- Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
- / ISBN・EAN: 9784903908984
作品紹介・あらすじ
市場、国家、社会…
断絶した世界が、「つながり」を取り戻す。
その可能性を、「構築人類学」という新たな学問手法で追求。
強固な制度のなかにスキマをつくる力は、「うしろめたさ」にある!
「批判」ではなく「再構築」をすることで、新たな時代の可能性が生まれる。
京都大学総長・山極壽一氏推薦!
世の中どこかおかしい。なんだか窮屈だ。そう感じる人は多いと思う。でも、どうしたらなにかが変わるのか、どこから手をつけたらいいのか、さっぱりわからない。国家とか、市場とか、巨大なシステムを前に、ただ立ちつくすしかないのか。(略)この本では、ぼくらの生きる世界がどうやって成り立っているのか、その見取り図を描きながら、その「もやもや」に向き合ってみようと思う。
――「はじめに」より
感想・レビュー・書評
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自分が生きている社会について考えようとすると、おそらく、若い人が学校とか、ちょっとした専門書とかで学ぶ「世界」というのは何とか主義とか、何とかシステムとか、読んでいる自分を「世界」から遠ざけていく言葉や概念が溢れていて、実感というか、自分がその世界の一員であることが、限りなく記号化するのが、今風な気がするのですが、松村さんは、おそらく、そこを突破するために「うしろめたくない?」と問いかけているんじゃないかと思いました。
「おっ、エチオピアか」という、まあ、観光気分という感じで読みながら、松村圭一郎という愚直な文化人類学者の本を、もう少し読んでみようという気になったのは、そのあたりの「工夫(?)」が、すくなくとも、若くないぼくには功を奏したわけです。
ほんと、こういう生真面目さ、ぼくは好きですね。ブログでも紹介しました。よろしければどうぞ。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202112270000/詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本の社会とエチオピアの社会との「ズレ」から世界の仕組みを読み解いていく。
エチオピアではとにかく毎日感情が揺さぶられるほど物事がうまくいかないらしい。しかしその大変さは人間が生きるために必要なことなのかもしれない。
日本はとにかく便利すぎる。何でもかんでも至れり尽くせりの社会だ。この快適さが逆に感情を揺さぶる機会を減らし、表情を失った人が多い原因なのかもしれないと、この本を読んで感じた。 -
途上国、新興国を訪れた時に
きれいだ汚いだとか、便利だ不便だとか、以外の
もやもやとした感情を持ち帰ったことがある人のために
「あのときのもやもや」を解説してくれる一冊。
12歳。家族と一緒に行ったフィリピン。
街を歩いていたら、路上で生活する同じくらいの歳の女の子が、私に「money, money」と言ってきた。
おなじくらいの歳、おなじ女の子。その子と私。
これってなんなんだろう。
18歳。初めて自分で飛行機のチケットを買って訪れたインド。
日本の小学生が集めてくれた鉛筆の寄付を、コルカタ郊外の農村の小学校で配った。
鉛筆を渡した時、喜んでくれると思ったら、目の前の子はぽかーんとした表情。
急に外国人が現れて、鉛筆を渡してきた。
「自分は持っていない側の人間で、この外国人は持っている側の人間なのかな」
そう思わせてしまっただろうか。
これってなんなんだろう。
21歳。知り合いの紹介で行き着いた、カンボジアの水上村。
そこで暮らす人々は経済的には貧しいけれど、一緒に過ごすととても幸せそうで。
なんだ。お金って関係ないのかな。
外の人間が良かれと思って何かを与えることは、彼らの今ある幸せを壊してしまうのかな。
しかし帰国2週間後。その村に住む14歳の女の子が、生活に困窮して自殺をしたと聞いた。
これってなんなんだろう。
エチオピアでの実体験から社会を読み解く作者の言葉に
自分の実体験、「あのときのもやもや」が思い出された。
丁寧に解説をしてもらえたことで、「あぁそういうことだったのか」とやっと自分の気持ちが理解できて、漠然とした罪悪感から救ってくれた1冊。
感染症の影響で、社会のあり方が見直されている今だからこそ学ぶことがある1冊でもあると思います。
