「情報化の思想的意味」を明らかにし、高度情報化社会の”政治”概念を鮮やかに覆す、エッセイの衣をまとった夢物語である。
前提知識の有無にもよるが、難しい概念はほとんどなく手軽に読めてしまう。ところが、扱われている論点は、現代思想・政治哲学・情報社会論と幅広く、平易な語り口の深層に入り込もうとすると、非常に難しい本だと思う。

主張は単純明快で、きれいな一直線を描いていく。
ルソーの「一般意志」とは、そもそも理性的に交わされた社会契約に基づくものではなく、大衆の「無意識」的なものの集合であると解釈できる。
それを現代にあてはめると、「一般意志」とは、インターネット上に日々何気なく投下される無数の小さなつぶやきの集合体――そしてそれらが織りなす”データベース”――とは言えないだろうか。
彼が提案するのは、この現代版「一般意志」、すなわち「一般意志2.0」を、危機に陥った現代の代表制民主主義の刷新に使えないだろうか?ということである。

具体的には、「熟議とデータベースが補いあう社会」が提案される。
現代の社会は複雑化・多様化し、もはやコミュニケーションそのものが成り立たなくなってしまった。いま政治的な「熟議」が成り立つのは、限られた知識をもった人たちによって構成される限られた場のみである。
そこで、その場に”データベース”を大衆の無意識を可視化したものとして投入することで、大衆の無意識が専門家による熟議の暴走を押さえ、一方の熟議は大衆の過度に行き過ぎた無意識を抑制する、という国家像を構想する。
すると、大衆の面倒な政治参加なしに「公と私の対立を乗り越える『共』のプラットフォーム」としての政府がそこに創出され、さらに既存の「公共性」の原理が塗り替えられる――というわけである。


さて、以上が概略となる。
これ以降は、2点ほど気になった点について検討してみたい。


1.『一般意志2.0』におけるコミュニケーション
しばしばネット上で「政治的コミュニケーションを否定している」「熟議を否定している」といった批判がなされ、著者本人が「そんなことはない」と反論している様子を見る。
この点について少し気にしながら読んでいた。

結論から述べれば、決してコミュニケーションも熟議も否定していない。
なぜ誤解されるかと言えば、出発点が「コミュニケーションが成り立たない」というところにあるからだと思われる。
彼の論はおおよそ
1:コミュニケーションが成り立たない
2:だからコミュニケーションなしでも政治ができるようにしよう
3:するとかろうじて残ったコミュニケーションの場を強化することができる
という経路をたどっている。

1はポストモダン化した社会状況に、2は「一般意志2.0」そして”データベース”の構想に、3は「熟議とデータベースの補いあう社会」に対応する。
2まで読んで早とちりすると3を読み逃すし、実際2から3への展開も少し大がかりである。
この点は、ぜひぜひ良く読んでほしいと思う。


2.「オープンガバメント」との比較
先日読んだ『「統治」を創造する』の扱う「オープンガバメント」の概念を頭に入れながら読んでいた。

「オープンガバメント」の主張は、政府の持っている情報をくまなく公開することで、それを活用する市民によって熟議が促進される、ということである。
ところが、これは「政治参加の意思をもった市民」の存在を前提としており、『一般意志2.0』の掲げる思想とは相いれない部分がある。

この点『「統治」を創造する』のレビューではさっくりと批判してしまった淵田論文が重要な意味を持つ。
「オープンガバメント」の文脈では、淵田論文は『一般意志2.0』の導入に終わっているが、『一般意志...

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2012年2月24日

読書状況 読み終わった [2012年2月24日]
カテゴリ 政治

IT社会のもたらす新たな”統治”の形を、「新しい公共/オープンガバメント/リーク社会」という3つのキーワードから提示する意欲作。
寄稿者の幅が広いという理由もあるが、理念的なことから実践的なことまで、そして法律からビジネスそして文学までカバーしており、政治・統治に関わる問題領域の広さと深さが体現されている。
上記の3つのキーワードは並置されているが、全体を通しての主軸は「オープンガバメント」であり、それを支える「リーク社会」と、それがもたらす「新しい公共」が付随的に論じられているという印象。
しかしながら、「オープンガバメント」という概念自体が新しく、浸透し切っていない段階において、うってつけの「オープンガバメント入門書」と言えると思う。

序章西田論文による現状の統治のあり方に対する問題提起からはじまり、第1部はオープンガバメントの導入となっている。
「オープンガバメント」とは何かと問われると、基本的には
・政府の持つ情報の公開(=政府のプラットフォーム化)
・それを利用して民間サービスが活発化、人々の政治参加が活発化
(=「新しい公共」の活性化)
の2点に集約される。
ところが、概念の新しさゆえに、この2軸から枝葉のように伸びるメリット・デメリットが点在していて、それらを各論文が拾い集めていく。

谷本論文は「熟議」をひとつのキーワードとしつつ、純粋に政治の観点からオープンガバメントを吟味するのに対し、塚越論文はウィキリークスを題材に、情報公開に関わる正当性/正統性といった観点からオープンガバメントの効用を説いた。
一方で、淵田論文と吉野論文は、「オープンガバメント」の重要性を社会思想の点から裏づける。
淵田論文が東浩紀『一般意思2.0』の紹介に終わってしまっている点が少々残念だが、同書が文脈的に重要であるのことは間違いないのでやむをえないともいえる。というのも、谷本論文も文部科学省の「熟議カケアイ」を引き合いに出しつつ、インターネットを介したやりとりとリアルのやりとりの相乗効果に期待をかけているからである。この相乗効果に関しては、評者も民主主義の強化につながるものとして、可能性を求めるところである。

第2部はより実践的な側面に軸足を移す。
西田論文は寄付文化に、藤沢論文は東日本大震災への対応に、どのように「オープンガバメント」的なものが利用されたかを検証する。例が身近で非常に分かりやすい。とくに藤沢論文は、以前『思想地図β2』で読んだ津田論文と通底するものがあり、面白い。
その後、池貝論文が少し視点を変えてオープンガバメントと著作権の問題に視点を当て、さらにイケダ論文がビジネスの方向へ舵を切る。「オープンガバメント」のはらむ問題や可能性が、政治/統治にとどまらないことを示している点で、池貝・イケダの論文は重要である。

そして第3部に「もう一度考える」と称してぽつん、と入った円堂論文。
執筆者の幅が広いとはいえ、やはり文芸・音楽評論家は他と比べても異色である。
しかし、第1部・第2部が「オープンガバメント」による”「統治」の創造”を、ポジティブに、現在を中心に論じているのに対し、文芸を題材に、新たな動きをより慎重に、歴史的な経緯も絡めて論じていることに好感を持てた。ちょっと不思議な構成だが、悪くない。


というわけで、敬称略でざっと内容をさらってみた。
以下、個人的な感想を2点ほど述べたい。

1つは、「オープンガバメント」の前提となる情報の透明化がはらむ問題を、負の側面として検討して欲しかった。
今さら抵抗があるわけではないが、個人の嗜好・行動のすべての情報が集積されるようになる「プライバシーの消失」が、この手の論議にいつも気になってしまうたちである。

2つは、やは...

