- Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784990524319
作品紹介・あらすじ
2011年3月11日に東日本一帯を襲った未曾有の大災害。そのような危機のなかで言論あるいはメディアになにができるのか、復興に向けてどのような思想、どのようなヴィジョンが必要なのか。言論誌としてあらためて自らの立ち位置を検証するとともに、新時代の言葉の可能性を開くべく、『思想地図β vol.2』を緊急出版します。
※本販売価格のうち、635円分を東日本大震災の被災地へ義援金としてお送りいたします。
感想・レビュー・書評
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「震災以降」、言葉や思想はいったい何をなし得たのか、そしてなし得るのか――この問いを軸として編まれた、批評家・東浩紀による新しい言論誌「思想地図β」シリーズの2冊目。
震災に対する本格的な論考集を読むのははじめてであるが、おそらくこのような形式のものはほかにはないであろう。
というのも、一般的な言論誌においては、震災をうけての意見を評論家・専門家に「うかがう」というオムニバス形式をとるが、この本においては震災をうけて東さんが抱いた問いを「ぶつけ」て、論者・対談相手たちはそれに「こたえる」という形式がとられているように思われる。
それゆえ、個々の論考・対談録の主張は一見「ばらばら」でも、最終的には「震災以降の言葉や思想」そして「震災以前の『言葉や思想』に代わる連帯とは」という問いにすべてがリンクしており、「『考えること』が力を取り戻さんこと」を願う東さんの狙い通りに、それらの問い-答えを追う東さんの軌跡(しかも、その軌跡は巧みな編集のおかげでとてもきれいな形で現前するのだが)が、われわれに「もういちど」「考えること」を要請してくる。
堅苦しい「思想」に関する前提知識はまったく必要ない。純粋に「震災以降」の日本を「もういちど」「考えたい」人は読んでみてほしいと思う。
ただし、この本は「震災以降」の日本にどう生きればよいかといった、確固たる指針の類を示してくれているわけではない。むしろ、この本が教えてくれるのは、「震災以降」について「考える」という沈黙の時間(≒「喪」の作業)こそが「震災以降」の本来的なスタートであり、ひいては「震災以降」「ばらばらになってしまった」わたしたちが「新しい連帯」を紐解く最初の作業なのだということである。
以下、個々の論考・対談録について、気になった点を取り上げる。
巻頭言は、随所で聞かれるように圧巻である。「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」――という、誰もが心のどこかで思っているけれど口に出してはいけないような、そんな事実に踏み込んでいるところが、多くの人の心を惹きつけてやまないのかもしれない。
(ちなみに、この点に関してはわたしも以前に触れたことがあったので、興味がある方は2つ前の椹木野衣「日本・現代・美術」のレビューを参照していただければ。。。非常に恐縮ですが。。。)
和合さんの詩を読んだのは、はじめてであった。巻末のほうに掲載されている対談を読むと理解できるが、「情報言語」と「文学言語」との境界から発しているギリギリの言葉ゆえの痛切さが、これほどまでに訴えてくるのだろう。ひりひりとした感覚が伝わってきて、とてもよかった。
藤村さんの復興計画は、豊富な図に裏打ちされて、読んでてとても夢を感じる。「リスク」の分散という視点で日本の産業や建築を考えることは現実的に必要であると思う。
津田さんのルポは、非常に細やかな取材に基づいており、メディアに携わる自身の立場から被災地の状況をきちっと汲み取っていて、とても興味深い。復興はコミュニティとソーシャルメディアの連関の試金石となるのだろう。
震災と社会の項に含まれる3つの対談は、東さんの問いや考えが最も直球に反映されている。
とくにわたしが共鳴する点は、「被災地」そして「日本」の復興において、日本の文化なり歴史なりをもう一度呼び出さなくてはならない(そのための「言葉」や「思想」ということか)というところ。どうしても「右」っぽい…と思ってしまうわたしもいるが、そのような対立軸をリセットして考えなくてはいけないなと思った。
政治・文化に関する佐々木さんと竹熊さんの論考は、今わたしが取り組んでいることにかなり密接に関わっており、とても興味深く読ませてもらったし、今後読み込むことになると思う。
いずれも、日本が「新しい国」として生まれ変わるためには、という命題に絡んでいる。政治経済面に関しては情報社会化・グローバル化に対応した政府と社会構造を、文化面に関してもそのような事態に対応した構図が描かれていた。
科学についての八代さんの論考と中川さんへのインタビューは、原発事故に対してソーシャルメディアが担った/担っている役割とも関連していて面白い。
「災害言論インデックス」は「震災後の仮想空間俯瞰図」といった趣で、災害時においてもインターネットがいかに欠かせないものとなっているかが分かる。テレビ・新聞といった既存メディアからどれだけの情報を得ただろうかと考えると、その重要性は一目瞭然である。
各論考・対談録は、個々の密度が高く正確に把握できていない部分もあり、以上のレビューはほんの一面的で粗末なものであるが、すこしでも興味を抱いていただければ幸いである。 -
いろいろと考えたこと。
もう半年が過ぎようとしている。
いや、あるいはまだ半年しか経っていないというべきなのだろうか。
時間というものの感覚は人それぞれ違う。
ぼく個人でもどちらが正しいのか未だに分からないでいる。
3月11日。
ぼくは、東京で被災した。
そして、のちに地元の関西に引越しをしたことで、その間にある「時差」に驚いた。
その感覚は今でも残っている。
震災から、怒涛のような情報を浴びていた自分にとって関西の時間はゆっくり流れているように感じられた。
そのなかでぼくは4月の大阪の思想地図イベントへと向かった。そこで語られた「喪」の儀式ということにぼくは強い共感を覚えた。
ぼくらは、時間をもう一度共有しなくてはいけない。
それは、喪われた時間を急いで埋めていくことではなく、立ち止まって共有することの大切さである。
だが喪われた時間。それは一体どれくらいの時間なのだろう。
これから先ぼくたちが生きている間には取り返しの付かないような途方も無い時間に思える。
そして、ぼくたちは喪失を経験している。今も。
少し本の内容とは関係ないことを書いてみる。
希望とはなんだろうか?