出会えて良かったです。本当にありがとうございます。 -
エチオピアの農村での生活から、私たちが当たり前に内在化している市場、国家、社会への深い洞察がすごく面白い。
貧困や不平等にバランスを取り戻す鍵となるのが、うしろめたさ。
日本では、「自分が稼いだ分は自分のもの」と思って、貧困や不均衡に無感覚であることが正当化されてしまっているんだと、うしろめたく感じる。
自分の当たり前の境界をずらして、バランスを取り戻す一歩にしたい。 -
マルセルモースの贈与論から始まり、堅い話を柔らかく解説していくのかと思っていたが、予想より抽象的な内容だった。
「税金を払っているのだから、あとは国がなんとかすべきだ、となる。政治に口を出したければ政治家になれ、と言われる。その閉塞した論理が、ぼくら一人ひとりに公平さを取り戻す責任や能力があることを覆い隠す。 「自分には関係ない」。そんな無関心が、ぼくらのバランス感覚を麻痺させる。」
「わたし」という個人の行動が社会を少しずつ変えていくと書かれていたが、日本とエチオピアを対比しながら話が進む中で、少々日本の仕組みが悪いように書かれている印象を受け、結果「わたし」ではなく社会や国に注目が行ってしまうように感じた。 -
前提として当事者意識を持って自分を変えれば社会、世界を再構築できる。で、理想的な社会を再構築するには「うしろめたさ」が作り出す国境や格差を超えた「人と人とのつながり」が重要になってくるというような話だった。
そもそも人類学がどういうものか知らなかったので、それが知れてよかった。
そこまで世界のこととか歴史とか全然知らないから、とても主観的な話になってしまうけど。
国間間の格差や国内の貧困差については、「かわいそう」などの感情的な話ではなく、もっとその人たちの気持ちになって、どんな事を考えているのか?なんでそうなったのか?などを論理的に考えることが差分を無くすことだと思っていて、なぜならば感情はその一瞬だけで持続性がないし感情はコロコロ変わるし信用ならなくて、知的作業は変化ないと思ってた。ので、新しい考え方だった。
でも、わたしが本当の意味で貧困というのを知らないだけなのかもしれない。現実は思ったより残酷で複雑だから、そういう風な考え方になるのかもしれないなって思った。
あとあと、この本を読んだ以外にもいろいろなことから、結局論理って感覚的に選んだことを自分で納得感持つためだけのツールだなって思いつつある(私生活においては)。実は最初からなんとなく答えが出てて、それを頑張って正当化してるだけなのかもねーってね
また、資本主義的な思想だったので市場主義だったけど贈与もいいところがあって、今の世の中が贈与を軽視しすぎているということも感じた。会社で働くこともお金だけでなく、もっと他に目的があるし、それをより多くの企業や働く人が理解すればもっとみんな生きやすくなるかもねって
あと、アメリカの物資支援が実は国内の農産物の価格維持政策だったとは…全然知らなくて勉強になった!世界には自分の知らないことが本当に多くあるんだなって思いました。
あととかまたとかいっぱいで雑記な文章になってしまった。。。とほほ -
生きづらい。世の中が窮屈だ。その原因は国の政策のせいであり、市場のシステムのせいである。私たちを支配する巨大なシステムと私たちの暮らしには大きな隔たりがあり、そうしたシステムが変わらない限り私たちにはどうすることもできない。
・・・本当にそうですか?という問いかけをしているのが、本書だ。
「社会」と聞くと、まるで自分たちの手の届かない大きな存在のように思えるけど、本当は人やモノや言葉が行き来する「関係性」のことだと言う。つまり、私とあなたという二人が入ればそこに「社会」は生まれ得る。
市場も、国家も、世界も、結局はその関係性の延長であり、すべては連結しあっている。「国家権力」や「市場原理」という言葉に惑わされているだけで、本当はそれぞれ依存し合っていて、その依存の輪の中に「わたし」もいるのだ。まずはそれを読者に理解してもらうことに本書の大半は割かれている。
私たちが目指すべき「よりよい世界」を規定するとしたらどんな世界か?それはきっと、ひとりひとりの努力が適切に評価され、結果が出ずとも穏やかに暮らせ、誰もが好きなことに没頭できる世界。つまりは「公平=フェア」な世界だろう、と著者は言う。
つまりはアンフェアを改善しバランスを取り戻すことが求められているわけであり、そこには国の政策を根底からひっくり返すような革命的な手法が必ずしも求められているわけではないのである。
