- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784087211580
感想・レビュー・書評
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最大多数の最大幸福を意識した利他の考え方…同じお金があるなら、なるべく効果的に使おうとする考え方が新鮮。
贈与は支配に容易につながりうる(pityが伴う)という点が印象的だった。
第3.4章は哲学的で私の理解が追いつかず… -
「うつわ」という言葉が響いてきました。分ける、対立するのでなく、うつわに入れて和える、和ませるという感覚でしょうか。「平和」の「和」ですね。
本の中身とは直接関係ないですが、こんな研究ができる東工大は素敵だと感じました。 -
「利他」の気持ちは、見返りも期待せずに、自然と沸き起こるもの。
このことを仏教、ギリシア語、民藝、小説の作家法などの多様な観点から各論者が主張している。いわば「決定論」であり、自由意思否定論が根底にあると思われる。この意味でも、とても興味深かった。 -
●ジャックアタリ。利他は自分のためになる。合理的利他主義。
●ピーターシンガー。私にできる最大の善。効果的利他主義。
●地球規模の危機を救うためには、共感を否定する。共感を得られないなら助けない⁉︎のか。
●インセンティブや罰金などで数値化すると、利他の感情が消える。より酷い結果になる。測りすぎ→数合わせに走る。
●ブルシットジョブ。自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げる。数量化し得ないものを数量化しようとする欲望の直接的な帰結。
●「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押し付けが始まるとき、人は利他を自己犠牲と捉えており、その見返りを相手に求めている事になる。
●自然は人間が思うよりずっと相互扶助的なものだ。
●尊厳を持って行った慈悲であっても、その行為が行われた後に「嫌な気持」が行為者に残る。ここに利他や贈与の謎の核心が表現されている。志賀直哉、小僧の神様。
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「利他」という言葉に興味を持ったので読んでみました。なかなか興味深い内容でした。
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5人の著者それぞれの視点が面白く、「利他」、自分の「うつわ」について考えさせられた。
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「利他」と聞くと、自分より相手の利益となることを相手に施す、自己犠牲というイメージがある。だが、本書を読むと、そのイメージは一変する。
ここでいう「利他」とは、
✔「傾聴」を通じて相手の可能性を引き出し、自分が変わること。善意の押しつけではなく予想外を肯定する「余白」が必要なこと。
✔心臓がうごいていることや免疫細胞のはたらきのような人知を超えたメカニズム。阿弥陀仏が衆生を救済する「大願業力」のような人間の意思の外のはたらき。
✔人間が行うものではなく自分以外のものから生まれてくるもの。無為の状態で成立する。
✔強いられるものではなく、何かに突き動かされるもの。「利他」という過程が私を場として起こる(中動態の考え方)。
「利他」は見えない力から生まれる行為だという発想は、目からウロコだった。
p5
私たちが毎日身につけている服は、つくられた分の約六割が着られることがないまま廃棄されているといわれています。また、染色など加工の過程で多量の化学物質を使うため、水を汚すことも大きな問題になっています。いまのファッションのあり方は、環境に対する負荷が非常に大きくなっているのです。二〇一九年にはついに、国連貿易開発会議で、ファッションは「世界で第二位の汚染産業」との汚名を着せられてしまいました。
p22
合理的利他主義の特徴は、「自分にとっての利益」を行為の動機にしているところです。他者に利することが、結果として自分に利することになる。日本にも「情けは人のためならず」ということわざがありますが、他人のためにしたことの恩恵が、めぐりめぐって自分のところにかえってくる、という発想ですね。自分のためになるのだから、アタリの言うように、利他主義は利己主義にとって合理的な戦略なのです。
こうした考え方は、いうまでもなく、利他主義は利己主義の対義語である、という伝統的な考え方を意図的に転倒させたものです。
「利他主義 Altruism」という言葉は、フランスのオーギュスト・コントによって、一九世紀半ばに提唱されるようになった、比較的新しい造語です。「altrui」とは古フランス語で「他者」のこと。元になったラテン語は「alter」ですから、これは「オルタナティブ(別の、ほかの)」という言葉をイメージすると分かりやすいですね。
