作品紹介・あらすじ

日本文藝家協会 編
編纂委員/角田光代、林真理子、藤沢周、堀江敏幸、町田康、三浦しをん

ああしておけばよかった、と悔やむにも、こうしていこうと、と前を向くにも、それを人に伝えるためには、言葉が必要です。
この本には、ささやかで、見過ごしそうな言葉の標が並んでいます。
目を凝らし、耳を傾けてください。
繰り返される新鮮な「いま」の力に、あらためて驚かされることでしょう。
――本書編纂委員 堀江敏幸

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 2023年6月光村図書出版刊。2022年に各媒体で発表された75人75篇のエッセイアンソロジー。シリーズ26作目。川添愛さんと夢枕獏さんが、亡くなったアントニオ・猪木さんのことに触れられていて興味深かった。同時期のエッセイを集めたという編集方針ならでは恵み。akaさんの表紙が新鮮で心に残る。

  • これだけたくさんの作家さんのエッセイが一度に読めるのは、やっぱりお得な気分。
    顔ぶれも毎年少しずつ違うので、読んだことのない作家さんを知るきっかけにもなっている。
    今回は小川哲さん、髙田都さん、乗代雄介さん、三浦しをんさんが印象的だった。

  • 毎年ベスト・エッセイを楽しみにしています。
    ときどき読まない年もあったりして
    これで7冊となりました。

    ひとつひとつ短く気軽に読めるし
    ここで初めて出会う人がいるのがまた良いのです。

    今回ひとつだけしぼるとしたら
    「雨が降るって本当に不思議です。
    えっ?不思議じゃありませんか?」
    農学博士・植物学者の稲垣栄洋さん
    他にも読んでみたい。

  • 私にとって、この本はチョコレートのアソート。ちょっと苦手な味のものがあっても気にせずバンバン食べていたらあっという間に食べ終わっちゃった…みたいな感じ。

    今年の年頭に2021を読んですっかりハマり、2022年も読み、発売日を狙って2023年版が出てすぐに図書館で予約したが、半年近くかかってようやく手元にきた。

    今回は付箋を持ち歩いて、「あー、この感じ、いいわぁ」と思ったところに貼っていった。でも読み終わってから誰のエッセイが印象的だったか思い返すと、意外と付箋貼ったものではないのが思い起こされたりもして。食べ終わったあとのチョコレートの包み紙を見て「この紙に包んであったやつ、おいしかったねぇ」と思う感覚にとても似ている。

    さて、ここからがネタバレの感想。
    星を5つつけたいところだけど、アントニオ猪木の追悼が2つ入っていて、もう私の中で「ベストエッセイ2023=猪木」になってしまったのがとても残念だったので、星を減らした。猪木は好きでも嫌いでもないのだけど、私は全部味の違うアソートのチョコレート詰め合わせを楽しみにしていたわけで。違う色の包み紙なのに、食べたら同じ味。しかもそれがめちゃくちゃ好きな味ってわけでもない…という感じ。

    1年に3年分読んでしまったので、もしかすると舌が肥えてしまったのかもしれない。近所のスーパーでも買えるアソートパックでもいいんだけど、やっぱり高級ブランドチョコのアソートがいいよね、みたいな。

    「なんか追悼のエッセイが多くない?」というのは、2022年版を読んでも思った。たしかに、毎年編纂されているベストエッセイとしては、その年に亡くなった人を偲んでいる点で、世相というか、選ばれる理由はなんとなく理解できる。大物が何人も亡くなった年は、どうしても偲ぶ内容が多くなりがちになるのもわかる。
    でもなぁ…あんまり多いようなら、いっそのこと「ベストエッセイ偲ぶ版」みたいなまとめ方にしていただいたほうがありがたい。それを親しい人を亡くした時に読みたい。「塩味系のアソートチョコです」と言ってもらってるようで、それならそれで味比べできるし食べてみたい。ただし、重ねて言っちゃうけど、あくまでも亡くなった方はお一人ずつ違う方をチョイスしていただきたい。いや、でもそれはそれで編纂が難しいか…。偲ぶ版なら、同じ人のことが書かれていても気にならないかもしれない。猪木と瀬戸内寂聴だらけになっても困るけど。