では私たちにできることは何なのか?その鍵がタイトルにもなっている「うしろめたさ」だ。
電車で自分が座っているのに対しお年寄りが立っている時。知人から身に余る贈り物をもらってしまった時。被災地のつらい生活をTVで見た時。
そうした自分と他者との間に格差を感じた時、人は「うしろめたさ」を覚える。それは「公平さへの欲求」と言うこともできる。
けれど私たちはそうした「うしろめたさ」を、いろいろな理由をつけてなかったことにしがちなわけで。しょうがないよね。どうしようもないし。自分には関係ないし。国の問題だよね。
例えば、Youtubeで違法アップロード動画を観る人は、小さなうしろめたさをどこかでなかったことにしてないだろうか。
そうやって自分を正当化することに、まず自覚的にならなければいけない。そして「うしろめたさ(=公平さへの欲求)」に素直に従うこと。例えばそれが震災なら、ボランティアをする。義援金をおくる。他にもいろいろあるだろう。
そうしたことが「わたしとあなた」という小さな社会をフェアにし、市場をフェアにし、国家をフェアにし、世界をフェアにしていく。僕らにできる「生きづらさ」を変える最大のアクションなのだ。 -
P.17
構築主義には、視点を転換する力がある。でも、その核心は「批判」そのものにはない。もっと別のところに可能性があるのではないか。
いまここにある現象やモノがなにかに構築されている。だとしたら、ぼくらはそれをもう一度、いまとは違う別の姿につくりかえることができる。そこに希望が芽生える。その希望が「構築人類学」の鍵となる。
いまの世の中にどこか息苦しさを感じたり、違和感を覚えたりしている人にとって、最初から身の回りのことがすべて本質的にこうだと決まっていたら、どうすることもできない。でもそれが構築されているのであれば、また構築しなおすことが可能だ。
これまでの「構築されている(だからそんなものに正当性はない!)」という批判から、「どこをどうやったら構築しなおせるのか?」という問いへの転換。それがこの本の目指す「構築人類学」の地平だ。
P.60
「笑う犬」という表現に「おかしさ」があるのは、ふつう犬が人間のように顔全体の筋肉を使って「笑い」を表現できないからだ。それはまさに「身体的」に制約されている。
霊長類学者の山極壽一さんによると、ゴリラなど人間に近い霊長類でも、ほとんど白目がない。これは相手に感情を読みとられないようにするためだ。人間は進化の過程で、あえて白目の部分を大きくし、瞳の動きを相手にさらすことを選んだ。そうして互いに感情を示しあい、共感が生じる可能性を身体的に保証することで、社会的な存在となってきた。
P.76
男女が恋愛関係になったとき、最初に「呼び名」を変えることは、今後ふたりが親密になるための大切なきっかけになる。ふたりの仲が深まったから呼び名が変わるのではない。呼び名を変えることで、これから別の深い関係に切り替わることを確認しあっているのだ。
相手との関係がどういう性質なのか。ぼくらは日々、互いに微妙な調整をしあいながら、その距離を感じとり、行為している。そして、こうした行為の繰り返しが、人と人との「関係」というひとつの現実をつくりだしている。(略)
「親友」や「恋人」、「家族」といったカテゴリーは、その一時的な「かたち」にあとから説明を加えるために持ち出されているにすぎない。だから、「関係」はもろいし、移ろいやすい。でもだからこそ、「関係」は互いの行為によって変えることができる。
P.104
日本では、子どもが生まれると名前をきめて国に届け出ることがあたりまえになっている。エチオピアには、その仕組みがない。税金を徴収するための世帯主や事業主の登録は進んできたが、国は国民全員の出生や死亡の情報をほとんど把握していない。
当然ながら、親はすぐに子どもに名前をつける必要もない。両親や祖父母は、生まれた子どものことを、それぞれ好き勝手な名前で呼ぶこともある。(略)
さらに地域によっては、成人ないし結婚した男女に、生まれたときの「幼名」とは別の名前がつけられる。(略)
「名前」は、その人のアイデンティティーとイコールではない。むしろ、社会的な関係や状況に応じて呼び方が変わったり、同時に複数が併用されたりする。相手を度の名前で呼ぶかによって、その人との関係が示される。(略)