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2012年2月21日

読書状況 読み終わった [2012年2月21日]
カテゴリ 政治
読書状況 読み終わった [2012年1月18日]
カテゴリ ナショナリズム

従来の「世界史」を、"中心史観"を脱し、「地球市民」の立場からよりニュートラルに描き直そうとする、「地球史」試論。

ここで扱っている「世界史」とは、主に学習指導要領に準拠した、高等学校程度で教えられている世界各地域とその結びつきを含む歴史総体を指す。
全体の流れとしては、「世界史」のたどった歴史を諸外国と比較しながら振り返りつつ、現行「世界史」の問題点を指摘し、その克服の試みを通じて、現在の世界に合わせた新たな「世界史」の構想へと導入する。
肝心の、筆者が主張する「新しい世界史」とは、グローバル化が進み「地球市民」としての自覚が必要とされる現代において、一国/一地域中心史観を脱するとともに、主権/国民国家の存在を暗黙の前提とする時系列の各国史・地域史を解体した上で、各時代ごとの人間集団を横軸で比較した歴史を構成し、しかもあくまで「現在」との比較対象として、「世界はひとつ」として描く、という構想である。

この本の印象について、最初に少々厳しい評を述べる必要があると思う。
半分以上読み進めても、「新しい世界史」をめぐる筆者の具体的な主張が伝わってこないのである。先行する「世界史」の批判と自身の「新しい世界史」の構想・説明に3分の2以上が割かれているのだが、構想が具体例によってしか明示できないものであると思われるため、なんとも上滑りのむず痒い話が延々と続く。
筆者自身も冒頭で自覚的に述べているように、この本は研究の「中間報告」的な側面もあり、多少内容が実験的なものであることはあらかじめ予測できる。しかし、それにしても、結局何が言いたいのかを知るためだけにただページを繰ったという感が否めない。

主張の内容についても、いまいち納得がいかない部分がある。
筆者の主張は、とにかく中心史観を脱することにあると受け取れるのだが、それは本当に可能なのだろうか。
「新しい世界史」の構想をわたしが解釈する限りでは、「世界史資料集」という類の書に収録されている「○○世紀の世界」という地図をたくさん用意し、その上に載っている人間集団を、政治・経済・文化的な観点から比較対照する、という作業になる。その際、ヨーロッパ・中国のようなどこか世界の中心を措定することなく、国・地域の枠を超えた個々人の活動にスポットをあてて描く、ということになる。
ところが、今のわたしの持つ知識や枠組みでそれをやったところで、「AとBはこのように違うが、このような共通点を持っている」という気づきを、ただ差し出される地図に対して延々と積み重ねるだけになる。しかも1枚1枚の地図を時系列で結びつけていくことはしない。ここでは「物語」が永遠に不在なのである。
「歴史」が本質的にどういうものなのか、筆者はもっと読者に考えさせるべきであろう。議論はそれからで遅くない。わたしたちの中に少なかれ存在する、「歴史とは物語」という認識が、ここでの違和感の根源なのだ。
この点で筆者は、「国民国家」と「国民」創出のための歴史の批判を通し、この認識を否定しているように思われる。しかし、中心史観を脱した「物語性のない歴史」は果たして「歴史」と言えるのだろうか。これはそもそも「歴史」という概念をひっくり返すことになる、大事な問題であろう。ところが、この部分を筆者は大きく取り上げることはない。

もうひとつ違和感があるのは、「世界はひとつ」という思想を、現代の既定路線と受け取って良いのだろうか、ということだ。
筆者が「世界史」の問題点としてあげるように、「○○世界」「○○地域」と最初から区分して教えることで、各国・各地域は「もとから違うもの」という印象をわたしたちに埋め込む感は否定できない。
とはいえ、それらが実は「ひとつ」なのだ、と教えることも必ずや良いことではない。実際、わたしたちが...

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2011年12月1日

読書状況 読み終わった [2011年12月1日]
カテゴリ 歴史

『想像の共同体』で有名なベネディクト・アンダーソンの、いわば”回顧録”にして、アンダーソン流”学問の方法論”を綴ったエッセイ。

ナショナリズムについて考えるゼミの参考文献として指定され、自分もそのつもりで読んだので、少し拍子抜け。
訳者の解説によれば、日本は『想像の共同体』が広く読まれている地域のひとつであり、さらにアンダーソンとの縁も深く、日本の読者のために何か!という趣旨から生まれた企画だそう。
そのような方向で気を取り直して読んでみると、学術書ではなく完全なるエッセイ形式なためか、すいすい読めるし面白い。

”回顧録”と”学問の方法論”については、その生い立ちからはじまり、なぜ自分が東南アジア地域研究に従事することになったのか、地域研究の特性はどこにあるのか、「比較」という方法、日米大学教育の今昔、学際的研究のとらえ方、などなど、話題がもりだくさんであり、ここには要約しきれない。
アンダーソンの姿勢――それは同時に日本の読者(とくに若者)へのメッセージでもあるのだろうが――として特徴的なことは、この書の題名『ヤシガラ椀の外へ』にも表れているように、「とにかく自分の文化の外に出よ!」ということ。
様々な文化・言語の入り混じった世界での生い立ち(リービ英雄と少し似ているなと思った)が、長い歴史と西欧の植民活動で移入された文化・言語の入り混じりからできている東南アジアに目を向けさせ、そこから自らの住む欧米世界を見直した時に生まれたのが『想像の共同体』という書物なのである。