    なんだかんだ文句言っちゃったけど、2024年版の発行も楽しみだし、2023年のうちにこれを読めたのはうれしい。

  • これ、毎年読もう。さまざまな分野のすばらしい作者たちが、思い思いの作品を綴っている。最初から最後まで感心し、感動し、このような素晴らしい文章たちに出会えたことを感謝しながら読み進めた。

    p.26 こうして、毎年2月が巡ってくるたび、文旦の皮を刻むのが習慣になった。皮に包丁を入れる幅は随分細くなり、たっぷりの水に浸し、定期的に水を変え、一晩おく。熱湯で茹でこぼすときは、3度ともざるに上げ、そのたびにうちわで仰いで粗熱を取り、手で絞る…必ず手順を踏んで進む。取り出した、実は、ざっくりほぐし、種子はとろみをつけるペクチンの元だから、大事に集めて鍋の中へ… 1つずつあげれば、やれやれ煩雑だなと尻込みされるだろう。でも2度、3度、4度、5度、6度。毎年繰り返すうち、これは文旦と私との約束だと思うようになった。皮と実1キロに対して、砂糖400グラム。強めの中火で30分。瓶は8個。取り交わした約束を繰り返していたら、自分の味が決まっていた。

    p.40 ただそれだけで・沢木耕太郎
    だが、私は、それを聞いて、もったいないな、と思った。せっかく旅に出て、グルメサイトのランキングに従って食事処を決めると言うのはもったいなさすぎる。確かに、グルメサイトで調べた人と、キャバクラの客引きの男性の言葉を信じた。私と、最終的には同じ店に入ったことになる。だが、もし私がグルメサイトで調べて尋ねていたら、その夜の幸福感はそこまで深くなかったような気がするのだ。

    知らない街を歩きまわり、自分の直感や経験を総動員し、ときには、偶然の出会いなどに助けられて、1軒の店を発見する。そうした私の旅の仕方では、失敗することも少なくない。だが、一方で、思いもよらない成功が待っていてくれたりもする。私がもったいないと思うのは、意外な成功体験を味わえるかもしれない機会を逸するからと言うだけではない。旅においても、他の多くの事のように、ネットで調べてから行動を起こすと言うのは、失敗することを過剰に恐れる現代の若者の傾向に見合っているように思える。人生において、例えば、就職や結婚といった大事に失敗したくないと言うのはわかる。だが、国内における短期の旅行などと言うのは、ささやかな失敗をしても容易に回復できる数少ない機会であるだろう。私がもったいないと思うのは、失敗が許される機会に、失敗をする経験を逃してしまうことなのだ。人は、失敗することで、大切なことを学ぶことができる。失敗に慣れておくこともできるし、失敗した後にどう気持ちを立て直す、この術を体得できたりもする。可能な限り、ネットに頼らず、自分の五感を研ぎすませ、次の行動を選択する。ただそれだけです。小さな旅をスリリングなものになり、結果として豊かで深いものになるはずなのだ。

    p.44 本と引越し・鎌田祐樹
    11年続けて、マネージャーもやらせてもらった本屋の仕事を離れた理由はいくつかあるが、決定的だったのは、読書の「物心」がついたからだと思う。子供が世界の、世界の広さを体感して、徐々に自らの好みや夢を知るように、読書に没頭する時、いつからか、自分が本当に知りたい分野ゆ触れたい感性に気がつき、それはだんだんと研ぎ澄まされていった。しかし、本屋は常に誰に対しても広く開かれていなければならない。本屋としての読書と、個人的な読書に乖離が見えた頃から、この仕事の区切りについて考え始めていた。小さい頃からずっと、本は世界への扉であって、それはこれからも変わらない。ただ、自分の場合、本を開いて、いっぽ踏み出した、先に広がっていたのは、自然という雄大な世界だった。ずいぶん遠回りをしたけど、哲学や思想、小説や詩、たくさんの本に出会わなければ、この景色が見えなかった。本屋だったからこそ、農家になろうと思ったのだ。目指すのは読書が下地にあるの農家だ。

