- Amazon.co.jp ・本 (348ページ)
- / ISBN・EAN: 9784151200427
感想・レビュー・書評
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ノーベル賞作家クッツェーの代表作。現代作家だけあって読みやすい。しかし、ストーリーが投げかける問いは難解。セクハラにより大学を追放された主人公の娘。南アフリカの田舎で農園を営む。しかしその行動は近代人である主人公やわれわれ読者には理解できない。だけどそれは近代の目指した価値観が崩壊した現代において、オルタナティブを模索しているようにもみえる。
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初老の大学教授が生徒に「手を出した」ことから始まる恥辱。若い女性に欲情するとは小説でも映画でも使い古されたテーマだが、美談のように描くべきではない。そう、こんなにみっともないものなのだ。
もっとも、セクハラは事の発端である。後半は娘に起きた更なる恥辱が大きなテーマとなるが、「レイプ」がラウリーの行為にもきっちり重なっている。南アの社会の中でインテリ白人男性には理解しがたい結論を下す娘を前に、ラウリーはとことんまで恥辱にまみれる、犬のように、犬の死体を処理しながら。このあたりのクッツェーの筆の冴え渡りようは見事だ。 -
読みやすい。原文がよいのか訳文がよいのか、たぶん、どちらもよいのだろう。気をつけているつもりでも、結局、自分のイメージで世界を見ることしかできない知識人の中年男子が、いろいろな試練にあいます。
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恥辱とは何か。確かに、本書の主人公やその娘に与えられるものは私たちの常識感からいえば恥辱以外の何物でもない。しかし、主人公たちにおける価値観のゆらぎのなかで、それが恥辱ではなくなっている。アパルトヘイトが終焉したときに南アの人々が感じた価値観のゆらぎがこのようなものだったのだろうか。それは想像するほかはない。
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まあまあ。
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自分の事に関してはどこか他人事の様な淡白な態度で応じ、娘に対しては過剰なまでに軌道修正を図ろうとする大学教授が主人公。
辞職後、娘が住む田舎での生活に襲いかかる悲劇も彼の力が届かない娘の中で収束していく。
一文が簡潔なのでとても読みやすかった。その反面デヴイットやルーシーが何を考えているのか掴みにくかったりする。それでも所々から滲む生の意志を読み取れたりする。 -
教え子に手を出し職を追われる文学教授デヴィットの物語が、こんなにも自分を揺さぶってくるとは思わなかった。アパルトヘイト撤廃後の南アフリカを舞台に様々な二項対立を暗喩として匂わせながら、一つの破滅と僅かなる再生を描き出す。それは共生や理解といった安易な解決を拒みながら、それでも共に有ろうとする痛みと覚悟が込められている。そう、恥辱に塗れて負け犬の遠吠えを響かせよう。ワンワンと無様に鳴いてみよう。それがゼロでないことに驚いてみよう。次こそこの間より、少し上手に転んでやろう。そしてまた、生き直すのだ。何度でも。
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1999発表。南アフリカ出身の作家クッツェー著。セクハラ事件で職を追われた大学教授は娘の住む田舎へ。そこで親子二人は突如暴力に見舞われる。
独特な文体だ。一文が短く簡潔で、現在形でほとんどの文が終わり (「~する」)、倒置法や体言止めが多い。精密な描写はないので一見全体的にあっさりしているが、身も蓋もない辛辣な皮肉がしばしば見られ、特に会話文でその皮肉が発揮されると水掛け論に陥りがちな末期の人間関係が浮き出してきて、何とも言えない気持ちになる。ただ単にリアルなだけではなくて、そこに知性とユーモアが含まれているので、考えさせられるような文章が多い。
舞台はアフリカだが、情景描写が少ないのであまり文章から熱気のようなものは伝わってこない。その点は若干物足りなかった。しかし田舎で起こる暴力や土地問題などはアフリカだからこその問題ではあるのだろう。
転落して「恥辱」を受ける人生、それを受け入れる親子二人。その行動が正しかったのかどうかは分からないが、結局誰の人生もそんなものだという気がする。「恥辱」をなけなしのユーモアでかわしつつ生き延ばし、最後には本小説内の犬のように焼却処分される。問題は、起こった事件に対してどこまで受け入れてどこまで反発するのか。その選択の余地が残されていることが人間の人間たりえる部分だろう。 -
あらすじだと大学教授が教え子と関係を持って転落していくだけの物語のように読めるが、
西欧的なカルチャーの中で生きてきた父と、アフリカの農村で理不尽とも思える災難に耐えながら生き抜こうとする娘の価値観の対立が一つのテーマであり、考えさせられる。
災難ばかり起こる割にはカタルシスが無くモヤッとした気分にもなるが、
随所に出てくる動物との関わりが残酷ながらも優しく、不思議な読後感をもたらしてくれる。