真の「日本」の姿だという主張である。
歴史というのは多様な見方があり、どの説も多くの説のうちのひとつに過ぎないということは念頭に置いた上で、本書の説はなかなかおもしろいと(あくまでわたしは)思う。たいへん短い書だし、論証に関して口をはさめばきりがない部分はあるかと思うが、「ひとつの見方」としてアリかと思われる。
「(日本という国の)歴史の循環性」や「日本の歴史に外圧が及ぼした役割」などについて、本を読んだり話を聞いたりしながらわたしがぽつぽつと考えていたことに、かなり沿ったとらえ方であった。
ひとつ、批判を覚悟でここで指摘してみようかと思うのは、先ほどあげた「このような論理」に、日本は「支えられて」存在してきたことはおろか、むしろ「このような論理」の「限り」でしか存在していないのではないか、ということである。
日本がどのように成立し(というよりは構築され)、ここまで至ったかを見るときに、「外圧」、もっと広くいえば「外国」であり「”日本的”でないもの」が果たした役割に着目することで、日本人のナショナル・アイデンティティーの深層がより深く現前するのではないかと感じるのである。
2011年10月14日
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思想地図β vol.2 震災以後
- 東浩紀
- 合同会社コンテクチュアズ / 2011年9月1日発売
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「震災以降」、言葉や思想はいったい何をなし得たのか、そしてなし得るのか――この問いを軸として編まれた、批評家・東浩紀による新しい言論誌「思想地図β」シリーズの2冊目。
震災に対する本格的な論考集を読むのははじめてであるが、おそらくこのような形式のものはほかにはないであろう。
というのも、一般的な言論誌においては、震災をうけての意見を評論家・専門家に「うかがう」というオムニバス形式をとるが、この本においては震災をうけて東さんが抱いた問いを「ぶつけ」て、論者・対談相手たちはそれに「こたえる」という形式がとられているように思われる。
それゆえ、個々の論考・対談録の主張は一見「ばらばら」でも、最終的には「震災以降の言葉や思想」そして「震災以前の『言葉や思想』に代わる連帯とは」という問いにすべてがリンクしており、「『考えること』が力を取り戻さんこと」を願う東さんの狙い通りに、それらの問い-答えを追う東さんの軌跡(しかも、その軌跡は巧みな編集のおかげでとてもきれいな形で現前するのだが)が、われわれに「もういちど」「考えること」を要請してくる。
堅苦しい「思想」に関する前提知識はまったく必要ない。純粋に「震災以降」の日本を「もういちど」「考えたい」人は読んでみてほしいと思う。
ただし、この本は「震災以降」の日本にどう生きればよいかといった、確固たる指針の類を示してくれているわけではない。むしろ、この本が教えてくれるのは、「震災以降」について「考える」という沈黙の時間(≒「喪」の作業)こそが「震災以降」の本来的なスタートであり、ひいては「震災以降」「ばらばらになってしまった」わたしたちが「新しい連帯」を紐解く最初の作業なのだということである。
以下、個々の論考・対談録について、気になった点を取り上げる。
巻頭言は、随所で聞かれるように圧巻である。「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」――という、誰もが心のどこかで思っているけれど口に出してはいけないような、そんな事実に踏み込んでいるところが、多くの人の心を惹きつけてやまないのかもしれない。
(ちなみに、この点に関してはわたしも以前に触れたことがあったので、興味がある方は2つ前の椹木野衣「日本・現代・美術」のレビューを参照していただければ。。。非常に恐縮ですが。。。)
和合さんの詩を読んだのは、はじめてであった。巻末のほうに掲載されている対談を読むと理解できるが、「情報言語」と「文学言語」との境界から発しているギリギリの言葉ゆえの痛切さが、これほどまでに訴えてくるのだろう。ひりひりとした感覚が伝わってきて、とてもよかった。
藤村さんの復興計画は、豊富な図に裏打ちされて、読んでてとても夢を感じる。「リスク」の分散という視点で日本の産業や建築を考えることは現実的に必要であると思う。
津田さんのルポは、非常に細やかな取材に基づいており、メディアに携わる自身の立場から被災地の状況をきちっと汲み取っていて、とても興味深い。復興はコミュニティとソーシャルメディアの連関の試金石となるのだろう。
震災と社会の項に含まれる3つの対談は、東さんの問いや考えが最も直球に反映されている。
とくにわたしが共鳴する点は、「被災地」そして「日本」の復興において、日本の文化なり歴史なりをもう一度呼び出さなくてはならない(そのための「言葉」や「思想」ということか)というところ。どうしても「右」っぽい…と思ってしまうわたしもいるが、そのような対立軸をリセットして考えなくてはいけないなと思った。
政治・文化に関する佐々木さんと竹熊さんの論考は、今わたしが取り組んでいることにかなり密接に関わっており、とても興味深く読ませてもらったし、今後読み込むことになると思う。
いずれも、日本...