一方、ぼくらは、幼いころからひとつの固定した名前を前提に育ってきた。テストの答案用紙や自分の持ち物、いろんな書類などに、出生後に親が国に届けたひとつの名前をくり返し記入してきた。複数の名前を使いわけるなんて、思いも寄らない。(略)
日本とエチオピア、はたしてどちらの国家のほうが「強力」なのだろうか。
エチオピアと日本の国のあり方にみえるねじれ。国家の「支配」とか、「権力」というと、とかく表向きの統制の強さだけが想起される。けれど、それは内面化/身体化の度合いと深く関わっている。その制度があたりまえであればあるほど、国家が関与する密度は増す。
だから日本人が、エチオピア人よりも国家から自由であるとはいえない。戸籍にしても、他のいろんな制度にしても、日本人のほうがはるかに国家の存在を欠かすことのできない前提として生きている。
P.142
エチオピアには先進国などから提供される開発援助は、年間三九億ドルに達する(2013年)。これはエチオピアの国家予算を超える額だ。長年、エチオピアに通っていると、政府や国連が出す緊急援助のアピールは、毎年の恒例行事のような感覚すらある。(略)
そして、この世界の食糧援助の大半をアメリカ一国で拠出している。さすが世界の超大国、太っ腹…というわけでもない。
アメリカには、国内農業を保護するための農産物の価格維持政策がある。豊作で市場価格が低迷すれば、政府が買いとって価格を支える。買いとり量が増えれば、それだけ備蓄コストが高まる。かといって、それを市場に流せば、また価格が下落してしまう。
そこで「食糧援助」が使われるのだ。(略)
かならずしも貧困があるから、食糧援助がなされているわけではない。それは、食糧不足の有無にかかわらず、穀物価格が高騰すれば、アメリカの援助拠出量が減ることからもわかる。
P.147
ところが残念なことに、エチオピアの多くの農民は英語を読めない。田舎で聞いてみたら、星条旗がアメリカの国旗であることすら知らなかった。みんなエチオピア政府が食糧を配っていると考えているようだった。(略)
アメリカ国民の善意から寄贈されたことになっている食糧が、現地では誰がどんな意図で配っているのか、まったくわからず、まるで違った扱いを受ける。相手のことをあまり考えずに一方的に贈られた援助穀物は、ちゃんと贈り物としては届いていないのだ。
P.153
これまで人類学は、西洋近代の国民国家や市場経済といった巨大な力を批判してきた。でも、「わたし」という存在から切り離された力を批判するだけの時代は終わりつつある。「わたし」が行為している、その同じ地平で国家や市場といった「世界」が同時に生成している。「世界」は、「社会」を越えた先にあるのではなく、そのすぐ横にある。
P.182
実際はほとんど届いていないかもしれないし、贈ったつもりのないものが届いているかもしれない。教員の側には、つねに「届きがたさ」だけが残る。教育とは、この届きがたさに向かって、なお贈り物を贈り続ける行為なのだと思う。大学という学びの場を市場の論理からずらす。それがスキマづくりのためのささやかな抵抗だ。
たぶん、世界を根底から変えることはできない。まったくあたらしい手段をみつけて、すべてをつくりかえることはできない。おそらくそれはより良い方向に近づく道でもない。
ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。
それで、少なくとも世界の観方を変えることはできる。「わたし」が活きる現実を変える一歩になる。その一歩が、また他の誰かが一歩を踏み出す「うしろめたさ」を呼び寄せるかもしれない。その可能性に賭けて、そろりと境界の外に足を出す。それが「わたし」にできることだ。 -
内容自体は知見に溢れて面白いものの、タイトルから自分が求めていたものとは違ったという点で、少し期待外れ。筆者の言う「うしろめたさ」って、もちろん社会の歪みを埋めるために必要なものではあるけれど、実際の生産社会においてはそれを搾取されることの方が多いのではないかと思うので、これに関する言及がなかったのが心残り。例えば「他の社員が残っているから残業しなきゃ」「部下が困っているから何を犠牲にしてでも解決に動かなきゃ」と思わせられる環境において、筆者の言う「うしろめたさ」は他の誰かの思う壺に人を導く道具になっているし、そう思う本人にとってはただ辛いものにしかならないのではないか。「うしろめたさ」は今自分の生きる世界において、そんなふうに利用目的がはっきりしたものとして写ることが多いので、ただ慈善的な動きを促すものとして描く姿勢には違和感があった。