    p.57 おいしい物語・今井真実
    今や、私の定番の料理であるフライドポテト。いつも誰かに作るため、驚かれるのだが、種明かしをすれば、かつて胸を焦がすほどに夢中になって読んだ小説から誕生したレシピだったのだ。近頃ではローズマリーのタイムだけど、飽きたらず、バジルや庭の明日も一緒に、パリパリになるまで素揚げして混ぜ込んでいる。今日も、黄金色のオリーブオイルの鍋の中では、大量のじゃがいもが少々と細かい泡を立てている。子供たちはフライドポテトが大好きだから、いつもたっぷり作るのだ。青いハーブの香りをぎゅっと吸い込んで、上がった側から熱々のじゃがいもにしようと多めに振る。台所に立ったままに、カリッと揚がった芋のかけらを1かじり。恋を犯していた若者たちを思い出す。大人に見えた彼らも、きっともう年下だろ。私は、冷え冷えとした白のワインをグラスに注ぎ、喉を鳴らして飲み干した。

    p.60 僕らの第二次世界大戦・小川哲
    戦争を「他人事」ではなく「自分の身にも起こり得ること」だと理解すること。愚かな行為に至るまでの過程を知ること。「敗戦」というのが最終的な答えであるならば、その途中式を描くこと。そして何より、小学生の僕が抱いた疑問答えること、それが『地図と拳』を執筆しようと思った根本的な動機だ。

    p.71 心に残る 猪木の言葉・川添愛
    私のような凡人は、他人から寄せられる期待は自分の味方だと考える。しかし、猪木にとっては、ファンか寄せられる声、つまり「猪木にはいつまでも猪木であってほしい」と言う期待は、あまりにも大きく、絶えず闘い続けなければ、自分を押しつぶしてしまう敵であったに違いない。猪木は最後の一息まで、世間の期待と戦った。私の言葉のひとつひとつは、私たちの期待に対して繰り返す延髄切りであり、まん地固めだったのだろう。戦いはリングの上のみ存在するのではなく、人生のあらゆる地点に存在すると言うことを、猪木は身を持って私たちに教えてくれた。生きている限り、年老いること、病を得ること、死ぬ事は免れないが、私たちの番が来たときには、きっと、心の中の猪木が励ましてくれるに違いない。

    p.80 石膏のヒポグリフ・鯨庭
    飼育とは、ただ眺めて観察するだけでは得られない情報の洪水に巻き込まれると言うことだ。それはとても幸せなことだ。

    p.91 さいごのかずは・森田真生
    息子は、紙に大きな「0」を書いた。そして、「人間の顔も0の形だよね。地球もそうだ」「0は、地球を作ってもいるし、一生地球を作っているんだよ!数がなかったら、ものもないんだよ!」と何やら深遠そうな言葉を口にしながら、興奮した様子で、思考に耽り続けるのだった。終わらない数についての、終わらない思考、僕にとってもまた、忘れられない一夜となった。

    p.97 生きてるだけで幸福・佐藤洋ニ郎
    それから子は親を絶対抜けないからねと、とどめを刺すように言った。長生きした人間は、人生でつかんだ言葉を案外と思っている。彼女のつぶやく言葉を、いくつかの作品に使わせてもらったが、この人を傍で見ていたから、小説家の端くれになれたのではないかと思い返した。