2011年9月2日
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税と社会保障の抜本改革
- 西沢和彦
- 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版 / 2011年6月1日発売
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はじめての行政法 第2版 (有斐閣アルマ)
- 石川敏行
- 有斐閣 / 2010年4月28日発売
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2011年7月29日
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新しい労働社会: 雇用システムの再構築へ (岩波新書 新赤版 1194)
- 濱口桂一郎
- 岩波書店 / 2009年7月22日発売
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2011年7月26日
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労働――働くことの自由と制度 (自由への問い 第6巻) (自由への問い 6)
- 佐藤俊樹
- 岩波書店 / 2010年4月28日発売
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2011年7月23日
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いま、働くということ (ちくま新書 720)
- 大庭健
- 筑摩書房 / 2008年5月1日発売
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2011年7月18日
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だれのための仕事: 労働VS余暇を超えて (21世紀問題群ブックス 9)
- 鷲田清一
- 岩波書店 / 1996年3月16日発売
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2011年7月16日
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算数・数学が得意になる本 (講談社現代新書)
- 芳沢光雄
- 講談社 / 2006年5月19日発売
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算数・数学でつまづきやすい点を、小学校・中学校・高校の三段階に分けて、かみ砕いて説明している。
全体として平易であるため、軽い読み物として楽しめる。算数・数学の基礎であるが最も肝心な点を、そこを理解して学習してきた人にはおさらいとして、そこをおろそかにして学習してきた人には新たな発見として、丁寧に示してくれる。
ちなみに、私は両者入り混じったタイプであり、数式の扱いについては前者、図形とくに立体図形の扱いについては後者に属するようで、図形の面積・立体の体積の求め方がいちばん面白かった。また、それらを求める際の重要概念が「積分」であることを改めて実感。昔、教科書の扉絵すなわち本編とは全く関係ないところにのっていた、円の面積の求め方の概念図がとても記憶に残っていて、この本を読んだとき、「そうだ、あれこそ『積分』だ!!」と心の中で手をたたいたのであった。
2011年7月15日
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IMF(国際通貨基金) - 使命と誤算 (中公新書 2031)
- 大田英明
- 中央公論新社 / 2009年11月26日発売
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IMF(国際通貨基金)をメインタームとして、IMFと世界銀行との比較も絡めながら、国際金融体制の展開と展望を概説している。
国際金融機関の活動を扱った授業をうけ、少し体系的知識の補完になれば、と思って探した本。話の流れが非常に頭に入りやすく、かつ重要な点は繰り返し強調されており、とてもおもしろかった。著者が「国際金融の入門書として執筆した」とあとがきで述べているとおりである。
以下に要点をあげる。
IMFは第2次世界大戦後のブレトンウッズ体制下における通貨安定を目指して設立された機関であるが、70年代の石油危機を境に、途上国・新興国の財政支援も行うようになった。その融資は、主に短期的な国際収支の改善を目的としていることが特徴である。しかし、融資条件は当該国の政治・経済構造の変革(具体的には緊縮財政・公共部門の民営化など)を求めるものであり、多くの国が短期的な国際収支の改善はおろか、急進的な改革を主因として経済状況の悪化や政権崩壊を招いている。
比較のため世界銀行を取り上げれば、世界銀行はそもそもが国際復興開発銀行(IBRD)として出発し、のち国際開発協会(IDA)となったものの総称であり、IBRDは先進国の戦後復興、IDAは途上国・新興国の財政支援を担っていた。その融資は、中長期的な開発支援を目的としていることが、IMFとは対照的である。
これらを主にラテンアメリカ・アジア地域や、ロシア・東欧諸国といった体制移行国(社会主義から資本主義)の例を用いて詳しく説明したのち、IMFが2009年に発表した改革案とその問題点の指摘、そして筆者による新たな国際金融体制の提案へとつなげていく。
授業ではここまで言及されていなかった(と思う)が、やはり全体として感じることは、20世紀覇権国家・アメリカが推し進めたグローバル化である。
IMFの融資体制やその改革遅延は、主にアメリカの政治的思惑によるところが多く、その活動はやはりアメリカの信奉する自由主義経済の拡大方針を貫いている。
経済面だけでみたときのグローバル化とは果たして何をさしているのかをいまいちど考えること、それと同時に、政治面における主権国家/国民国家体系のグローバル化と比較すること、この両者がおおいに大事であろう。つまりは、経済の動きと政治の動き、あるいはアメリカの思惑とヨーロッパの思惑との比較である。
2011年7月14日