コントが利他主義と言ったとき、この言葉は「利己主義Egoism」に対置される言葉として想定されていました。コントにとって利他主義とは「他者のために生きる」こと、つまり自己犠牲を指していたのです。
こうしたコントの考え方からすると、合理的利他主義の考え方は、まさに「ルーツをひっくりかえす」発想であるといえます。(中略)合理的利他主義は、現代の利他をめぐる主要な考え方のひとつとなっています。
p23
効果的利他主義の理論的支柱となっているのは、哲学者のピーター・シンガーです。彼は、効果的利他主義の原則を、端的にこう述べています。
効果的な利他主義は、非常にシンプルな考え方から生まれています。「私たちは、自分にできる〈いちばんたくさんのいいこと〉をしなければならない」という考え方です。
p24
効果的利他主義は、単に功利主義をとなえるにとどまらず、幸福を徹底的に数値化します。たとえば自分の財産から一〇〇〇ドルを寄付しようとする場合、それをどの団体に、どのような名目で寄付をすると、もっとも多くの善をもたらすことができるのか。得られる善を事前に評価し、それが最大になるところに寄付の対象を定めることによって、効率よく利他を行おうとするのです。
p25
あるいは「Giving what we can」というサイトでは、居住地、年収、家族構成を入力すると、自分が裕福さにおいて世界の上位何%に入るかが示され、年収の一〇%を寄付することによって、蚊帳であれば何張、寄生虫症の薬であれば何錠、健康な生活であれば何人分贈ることができるかが、一瞬で分かるようになっています。
p28
もし地球上のすべての人がアメリカ人の平均レベルの生活をしようとしたら、それを支えるのに必要な資源を確保するために、地球が五個必要だといわれています。そのくらい、現在の先進国の生活の仕方は、環境に与える負荷があまりにも大きい、「地球に見合っていない」生き方なのです。
にもかかわらず、私たちは生活の仕方を根本的に変えることができないでいる。
p30
つまり、地球規模の危機は、「共感」では救えないのです。なぜならそれは、想像もできないような膨大で複雑な連関によって起こっている危機であり、「近いところ」に関わろうとする共感では、とらえることができないからです。
p55
他者の潜在的な可能性に耳を傾けることである、という意味で、利他の本質は他者をケアすることなのではないか、と私は考えています。
ただし、この場合のケアとは、必ずしも「介助」や「介護」のような特殊な行為である必要はありません。むしろ、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだ」という距離と敬意を持って他者を気づかうこと、という意味でのケアです。耳を傾け、そして拾うことです。
ケアが他者への気づかいであるかぎり、そこには必ず、意外性があります。自分の計画どおりに進む利他は押しつけに傾きがちですがらケアとしての利他は、大小さまざまなよき計画外の出来事へと開かれている。この意味で、よき利他には、必ずこの「他者の発見」があります。
さらに考えを進めてみるならば、よき利他には必ず「自分が変わること」が含まれている、ということになるでしょう。相手と関わる前と関わった後で自分がまったく変わっていなければ、その利他は一方的である可能性が高い。「他者の発見」は「自分の変化」の裏返しにほかなりません。
p72
単純に贈与をすれば、利他なのか。果たして利他とはいったい何なのか。利他の典型ともいえる贈与にはどのような困難が伴うのか。
p76
哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまうのです。
p77
モースの『贈与論』の特徴は、三つの義務というものによって贈与が成立していることを論じている点です。ひとつめは、贈り物を人に与える義務です。ふたつめは、それを受け取る義務。そして三つめは、それに対してかえす義務です。こ、の三つの義務によって、贈与はシステムとして機動しているとモースは言います。ただしこの三つの義務は、人間の意識的な自発性ではない、とも指摘しています。
p79
モースによれば、誰かから何かを受け取ることは、その人の霊的な本質の何ものか、その人の魂の何ものかを受け取ることにほかならないと言います。
そのようなまのをずっと手元にとどめておくのは危険であり、命に関わることになるかもしれない。だから、次に受け渡さなければならない。そこには与える義務とともに受け取る義務があり、受け取ったらまた次の誰かにかえしていくことが、ある種の義務として生じている。真の所有者は誰でもなく、それは神のものであり、これによって互酬性というものが成立している、というのがモースの贈与論です。