「どのように外に出るのか?」については、アンダーソンは非常に”言語”を重視しているように感じるし、わたしも同感である。
もうひとつは、”比較”であり、まるまる1章を割いている。”比較”は学問の基本方法だが、題材選定・切り口・基軸など、どう比較するかに研究者の個性が表れてくるに相違はなく、その点についてもアンダーソンは多様な示唆を与えてくれる。

そのほかも、アンダーソンの学問に対する姿勢はなかなか素敵なので、『想像の共同体』を読んでその思考の深奥に惹かれた人のみならず、学際的研究を志す人、学問や研究に従事しようという人は、ぜひ読んだら良いと思う。

2011年11月13日

読書状況 読み終わった [2011年11月13日]
カテゴリ ナショナリズム

"帰る場所のない"ベン・アイザックが、"あめりか"を抜け出し、日本語の飛び交う東京へと、そして「しんじゅく」へと迷い込む物語。日本語を母語としない作家による、初の日本文学である。

ぐいぐい引き込まれるのはなぜだろうと考えると、まるで自分が幽体離脱――ニホン語の空間を、ガイコク人の体から覗く――しているように感じたからだった。
どれだけニホン人の側に立っても、どれだけニホン人と同じ行動をとっても、どれだけニホン語を使っても、決して入れない「ニホン」という空間。「イングリッシュ・コンバセーション・クラブ」の大学生たちは、ベンに向かって英語で話し、決して日本語という殻を割らない。
それに対し、突如現れた安藤はこう言う。「日本に来て、どうして英語で喋べっておるんですか」。こう言う安藤に惹かれるように、ベンは"ニホン"に憧れ、のめりこんでゆく。

ここでえぐられるのは、いかにニホン人が"ニホン"を所有して手放さないかということ。
どうして「ガイコク人」には「ガイコク語」を使って話さなきゃならないと思っているのか。どうして「ガイコク人」が「ニホン語」を喋ると、その内実よりも上手い下手に心が行くのか。
ふだんは気づかないが、この両者はどちらもガイコク人には違和感のあることで、これは自分と相手の立場を置き換えてみれば良く分かる。
それと同時に、"ニホン語"という、ナショナル・アイデンティティの核の部分(とくに国家=民族=言語という等式がほとんどきれいに成立するゆえか)には決して触れられたくないという、ニホン人の日本/日本語に対する所有権の主張さえ感じるのである。

安藤の手助けを借りながら、少しずつベンは「しんじゅく」へ足を踏み入れていく。その時々で、自らのナショナル・アイデンティティの不在を語り、「どうしてニホンなのか」を、直接には語らない形で徐々に明かしていく。
しかし、結局ベンは"ニホン人"にはなれない。ラストに「生卵を飲む」というシーンがあるのだが(ゼミで聞いたところ、生卵を食べるのはアメリカなどではあまり一般的ではないとか)、このような「日本人になるための儀式」を象徴した行為を経てさえも、彼は決して日本人にはなりきれないのである。

自分としては、なかなか衝撃的な一冊であった。
ひとつは、先述したように「日本語の所有権」という気づかなかった事実を突き付けられたから。もうひとつは、外から見た日本とはこうなのか、という越境を感じられたからであろう。
一読した程度だが、まだまだいろいろな謎が残っている。
たとえば、どうして日本でも東京でもなく「しんじゅく」なのか(「日本語」の問題は執拗に描かれるが、「日本」という空間を意識的に描いているとはあまり思われなかった)、どうして「星条旗の『聞こえない』部屋」なのか(『見えない』ではなく?星条旗のはためく音でもなく、英語でも中国語でもなく、「星条旗の聞こえない部屋」=「日本語の聞こえる部屋(=安藤の部屋)」ということなのだろうか?)。
これらの謎は、時間を置いて何度も味わううちに分かってくるのだろうか。ベンが"ニホン"という空間に入り込んできたように、わたしがベンの空間に侵入していくうちに。

2011年11月3日

読書状況 読み終わった [2011年11月3日]
カテゴリ 小説

正直、難解。
読み切ったとはいえないけれど、一応読了ということで……いつかきちっと読みます。

2011年10月24日

読書状況 読み終わった [2011年10月24日]
カテゴリ 共同体

「分かった」のが何故か「分からない」――そんな”知”の形に名前を与えるとしたら、まさに「暗黙知」なのかもしれない、と思わせる一冊。

要旨をまとめれば、学問や研究のみならず、どのような分野においても「はっきりとは目に見えていない何か」を感知する能力(=暗黙知)を人間は備えており、それを信じ追うことで、わたしたちは新しい実りを得て社会を発展させてきた、ということである。ある意味で、「言語化できないもの/根拠づけや立証がされていないもの」を軽視してはいけない、という現代人への警告ともとれる。

ほんの150ページ程度だが、哲学的エッセンスが凝縮されており、一読だけでは味わいきれない深みがある。
個人的に読みながら思ったのは、外山滋比古『思考の整理学』と少し似た趣がある、ということ。学問とは、研究とは、焦ってはいけない、早急に成果を求めてはいけない、そんな、まさに手さぐりの繰り返しなのだということを、読みながら頭の中で反芻した。

分野としては「哲学」に入るのだろうが、読みこめば、進化論であり宇宙論でありと、どんな風にも捉えられるテクストである。
学問・研究に携わる人なら、おそらく必読。そうでなくても、具体例を引きながら説明している部分は、難しい理論なしに「そういうこと良くある!」と思えるところがきっとあると思うので、ぜひ読んでみてほしい。

2011年10月21日

読書状況 読み終わった [2011年10月21日]

日本史を二期に分け、その通底する特徴から『日本』という国を解き明かそうという試みのもとに書かれた、いわば日本史”読解”書。
夏ごろに「希少本・復刊本フェア」として書店に並んでたのを思わず手に取り放置していたが、自分の中で「日本(史)」について考えることが多くなり、ようやく手をつけた。

大筋としては、日本は天武朝期に、中国という大国の外圧と支配秩序の構築に伴う内乱の中で、天皇を「神」として戴き、異国を支配下に置く「帝国」としての形を整えた。そして、この展開は、外圧をもたらす大国が中国に西欧に変わりつつ、明治以降も繰り返された、ということ。
究極には、このような論理に支えられて存続してきたのが真の「日本」の姿だという主張である。