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無能な者たちの共同体
- 田崎英明
- 未来社 / 2007年12月1日発売
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共同体論を銘打ちつつも、ハイデガーやベンヤミンをひきつつ、哲学的にかなり深い論考を展開している。
しかしその一方で、従軍慰安婦問題や東欧内戦などに言及した社会批判がみられ、しかもその立場は一貫して弱者側から鋭く矛盾を突くかたちであり、しばしば心打たれる。哲学的議論がいくらかか展開されたのち、ふいに突然と社会批判があらわれることも、また効果的に作用して、わたしたちの心に訴えかける。
文体が非常に独特であり、さらに著者の哲学-政治の世界観もかなり独特であるため、好きか嫌いかは意見が分かれるところであろうが、私はとても文体・世界観ともに好きだし、気に入った(借り物なのだが、返すのがもったいないくらい)。
難点は、哲学的議論に慣れてないので、なかなか読み進められず、また全体を通しての理解度も半分程度にとどまってしまったこと。
しかし、それでもこの世界観にたゆたうのがとても心地よかったので、楽しく読み通すことができた。
以下、本文より引用(P.116)。
「(前略)…現在の共同体をめぐる議論の根底にあるのは、このような恥と怒りの感情であるということである。移民が、失業者が、難民が捨て置かれ、死んでいくこの社会、この世界の一員として、それを恥じ、怒る者たちこそが共同体を思考する者たちなのである」
共同体論の本質をついているような気がします。
2011年7月12日
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現代国際関係学: 歴史・思想・理論 (有斐閣Sシリーズ 60)
- 進藤榮一
- 有斐閣 / 2001年10月1日発売
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国際関係学を、思想(思想史)・理論の観点から、初心者向けに説いたもの。
何冊か国際関係学の教科書をあたってみたが、近代史や紛争の個別事象に焦点をあてた、世界史の延長線上としてのものが多い。それに対し、この本はそれらをすべてそぎ落とし、あえて理論に特化している点で、非常にありがたい。また、文章も整理されており、たいへん分かりやすい。誰にでも薦められる一冊。
とりあえずは、一読しておおまかな内容を頭に入れたので、夏休みに踏み込んだ勉強をする予定。
2011年6月23日
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コミュニティ グローバル化と社会理論の変容
- ジェラード・デランティ
- NTT出版 / 2006年3月28日発売
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内容が多岐にわたっているため要約しづらいが、グローバル化時代におけるコミュニティの復権を、「コミュニカティブ(対話的)・コミュニティ」という点に集約して論じたもの。
政治哲学・社会学をひきながら「コミュニティ」の変遷を問い、さらに政治的・文化的に「コミュニティ」がどう定義されてきたかを考察する。これらをベースに、一気にポストモダン・グローバル化の視点を持ち込みまとめあげる。
一方でたいへん整理されており、他方でたいへん錯綜してもいるが、議論としてはやはり圧巻の構成である。
たしかに(訳者が解説で述べたとおり)ポストモダンに傾倒しすぎな面もあるが、私の「ポストモダン」に関する断片的な知識に照らせば、その方向でおおよそ正しいように思う。ポストモダン的なコミュニケーション形態が登場し、それは情報通信技術の発展にともなって、ますます強化されつつある、というところだろうか。(しかしポストモダン理論に関しては不勉強なので、なんともいえないとこが悔しい)
もう一点なるほどと思ったところは、訳者解説における「グローバリゼーション」の定義。何の集団を媒介することなく、直接に個人が世界に結びつけられてしまう――曖昧でもやもやした「グローバリゼーション」という言葉が、ふとクリアになった瞬間であった。
2011年6月19日
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共同体の基礎理論 (岩波現代文庫 学術 4)
- 大塚久雄
- 岩波書店 / 2000年1月14日発売
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西洋経済史学者による、資本主義発展史の前史としての、共同体論。
「共同体」の物質的基盤を「土地(大地)」と規定し、その共同利用と私的利用(の矛盾)が「共同体」の組成を変化させてきた、とする。
その変化は「アジア的形態」→「古典古代的形態」→「ゲルマン的形態」と概観できる。
「アジア的形態」は、血縁的結合という側面が強く、土地の私的利用に関しても「共同態的規制」が働くとする段階。
「古典古代的形態」は、血縁的結合はかなり薄れ、土地の私的利用と成員の自立がはじまり、共同体的な結合の核は新たな「公有地」獲得のための戦争に求められるようになった段階。
そして「ゲルマン的形態」は、土地の私的利用と成員の自立が定着し、さらには共同体内分業が進んだ段階。
きわめて論理的な展開で、少々難しい点もあるのだが、それなりの理解度を得れたと思う。
以下、気になった部分をピックアップ。
○第2章の終盤(P.55)より
「すなわち、再生産構造としての『共同体』は、決して、資本主義社会の基礎を形づくる『商品流通〔=経済??〕』のように全社会的な規模における単一の構成として現れるものではありえない」(〔 〕内私)
「もろもろの『共同体』が大なり小なりの諸部分単位として、そして全社会はそれらの集合体として現れるのである」
ここで急に経済的な話から離れている。当たり前のことだけど、やはりこの観点は(私にとって)重要。
○第3章の終盤(P.157)より
「『ゲルマン的』形態においては、『共同体』がもはや私的諸個人をおしつつむ一個の『結合体』Vereinとしてではなく、個々の私的個人間の単なる『結合関係』Vereinigungとして現れている」
この段階で、成員個人にスポットが当てられているように思う。
2011年6月15日