ここで重要なことは、クラ交換が純粋贈与ではないということです。
p80
『贈与論』では、マオリのハウや北アメリカのポトラッチという現象も重要です。
ハウとは、物に宿る精霊のことをいいます。森からやってくるのですが、特定の人や集団にとどまり続けることを望まない。だから、物を所有し続けようとする人がいると、その人にハウが悪さをして災いをもたらしてしまう。だから、人は物をもらったら誰かに返礼をしたり、渡したりしなければならないということが説明されています。
森からやってきたハウによって物がどんどん移動し、その社会に恵みがもたらされる。つまり、贈与が人々に恵みをもたらしていきます。人々が富を大きくしていくとハウはまた森に帰っていく。ただし、贈与は、人々に恵みをもたらすとともに、贈与のリンクを止めると人々に不幸な死がもたらされる。ハウにはそういった両義的な力が宿っているのです。
モースは、近代社会はハウのようなものを失うことによって、つながりを失った、と言います。ハウがもたらしていたものは、富だけでなく人と人とのつながりである、と。何かをもらったらその人は、どこかの誰かにそれを渡さなければならない。
つまり、社会的なつながりや連帯が、物の循環、すなわち贈与によって成り立っているというシステム自体が、近代社会やマーケットによって失われている。これがモースの強い危機意識です。
モースは一種の社会主義的な思想を強く持っていた人で、社会を転換させなければいけないという危機意識のもとに『贈与論』は書かれています。ハウが命じる交換は、人間の意思の外部によって機動している交換システムであることを、モースは非常に重視しているわけです。
p86
与えたことがどこかで自分にかえってくるという期待を持って行為をすると、どんなに長いスパンや時間軸であったとしても、それは利己的な利他というものの一部であると考えなければなりません。もらった人は負債感を抱き、誰かに与えなければならないと考えます。そして、その恩恵が回り回って自分にかえってくるという負債感にもとづく互恵関係は、やはり「利己的な利他」の枠を超えていません。
p96
自分の個を超えた力に促されて生きていることを、仏教の世界では「業」と考えてきました。業とは、後ろから押す力、何かオートマティックな力です。そして、このような自分の意思とは違う何かが働くという問題を考えないと、利他の核心に迫れないのではないかと私は考えています。
つまり、行為を行った時点では間接互恵が前提とされていない、ということだと思うのです。自分が行ったら何かがかえってくるという前提で行った行為ではなく、結果として何かがかえってくるというのが、非常に重要な問題ではないのか。それは衝動的なもの、思わずやってしまうこと、理由がつかない因果の外部の行為として行われているものです。
ポイントは、結果としての間接互恵システムである、という点です。逆に、間接互恵システムを前提とし、間接的な因果による見返りを期待して行う行為は、常に利己的な利他になってしまいます。
とするならば、間接互恵の非常に重要な本質は、不確かな未来によって規定されているという逆説にあります。つまり、かえってこないかもしれないし、どうなるか分からないけれどもやってしまうという行為によってこそ、間接互恵システムは成り立っているのです。
p98
親鸞は『歎異抄』第四条で、慈悲にはふたつある、という言い方をしています。善いことをしようと思ってする聖者の行いが「聖道の慈悲」で、浄土からおのずとやってくるのが「浄土の慈悲」です。
つまり、親鸞は「聖道の慈悲」を自力、「浄土の慈悲」を他力と考えているわけです。
利他の心が見返りを求める自利の心へと変容してしまうという問題が、どうしても「聖道の慈悲」のなかにはあるわけです。
それに対して、「浄土の慈悲」は阿弥陀仏の慈悲であり、それが他力であると親鸞は考えます。それは、仏の利他心であり、見返りを求めない一方的な慈悲の心です。
p99
仏教の根本は、「アートマン」の否定です。アートマンとは、絶対的な我を指すヒンドゥー教の概念です。このアートマンが、絶対的な宇宙であるブラフマンと本質において同一のものであると考えるのが、ヒンドゥー教です。これが「梵我一如」と呼ばれる原理です。
ところが、それに対して、ゴータマ・シッダールタは、アートマン、すなわち絶対的な我は存在しないことを説きました。本当の「我」はどこまで追求しても存在しないことが仏教にとっては非常に重要なのです。むしろ、存在するのは、縁起的現象としての「私」というものだけであるというのです。
p100
五蘊とは人間を成り立たせている五つの要素のことで、色(=肉体)・受(=感覚)・想(=想像)・行(=心の作用)・識(=意識)を指します。