なでしこジャパンがワールドカップを優勝したことで、日本中は希望に沸いた。
それは確かに希望なのかもしれない。
だが、ぼくたちは希望の影で何かを失っていることについても考えなくてはいけない。
Jヴィレッジ。
福島第一原発からちょうど20キロ圏内の外側に位置する日本で初のナショナルトレーニングセンター。
それは日本サッカーの未来を象徴する施設だった。
だが、今は原発事故の対応拠点になっている。
マスメディアでは、ほとんど報じられていないが、『サッカー批評』(issue 51)という雑誌に載っている写真では、ぼくは涙を流さずにいられなかった。
駐車場のスペースのために芝生の上に敷き詰められた砂利。
ピッチをコンクリートで固めたヘリポート。
それらはなでしこという希望とは全く対称的な存在であった。
だが、それは現実だ。それはサッカーの喪失の部分だ。
元々、Jヴィレッジは94年7月に東京電力から福島県に対して出された3つの地域振興策の一つだった。そして、そのなかで唯一実現したものがJヴィレッジだった(開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』147〜8頁)。だからこそ、Jヴィレッジは今、原発への最前線基地となっているのだ。
東京電力は必ずJヴィレッジを元に戻すという約束をしている。
だが、しかし、今まで何年もかけて創り上げられてきた象徴としてのJヴィレッジは果たしていつになれば元に戻るのだろうか。
思想地図β2の帯に書かれている喪失と希望とは、その二つが常に表裏一体であるという意味だとぼくは感じた。
喪失の経験は、必ず希望への原動力になるだろう。
そして、同時にぼくたちは希望を考えるときにその影で失われているものがあることについて考えなくてはいけない。
そうしたことを考えながら読みました。 -
津田さんの,「ローカルコミュニティの持つ従来の資産をオープン化した上で,その資産をソーシャルメディアを通じて最大化させることの重要性。ローカルコミュニティの再定義とソーシャルメディアを利用した広範囲な情報共有。」
そういうものが東北復興の方法だと信じられているのには,感化された。 -
3.11から世の中は変わった。ただ、被災地や福島原発からの距離、また人的、感情的つながり度によって温度差は大きい。私も3.11を過去の出来事のように日常を過ごしてしまっていた。我々も当事者だということを本書が思い出させてくれた。必読です。
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編著者:東浩紀、著者:石垣のりこ、猪瀬直樹、佐々木俊尚、新津保建秀、鈴木謙介、瀬名秀明、竹熊健太郎、津田大介、徳久倫康、中川恵一、福嶋亮大、藤村龍至、松山直希、峰尾俊彦、村上隆、八代嘉美、和合亮一、ジェフリー・アングルス、浅子佳英、入江哲朗、寺澤勝
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随分前にひと通りは読み終えていた.
何度か読み返すと思うけど,ちょうどこの震災のタイミングで日本を離れていたから,当事者感覚が薄いのではないかという悩みのようなものがずっと付き纏っていた.今更考えれば,なんだそれはと一蹴できるようなことかもしれないが,当時は結構に悩んだのを覚えている. -
本書は読みやすいのですが、骨太な震災特集で、おもに思想や言葉というものにスポットライトを当てて、いろいろな人の意見を収録しています。しかし、脱原発、原発推進の議論はありません。そういう本ではない。震災を近視眼的に見る論考ではなく、マクロにとらえたりする部分も多くあるので、読んでみると、きっと視野が広がるでしょう。そして、あの当時の空気を思い出すことでしょう。
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「終わりなき日常」の終わり。戦後社会の終わり。いや、本当はもう終わっていたのだ。明治以来続いてきた中央集権システム、経済成長を前提とした社会福祉、政府主導の地域活性化。それらはもう現実の問題には対応できないということを2011年の東日本大震災は明らかにした。
震災後の世界、それはまだ混沌としているが、色んな人が新たな試みを始めている。そして、その試みが次の社会の大きな流れを作りつつある気がしている。無関心やシニシズムはその意味を失い、社会へのコミットメントと「つながり」がより求められる時代が到来しつつある、そんなことを感じながら読んだ本。 -
巻頭言「ぼくたちは震災でばらばらになってしまった」、和合氏「喪失を受け止める言葉」、猪瀬氏・村上氏・東氏の対談「放蕩息子から責任をとれる家長へ」、八代氏「変わらない科学の本質と変えていくべき科学コミュニケーション」がとくに印象にのこった。