    p.101 千里の道も地べたから・ブレイディみかこ
    こういう問題について書き始めると、「そげんこと言うたっちゃ、うちは母ちゃんの方が強かばい」という人もいるのだが、うちの母ちゃんが強いことと、社会的に女性の地位が低い事は別物である。家庭内でいかにお母ちゃんが幅をきかせていようとも、パートの職場で男性より昇進しにくかったり、昇進しない理由が「小さな子供がいるから、重要な仕事を任せられない」とかだったりしたら、母ちゃんが社会的には強くない。だって「子供がいる」がネックになって昇進できない男性はほぼいないからだ。家庭と言うミクロと、社会と言うマクロ混ぜてはいけないのだ。

    とは言え、女性問題を考える時混ぜなければならないミクロとマクロもある。例えば、男女のジェンダーギャップを縮めましょうと言う趣旨の本を出している出版社なので、いまだに女性のお茶くみをしていたり、キッチンの冷蔵庫の整理をしている姿を見かけたりする。これらの女性たちは、それを専門の業務として雇用されている人々ではなく、事務や宣伝やデザイナーなど、本来の業務は別にあり、その上でさらにお茶くみや清掃をやっているんだ。こういうことが「当たり前」とされる環境が未だ蔓延っているようでは、日本のジェンダーギャップ指数もなかなか上がらないだろう。ここでは、ミクロの人の意識とマクロの政治が直結しているのだ。ちょうど80年代の福岡からクールなバンドが偶然にもいくつも出てきたわけではなく、Yのおばちゃんのような無数の人々がシーンを支えた土壌があってこそ、有名バンドが実現できたように、足元の日常の中で、人々がジェンダーの問題について考えていない場所から、突如として女性議員だけが次々と誕生するわけがない。千里の道も地べたから。地べたと言うのは「地」、すなわち「土壌」の事でもある。福岡のロックシーンとYのおばちゃんのスタジオが日本の女性問題に示唆するものは大きい。

    p.109 生き残った者として・田中慎弥
    生きると言う事は、生き残っていると言うことだ。持ち時間が、音を立てて少なくなっていく。

    p.112 「オンラインアグネス」、登場・酒井順子
    子育て世代を世の中全体で支えよう、というのが今の考え方です。しかし、一方には、「私の子育ては誰も支えてくれなかった。夫さえも」と思う世代もいる。それが正しい方向への変化であっても、数が激減するときには、歪みがかかる人々が必ずいることを実感した私は、「でもさぁ、あなたの子供たちは立派に育ち上がったんだから、いいじゃないの」と言ってみたものの、これから男女問わず、オンラインアグネスたちが増えるであろうと考えると、彼女の不満もまた募るばかりであることが予想されるのでした。

    p.120 あるがままに登る・服部文祥
    岩の形状を自分の体で何とか利用し、バランスが取れる動きを組み立てながら上る。それは体全体で考える。創造的運動で面白かった。もしのぼれなかったら、変えて、自分を鍛えて、出直す。その姿勢は、行為者にとってもフェアで気持ちが良かった。自然環境が有限であり、岸壁を人工的に「壊して」登っていては、いつか対象がなくなってしまう。だが、あるがままのぼるフリークライミングは持続可能だった。

    整備して加工して、誰もが結果を享受できるのが平等なのではなく、誰もが結果に向けて努力できるようにそのまま残しておくことが「真の平等」だというフリークライミングの考え方は「持続可能」がキーワードになっている現代に本質的な提案をしている。

    p.124 隠れマッチョ・内田春菊
    とは言え、上から目線になったり、張り合ってしまったり、と言うのは、不安な人が思わずやってしまう行為。私にそんなマウンティングを仕掛ける人が、別の人にはとても心優しいこともある。トナルと、そのトリガー的なものが私にあるの?「こんな女には、俺の方が上ってことを教えとかないとならないしな」と思わせている私のそれとは一体何なのだろう。