歴史というのは多様な見方があり、どの説も多くの説のうちのひとつに過ぎないということは念頭に置いた上で、本書の説はなかなかおもしろいと(あくまでわたしは)思う。たいへん短い書だし、論証に関して口をはさめばきりがない部分はあるかと思うが、「ひとつの見方」としてアリかと思われる。
「(日本という国の)歴史の循環性」や「日本の歴史に外圧が及ぼした役割」などについて、本を読んだり話を聞いたりしながらわたしがぽつぽつと考えていたことに、かなり沿ったとらえ方であった。

ひとつ、批判を覚悟でここで指摘してみようかと思うのは、先ほどあげた「このような論理」に、日本は「支えられて」存在してきたことはおろか、むしろ「このような論理」の「限り」でしか存在していないのではないか、ということである。
日本がどのように成立し(というよりは構築され)、ここまで至ったかを見るときに、「外圧」、もっと広くいえば「外国」であり「”日本的”でないもの」が果たした役割に着目することで、日本人のナショナル・アイデンティティーの深層がより深く現前するのではないかと感じるのである。

2011年10月14日

読書状況 読み終わった [2011年10月14日]
カテゴリ 歴史

「震災以降」、言葉や思想はいったい何をなし得たのか、そしてなし得るのか――この問いを軸として編まれた、批評家・東浩紀による新しい言論誌「思想地図β」シリーズの2冊目。

震災に対する本格的な論考集を読むのははじめてであるが、おそらくこのような形式のものはほかにはないであろう。
というのも、一般的な言論誌においては、震災をうけての意見を評論家・専門家に「うかがう」というオムニバス形式をとるが、この本においては震災をうけて東さんが抱いた問いを「ぶつけ」て、論者・対談相手たちはそれに「こたえる」という形式がとられているように思われる。
それゆえ、個々の論考・対談録の主張は一見「ばらばら」でも、最終的には「震災以降の言葉や思想」そして「震災以前の『言葉や思想』に代わる連帯とは」という問いにすべてがリンクしており、「『考えること』が力を取り戻さんこと」を願う東さんの狙い通りに、それらの問い-答えを追う東さんの軌跡(しかも、その軌跡は巧みな編集のおかげでとてもきれいな形で現前するのだが)が、われわれに「もういちど」「考えること」を要請してくる。

堅苦しい「思想」に関する前提知識はまったく必要ない。純粋に「震災以降」の日本を「もういちど」「考えたい」人は読んでみてほしいと思う。
ただし、この本は「震災以降」の日本にどう生きればよいかといった、確固たる指針の類を示してくれているわけではない。むしろ、この本が教えてくれるのは、「震災以降」について「考える」という沈黙の時間(≒「喪」の作業)こそが「震災以降」の本来的なスタートであり、ひいては「震災以降」「ばらばらになってしまった」わたしたちが「新しい連帯」を紐解く最初の作業なのだということである。


以下、個々の論考・対談録について、気になった点を取り上げる。

巻頭言は、随所で聞かれるように圧巻である。「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」――という、誰もが心のどこかで思っているけれど口に出してはいけないような、そんな事実に踏み込んでいるところが、多くの人の心を惹きつけてやまないのかもしれない。
(ちなみに、この点に関してはわたしも以前に触れたことがあったので、興味がある方は2つ前の椹木野衣「日本・現代・美術」のレビューを参照していただければ。。。非常に恐縮ですが。。。)

和合さんの詩を読んだのは、はじめてであった。巻末のほうに掲載されている対談を読むと理解できるが、「情報言語」と「文学言語」との境界から発しているギリギリの言葉ゆえの痛切さが、これほどまでに訴えてくるのだろう。ひりひりとした感覚が伝わってきて、とてもよかった。

藤村さんの復興計画は、豊富な図に裏打ちされて、読んでてとても夢を感じる。「リスク」の分散という視点で日本の産業や建築を考えることは現実的に必要であると思う。
津田さんのルポは、非常に細やかな取材に基づいており、メディアに携わる自身の立場から被災地の状況をきちっと汲み取っていて、とても興味深い。復興はコミュニティとソーシャルメディアの連関の試金石となるのだろう。

震災と社会の項に含まれる3つの対談は、東さんの問いや考えが最も直球に反映されている。
とくにわたしが共鳴する点は、「被災地」そして「日本」の復興において、日本の文化なり歴史なりをもう一度呼び出さなくてはならない(そのための「言葉」や「思想」ということか)というところ。どうしても「右」っぽい…と思ってしまうわたしもいるが、そのような対立軸をリセットして考えなくてはいけないなと思った。

政治・文化に関する佐々木さんと竹熊さんの論考は、今わたしが取り組んでいることにかなり密接に関わっており、とても興味深く読ませてもらったし、今後読み込むことになると思う。
いずれも、日本...

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2011年9月2日

読書状況 読み終わった [2011年9月2日]
カテゴリ 社会評論

日本の社会保障制度の行き詰まりを検証しながら、消費税・所得税といった税制全般や年金制度・健康保険制度の現状・問題点を基本から解説し、それらを「一体」とした「抜本」的改革へ、踏み込んだ議論を展開している。
全体として盛りだくさんな上、制度の解説や精緻な試算を把握するのに少々手間取るが、丁寧に読めば(少なくとも政府の説明より)知識はすっきり頭に入ってくる。また、現在進行形の各種改革案についての解説や論評もあり、筆者の主張もたいへん明快で、税と社会保障についてきちっと考えたい人にはなかなかの良書かもしれない。
まだ出版されて間もないこともあるが、筆者の言うように「近い将来、政府や国会から示される改革案を、批判的に読解しその是非の判断を下せるようになる」ために、内容を踏み込んで紹介することは控え、かわりに一読をおすすめしたい。

