恥辱 (ハヤカワepi文庫 ク 5-1)

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (348ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200427

感想・レビュー・書評

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  • 理解し合えない者どうしが理解し合えないまま終わる小説。ただし頭では。この小説は「他者」だらけ。人間のみならず動物たちも重要なサブキャラクター。
    しかし本作を読み進めるにつれてかすかに、ほんの少しではあるけれども理性よりももっと深いレベルでの共感の兆しが香ってくる。それは、両者の妥協とか契約とかそんなもので解決されはしないが、「少なくとも」チャンスがあれば分り合いたい、と扉を半分開けて待っている状態とでもいうのか、その半分開かれた扉の向こうから漂ってくる香りだ。

  • 離婚歴のある大学教授デヴィッドは、娼婦や教え子にまで手を出してその色欲を満たしていた。しかしその中の一人の学生に告発されたことで、大学を追われ片田舎の娘の農園で、一時的に暮らすことになった。そこで、彼はさらなる「恥辱」を経験することになる…。ノーベル賞作家のブッカー賞受賞作ということで身構えていたが、読みやすく軽快な印象を受けた。彼の専門は英文学なのだが、その人生のどん底ともとれる状況でも、ワーズワースとバイロンの存在が最大の癒しであり、救いなのだということは分かりやすい。しかしそれにしてももっと悩めよ…とは思うが。メインは娘と父。あくまで一人の独立した人間で、父とは何の関係もないものとして自己主張する娘と、農場での出来事を機に心配が絶えない父との衝突。その問題が未解決のまま(のように私には思えた)終わったのが気になる。

  • 犬のように

  • 性欲旺盛なおっさんの人生が転落していく話

  • 大学教授の転落とそれからの生活を通じて、人間の尊厳について問いかける作品なんだと思います。

    この作品が特に意味を持つのは、解放直後の南アフリカを舞台としていて、人種の間、文化の間、都市と田舎の間、あとたぶん現実社会と抽象的な世界の間とか男と女の間とか、ごまかし切れない差異を描いていることなんだと思うんですが・・・

    ちゃんと理解しうるまでの教養・・・以上に空気が分からないから、正直良くわからんというのが感想。
    人生経験をもっと積んだら良くわかるようになるのかなと。

    読んで清々しくなったり楽しくなったりする類の本ではないですけど、
    時代に対する何かしらの答え的なものは見つかるのかも。

    イギリスのブッカー賞受賞作品だそうです。

  • 主人公は元大学教授。盛を過ぎたことを認められない男のはなし…と思ってたら、これは、ひとの感じるすべての傷みを書いてあるのではと思った。感情は揺さぶられる、静かにだけど。

  • 原罪の意識について考えさせられた。
    現在形で書かれている意味についてたも。

  • たんに、転落していく初老の男の物語、なのではなく、簒奪された者たちの物語。それを受け入れる者と、受け入れない者。さらには、語ろうとしない者や語ることができない者たち(女子学生や殺処分される犬たち)にまで著者のまなざしは広がっている。

    [以下ネタバレの内容を含みます]
    主人公である大学教授デヴィッド・ラウリーは教え子メラニーと関係を持つが、彼女によってセクハラで訴えられ教職を追われる。そのさいの査問においてはメラニーとの対話はいっさい閉ざされていて、どのような経緯から訴えるにいたったのかを知ろうとしても謎のままである。スキャンダルにまみれ地位も名誉も失うという恥辱。しかしデヴィッドは(女子学生に)恥辱を与えた側でもあり、すすんでその恥辱をえらび、まるで破滅したいようにすら見える。

    その後、農園暮らしをする娘(ルーシー)のもとに滞在するが、そこでデヴィッドは、今度は地位や名誉ではなく財産や肉体を損なうこととなる。理不尽かつ暴力的な簒奪によって。ただし彼はこの「ふたたびの恥辱」については受け入れることができない。

    そして娘に安全な地への移住を望む父の意に反して、ルーシーは、その地で生きていくために、その不条理さや恥辱を受け入れていこうとする。その地を去ることの敗北感や恥辱よりも、この状況を受け入れることを選ぶのだ。ルーシーの隣人であり防人である農夫ペトラスは、つねにデヴィッドの問いかけに対してまったく答えなかったり、不可解きわまりない返答を繰り返し(カフカを否が応でも想起させる)、彼を混乱させる。父子の考え方と態度は決裂しあったままである。

    「愛情は育つものよ。その点は、母なる自然を信じていい。きっと良い母親になってみせるわ、デヴィッド。良き母、善き人に。あなたも善き人を目指すべきね」「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい」

    そのたどり着くところは受容する側の強さなのか、愛なのか。序章から晴れぬままの靄はその色合いを変えつつも去ることなく終末を迎える。

    南アフリカの現在とはこのようなものなのだという説得力もさることながら、バイロンに着想を得た作中劇などの詩的なしかけによって、「いまここで」に限定されることのない、失われていく者たちの普遍的な物語が見事に表現されている。

  • 肌の色の記述を避けるのは、南アでの検閲を逃れるためとあとで知ったが、それがクッツェーの作品の魅力を引き出しているとも言える。人間の営みにはカフカ的なものが隠されている。

  • あまり共感できない。
    ノーベル賞を取るだけの作品だろうか?

    ただ一つ思うのは、これは転落を描いた作品ではないということ。
    文学を愛する、文学的に生きる自己本位な彼にとって、内なる情熱は肯定されるべきものであり、転落は創造の糧である。恥辱に耐えることは、彼なりのロジックに置き換えられ昇華される。

    センターだったら不正解な解釈だとは思うが。
    とりあえず物足りない。

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著者プロフィール

1940年、ケープタウン生まれ。ケープタウン大学で文学と数学の学位を取得して渡英、65年に奨学金を得てテキサス大学オースティン校へ、ベケットの文体研究で博士号取得。68年からニューヨーク州立大学で教壇に立つが、永住ビザがおりず、71年に南アフリカに帰国。以後ケープタウン大学を拠点に米国の大学でも教えながら執筆。初の小説『ダスクランズ』を皮切りに、南アフリカや、ヨーロッパと植民地の歴史を遡及し、意表をつく、寓意性に富む作品を発表して南アのCNA賞、仏のフェミナ賞ほか、世界の文学賞を多数受賞。83年『マイケル・K』、99年『恥辱』で英国のブッカー賞を史上初のダブル受賞。03年にノーベル文学賞受賞。02年から南オーストラリアのアデレード郊外に住み、14年から「南の文学」を提唱し、南部アフリカ、オーストラリア、ラテンアメリカ諸国をつなぐ新たな文学活動を展開する。
著書『サマータイム、青年時代、少年時代——辺境からの三つの〈自伝〉』、『スペインの家——三つの物語』、『少年時代の写真』、『鉄の時代』、『モラルの話』、『夷狄を待ちながら』、『イエスの幼子時代』、『イエスの学校時代』など。

「2023年 『ポーランドの人』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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