    p.128 みなしご・小池昌代
    ここ数年の間、両親が続けてあの世に旅立った。私は還暦を過ぎたが、「みなしごになりました」などと言って、数人に報告した。その言い方に、あははと笑ってくれる人もいた。私も笑った。笑わせるつもりはなかった。(いや、少しはあったかな)。私は親がいる間は彼らの「子」だった。けれど、ついにようやく、私は前から来る風を最初に受ける、単なる1人の人間になってしまった。お父さん、お母さん、と言う言葉を、生活の中で最後に使ったのはいつだっただろう。その時を意識もせずに過ぎてしまった。その特定の言葉には、使用期限があるのを知った。知って泣いた。今、これらの名称は、呼びかける相手を失い、宙空(ちゅうくう)に浮かぶ墓のようだ。言葉をまた、墓になるのか。別の言い方をするなら、言葉がその実態を失った、あるいはその言葉が、生命を失い軽くなったと言うことだろうか。感覚的な話だ。そんな気がすると言うだけ。言葉を、私たちは感覚で測りながら使っている。今、ここになくても、レモンと言えば、レモンのあの重さが、鋭い酸味が、尖った形が、今、ここに、ありありと蘇るように。生きていた人がいなくなると言う事は、「え?」としか言い表せない位驚くことで、亀だったら「虚」と一言、つぶやいた立ち去るところかもしれない。しかしこんなことを書いている。私は実際は、日々、別に驚いた顔もせず、淡々と暮らしている。

    p.148 松岡恭子さんの教え・阿川、佐和子
    「子供にとって読書の時間を格別に長くとる必要はないし、たくさん読まなければいけないと言うこともない。むしろ本を読んだ後、ぼーっと1人で考える時間が大事なんです」読書を得て本を閉じ、こども本の中に書かれていたことを反芻する。本当に魔法使いはいるのだろうか。サンタクロースは家に来るのかしら。ぐるぐる頭を回転させて情景を想像し、その結論や解答がどうあろうとも、そんなふうにぼーっと思考をめぐらせることこそが、読書の大事な宝物。そう松岡さんは教えてくださった。その後ずっと私は松岡さんの教えを体の心棒にしている。子供だけではない。大人もそうだ。情報と知識をたくさん取り入れることに躍起になるよりも、ささやかな感動、自分の頭と心でどう捉え、どんなふうに想像を膨らませることができるか。時間に追われ、何が何だかわからなくなると、松岡さんの言葉を思い返す。差別的な内容を含むとして、刊行を打ち切られた「ちびくろさんぼ」について、「大好きな絵本がなくなってしまうなんて悲しい」と訴えた時も、松岡さんは「大丈夫。優れた物語は必ず帰ってくるわよ」と優しくなだめてくださった。その後本当に帰ってきた。松岡さんも帰ってきて欲しい。

    p.177 映画館は、社会と地続きだった・藤原智美
    私にとって、映画とは、同じ空間で、見知らぬ観客たちが息を殺しながら、スクリーンに投影された光と陰を見つめる、あのえもいわれぬ空気の中に存在するものだ。暗闇の中で、輝く大きなスクリーンと音響の迫力に、体全体が引き込まれていく、あの忘我の境地は、やはり映画館でしか味わえない。エンドロールが終わり、客席に灯りが戻っても、なおそのまま作品世界にとどまっていたいと言う心地よい虚脱感は、何物にも変えがたい。映画館から街の雑踏に立った時、軽いめまいにも似た不思議な感覚を覚えることがある。そんな時、自分で直前まで非日常の虚構にどっぷりつかりきっていたことを思い知る。映画を見る事は、「鑑賞」と言うより、心に降りかかる「体験」に近い。