前半部では消費税の利点と所得税の難点について触れられている。
庶民感覚としては「消費税増税」と聞けば「ノー」と答えるわけだが、筆者の解説を読むと、確かに消費税増税は「逆進性」として批判される以上に優れた機能を持ち合わせていることがわかる。
また、所得税は一律の「所得」に対してかかっているわけではなく、給与所得・事業所得・金融資産所得あるいは年金生活者の所得といった、ケースによって異なって算定される、という説明もたいへん勉強になる(大人には常識なのかもしれないけど…)。
一方、中盤の年金制度・健康保険制度については、とにかくお金の動き(わたしたち→国/地方→再分配という単純な仕組みではもはやない)が複雑である。どうりで国の予算とにらめっこしても、制度とそれにかかるお金の使われ方がさっぱり分からないわけである。そして、これがどうやら「税」と「社会保障」にまつわる嫌な感じの根源であるようだ。
そして、筆者の提案する「抜本改革」の中心の「給付つき税額控除」の話が終盤で展開される。税額控除とは、所得控除が「控除後に課税」しその税率の操作で所得に配慮するのに対し、「課税後に控除」しその控除額で所得に配慮するという方式である。さらに「給付つき」というのは、控除額が課税後の税額より高かった場合には、差額を支給してしまおうということである。
イギリスの例をひいて解説しつつ、一応日本での導入には高いハードルがあることも示している。しかし、なかなか魅力的な制度であるのは間違いない。

とにかく、税や社会保障も、制度の複雑さがもっとも問題であろう。
増税がやむをえないことは、国の歳入の半分が借金であり、国の歳出の半分がその返済であることからして、誰の目にも明らかなはずである。それでもわたしたちが増税に「ウン」と言えないのは、いったいその税がどこへ行きどこで使われるか、まったく不透明だからである。さらには、だからといってその道筋を説明できる人も説明してくれる人も存在しないからなのである。
根本的に、税とは、社会保険(年金・医療・介護)とは何なのか、まず政治や行政は考え直すべきである。そして、もし国家がその帰属を選べない人々に対し経済社会という主張を貫徹するならば、決して「歳出に必要な分だけ(税/社会保険料を)もぎとる」という“お上”の常識に甘んじることなく、できるだけ「(税/社会保険料は)払った分だけ還ってくる」という経済社会の法則に応ずるべきだと思う。そこから、「やはり国家は経済的再分配に携わるべきだ」という考え方を積み上げて、「払った分よりすこし還元が少ない場合があります」という方針が導かれるならば、それは当然受容さるべきことであろう。
どうか、増税を前提としたつまらない政争に明け暮れることなく、いまいちど改革の「理念」を規定しなおしてほしい。筆者も同趣旨のことを述べていたと思う。「理念」ある改革こそが、持続可能で、柔...

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2011年8月16日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2011年8月16日]
カテゴリ 政治

紛れもなく「日本現代美術」評論であるが、一方で日本の「場所性」に深く疑念を呈する「社会」評論でもある。

本書に触れたきっかけは、受験生時代にこの中の一部を現代文の問題として取り組んだこと(しかも2回、しかも違う模試なのに同じ抜粋箇所)と、佐々木敦「ニッポンの思想」で重要評論として取り上げられていたことによる。
現代文の評論問題としての出題は、日本の批評言語ひいては日本の歴史・社会が「滅茶苦茶・ばらばら・アンバランス」な起源にあり、「何かを想定しなければ」出発しえなかったこと、そしてそれを忘却し内面化したところに現在の「(美しい)日本」が立ち現われていること――を指摘した部分であった。
これが当時のわたしとしては衝撃的であり、非常に強く印象に残っていた(以上の要約が「そら」で書けてしまうほどに)。大学生となり全体を通して読んだ今でも、同じ要因で、あるいは全く新しい要因で強く惹かれる要素にあふれている。
たぶん、今までのレビューの中で最も長いものとなると思うが、この本にすごい魅力を感じる/感じた理由を、一握りでも伝えられたら、と考えている。


全体を通しての主張を、ほんの少しだけ紹介しておく。
日本の近代化は戦後なお未完であり、そのもとで行われるいかなる「後/超近代的な試み」も必ずや「前近代」に収斂してしまう。言い換えれば、というよりもむしろ、日本の「後/超近代的な試み」はすべて「前近代的」なのだという。
この視点に即し、日本美術の「前衛」「ポップ」「ハプニング」「アンフォルメル」などが、いかにその起源において「成立していないか」を論じているのである。

わたしにとってのこの本の魅力とは、「わかる」ことと「わからない」ことの混在にある。

「わかる」ところから紐解こう。
筆者が「悪い場所」と称する「日本」の支離滅裂さ・あいまいさが痛いほどに「わかる」のだ。
日本は地理・風土ともに何もかもばらばらな群島から成る。文化にいたっていえば、中国のものなのか朝鮮のものなのかあるいは欧米のものなのか、わからないほどにごちゃまぜである。近代化だって欧米の制度を“移植”したのみで、完全に飲み込めているわけではない。それなのに、わたしは「日本」という確固たる国が、しかも「美しい」国があると思っている。これはどこかおかしな話だと、高校生のわたしは気づき衝撃を受けたのだと思う。

それから2年ほど経った今、再び当該部分を全体を通して読み、まさにこれは今「3.11」を経て繰り返されていることのような気がした。
「3.11」が明らかにしたのは、このことではないのだろうか?
日本の政治の「滅茶苦茶」さ。イデオロギー的な対立点がほとんどないのに欧米の「2大政党制」をいわば演じていたこと、原爆の記憶を引きずりながらも原子力を推進してきたことである。
あるいは日本人の「ばらばら」さ。自戒の念も込めて言えば、被災地が被災者がと散々叫ばれているときにはおおいなる関心を注ぐのに、あれから半年経とうとする今では1日に何度そのことを思うのだろうか。被災地からの地理的・心理的距離に関心が比例するという残酷な現実を生むくらい、日本とは地理も風土も違う“群島国家”だったのではないだろうか。(まさに「想像の共同体」)
そしてあるいは、日本社会の「アンバランス」さ。危険な原発を「地方」に置き、そこから生み出されるおいしい電力は「都市」が消費する。広井良典さんの言葉を借りて言えば、「空間格差」の明らかな存在である。
そう考えたとき、この本は今こそ読み直されるべきものかもしれない、と身勝手ながらも思う。
「3.11」がこのような「内面化」を解き放ったことを確認し、それでもなお日本という国家は「がんばろう日本」「つながろう日本」というむなしいナショナリス...