この五つの要素がたまたま結合した結果として、「私」というものが存在していると仏教では考えます。そして、五蘊の結合である私は、いろいろな縁によって無数に変容していきます。たとえば、誰かと話をすることによって影響を受けると、私の五蘊の結合体は変容する。つまり、昨日の私と今日の私というのは変化している。本質的なアートマンなどというものに支配されず、我に対する執着を超え、無数の出会いによって変容していく「私」という現象こそが本当の「私」である。これが仏教の根本にある「無我の我」という観念だと思います。
p104
親鸞は単に自力を否定しているのではなくて、自力の限りを尽くせと言っている人です。自力の限りを尽くした人間こそが、それでもどうにもならない自己の限界を知ることができる。その無力というものにたった人間におのずとやってくるのが「他力」というものである。そのように親鸞は考えているのです。
p105
仏の側にも業があり、これは阿弥陀仏の大願業力といわれるもので、阿弥陀仏にも衆生を救済してしまう業がある。困っている、どうしようもない衆生というものを、阿弥陀如来はオートマティカルに救うのです。
p113
「忘己利他」(己を忘れて他を利する)という最澄の言葉を耳にしたことがある人もいるかもしれません。仏道を学ぶものの心得が記されている「山家学生式(天台法華宗年分学生式)」で最澄は「利他」をめぐって次のように書いています。
・・・道心〔筆者注:菩薩心〕あるの仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己れに向へ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。
(『日本思想大系4 最澄』)
ここでいう「忘れて」とは、その立場を「越えた/超えた」次元に立つことです。自分が思うことではなく、それを超えた場所で起こることがもっとも深い慈悲の営みだというのです。
p116
「自他不二」という言葉もあります。利他とは、単に誰か他者のために何かをするのではなく、他者と自己との壁が無礙になったとき生起する出来事であるとも考えられます。「礙」は、「さまたげ」を意味します。自他無礙とは、自分と他者とのあいだに「さまたげ」がないことです。繰り返しますが、これは自他が一つになることではありません。自他の二者が二者のままで「不二」になる。数量的な一を超えた、「一なるもの」として存在することなのです。
p124
『工藝の道』には、次のような美しい文章もあります。
「身は精霊の宮」と記されている。地をこそ天なる神の住家といい得ないであろうか。冬枯れのこの世も、春の色に飾られる場所である。
美が厚くこの世に交わるもの、それが工藝の姿ではないか。味なき日々の生活も、その美しさに彩られるのである。現実のこの世が、離れじとする工藝の住家である。それは貴賤の別なく、貧富の差なく、すべての衆生の伴侶である。これに守られずば日々を送ることができぬ。晨も夕べも品々に囲まれて暮れる。それは私たちの心を柔らげようとの贈物ではないか。見られよ、私たちのために形を整え、姿を飾り、模様に身を彩るではないか。私たちの間に伍して悩む時も荒む時も、生活を頒とうとて交わるのである。それは現世の園生に咲く神から贈られた草花である。
民藝は語ることなき「衆生の伴侶」であり、人の苦しみや痛みを「柔らげようとの」天から贈られた物である、それはいわば、現実世界という「園生に咲く神から贈られた草花である」というのです。工藝は、超越の命によって人間界に遣わされたものである、と柳は感じている。
p125
民藝というのは、単に土でこねられた物体ではなく、私たちの生ける伴侶である。そして、私たちが、もっとも過酷な生涯を生きるときに寄り添い、何か働きかけるものなのだ、というのです。
こうした話は、物や言葉に限りません。人はさまざまなものに遺籍を感じています。ある人は音や旋律に、あるいは色や香り、造形や沈黙にそれを感じる人もいるでしょう。
同質のことは人と人のあいだにもいえるのかもしれません。私たちのなかにあるものは、他者の心にはたらきかけ、そして受け止められたとき、それまでに見えなかった「いのち」を開花させるのかもしれないのです。
利他は「他」と「自」がおのずと一つになっていなければ起こり得ない、という基本的かつ肉感的な認識が柳にはありました。そしてまた、利他の本質は、人間の主体性の産物ではなく、非・人間的実在との呼応において現象するとも考えていました。
利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。それが他者によって用いられたときに現出する。利他とは、自他のあわいに起こる「出来事」だともいえます。
ここでの「出来事」というのは、人が作意によって起こすことができない現象のことです。そこには人為とは別なはたらきが必要になる。ときにそれは、距離であり、時間であり、そして忘己の精神である。さらにはマザー・テレサのようなひとであれば、躊躇せずに、神の助けこそが不可欠であるというでしょう。
p133