    p.181 「フィクション」の力・神林長平
    なぜ、物質的欲求を満たすだけでは生きていけないのかと言えば、自分たちが生きている現実世界は、過酷で圧倒的な力を持ち、どうしたってかなわない、と言うことを理解する知識を我々人類が持ってしまったためである。人間は知識をもっとが故に、地震や津波や火山噴火に見舞われたら、私を覚悟しなくてはならないと言う「リアル」な現実が見えるため、不安になる。自分を殺そうとしている、むき出しのリアル、つまり、現実の 真の有り様を直視することに人間は耐えられない。そこで、フィクションと言うフィルターをかけて現実を見る。この世界は神により作られたのであり、創造主である神が我々に酷いことをするはずがない、と言うように。こうした安心できるフィクションなくして、人間は生きられない。宗教や芸術を始め、芸能や文芸などは皆、生きるために必要なフィクションだ。科学的思考もまた、例外ではない。科学は事実を扱うが、その事実は、人間の脳が理解できるものに変換されているのであって、リアルそのものではない。…自分が危険な状況にあるということに気づくのに、役立つのが想像力と言うものであって、それを鍛えるのが、これまたフィクションである。フィクションは私たちに体験したことのない世界を見せてくれる。宗教がそうだし、絵画でも、娯楽小説でも、そこに何が表現されているのかを理解するには、一定の想像力を必要とする。この想像力は、現実世界で何が起きているのかを、例えば自分の住んでいる土地のどこかで、子供が飢えているかもしれない、といったことを想像する力と、全く同じである。フィクションで鍛えられる、想像力は、現実を知る力になるのだ。

    パンではないもの、フィクションとは、私たち人間が、圧倒的な力を持つリアルに対抗するための盾や防護服のごとく、必要不可欠なものであり、同時に、希望でもある。東日本大震災のような大災害が起きた時など、飢えた子供に対して、自分の仕事は無力だと感じる創作者は少なくない。だが、それは、違う。飢えて、死にそうな子供に必要なのは、パンと、希望と言うフィクションだ。どちらかが欠けても子供の健康を取り戻すことはできない。創造者たちは、人を生かす仕事をしているのだ。決して無力ではない。フィクションの持つ力は、とても大きい。それに気づくと人生がより豊かになるので、これを機会にフィクションについて試作することをお勧めする。フィクションとは、現実を映す鏡でもある。そこに飢えた子供やあなた自身が見えてくるなら、私も嬉しい。

    p.185 つくし・高田郁
    「今更、その歳で、と笑うものもいてるけど、こうやって手に入れた文字や言葉は、もうだれも私から奪われへん」毎夜、ともに机を並べて授業を受けるうちに、ぽつり、ぽつり、と話してくれる人たちが現れた。義務教育が当たり前だと思い込んでいた私は、自身を深く恥じた。ある時、黒板に書かれた「つくし」という言葉を見ていた高齢の生徒さんが「ああ、優しい顔してる」とつぶやいた。夜間中学に通い始めて間もない人だった。同じひらがなでも「あ」や「お」や「ゆ」等は手強い。なるほど「つ」も「く」も「し」も、なんと穏やかで優しい面だろうか。文字にも顔がある、としみじみ感じとった。
    2月半ほどの取材だったが、「これまで私は文字の言葉を何と粗末に扱ってきたのだろう」と思わぬ日はなかった。生徒さん達の学ぶ姿を間近に見るたびに、「文字も言葉も、誰かをおとしめたり、傷つけたりするために用いてはならない」と思いを深めた。

    p.189 「絆」に2つの意味・本田秀夫
    「絆」は、音読みでは「ハン、バン」と言う。なじみのある所では、「絆創膏」という言葉に含まれる。これも「つなぎとめる」という意味である。この事は、「絆す」と書いて「ほだす」とも読む。これも「束縛する、自由を奪う」と言う意味である。「情に絆される(ほだされる)」とは、人情に惹かれて気持ちや言葉が束縛されることである。人の心と、心のつながりには、美しいイメージがある一方で、束縛して自由を奪う側面もある。「絆」と言う文字には、その両面が含まれていることを知っておく事は、重要だと思う。