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2011年8月8日

ネタバレ
読書状況 読み終わった [2011年8月8日]
カテゴリ 社会評論

手軽に読める、行政法入門。
全体がマップとして示されており(巻末に各項目が表となっているほか、冒頭でも全体構成があらかじめ提示される)、さらに具体例が随所にはさまれるため、多少難しい法律用語・学問用語なども理解の範疇におさめてくれる。説明も整理されて筋が通っており、読んでて苦しいところはほとんどなかった。
しかし、手軽とはいえどもかなり読みごたえがあり、一読しただけでは雰囲気しかつかめないのが正直なところ(当然だが)。それでも、入門としてはなかなか良書なのではないかと思う(ほかをあたったことがないので、断言はできないが)。

蛇足だが、あとがき(正確には「あとがきに代えて」)が面白かった。
法は、改正なり解釈なりという方法を用い、現代に対してその形を是正しながら過去のものを連綿と引き継いできているが、ここ数十年の「市民」の成長が、従来から「私」より「公」を上におくことを基本形態としてきた法にも影響を与えているのだという。俗にいう、「新しい公共」などという現象である。
法は、政治と比べても素人には決して柔軟性のある制度とは思われず、あるときふと現れては人を縛る、窮屈なものと思われがちである。それでも、時代とともに徐々に変化していることが、あとがきで触れられているほか、行政争訟制度や国家補償制度を扱う本編からも読み取れる。
そこに、なんとなくだが、法は学問としても運用としても、まだまだわたしたちの味方になりうる存在なのだな、ということを感じ、安心した次第である。

2011年7月29日

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読書状況 読み終わった [2011年7月29日]
カテゴリ

雇用と労働の社会システムを法学・政策学的視点から詳細に論じた上で、産業民主主義の再構築へと架橋する、骨太の労働論。

ここ最近読んだ数冊の中ではダントツで面白かった。
まず、いわゆる「労働問題」についての解説が的確である。さらに、法学や政策学に基づく決してブレることのない視点が、筆者の論の強度を生んでいる。
そして何よりも、全体を貫く主張がある。個々の問題の解説とそれに対する解決策が必ずセットになっており、しかも提示されている解決策はたいへん現実味がある。また、最終章において「産業民主主義の再構築」を掲げ、それらの解決策実現の土台となる包括的枠組みの提案を行うことで、個々の論点の補完を行うとともに、全体をまとめあげる役割も果たしている。これらの論点はすぐにでも議論の起点となっておかしくないだろう。

最終章で論じられる「産業民主主義の再構築」が、わたしとしては非常に魅力的である。
筆者の提案の要旨は、既存の労働組合を正社員・非正規労働者すべての利害代表組織として再構成し、使用者側からの独立を徹底すること、そして労使協議制の確立と労使双方の政策決定参加の推進を行うべきだ、という点にある。
ここで、「労使双方の政策決定参加」に関し、コーポラティズムが言及されていることに注目したい。コーポラティズムとは、「集団」がそこに属する人々の利害を代表する形で政治運営に関わっていく、といった考え方である。
コーポラティズムに関して個人的に良いなと思う点は、「利害」・「集団」の2つのキーワードが入っていること。
労働は、ときにわたしたちの生死に直結する問題となるため、自己と他者の利害が顕著に現れるところである。さらに「労働組合」という「集団」は、比較的互いの顔が見えやすく、熟議・熟慮が成り立つ範囲としてもかろうじて成立しうる。ゆえに、政治を「利害の調整」という観点から考えると、このような集団単位(立派な共同体だよね、きっと)を基盤にした政治というのは、どんな個人・集団を基盤とした政治よりも、きわめて現実的に考えられるものだと思う。

2011年7月26日

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読書状況 読み終わった [2011年7月26日]
カテゴリ 労働

哲学・経済・ジェンダー・社会保障など、幅広い分野からオムニバス形式で労働を語っている。
内容的にはそれなりに高度であるが、個々の論文があまり長くなく、かつそれぞれに扱う題材がまったくといっていいほど異なっているため、飽きることなく読めた。
しかし、読んですっきりとくる論文とそうでない論文の差が激しいのが難点。その故は、すべての論文が「労働」と「自由」に言及しての帰結を試みているからであり、そもそもの題材との関連性からして、うまい着地点が見つからず骨の折れるものもあったのだろう。

自分の探求課題からして、とくに印象に残ったのは濱口桂一郎「『正社員」体制の制度論」と、福井康貴「就職空間の成立」の2つ。日本の就職・雇用制度については、もう1冊読んでから詳しく考えたい。
実際の働く現場を起点に論じた第三章も面白い。コンビニエンスストアに関する論文とケア労働に関する論文が2本連続した構成となっているが、結果として経営・労働のシステム化の限界点と人間性・場所性の可能性の対比となっており、興味深く示唆に富む。また、同章最終論文の、労働と社会性への視点は、先に読んだ「いま、働くということ」と多少対立する論点を含むものであり、これもまた考えさせられる。

最終論文を起点として少々自分の意見を述べるとすれば、労働を通して社会に参画することは、実際には強制ではないのである。当該論文中でも述べられているように、社会参加/労働の「拒否」自体が「社会/労働のあり方を問う」というパラドックスにもなっており、その視点は非常に大事であろう。現代では「労働を通して社会の網の目を構成する一員となる」ことで、かえって自らの尊厳が傷つけられることが少なくない。それをあえて拒否する権利は否定されるべきではないとも思う。
結局、論点は「『社会』に参加する媒介項としての『仕事/労働』があり、まずはそれに携わる自由が保証され、携わった場合にはその中での自由が保証される必要があり、その保証のシステムこそが就職・雇用システム(注:あえて就職システムと雇用システムを分けている)であり、一般的に労働問題として問うとすればそれらシステムのあり方」ということであろうか。うーん、ちょっとまとまってきた??