「無為」という言葉は、何ものの「為」ではない行いこそ、何ものかであることを暗示しています。
p138
人は、あるものをつねに「今」において見るのであって、本来は、同じものでも同じようには見ることはできない。しかし、人は多くの場合見る前に同じものであるという先入観をもって見ている
p140
「知識」とは、もともと仏教の言葉で、物の本質を見極める営為、あるいは見極めた人を意味しました。高僧のことを「善知識」と呼ぶのはそのためです。
「知識」には別の意味もありました。それはいわゆる利行、それも神仏に対する利行を奈良時代には「知識」と呼んでいたのです。そうした行いを志す者たちの集いは「知識結」と称されていました。利他の行いは「知」と「識」が出会ったところで起こる、ということを「知識」という言葉そのものが表現しているのです。
p157
中動態の研究から僕は意志の概念に注目することになったやけですが、意志の概念について研究しながら驚いたのは、古代ギリシアには意志の概念が存在していなかったということです。意志の概念というのはどこの社会にも当たり前のように存在している概念と考えられているだろうと思います。しかしそうではないのです。この概念は歴史上のある時点であらわれたものなのです。
p163
意志の概念を使うと行為をある行為者に帰属させることができます。
p164
しかしどこまでも遡っていくのでは誰にも責任がなくなってしまう。だから、意志の概念を使ってその因果関係を切断するのです。少年が自分の意志でやったとすれば、因果関係はそこでぷつりと切れて、少年に行為が帰属することになります。切断としての意志という概念は、行為の帰属を可能にすることで、責任の主体を指定することができるわけです。
僕らが意志の概念にこだわってしまうのは、このような責任のメカニズムがあるからです。
p167
悲劇では、主人公が何らかの運命に巻き込まれ、自分の思うとおりに行為できません。こうしたいけど、こうできない。あるいは、やってしまったことが思わぬ効果を持ってしまう。悲劇とは行為と行為者の関係が深く問われるジャンルであるわけです。
p168
悲劇について考えるときに重要なのは、人間が断固たる決意で何かをやろうとしても神的な運命によって翻弄されてしまうということです。それを抜きにして悲劇について語ることはできない。
p170
神的因果性とはある種の運命のことです。人は運命に巻き込まれて行為させられる、あるいは、みずからの行為が思ってもみなかった効果をもたらしてしまう。つまり、神的因果性においては人は運命の被害者です。他方、人間的因果性とはその行為をその人間が為したことを指しています。つまり人間的因果性においては、人はある決定的な何かをもたらした加害者としてとらえられることになります。
ヴェルナンが言っているのは、悲劇における登場人物たちには加害者である側面と被害者である側面が混ざりあっているけれども、それらは決して混同されることなくその両方が肯定されているということです。一言でいえば、人は加害者であるが被害者でり、被害者であるが加害者であるということです。カント的にいえばアンチノミー(二律背反)であり、アンチノミーを構成する正反対の命題が両方とも肯定されているということです。
近代的な考え方は両者を肯定するという考えを認めないとヴェルナンは言います。神的因果性を認めることはその人を免罪してしまうことであり、人間的因果性に注目することはそれをもたらしたアナンケーと呼ばれる運命の力を無視することだと考えられてしまう。ところがヴェルナンによれば、ギリシア悲劇は不思議なことにその両方を肯定するのです。
p173
たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だといわれています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
神的因果性においてとらえるということは、その人を免責するということです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。
p189
こうした大げささ、過剰さ、うそくささ、あるいはユーモアと真剣さを平然と並置している感じ、これはマジック・リアリズムなのではないかと思うのです。もともとマジック・リアリズムとは、ドイツの小説家エルンスト・ユンガー等に対して二十世紀の前半に使われ始めた言葉なのですが、実際に世界に広まったのは六〇〜八〇年代にかけての中南米文学ブームがきっかけでした。
マジック・リアリズムというと、まずガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が思い浮かびます。 -
コロナ禍のなか、新たに浮上した「利他」というキーワードに5人の識者がそれぞれの観点から論考を寄せた。私たちは新しい生き方を考える境界に来ている。