    しかし、絆の結果として形成されるものであって、目標がスローガンにするべきものではない。心を1つにして団結することを重視しすぎるのは、ときに危険である。古来、多くの国の権力者は、人心を掌握するための常套手段として、共通の敵を想定し、その教員への対抗のための団結を国民に即してきた。共通の敵とみなす相手は、外国だけではない。権力者の意向と異なる意見を持つ人に「非国民」などとレッテルを貼って、共通の敵とみなすこともある。1部の人をスケープゴートにすることで、残る多数の統治をすると言う手法だ。「団結しないやつは、裏切り者とみなして排除する」と言う雰囲気が醸成され、自発的でなく、義務感や共生館を伴った同調圧力が生じてくる。これは、人形の世界の杯事と変わらない。「絆」と言う響きの美しさの影に、そのような本質が隠れていることがあるので、注意が必要だ。

  • 毎年出版されているのを本書経由で知った。いろんな人のエッセイがつまっているのは話題も千差万別で面白そう。時事の話題もあるだろうし、最新の本書を読んでみたい

    #ベスト・エッセイ2023
    #角田光代、他
    23/6/26出版

    #読書好きな人と繋がりたい
    #読書
    #本好き
    #読みたい本

    https://amzn.to/3pjqiDd

  • 日本文藝家協会のエッセイ集。よかった。初出はさまざまあれど、単行本として組み直されたエッセイを読むのはたのしい。乗代さん、岸本さん、浅田さんのがお気に入りだ。

  • 1人あたり平均3ページほどのエッセイが70数人分、一気読みできる。内容はほんとに雑多で、興味ないものは飛ばし読みすればいいかなと思ってたら、全部きっちり読めてしまった。やはりそれなりな方の視点はそれなりに興味深く、記憶に留めておきたい言葉や雰囲気があるものだなぁ、と感心してしまった。
    ※以下に中でも気に入ったものをメモ
    ==========
    浅田次郎 アジフライの正しい食べ方
    佐藤洋二郎 生きてるだけで幸福
    古川真人 あぶない、落ちるぞ!
    本田秀夫 「絆」に二つの意味
    岸本佐知子 栗
    武田砂鉄 (笑)でこの笑いは伝わるか
    藤沢周 白紙の手紙

  • よくもこんなエッセイを一冊にまとめられたものです。作家じゃない人のもいくつもある。と思って感心していたら、もう何年も前から毎年出版されているのですね。すごいことです。

  • 好きな作家さんのエッセイがたくさん読める、と手にとって、印象に残ったのは全然知らない、自然科学や医療系の分野のエッセイだった。稲垣栄洋「雨が降るって本当に不思議です。えっ、不思議じゃありませんか?」と中山祐次郎さん「間違えてはいけない問題」知らない世界を垣間見たようで嬉しい出会いであった。コロナ前の生活に少し戻りつつあ?2023、日常も少し色づいてきた感じ。林真理子の日大話はちょうどタイムリーすぎ。

全32件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。90年『幸福な遊戯』で「海燕新人文学賞」を受賞し、デビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で、「野間文芸新人賞」、2003年『空中庭園』で「婦人公論文芸賞」、05年『対岸の彼女』で「直木賞」、07年『八日目の蝉』で「中央公論文芸賞」、11年『ツリーハウス』で「伊藤整文学賞」、12年『かなたの子』で「泉鏡花文学賞」、『紙の月』で「柴田錬三郎賞」、14年『私のなかの彼女』で「河合隼雄物語賞」、21年『源氏物語』の完全新訳で「読売文学賞」を受賞する。他の著書に、『月と雷』『坂の途中の家』『銀の夜』『タラント』、エッセイ集『世界は終わりそうにない』『月夜の散歩』等がある。

角田光代の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×