2011年7月23日

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読書状況 読み終わった [2011年7月23日]
カテゴリ 労働

「何のために働くのか」という問いに対し、「生きるためである」と安直に答えることを戒めるところからはじまる、静かな労働論。

「生きるために働く」という問いの領域から脱するために、手段-目的の連関を批判し、労働の「意味」を問うことこそ本質である、として議論をはじめる。
私たちという存在は、家族・親類・友達といった親密的領域と、その外部の社会の双方から承認を受けるところで成立するとし、この承認を円滑にするための「役割」として、「仕事/職業」がある、とする。さらに、その「役割」=「仕事/職業」は、社会の網の目の中で、他者の生に必要不可欠なモノを提供するものである(から他者の承認への潤滑剤となる)、という。
そして、前近代的共同体と近代的市場の比較・接続を通し、「生産したモノの供給のため市場に参加する」人々よりも、「労働力としてしか市場に参加ができない(評者注:これが先に読んだ『無能なたちの共同体』の論点であろうか)」人々が増加してきたことを説き、だんだんと「生産」が市場の動きに隠れたことを確認する。
そのうえで、隠れた「生産」とは、モノの(再)生産だけではなく「いのち」の(再)生産も同様であり、この「いのち」の(再)生産がどこか隅においやられたことで、われわれは生態系の大きな流れの中にいることを忘れ、目先の成果ばかりを気にして働き、実は社会に小さくとも貢献しているのだという労働の喜びに気づけないのだ、と結ぶ。

書中で(私が前に読んだ)鷲田清一『だれのための仕事』に言及されていたり、この本の著者が鷲田さんとの共編著を出していることもあり、おそらく両者につながりがあるのであろう、内容は先に読んだ本と少々似ているように感じた。
文章はきわめて丁寧で論理的であるため、多少くどいように感じるが、著者の論旨はとても分かりやすい。視点は倫理学・哲学だが、鷲田さんと比べてもあまり深くは掘り下げないので、読みやすいだろう。
しかし、読み切った点で「結論」が出たかと言われれば、少し首をひねらざるをえないのが残念。性急に結論を求めるべき課題では決してないから、それでも良いかとは思うけれども、少し後味が悪い。

先の本も含め、鷲田さん・大庭さんの示す労働の哲学/倫理学にはおおいに共感できる。
しかし、この本の冒頭・最後でも指摘がなされているが、こんにち労働環境が劣悪化する中、「働くこと」の倫理性や喜びを貫くことは、難しいのではないかとも思ってしまう。ほんとうは、「働くこと」の倫理性や喜びは、「どんなに小さくとも社会の一員として社会に貢献すること」くらいで十分なのに、前段の就職であれ実際の労働であれ、それ以上のことを求められるわけで。
ただ「『働く』とはどういうことか」という問いを、漠然と倫理・哲学的に方向づけるだけでは、その答えを実践することはできないような気がする。「働くこと」のシンプルな倫理性や喜びを第一におきながら働ける社会が実現したらいいな、と思うばかりである。

2011年7月18日

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読書状況 読み終わった [2011年7月18日]
カテゴリ 労働

21世紀という時代を迎えるにあたり、労働とは何かという問題を、余暇との対比、そしてそれを超えた視点で問うている。
大学生になって急に浮上してきた、「働く」という近い将来の問題を、すこし考えてみたいなと思って手にとった。

近現代の産業社会・労働社会に潜む「前のめりの時間感覚」を始点として、「労働」を軸とした生産性・効率性の概念を、そしてそれらの概念による「余暇」の創出と浸食を説く。
しかし、本来「労働」と「余暇=遊び」の領域は必ずしもはっきり分かれているものではなく、「労働」の中の「遊び」や、「遊び」の中の「労働≒まじめさ」こそが重要であり、それらが喪失されているゆえに、「労働」と「遊び」の両者の中にわれわれが「意味」を見出すことは難しくなっている、とする。
このような論議を経たのち、最終章では、「労働」と「余暇=遊び」のクロスオーバーを論じて「家事」と「ボランティア」を取り上げ、「自己」と「他者」という視点を以前の章よりも強力に導入する。
そして、「前のめりの時間感覚=未来」のための労働ではなく、「自己」と「他者」の共同/共働地点としての「現在」のための労働こそが理想であり、そしてその過程で「自己」は自らの物語を紡ぎ、仕事にやりがいや「意味」を見出すことができるのだ、と結ぶ。

単なる労働論かとも思われる表題であるが、やはり鷲田さんであるがゆえ、哲学の視点から「自己-他者」の問題にも深く切り込んでおり、働くことの意義をどこに見出すか、その本質を見据えた論を展開している。
とはいえ、私は鷲田さんはすごく好きだということを前置きしたうえで、ひとつ気がかりな点をあげるならば、いろいろなところで展開している「自己-他者」論の、単なる労働論への応用バージョンだな、という印象も持った。まあ、好きだからいいんだけど(笑

2011年7月16日

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カテゴリ 労働

算数・数学でつまづきやすい点を、小学校・中学校・高校の三段階に分けて、かみ砕いて説明している。
全体として平易であるため、軽い読み物として楽しめる。算数・数学の基礎であるが最も肝心な点を、そこを理解して学習してきた人にはおさらいとして、そこをおろそかにして学習してきた人には新たな発見として、丁寧に示してくれる。

ちなみに、私は両者入り混じったタイプであり、数式の扱いについては前者、図形とくに立体図形の扱いについては後者に属するようで、図形の面積・立体の体積の求め方がいちばん面白かった。また、それらを求める際の重要概念が「積分」であることを改めて実感。昔、教科書の扉絵すなわち本編とは全く関係ないところにのっていた、円の面積の求め方の概念図がとても記憶に残っていて、この本を読んだとき、「そうだ、あれこそ『積分』だ!!」と心の中で手をたたいたのであった。

2011年7月15日

読書状況 読み終わった [2011年7月15日]

IMF(国際通貨基金)をメインタームとして、IMFと世界銀行との比較も絡めながら、国際金融体制の展開と展望を概説している。
国際金融機関の活動を扱った授業をうけ、少し体系的知識の補完になれば、と思って探した本。話の流れが非常に頭に入りやすく、かつ重要な点は繰り返し強調されており、とてもおもしろかった。著者が「国際金融の入門書として執筆した」とあとがきで述べているとおりである。

以下に要点をあげる。
IMFは第2次世界大戦後のブレトンウッズ体制下における通貨安定を目指して設立された機関であるが、70年代の石油危機を境に、途上国・新興国の財政支援も行うようになった。その融資は、主に短期的な国際収支の改善を目的としていることが特徴である。しかし、融資条件は当該国の政治・経済構造の変革(具体的には緊縮財政・公共部門の民営化など)を求めるものであり、多くの国が短期的な国際収支の改善はおろか、急進的な改革を主因として経済状況の悪化や政権崩壊を招いている。
比較のため世界銀行を取り上げれば、世界銀行はそもそもが国際復興開発銀行(IBRD)として出発し、のち国際開発協会(IDA)となったものの総称であり、IBRDは先進国の戦後復興、IDAは途上国・新興国の財政支援を担っていた。その融資は、中長期的な開発支援を目的としていることが、IMFとは対照的である。
これらを主にラテンアメリカ・アジア地域や、ロシア・東欧諸国といった体制移行国(社会主義から資本主義)の例を用いて詳しく説明したのち、IMFが2009年に発表した改革案とその問題点の指摘、そして筆者による新たな国際金融体制の提案へとつなげていく。

授業ではここまで言及されていなかった(と思う)が、やはり全体として感じることは、20世紀覇権国家・アメリカが推し進めたグローバル化である。
IMFの融資体制やその改革遅延は、主にアメリカの政治的思惑によるところが多く、その活動はやはりアメリカの信奉する自由主義経済の拡大方針を貫いている。
経済面だけでみたときのグローバル化とは果たして何をさしているのかをいまいちど考えること、それと同時に、政治面における主権国家/国民国家体系のグローバル化と比較すること、この両者がおおいに大事であろう。つまりは、経済の動きと政治の動き、あるいはアメリカの思惑とヨーロッパの思惑との比較である。

2011年7月14日

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カテゴリ 経済

共同体論を銘打ちつつも、ハイデガーやベンヤミンをひきつつ、哲学的にかなり深い論考を展開している。
しかしその一方で、従軍慰安婦問題や東欧内戦などに言及した社会批判がみられ、しかもその立場は一貫して弱者側から鋭く矛盾を突くかたちであり、しばしば心打たれる。哲学的議論がいくらかか展開されたのち、ふいに突然と社会批判があらわれることも、また効果的に作用して、わたしたちの心に訴えかける。

文体が非常に独特であり、さらに著者の哲学-政治の世界観もかなり独特であるため、好きか嫌いかは意見が分かれるところであろうが、私はとても文体・世界観ともに好きだし、気に入った(借り物なのだが、返すのがもったいないくらい)。
難点は、哲学的議論に慣れてないので、なかなか読み進められず、また全体を通しての理解度も半分程度にとどまってしまったこと。
しかし、それでもこの世界観にたゆたうのがとても心地よかったので、楽しく読み通すことができた。

以下、本文より引用(P.116)。
「(前略)…現在の共同体をめぐる議論の根底にあるのは、このような恥と怒りの感情であるということである。移民が、失業者が、難民が捨て置かれ、死んでいくこの社会、この世界の一員として、それを恥じ、怒る者たちこそが共同体を思考する者たちなのである」
共同体論の本質をついているような気がします。

2011年7月12日

読書状況 読み終わった [2011年7月12日]
カテゴリ 共同体

国際関係学を、思想(思想史)・理論の観点から、初心者向けに説いたもの。
何冊か国際関係学の教科書をあたってみたが、近代史や紛争の個別事象に焦点をあてた、世界史の延長線上としてのものが多い。それに対し、この本はそれらをすべてそぎ落とし、あえて理論に特化している点で、非常にありがたい。また、文章も整理されており、たいへん分かりやすい。誰にでも薦められる一冊。
とりあえずは、一読しておおまかな内容を頭に入れたので、夏休みに踏み込んだ勉強をする予定。

2011年6月23日

読書状況 読み終わった [2011年6月23日]
カテゴリ 政治

内容が多岐にわたっているため要約しづらいが、グローバル化時代におけるコミュニティの復権を、「コミュニカティブ(対話的)・コミュニティ」という点に集約して論じたもの。
政治哲学・社会学をひきながら「コミュニティ」の変遷を問い、さらに政治的・文化的に「コミュニティ」がどう定義されてきたかを考察する。これらをベースに、一気にポストモダン・グローバル化の視点を持ち込みまとめあげる。

一方でたいへん整理されており、他方でたいへん錯綜してもいるが、議論としてはやはり圧巻の構成である。
たしかに(訳者が解説で述べたとおり)ポストモダンに傾倒しすぎな面もあるが、私の「ポストモダン」に関する断片的な知識に照らせば、その方向でおおよそ正しいように思う。ポストモダン的なコミュニケーション形態が登場し、それは情報通信技術の発展にともなって、ますます強化されつつある、というところだろうか。(しかしポストモダン理論に関しては不勉強なので、なんともいえないとこが悔しい)
もう一点なるほどと思ったところは、訳者解説における「グローバリゼーション」の定義。何の集団を媒介することなく、直接に個人が世界に結びつけられてしまう――曖昧でもやもやした「グローバリゼーション」という言葉が、ふとクリアになった瞬間であった。

2011年6月19日

読書状況 読み終わった [2011年6月19日]
カテゴリ 共同体

西洋経済史学者による、資本主義発展史の前史としての、共同体論。
「共同体」の物質的基盤を「土地(大地)」と規定し、その共同利用と私的利用(の矛盾)が「共同体」の組成を変化させてきた、とする。
その変化は「アジア的形態」→「古典古代的形態」→「ゲルマン的形態」と概観できる。
「アジア的形態」は、血縁的結合という側面が強く、土地の私的利用に関しても「共同態的規制」が働くとする段階。
「古典古代的形態」は、血縁的結合はかなり薄れ、土地の私的利用と成員の自立がはじまり、共同体的な結合の核は新たな「公有地」獲得のための戦争に求められるようになった段階。
そして「ゲルマン的形態」は、土地の私的利用と成員の自立が定着し、さらには共同体内分業が進んだ段階。
きわめて論理的な展開で、少々難しい点もあるのだが、それなりの理解度を得れたと思う。

以下、気になった部分をピックアップ。

○第2章の終盤(P.55)より
「すなわち、再生産構造としての『共同体』は、決して、資本主義社会の基礎を形づくる『商品流通〔=経済??〕』のように全社会的な規模における単一の構成として現れるものではありえない」(〔 〕内私)
「もろもろの『共同体』が大なり小なりの諸部分単位として、そして全社会はそれらの集合体として現れるのである」
ここで急に経済的な話から離れている。当たり前のことだけど、やはりこの観点は(私にとって)重要。

○第3章の終盤(P.157)より
「『ゲルマン的』形態においては、『共同体』がもはや私的諸個人をおしつつむ一個の『結合体』Vereinとしてではなく、個々の私的個人間の単なる『結合関係』Vereinigungとして現れている」
この段階で、成員個人にスポットが当てられているように思う。

2011年6月15日

読書状況 読み終わった [2011年6月15日]
カテゴリ 共同体
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